ご挨拶
縦書でHTMLを書きたい
そんな衝動は 三十年も前
『メモ帳でも書けるHTML』
こんな書物を見ながら 書き始めた時に生まれた
以後 その思ひは変はることがなかった

ーーそれからおほよそ三十年ーー

アドビも
CSSも
ブラウザも
HTMLも深化し そこからXMLも生まれ
それをHTMLに変換するXSLTも生まれ
お蔭さまで
手作りで書いた縦書XMLが
そのまま紙面読書に相応しいPDFになったり
縦書新聞になったり 和ブログにもなる時代となった
やうやく ネット和文化ができたと思って
世間を見渡すと 世の中は 全く別の世界となってゐた

かつて栄えたHTMLは 唯のお店の看板となり
主力の論壇は 
ブログ とりわけ動画サイトが人気になってゐた

だから 今になって
「おいおい和ブログができたよ」と言っても
誰一人 耳を傾ける者もゐないが
それでも どうしても
若者たちに自慢できる『ネット和文化』は
構築して置きたかった

入力も「和風」
下書原稿も縦書で しかもタグは「和たぐ」
それでゐて 紙面印刷でも読める

こんなネット和文化で
和が国の歴史と文化を語り
さらに これからの新しい教育を語る
こんな言論活動がしたかった

和が国の縦書文化に憧れる若者は
大いに頑張って
これに優るネット和文化を構築してもらひたい
そして そこで
和が国の文化と歴史を思ひっきり語ってもらひたい

多くの日本国民が
今ある政党に何の魅力も感じないのは
今ゐる政治家諸氏が
和が国の歴史と文化と新しい教育を
ネット和文化で 語らないからではあるまいか

やうやく
私たちの和文化を堂々と語れる箱ができた
和文化のこれからの拡がりが楽しみだ

      私塾 鶴羽實
      俗称 つるばみ  塾長 岩田修良






最新刊『続へのへのもへじ』

続へのへのもへじ


和が国の教典を「天地之詞」とし
今の日の丸を国宝『清水寺縁起』から
古事記が語り継いだ『禍津日神』
俗に言ふ「禍の火種」と推測
四年前の八月九日に 昔の日の丸のデザイン浮かぶも
解読できず苦労した
最後は 和が国の王「へのへのもへじ」に
解読してもらった
これで終はりと思ったが 続編があったので
『続へのへのもへじ』とした

最後の『アビラウンケンソカワカ』
平田神道の『日文』 そして
平田の門下生佐藤の『宇内混同秘策』を知ると
二百年前が ピタリと今によみがえる
しかし 当時の平和の言弾は『好望大地』
天地を動かす『詞』と思ってゐても
結局 ご一新の革命勢力の武力に負けた
天地を動かす『詞』ではなかったからだ
そこで 全く新しい『詞』を追った

平和を強く願ふ方
何としても戦争を止めたいと願ふ方は
是非 ご一読下さい

  PDF『続へのへのもへじ』
和たぐ新聞『続へのへのもへじ』

和が国の文化の変化が よくわかると思ひます


 



結論『へのへのもへじ』

『へのへのもへじ』


  ゛      
 への    /  
   も へ  一 
 への    \ 
 ーーーーー\ 

 最後は どうしても この人に登場してもらひ
 話を締めたかった
 その想ひはかなった
 
 私たちは
  ウィルスや 癌にまで有効な
  日本発の『天然有機化合物』を忘れ
  世界最高峰の太陰太陽暦を捨て
  和王『へのへのもへじ』の解読を怠り
  再び戦争を許容する時代を迎へた
 
 私は
  何とかして それを止めたく
  古代に流行った
  力をも入れずして天地を動かす『詞』を探った
  その結論を『へのへのもへじ』とした
  恐らく 私論は
  『へのへのもへじ』が 書かせたのではないか
  私は 代筆しただけだったのかもしれない
  『もへじ』も
  何とかして 戦争を止めたいのだらう

 平和を願ふ諸氏に
  少しでもお役に立てれば…
  その思ひ一つで書いて来たが
  歴史や文化 そして天地を動かす『詞』の研究が
  読者諸氏に お役に立つことあらば
  嬉しい限りである

           私塾鶴羽實 塾長 岩田修良 
  

  
 
 

最新刊『平和の言弾』

平和の言弾


何の小道具も 文字も不要の「平和の言弾」を開発
本日開発したので
その偉力は 只今未確認

平和の言弾の音色の字体
 ノしノし
 鶴ばみ
 大日のらい

この音色は 以下の色字七から飛び出して来る



子供から大人まで
戦争はしたくないけど 仕方ない
それ以外 どうやって平和を守るの?
守れないじゃないか…
この国が 滅亡してもいいんですか?
こんな世論が 常識となった

だから 開発しました!
「平和の言弾」を…

詳しくは
 PDF  『平和の言弾』
 和たぐ新聞『平和の言弾』

戦争をどうしても回避したいと願ふ方
武闘派を改心させたいと願ふ方
平和を心底願ふ方に 向いてゐます

興味ありましたら ご一読下さい






最新刊『四大の完成』

四大の完成


 ①蓋の無い炉の草
   ↓ ↓ 
 ②二個庭鶴の木と葉
   ↓ ↓
 ③東和の家
   ↓ ↓
 ④和たぐ紙・和ブログ
   ↓ ↓
 ⑤四大の完成<偉大な詞(無為か?)>
   ↑
   ↑
  『無為』の可能性有り

その語徳が甚大なため
特に政治活動や道徳教育を施さなくても
世の中や 人心は 勝手に良い方向に流れて行く
これを「無為自然」と言ふ
よって
「無為」無き時代の『何とかなるさ』は無責任だが
「無為」有る時代は「何とかなるさ」は眞実か?

どうも さうではなく
この色葉 八文字の聲に
雅な聲と田舎者の人聲があるやうだ



雅な聲   
 ののさまほっこり(青人草)
 偉大(たたわしまさる)

田舎者の人聲
 ノしノし鶴ばみ(青人草)
 くぬぎの黄葉(草取此炉)

  ↑ ↑ ↑
 この田舎者の人聲が
 どうも『無為』であり
 古代の人が探してゐた『陀羅尼』であるやうだ

 この場合の『無為』=お任せ語
 『陀羅尼』=これを口遊めば
       諸々の障害を取り除き
       色んな惠を受けることができる
       だから 僧心敬は 
        貫之の和歌 つまり
         ののさま 
         ほっこり を  
         和が国の『陀羅尼』と言った

 これと同じやうに言ふと
 田舎者の聲=ノしノし鶴ばみくぬぎの黄葉
 令和の『陀羅尼』と言へる
 その証明は これからだ




       







最新刊『偉大な詞』

偉大な詞


『続草取此炉』
 歌詞…ののさま ほっこり

『偉大な詞』
 歌詞…ののさま ほっこり 偉大

 ①炉草の聲
 ②鶴鳴の聲
 ③東和の家
 ④和ブログ・和たぐ新聞の聲
 ⑤偉大な詞

 世界の平和が行き詰まるやうに
 今までの平和運動が行き詰まる
 一方 武断政治は 日々武器の開発が進む
 平和勢力が 反戦・デモに立ち止まり
 新しい平和運動を見つける努力を怠ってゐる間
 武闘勢力は 日に日に 新しい武器を開発
 にもかかはらず
 平和勢力は 反戦・デモに立ち止まった
 その努力不足の結果
 武断政治が 急速に増加
 全て 平和勢力の努力不足と言っていい
 
 従来の平和運動から
 新しい文字通りの『草の根運動』に切り換へる
 そんな時機に来てゐると思ふ

 PDF  『偉大な詞
 和たぐ新聞『偉大な詞

 興味ありましたら ご一読下さい
  

最新号搭載

続草取此炉


 内容 「へのへのもへじ」が語る万物の祖を仮定
    その化身を発見し その詞を追ふ
    
    平和…
    医王…
    金 …

    貫之と歌詞は一部重なるも 絵体は異なる
    幕末は 尊徳・芭蕉・南無派の
    天地を動かす「詞」があったが
    佐藤信淵の『混同秘策』に押され
    ついに 激しい殺戮の異心暴力革命が起きる

    以後 

    力をも入れずして天地を動かす『詞』を
    研究して 開発する者は ゐなくなり
    武断政治の天下が続く
    平和勢力は
    どうやって『平和』を導くのか?
    その打つ手が無い状態が続き
    平和勢力が結集できない
    『街宣』と『デモ』では 天地は動かない
    よって 最後は 自己陶酔に辿り着く

    武断政治に打ち克つ
    文治政治を 真摯に求めてゐる人向き

    ①PDF  『続草取此炉
    ②和たぐ新聞『続草取此炉』 

    興味ある方は ご一読下さい

  
  
 
 

返還から略奪へ
竹島問題概略
 ①寛文七年(一六六七)
    竹島(鬱陵島)を日本の西北限とする
    ↓ ↓
 ②元禄七年(一六九四)
    朝鮮 鬱陵島は自領だと主張
    ↓ ↓
 ③元禄八年(一六九五)
   六月十二日
    日本側 日本の領土だと主張
 ところが

 ③元禄九年(一六九六)
   一月二十八日
   幕府
    調べてみると「竹島」は
    朝鮮から四十里
    日本から六十里
    よって竹島は 
    「朝鮮と地続きであったこと疑無し」とし
    朝鮮に「還す」と述べた後
    この処置は「以前と同じではない」と
    改めて 幕府の「認識の転換」を語り
    いつまでも争ひが続くよりは
    朝鮮・日本 お互ひに
    争ひごとがないことに越したことはないと述べた
    
  これより 竹島(鬱陵島)は
  日本・朝鮮両国が 渡海禁止とし
  両国の「言争」は無くなった
   ↓ ↓
安政五年(一八五八)
  薩長革命政府の先導者・松蔭は
  長年の慣行を破り
  竹島の開拓占領を企画提案
   ↓ ↓
  これより「竹島問題」再燃

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下 簡易年譜である

元和四年(一六二三)
  幕府
   伯耆(ほうき)国の米子の町人
   村川市兵衛・大谷甚吉に
   「竹島」への渡航を許可

元和九年(一六二三)
  米子の大谷甚吉
  越後より伯耆国米子に帰航の際「竹島」に寄る

  全竹島開基は 大谷甚吉なり
  経て「竹島」にて病死 
  島に石碑あり
  本名 浄本と号す
  後「竹島院」と号す

寛文七年(一六六七)
  出雲藩士齋藤豊仙
  藩命により『隱州視聴合記』をつくる
  「竹島」を日本西北限とする

元禄五年(一六九二)
 二月十一日(和暦)
  村川市兵衛の船
  因幡藩(鳥取県東部)の許可得て 米子出向
  隠岐の福浦を経て

 三月二十六日
  伊賀島(小さな竹島か?)に到着
 
 三月二十七日
  鬱陵島に到着
   朝鮮人が漁労してゐるのを確認
   市兵衛が「日本領であることを告げる」と
   朝鮮人は「漂着した」と言ふ

   市兵衛は 昨秋小屋に残して来た
   釣道具と漁船が無くなってゐるのことに気づく
   そこで 朝鮮人に
   「再びここに来ぬやう」伝へて帰った

 その後
   鬱陵島に市兵衛が渡航するも
   朝鮮人の妨害でやむなく帰る

元禄六年(一六九三)
 四月十七日
  船頭黒兵衞 米子を出港
  その日の内に鬱陵島に着くと
  そこで朝鮮人四十二人が漁労をしてゐた
  その内の安龍福と朴於屯の二人を
  密漁の証人として捕まへて連れて帰る
 
 四月二十八日
  鳥取藩 江戸に処置を伺ふ

 五月十三日
  江戸から指示書が届く
  「密猟者二人を長崎に送り
   朝鮮に送還し 朝鮮に密漁を抗議せよ」

 十二月
  朝鮮から返事が届く
   鬱陵島に赴いた朝鮮人二人の送還の礼と
   彼らを厳重に処することが書かれ
   最後に かう書いてあった

   「朝鮮では 海禁を厳重にしてをり
    鬱陵島への往来は許可してゐない」

領土確認交渉


 元禄七年(一六九四)
  三月
   日本が言ふ「竹島」と
   朝鮮が言ふ「鬱陵島」の領土問題で
   幕府は 多田与左衛門を派遣

  八月九日
   結論でず
  
  九月
   朝鮮は「鬱陵島」は朝鮮領だと述べた

 元禄八年(一六九五)
  六月十二日
   日本側の主張
    鬱陵島で
    日本漁民は 漁労してゐるが
    その間 一度も朝鮮の役人を見てゐない
    したがって
    「実質日本領である」と主張した

「竹島」朝鮮に返還す


 元禄九年(一六九六)
  一月二十八日
   幕府
    邦人が竹島(=鬱陵島)に渡航して
    漁業を行ふことを禁止する

 
    竹島の地は
    因幡に属せりといへども
    我が人 居住すること無し
    徳川秀忠の時
    「米子の村人」から
    その島での「漁労の願」を受け
    これを許したことが始まりであった
    
    今 その地理を計るに
    因幡から六十里ばかり
    朝鮮から四十里ばかり
    これは かつて「竹島」が
    朝鮮と陸続きであったこと疑無し
    日本が 兵力を以て自領とすれば
    何を求めてのことなのか 得る物無し
    また その始まりをみると
    そこは朝鮮との陸続きで
    日本が 取ってはならぬ所であった
    よって 今「竹島を還す」
    そこに往き 漁労するを禁ずることを以て
    敢へて「詞」にはしないが
    朝鮮国は こちらの意を汲んで貰ひたい
    この処置は 明らかに
    以前の幕府の認識とは異なるが
    争ひが絶えず起こるよりは
    日本・朝鮮両国が お互ひ
    争ひなく過ごすことに越したことはない
    この件 宜しく
   
 元禄十一年(一六九八)
  三月二十五日
    朝鮮から対馬藩宗義真(よしまさ)に 書が届く
    そこには 
    渡航禁止の処置に謝意を表しながらも

    その島は 日本名・竹島
         朝鮮名・鬱陵島と一島二名であるが
    朝鮮領であることは紛れもないことだが
    今後は 日本・朝鮮共に
    当地に往来しないやう取り締まりたい

    と書いてあった
  
  元禄十二年(一六九九)
   一月
    対馬の宗義真が 朝鮮国礼曹に 
    竹島の一件につき
    日本・朝鮮共に入島しないことを謝し
    その旨を幕府に伝ふ

  宝永七年(一七一〇)
   二月七日
    新井白石
     日本大君=天皇
     日本国王=将軍とし
     最高権威が「日本国王・将軍」だとし
     朝鮮にも通達
     
  天保七年(一八三六)
   十二月二十三日
    幕府
     鬱陵島の密貿易に関しての判決を出す

      異国の属島へ渡海いたし
      立木等伐採して持ち帰る
      これ不届なり 死罪を申し付く

  天保八年(一八三七)
   二月
    幕府
     元禄よりこの方
     竹島への渡海停止の仰せが出さる
     異国渡海の儀は 重大御制禁
     竹島も同様に心得 渡海いたすまじく候

  安政五年(一八五八)
   七月
    竹島開拓計画
     吉田松陰の提案
     桂小五郎・のちの大村益次郎(村田蔵六)に
     密かに提案してゐた

元禄九年(一六九六)から百六十年近く続いた
日本名・竹島 朝鮮名鬱陵島への渡海禁止
その地を明らかに「異国」と認識し 渡海を禁止した幕府
ところが 異心革命煽動者・松蔭は
その「渡海禁止」の「異国の地」を『開拓せよ』と
同志を唆してゐた
 唆す=(そそのか)す

何故か?
 大東亜戦争の教書『混同秘策』佐藤信淵著に
 「取りやすきところから取れ」との指示有ればこそ
 松蔭の大陸出撃論は 前著より生まれたものであって
 松蔭のアイデアではない
 現在の「禍の火種」を
 日本船の印とする旨を幕府に申し出た島津斉彬も
 これまた大陸出撃論者であったが
 これも佐藤の『混同秘策』の影響を受けた案とみていい

 
 

中国侵略から開戦まで

情勢地図




第一次世界大戦中にドイツ領を占領し
その後
国際連盟の委任統治となった南洋群島地図

アメリカ統治のグアムに視点を置けば 
当時のアメリカが 日本を敵視したのが よくわかる

水色大東亜戦争前の日本の南洋支配
茶色大東亜戦争緒戦占領地
緑色ポートモレスビーは 占領できなかった所
紺色の「コロール島」は
南洋支配を祈願して 大きな南洋神社を建立した島だ

特に注目していただきたい所は
 ①グアム 
 ②ウェーク
 ③マキンタラワ島

ハワイ奇襲攻撃成功の暗号文
「トラ トラ トラ」を受けて
 テニアンから①グアム
 ウオッゼから②ウェーク
 ヤルートから③マキン・タラワへの奇襲攻撃開始
 
言ひたいことは一つ
ハワイ真珠湾攻撃成功の連絡を受けて
三方面の奇襲作戦が 同時に起きてゐること
真珠湾攻撃だけに視点を当ててしまふと
同時に始まった革命政府の南洋支配の意図が
見えなくなってしまふ

大正十二年(一九二三)に
日本軍が
『対米作戦要領』で「開戦劈頭グアム占領」を唱へた
その気持ちも「地図」を見れば よくわかる
南洋支配に 米国のグアムは邪魔だったのだ

パラオ諸島の小さな島「コロール島」に
南洋群島の「本庁」が置かれたのは
大正十一年(一九二二)四月一日

南洋群島の「総本山」として
左図の南洋神社が創建されたのは
昭和十五年(一九四〇)二月十一日
御祭神は 天照大御神



ここでの着眼点は「天照大御神」
それは 恐らく 異心暴力革命政府が
仰いだ「真っ赤な嘘月」だらう

しかし それは
『古事記』ヽ 「禍津日神」
土佐光信が語る「地獄の猛火」
       「禍の火種」」

本物の日の丸は 以下



 ののさま
 ほっこり
 草取此炉



今では破天荒な私説であるが
昔の文献から探れば「真っ赤な嘘月」を
古代からの「日の丸」とみる認識の方が 余程 常識外だ

国宝・土佐光信著『清水寺縁起』は 室町時代に書かれた
そこに 偽物の「日の丸」を 大和朝廷が退治する
そんな絵が描かれてゐる

今から三十数年前 高校教員だった私は
「真っ赤な嘘月」を 何の疑ひもなく 無邪気に
「昔の日の丸」だと思ひ込んでゐた

ところが ある日 ひょいっと手にした『清水寺縁起』
そこでは 驚くことに 
大和朝廷が「今の日の丸」を退治してゐた

「あれ? 日の丸って
 大和朝廷の国旗ではなかったの?」

誰もが思ひ浮かぶ疑問である
朝廷に退治されてゐる日の丸軍は 蝦夷(えぞ)軍
その蝦夷軍の容姿が またスゴイ 人として描かれてゐない
ーへんてこな気持ちになったー
その姿は 地獄に住むといはれた『餓鬼畜生』の姿
そんな蝦夷軍は 堕ちた人々になってゐた
一体 これは 何を意味するのだらうか
何故 この絵が「国宝」として今に残るのか?
日の丸好きには そんな疑念が晴れない
この複雑な思ひを抱へて二十数年
ー略ー
令和四年八月九日
古代の日の丸と思はれる図柄が 浮かんだ



今の日の丸は 本物か?
それとも偽物か?
この迷ひを持ち続けた結果の産物である
もちろん真相は わからない
しかし どうしても 今の日の丸は
『古事記』の言ふ
禍津日神(まがつひのかみ)に見えてしまふ
それは 以下の『禍』の語源展開式に由来する
禍=わざわい
 =わざわひ
 =ワざ輪火
 =ロ座輪火(ロ=ワ)
 =四界に座する火輪

「絵体」の知れた姿にすると…
 ①四界(に)
 ②座する火輪
 ↓ ↓


令和五年末 岸田首相は「自分が火の玉」になると言った
さうしたら
四海に浮かぶ「輪島」が

 ↓ ↓ ↓
「火の玉」となってしまった

 ↓ ↓
さうしたら
その 「禍の火」を刈り取る
つまり「火っ樵り」する
昔の日の丸が 令和七年九月に 現れた
 ↓ ↓
 


よって 以下の結論が 常に浮かんで来る
今の日の丸は 日の丸ではない
それは 真っ赤な嘘月(うそつき)
古事記の『禍津日神』(まがつひのかみ)
    『禍の火種』
    『地獄の猛火』である

この認識を語り継ぐために
土佐光信は『清水寺縁起』を描いた
土佐の認識が 本物だから 
歴史は この書を「国宝」として残した

ところが「何時も 心は西洋人」
こんな人たちばかりだから
折角の国宝も役に立たずにゐる それだけの話だ

過去に眼が向かないのだ
だから 「大東亜戦争」もわからない
いや 「コロナ騒擾」も全く知らない
歴史に無知であることに 何の恥らいもなく
唯 遊ぶことだけが 生きがひとなってしまった

しかし 中には 歴史を知りたい
そんな大人もゐれば
そんな子供もゐる
そんな方や子供たちのために 歴史を淡々と語りたい

戦前の大陸事情


 戦前の大陸事情は 戦前の南洋群島と同様
 あまり知られてゐない



 当時の確かな史実と情勢地図を 教はってゐないからだ
昭和十一年(一九三六)十二月三十一日
 ワシントン軍縮条約が失効
 つまり 条約による「軍縮の制約」がなくなり
 「やりたい放題」になったわけだ
 だから
昭和十二年(一九三七)一月一日から
 『南洋の南進』と『大陸の南進』とが加速した

 南洋は『飛行場建設』を急ぎ
 大陸は『中国支配』が加速した

 少し 時間は遡るが
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
明治二十四年(一八九一)
 榎本武揚(たけあき)が外相になると
 直ぐに 植民計画を実施するため
 南洋群島・ニューギニア・マレー半島を調査した

 興味深いことは 大東亜戦争の緒戦が
 榎本の意志を継ぐかの様に
 マレー半島の「コタバル上陸」に始まり
 グアム
 ウェーク
 マキン・タラワ
 ラエ・サラモアを占領
  ↓ ↓
 それは 榎本が植民地調査をした
 マレー半島と南洋群島の拡大領域ニューギニア東部だった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国の大陸情勢


昭和十二年(一九三七)
 七月七日   盧溝橋事件 ①
 十二月十三日 南京占領  ②
昭和十三年(一九三八)
 十月二十七日 武漢三鎮占領③
 蒋介石の国民政府は「重慶」に退いてゐた
 この頃は 念願の国産機
 九六式艦上戦闘機と九六式中型陸上攻撃機を
 三菱名古屋航空機製作所で生産してゐた
 制式採用の昭和十一年が
 皇紀二五九六年に相当するので
 末尾の「九六」を取って 九六式と名づけられた
 ところが
 武漢漢口飛行場から爆撃地重慶まで 片道七五〇㌔
 航続距離が長かったため
 九六式艦上戦闘機は 掩護につけない
 よって 九六式中型爆撃機は 掩護なしで出撃してゐた
 
 防備が極端に弱かった中型爆撃機は
 迎へ撃つ中国空軍に 
 簡単に撃墜され 大きな損害を出してゐた
 だから 海軍は 中型爆撃機と同様に
 「航続距離」が長く そして
 「高速」で
 「大きな弾」を撃つ機銃のついた
 新型艦上戦闘機を望んでゐた
 
 とはいっても
 九六式艦上戦闘機も
 「外国の超一流機のやうだ」と
 試乗した前原謙治中将が称賛した様に
 世界の航空先進国で製作された戦闘機を遙かに越えた
 高度な性能を備へてゐた

 その性能を上回る戦闘機を 海軍は要求して来たのだ

 当時の日本航空機の技術の高さは 以下の事実が物語る
 朝日新聞社の「神風号」が
 立川ーロンドン 一五三五七㌔を
 九十四時間十七分五十六秒の短時間で翔破!
 世界新記録を樹立してゐた

 九十六式艦上戦闘機
  高度 三二〇〇㍍
  時速 四五〇㌔
  機銃 七・七㍉二挺
   ↓ ↓ ↓ <八>この移行を海軍は望んだ
 新型艦上戦闘機
  高度 四〇〇〇㍍
  時速 五〇〇㌔
  機銃 二〇㍉二挺追加

 新型の戦闘機は
  昭和十二年の試作機といふことで
  十二試艦上戦闘機と言はれた

昭和十二年十二月二日
 つまり
 「盧溝橋事件」が起きて おほよそ五ヶ月後

 航空母艦「加賀」に当時最高の性能を持つ
 九六式艦上戦闘機を載せ 中国空軍と空中戦をさせた
 中国軍は英・米・ソの戦闘機
 ここで 日本は 圧倒的な強さを見せた

 ソ連製の戦闘機十機撃墜を最後に
 南京上空から 外国機を追放
 南京の「制空権」を取ったのだ
 
 しかし 海軍は
 「日本の基地」から「中国大陸」を攻撃出来る戦闘機
 九六式戦闘機よりも 航続距離の長い戦闘機を望んだ

 それは 将来の『南進』を見据ゑてのものだった
 海軍の夢は

 「開戦劈頭グアム占領」
 
 それには
  ・フィリピン の米軍飛行基地
  ・シンガポールの英・東洋艦隊
 この二つが邪魔だった
 だから
  世界最速で
  長い距離の敵地まで飛べて
  そこに「大きな弾」を撃つ機銃のついた
  戦闘機が欲しかった
 

南京占領




 少し黒みがある水色の地名は 細菌部隊が置かれた所
 平房(へいほう)が本部
  牡丹江(ぼたんこう)
  林口(りんこう)
  孫呉(そんご)
  ハイラルは その支部である

 ワシントン軍縮条約失効の翌日
 昭和十二年(一九三七)一月一日
  この日から南洋・大陸の支配は加速したが
  
  戦史を振り返るには 
  もう一つの視点が必要だ

  それは
  資源の少ない国が 大国に勝つ戦術
  「細菌戦」である
  その準備は 
  中国侵略が始まる五年前の
 昭和七年(一九三二)
  四月二日に 始まった
   陸軍軍医学校に防疫研究室設置
  八月
   石井四郎が主幹となり以後
   石井を中心に
   細菌戦の研究と実戦が展開された
   それは 石井個人の作戦ではなく
   国を挙げての作戦であった

 昭和十五年(一九四〇)十二月二日
  満州に存した本部と四支部は以下

 孫呉
 ③ ノ     ②林口
    ノ     \ ①牡丹江
      /  \ 
  ハルピン○ 
       \/■平房(本部)
    安達    /
   \      新京(満州国首都)
 \       /
④ハイラル        奉天

 五番目の支部は「大連」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 また 大東亜戦争・開戦間近には
 中国にも
  「北京」
  「南京」
  「広東」に 支部が置かれてゐた



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 大東亜戦争開始後
  日本軍が コタバルに上陸すると…
   マレー半島占領
   そしてシンガポール占領が終はると
    シンガポールには「南方防疫給水部」が置かれた
    南方の行政官庁が「コロール島」にあった様に
    南方の細菌部隊の本拠地が
    「シンガポール」に置かれたのだ
    ここを拠点に
    「ジャカルタ支部」などが置かれた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  当時の細菌戦は
  ペストやチフス菌の空中散布が 一般的であったが
  細菌は 光に弱く 
  空中落下してゐる間に死滅するため 
  空中散布をしても細菌戦にならない
  さう 考へられてゐた

  そこで石井は 下記の作戦を考へた
 
   細菌感染させた『蚤』を養育し
   さらにその『蚤』を鍛錬し
   その鍛へあげた『蚤』を空中散布すれば
   その『蚤』が 人にたかって
   人を細菌感染させることができる

 そこで石井は

  風呂桶に蚤を入れ そこに ライトを照らした
  光りを嫌がる蚤は 直ぐに逃げる
  つまり 元気のいい「蚤」は素早く逃げる
  だから元気のいい「蚤」の逃げ道を用意して
  排水口から逃られる様にした
  逃げ遅れた蚤を 役立たずとして殺処分
  元気よく逃げた蚤だけを集めた

 かうして
 鍛へ上げられた「蚤部隊」が作られた
 「精鋭部隊」を作りあげれば
 実践して その成果をみたくなる
 これが人情である

 実戦された主な細菌戦は以下三つ
  ○戦前
   昭和十五年十月下旬
    寧波に空中散布
   昭和十六年十一月四日
    常徳に空中散布戦中
  ○戦中
   昭和十七年五月から九月
    セッカン作戦

 被験者に使用された人体は 「合法的」に用意された
 
 その法律は
 昭和十三年(一九三八)一月二十六日発せられた
『特移扱に関する件通牒』
  日本の植民地支配に
  ・抵抗した者
  ・抵抗したとみなされる者は
  裁判をせず 事件送致をせず「平房」まで連行する
  これを『特移扱』と呼び
  本部の『平房』に 被験者は極秘に集められた

 連行された人に注目されたい
  日本の植民地支配に
   ・抵抗する者 或いは
   ・抵抗するとみなされる者
  これなら 極端な話 誰でも 疑ひをかけられる
  そして 裁判もなく 黙って 平房に連れて行ける

 かうして 連行されて人体実験された人は
 少なくとも三千人はゐた
 その人たちは
  満州では『マルタ』
  南京では『材木』と呼ばれ
  医学界では『満州猿』と呼ばれ
  医学界では 公然と人体実験されてゐた

 当時の認識を知らないと了解しにくいことだが
 日本軍に抵抗する人たちは
  満州では『匪賊』
  朝鮮では『不逞鮮人』
  国内では『国賊』と呼ばれ
 人間扱ひされなかった
 たとへば 大杉栄事件
  大杉栄は 社会主義者であった
  愛人は 伊藤野枝 そして甥っ子もゐた
 
 関東大震災が起きた時
  社会主義者と朝鮮人が暴動を起こして政府を転覆させる
  こんなデマが広がってゐた
  そこで 国内の治安維持といふ名目で
  社会主義者には 憲兵らの厳しい監視の眼があてられた
  そこで 大杉は憲兵の訊問を受け 連行され
  その日の内に三人は絞め殺された

  主犯は 甘粕大尉
  驚くべきことは 検察の論告求刑文
  要点だけを簡単にご紹介する

  和が国は 法治国家であるから
  社会主義者だからといって
  殺していいことにはならない
  しかし!
  甘粕大尉の国を思ふ気持ち それは美しい
  よって 減刑!

  時の日本政府に逆らふ者は
  日本は法治国家であるから
  直ぐさま殺していいとはならない
  しかし!
  こんな人々を放置しておいたら
  和が国の繁栄はない
  その思ひを以て つまり
  国を守るためにとった行為は美しい!
 
  こんな思ひを検察官が法廷で言ふ

 ここに 私たちが 想像しても 想像しきれぬ
 戦前の「異常な意識」がある
 こんな意識があったから
 中国人や朝鮮人も 平気で殺せたのではないか…

 この病的な優越感・病的な独善的思考は
 一体 どこから来るのだらうか…

 私が 考へたいことは 
 常に最後は 心の問題になって来る

私の仮説は一つ
 禍の火種である
 禍=わざわい(現かな)
 =ワざわひ(旧かな)
 =ロ座輪火
 =四界に座する火輪



 「禍の火種」に 心が支配された結果の自然現象
 だから
 その「禍の火」を「火っ樵り」刈り取る必要がある



 自民党の裏金事件
 どう考へても心の問題である
 だから いくら制度や法を変へても
 裏金を合法的に作る!
 この意識がある限り 永遠に 裏金作りは終はらない

 「絶対にやらない」と心に決める以外止める手はない
 ハッキリ言って その心があれば
 裏金事件は 二度と起きない
 にもかかはらず 誰も 心の問題とは言はない
 
 自由嘘月党の諸氏は
 心が「禍津日神」に 奪はれてゐるのだ
 
 話は 十二試艦上戦闘機に戻る

世界初の渡洋爆撃


昭和十二年
 七月七日
  盧溝橋事件が起きる
  日本政府の不拡大方針もあったが
 七月二十八日
  北史に駐屯してゐた日本軍が 総攻撃を開始
 八月八日
  北京入城もあり
  盧溝橋の局地的戦闘は 全面戦争に広がって行った
 八月十四日
  鹿屋航空隊が台北の松山基地から東シナ海を横断して
  抗州・広徳の飛行場を爆撃した
   鹿屋航空隊 (台北・松山基地)
   木更津航空隊(長崎・大村基地)
  この海を渡って航続距離の長い爆撃を
  当局は『渡洋爆撃』と名づけ
  戦果は 誇張されて報道された

  国民は 報道に煽られ 熱狂した

  渡洋爆撃の初めは以下の三日
 八月十四日
  台北・松山基地ー抗州
  距離は六二〇㌔
 八月十五日
  台北・松山基地ー南昌
  長崎・大村基地ー南京
  大村ー南京は 距離九六〇㌔
  往復・約千浬(かいり)
  当時では並外れた距離 ※一浬=一八五二㍍
 八月十六日
  鹿屋 ・台北ー句容・揚州
  木更津・済州ー南京(蘇州)
  勇ましく報道されたが
  日本側の人と・機の損失も大きかった
    亡くなった搭乗員=六五名
    損失爆撃機   =鹿屋隊  八機
            =木更津隊 十二機

 国内では「渡洋爆撃」が有名になったが
 世界からは
 都市への爆撃は「無差別爆撃」だと非難を浴びた

 戦後になって
 この「非道なる爆撃」の報ひとして
 「東京大空襲」と「原爆」を受けた
 こんな報復の論理を主張する者も出た

 これら一連の爆撃は
  ①出撃機数
  ②投弾量
  ③機動距離
  どれをとっても 
  間違ひなく 世界航空戦史に例を見ない
  『大破壊力』と『残忍さ』
  この二つの記録を更新するものと言へる

 こんな意見が出るほどの
 中国大陸への激しい大空爆であった
 
 しかし
 日本側の被害も甚大であった
 だから 海軍航空本部は
      長距離爆撃機を掩護する
      有能な戦闘機が欲しかった

 昭和十二年(一九三七)十月五日
  海軍は 
   中島飛行機と三菱重工に
   十二試艦上戦闘機計画要求書を交付した
  三菱の堀越二郎は
   海軍の要求する性能を見て
   確かに 出来たら世界一と思った
   しかし 作る自信はなかった
   だからだらう
  中島飛行機は
   十二試艦上戦闘機の開発を早々に辞退してしまった
  
  製作は 三菱重工一社となった
  作業は難航を極めたが 堀越は 諦めなかった
 昭和十三年(一九三八)四月二十二日
  木型の実物大模型が出来た
  厳しい海軍の審査を受け 百近い修正が指摘されたが
  一次審査は合格
 昭和十四年(一九三九)三月十六日
  遂に試作機が完成
 三月二十三日の午後七時
  名古屋市港区大江町の
  海岸埋立て地区にある三菱重工株式会社
  名古屋航空機製作所からシートで厳重に覆はれた
  大きな荷を積んだ「牛車」が 静かに引き出された
  行先は各務原(かがみはら)の飛行場
  距離は 約四十二㌔
   二十四時間をかけて運ばれた
   トラックで運べば二時間
   しかし 悪路のため 激しい振動で
   機体は すっかり 傷ついてしまふ
   馬で運べば十二時間だが 途中で暴れる可能性がある
   そこで「牛車」で運ばれた
   戦争中も 同様だった
  
  各務原に運ばれた試作機は
  テスト飛行が繰り返された
  海軍の要求する時速五〇〇㌔は突破した
  試作機の三号機から 
  発動機が中島製に変更され 馬力は上がり
  時速も五三三㌔に上がった
   ドイツ 最速・四四四㌔
   アメリカ最速・四二六㌔
  満足のゆく戦闘機が出来た

第二次世界大戦勃発


 昭和十四年(一九三九)
  九月一日
   ドイツが二〇〇〇機を駆使して ポーランド侵攻
   ポーランドの同盟国であったイギリス・フランスは
  九月三日 
   ドイツに宣戦布告
 そんな中
  十月十八日
   二号機が完成
  十二月
   三号機機が完成
    遂に五三三㌔を実現した
    第二次世界大戦勃発当時
    零式戦闘機は
    まだ 完成されてをらず試作機だった

    ここで日中戦争を振り返ってみる

 昭和十二年(一九三七)
  一…盧溝橋事件        七月七日
  二…北支駐屯日本軍総攻撃開始 七月二十八日
  三…北京占領  八月八日
  四…上海事件  八月十三日
  五…渡洋爆撃  八月十四~十六日

   掩護の戦闘機をつけず
   爆撃機だけの渡洋爆撃は
   確かに爆撃の戦果はあるものの
   損害も 甚大だった
   そこで 
   航続距離が長く
   戦闘能力の高い戦闘機が 望まれた
   その計画書が交付されたのが 十月五日
  
   中国侵略はさらに加速する
  六…上海占領  十一月二日
  七…南京占領  十二月十三日
    ー南京虐殺事件が起きるー
 昭和十三年(一九三八)
  八…徐州占領  五月十九日
  九…広東占領  十月二十一日
  十…武漢三鎮  十月二十七日
 昭和十四年(一九三九)
  十一…海南島占領 二月十日
   試作機一号 三月十六日
  十二…南昌占領  三月二十七日

情勢地図


  九月一日
   ドイツ軍 二〇〇〇機の航空機でポーランド侵攻
  九月三日
   ポーランドと同盟国の英・仏が
   ドイツに宣戦布告第二次世界大戦勃発である
  十月  試作機二号
  十二月 試作機三号
  
 昭和十五年(一九四〇)
   ドイツは
  四月 デンマーク・ノルウェー征服
  五月 オランダ・ベルギー征服
     フランスがドイツとの国境線に建設した
     マジノ防衛施設を迂回してベルギー方面から侵攻
  六月十四日 パリ陥落
  その頃日本では
  七月
   横山保大尉が指揮する六機の
   十二試艦上戦闘機が 「横須賀」を離陸
   「大村飛行場」で燃料補給して「上海」
   再び燃料補給して 「上海」を発ち
   横山大尉は 「漢口」へと向かった
   「漢口」の飛行場には 五・六百人の出迎へがゐた
   出迎への中には 航空隊司令官の
   山口多聞少将 大西滝二郎少将もゐた
  数日後
   横山は 山口と大西の二人に呼ばれ
   
   「速やかに 十二試艦上戦闘機で
    爆撃機を掩護して敵地に乗込め」と言はれた
  しばらくして
   「横須賀」から 
   進藤三郎大尉が指揮する九機も 到着
   十五機の十二試艦上戦闘機が「漢口」に集結した

   連日の猛訓練で隊員たちの操縦技術も上がった
  七月末
   その年の紀元二六〇〇年を記念して
   十二試艦上戦闘機は零式艦上戦闘機と命名された
   ゼロ戦の誕生である
      ↓このゼロを頂いた「零戦」
   二六〇〇年

零式戦闘機の初陣


 昭和十五年
  八月十九日
   陸攻五十四機
   護衛の零式戦闘機十二機
   「漢口」を離陸して「重慶」に向かった
   「重慶」には三十機の敵の戦闘機がゐた
   爆撃機は 予定通り「重慶」を空襲
   しかし
   「重慶」から敵の戦闘機は出て来ない
   どうやら 敵は あらかじめ
   新鋭戦闘機の情報得てゐて
   巧みに 逃げてゐる様だった
  八月二十日
   零戦が掩護につくも 敵機現れず
   「重慶」の空襲は 敵機のゐない中
   余裕で爆撃が続けられた
  九月十二日
   横山飛行隊十二機が 陸攻二十七機を掩護して出撃
   しかし そこでも敵機は 出て来なかった
   以下の情報が入って来た

    中国空軍は 日本の空爆が終はると
    「重慶」上空に現れ 何度も旋回
    その後に 
    中国空軍機は 日本航空隊に
    大損害を与へ追ひ払ったと報道してゐる

   そこで 横山と進藤大尉は
   空爆の後 爆撃機と共に帰るフリをして 急に反転し
   「重慶」に戻り 中国空軍機を撃つ
   こんな作戦を考へた
  九月十三日
   進藤三郎が指揮する十三機が爆撃機と共に
   「漢口」を離陸
   「重慶」は「漢口」から片道七五〇㌔
   時計の針は 午後一時半をさす
   重慶の市街が見えて来た
   進藤は 周囲をすばやく見渡した
   いつもの様に
   中国空軍機の機影は全く見えなかった
   陸攻隊の爆撃が始まった

    市街地の至る所にかすかな火がひらめくと
    その中から黒煙が湧き
    またたくまに 上空に立ち昇る
    「重慶」上空は 地上から舞ひ上がる
    黒煙でおおはれた
    やがて爆撃は 終はった

   陸上攻撃機が機首をもどしたので
   進藤も 部下の機を集合させ 重慶上空を離れた
   それから十分後 「重慶」から約五十㌔の地点
   進藤大尉の一番機を先頭に 一斉に反転
   「重慶」に向かった
   敵機目撃!
   三機が一団をなして九グループ
   編隊を組んで飛んでゐた
   ソ連が誇る戦闘機二十七機であった
   たちまち すさまじい空中戦が始まった
   零戦の二〇㍉機銃を浴びたのか
   敵機の主翼が吹き飛び墜落してゆく
   瞬時に炎に包まれ 白煙を引いて霧もみ状に落下する
   動きが緩慢なものは ソ連製の戦闘機
   その中を閃光の様に動く零戦
   余りにも対照的な動きであった

   破壊され落下してゆくのは
   全て ソ連製の中国空軍機だった

   進藤は 空戦の余りのすさまじさに呆れた
   空中戦は一〇分で終はった
   空戦後の集合場所は 重慶東方五〇㌔
   反転した場所だった
   五機の零式戦闘機が 高度三〇〇〇㍍でゆっくりと
   旋回して仲間を待った
   三機は深追ひしたものとして
   初めは十機で 中継地点の「宣昌」に着陸
   静かに 部下の帰りを待った
   一機 そして又一機 十三機 全てが帰って来た

   進藤は こみあげてくるもの感じた
   部下たちは興奮しきってゐた
   燃料補給してゐる間に 
   進藤は 部下たちから報告を聞いた
   一人一人の撃墜数を合はせると二十七機であった

   戦果は直ぐに
   「宣昌基地」から「漢口基地」に報告された

   以後 
    中国空軍は「成都」に退避
    「重慶」には容赦ない爆撃が続いた
    瓦礫の続く廃墟となった
    「重慶」への爆撃は終はり
    次の爆撃地は「成都」になった

情勢地図


進藤三郎氏について 調べてみた
 戦時中は市民から敬意を以った待遇を受けて来たが
 戦後になると 戦犯扱ひされて
 子供たちから石を投げられることもあった
 戦時中 
 誠心誠意働いて一生懸命闘って来たことに悔いはないが
 そのことが 戦後になってバカみたいに言はれて来て
 つまらない人生だった と嘆いてゐたと言ふ
 平成十二年(二〇〇〇)二月二日
 自宅のソファで眠った様に他界した
 その表情は 微笑んでゐるかの様だった

 昭和十五年
  十月五日
   「成都」への初攻撃
   横山保大尉指揮の零式戦闘機八機
   陸上攻撃機二十七機の掩護
   午前八時三〇分 漢口基地を離陸
   途中「宣昌」で燃料補給
   ここから「成都」まで七四〇㌔
  午後二時十分
   成都上空につく
   上空に敵機はゐない
   高度を下げてみると 飛行場に戦闘機が並んでゐた
   横山は 銃撃を命じた
   次々と 飛行場にならぶ機が炎上して行った
   この間に ソ連製中型爆撃機発見
   二〇㍉機銃弾が当たると同時に急速に落下
   地上に触れて大爆発
   横山は 一機の損失もないことを確認すると
   炎と煙におほはれた「成都上空」を離れた
   攻撃結果は以下
    六機撃墜 二十九機炎上大破

   その後十二月末まで
    出撃回数 二十二回
    撃墜数  五十九機
    撃破機  百一機
   零式戦闘機の損失は ゼロだった
   この成果に日本海軍は狂喜した
 昭和十六年
  三月二十四日
   「成都」への爆撃は続けられてゐた
   この日も 横山戦闘機隊は八機で掩護につき
   「成都」に向かった
   敵機は 三倍を超える三十機
   すさまじい戦闘が繰り広げられた
  十分後
   成都上空を飛んでゐるのは
   零式戦闘機八機だけだった
   撃墜二十七機
   零式戦闘機の損失はゼロだった
 昭和十六年
  八月三十一日
   前年の八月十九日に始まった爆撃機による空襲は
   中国の制空権を支配したため 終了
  爆撃地を
   「南京」
   「南昌」
   「重慶」
   「成都」
   「昆明」と変へながら
  掩護戦闘機も
   「九六式戦闘機」から
   「零式戦闘機」へと変へながら
   日本は中国の制空権を取った
  

零式戦闘機の活躍


 昭和十五年
  八月十九日
   「重慶」への出撃で始まり
 昭和十六年
  八月三十一日
  「成都」の空中戦で終了
 
 その戦果
  撃墜 一六二機
  撃破 二六四機
  損失 二機
 海軍は狂喜した
 国民もその甚だしい戦果に醉った



しかし それで平和を守ることが出来たか?
そこを篤と考へたい
軍部の思ひ
 ①海軍の思惑 グアム占領
 ②陸軍の思惑 細菌戦で勝つ

しかしグアム占領には
 フィリピンの米軍
 シンガポールの英・東洋艦隊
この二つの邪魔物がゐた

これら二つを叩くには
 航続距離の長い爆撃機と
 それを掩護する戦闘機が必要だった
 ところが 九六式戦闘機は 爆撃機と同じ様に飛べない
 どうしても航続距離が短くなる
 だから 爆撃機を掩護できない
 だから 戦闘機を空母に載せ
 攻撃地の近くまで運ぶ必要があった

 しかし 空母からの発艦では戦闘機が限らる
 そこで 航続距離の長い戦闘機が必要になる
 その思ひから「零式戦闘機」が生まれた

 漢口基地から重慶・成都・崑明への空爆は
 海軍の本部にしてみれば
 航続距離の長い
 フィリピン・シンガポールへの
 予行演習だったのかもしれない

今度は南洋群島に注目されたい



日本が南洋全島を『永久占領』するには
見れば見るほど
米領グアムが欲しくなる
「開戦劈頭グアム占領」と
唱へた海軍の長年の夢が がよくわかる

陸軍の思惑


満州国建国の翌月
 昭和七年(一九三二)
  四月
   牛込区戸山町の軍医学校内・防疫部地下室に
   『防疫研究室』新設
    主幹・梶塚隆二
  八月
   石井四郎が主幹となる

 昭和八年(一九三三)
  九月
   五千坪ある近衛騎兵隊の敷地に
   二階建・七八五坪の『研究室』が新築された
   大きさのイメージは以下
   ※五千坪  一六五〇〇平方㍍=一二八㍍四方
   ※七八五坪 二五九二平方㍍ =五一㍍四方
   つまり
    一二八㍍四方の敷地に
    五一㍍四方の「建物」ができた
 
   ここが 細菌部隊の「国内本部」である
   続いて 戦地の「本拠地」も作られてゆく
   その場所は
    満州国・ハルピン南東七十㌔
    背陰河(はいいんが)なる寒村に
    守備隊といふ名目で
    防疫班『東郷部隊』が創設された
    一説に 石井の変名「東郷はじめ」に由来
 昭和九年(一九三四)
   十六名の被験者が脱走
   秘密露呈を怖れ 背陰河の東郷部隊は 閉鎖
   一時 東郷部隊は帰国

   だから陸軍は もっと大きく
   絶対に秘密を守れる機関を渇望した
   そこで浮上したのが 
   ハルピン南方二〇㌔の『平房』への移転を計画

 昭和十一年(一九三六)
  四月二十三日
   関東軍参謀長 板垣征四郎は
   陸軍次官 梅津美治郎に
   細菌戦準備のため『関東軍防疫部』の新設を要求
   この戦地の細菌基地の新説を
   『陸軍五十年史』は かう語る

    同機関「関東防疫部」は
    (戸山の)内地防疫研究室と相呼応して
    皇軍防疫の中枢なるは勿論
    防疫に関し 駐屯地作戦上
    重要なる使命を達成せん事に邁進しつつあり…
    
 昭和十二年(一九三七)
  七月七日
   盧溝橋事件以後の
   中国大陸の「制空権獲得」までの話は述べた
   よって ここからは陸軍の細菌戦の野望を追ふ

   満州の細菌部隊は
   中国では
    北京
    南京
    広東に 広まるが
   いづれも 
   占領した中国施設をそのまま利用した



『北京支部』
 昭和十二年(一九三七)
  八月八日 北京占領
 昭和十三年(一九三八)
  二月
   北京天壇中央防疫所を占拠して
   「北支那防疫給水部」を創設
   世界遺産に登録されてゐる『天壇』近く
   その出先機関は
    済南
    天津
    青島等 十数カ所に及んだ
『南京支部』
 昭和十二年
  十二月十三日占領
 昭和十三年
  四月十八日
   「南京中央病院」を拠点とした
   その出先機関は
    上海
    蘇州
    抗州
    金華
    武昌
    漢口
    九江
    岳州など
『広東支部』
 昭和十三年
  十月二十一日占領
 昭和十四年
  五月 広州市の「中山医科大学」を拠点とした
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大東亜戦争勃発後は
 昭和十七年(一九四二)
  四月一日
   シンガポールのエドワード病院の一角占領
   当初 部隊員は二〇〇人ゐた
  つづいて
   マニラ
   ジャカルタ
   バンドンにも細菌部隊の支部が置かれた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
少し 時間は戻って話は満州の「平房」本部建設




昭和十三年(一九三八)
 六月
  一辺六㌔四方の建設予定地
  しかし そこには地元の農村があった
  そこで その四つの村の住民には
  一ヶ月以内の立ち退き令を出し 家を焼き 平地にした
  広さは 六一〇㌶
   一㌶=一〇㍍四方たから
   六一〇㌶=六一〇〇㍍四方
       =六・一㌔㍍四方
  巨大施設である
  そこに 監獄・収容実験棟の他に
  飛行場・鉄道・神社・病院
  さらに職員たちの宿舎を作る予定だったからだ

  この敷地確保に動き出す前の
 一月二十六日
  『特移扱ニ関スル件通牒』が出された
   裁判もせずに
   植民地支配に抵抗する者 もしくは
   抵抗したとみなされる者たちを
   合法的に『平房』に連行することが
   できるやうにしたのだ

   そこは 広さや建物からみて『陸軍平房・特移村』
   以後 この私称を時折使ふ
    正称=関東軍防疫給水部
    私称=陸軍平房・特移村
   史称からは想像のつかない
   大きな秘密の「特移村」であった

陸軍平房・特移村


 満州国のハルピン南方二〇㌔の『平房』に作った
  裁判もせずに
  事件送致もせずに
  日本の植民地支配に抵抗した者
  抵抗したとみなされる者たちを
  警察や憲兵が連行する『村』である
 完成は 昭和十五年だった
 囚人の『平房』までの連行を『特移扱』と言ふ
 その様子は以下

   ハルピンの駅までは「列車」
   ハルピンから「平房」までは
   目隠しされて「トラック移送」

 中国大陸占領は
  盧溝橋事件に始まり
  同年 北京・上海・南京占領
  翌年 広東・武漢まで占領が進む
  海軍による 長距離爆撃は
   漢口から重慶へと進んでゐた
  一方その頃 陸軍は
   来たるべき細菌戦に備へ
   内地に『防疫研究室』を作り
   満州には その実戦部隊の
   巨大基地『陸軍平房・特移村』を作ってゐた
 昭和十五年十二月までには
   中国に 北京・南京・広東
   満州には 平房の本部の他に
   ハイラル・林口・孫呉・牡丹江に支部が作られてゐた



   細菌部隊は 以下
   内地本部 戸山町・防疫研究室
   実戦本部 満州・平房
    満州支部
     牡丹江(ぼたんこう)
     林口(りんこう)
     孫呉(そんご)
     ハイラル
    中国支部 
     北京
     南京
     広東

  もう一つの秘密機関
   陸軍・登戸研究所
    陸軍は「細菌戦」だけではない
    「電波攻撃」や「毒物攻撃」
    果ては偽札による「中国攪乱」も考へてゐた
    その本部も昭和十四年には 出来てゐた
    登戸研究所である

  その沿革を見てみよう
  第一次世界大戦では 科学の力が戦争に利用され
  以後は
  「細菌戦」や「毒ガス戦」が考へられる様になってゐた
  この流れを受けて 日本も
  新宿 戸山ヶ原に『陸軍科学研究所』を設置
  大正八年(一九一九)である
   四月十二日 以下の勅令一一〇号がでた(要旨)

    欧州大戦の実験並びに
    帝国陸軍の実況に鑑み
    陸軍技術を進歩せしむる為には
    「陸軍火薬研究所」を廃し
    新たに「科学研究所」を設置する

  大正十四年(一九二五)
   四月二十七日
    新たに化学兵器部門が追加された
    つまり『陸軍科学研究所』は
     一部 力学・電磁気学
     二部 火薬・爆発
     三部 化学兵器の三部構成となる

  昭和二年(一九二七)
   四月
    二部に『秘密戦資材研究室』が新設さる
    室長は 篠田鐐大尉

  昭和十二年(一九三七)
    十一月
     場所を川崎市の生田に定め
     名を『登戸実験場』に改めた
     その経緯を防衛庁資料はかう語る

      科学の未知の領域を開拓し
      奇襲戦力大なる新兵器を
      創造する研究に重点を置く
      しかし 現研究所は
      危険が伴ふ研究をするには
      狭く 秘密維持も難しいので
   昭和十二年五月
      建設地を 郊外の生田村に定め
   同年十一月
      土地を購入し 是を『登戸実験場』と命名し
   同年十二月十二日
      研究員の一部を移転し研究開始
      奇襲力の大きな科学兵器を作る機関が
      川崎の生田に設置され
      『登戸実験場』と命名された
      その翌日が「南京入城」

   昭和十三年(一九三八)四月
      略奪した『南京中央病院』に
      細菌部隊が設置された
  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これより 陸軍の司令部の配置を綴る 
 中国支配の「戦闘司令部」である
 支那派遣軍総司令部が「南京」に置かれたのは
  昭和十四年(一九三九)九月
  その後
    「北京」
    「上海」
    「広東」
    「漢口」に 陸軍の支部が置かれた



    ドイツが ポーランド侵攻した頃
    日本は右図の様に中国支配を進め
    新たに「法幣偽札造り」も始めてゐた
  昭和十四年(一九三九)
   四月
   参謀本部は 偽札による中国経済混乱を企画
   偽札造りを『杉工作』と名づけ
   偽札を『登戸研究所』で作らせ
   その機関を『松機関』とした
   
  昭和十四年(一九三九)
   八月
    登戸研究所に
     『偽札製作部門』が置かれた
    これで「登戸研究所」には
    ・電波兵器の一科
    ・毒物兵器の二科
    ・偽札製作の三科が揃った
   九月十六日であった

   当時の中国の通貨は
    国民政府の通貨 法幣
    共産党軍の通貨 辺区券
    日本軍の通貨  軍票 があった
   しかし現実は 国民政府の「法幣」が優勢で
   現地での物資の調達は「法幣」が必要だった
   そこで 考案された作戦が「法幣偽札造り」であった

   その任務を受けたのが
   登戸研究所の三科長の山本憲藏

   失敗に失敗を重ね 試行錯誤の末
   法幣の量産体制を整へ
   上海の『松機関』に 
   順調に持ち込め 偽札が順調に 散布されるのは
   その一年後の昭和十五年であった
  
   紙質・インキ・漉かし技術には
   内閣印刷局や凸版印刷が…
   製紙では 巴川製紙が活躍した
   運搬は 陸軍中野学校出身者
   「長崎」を経て海路で「上海」の『松機関』に運ばれ
   そこで 「法幣偽札」が弘められた
   「偽札」で 現地の物資調達ができる様になったのだ

   大東亜戦争が始まると
   印刷の技術は 頂点に達した
   その理由は以下
    真珠湾・マレー半島同時奇襲作戦
    真珠湾を攻撃したら…
     ・グアム島占領
     ・ウェーク島占領
     ・マキン島 タラワ島占領
     ・フィリピン飛行場攻撃が…
      予め組み込まれてゐた
   
   マレー半島上陸したら…
     ・香港占領も 予定されてゐた
      その香港占領は
   十二月二十五日
     ここで 日本は 国民政府の印刷機を手にいれ
     登戸に移送した
     結果
      真偽判定出来ぬ偽札造りに成功
      以後 登戸研究所で大量印刷され
      上海の『松機関』での配布は
      戦争が終はるまで続いた

    わかりやすく綴ると
    本物の「法弊」が「登戸」で造られ
    「上海」で ばらまかれてゐたのだ

    真珠湾攻撃成功の合図「トラトラトラ」を受けて
     グアム
     ウエーク
     マキン・タラワ島への侵攻は開始された
   マレー半島上陸の合図「ハナサクハナサク」を受けて
     香港占領作戦が開始され
   同年十二月二十五日に占領すると
     日本は 香港にあった「法幣印刷機」を手に入れ
     これで 真偽判定出来ぬ
     「法幣偽札造り」が可能になった
 

日中戦争を知るには


  まづ 海軍の制空権獲得
  海軍 渡洋爆撃に始まり
     「重慶」への空爆
     そして「成都」空爆後 制空権獲得
  陸軍 南京に支那派遣軍総司令部設置
      支部は
       北京・上海・漢口・広東
     細菌兵器は
      本部 国内戸山の防疫研究室
      實驗 満州平房
      実戦 北京・南京・広東
     毒物兵器製造
      本部 登戸研究所
      試験 南京中央病院
         青酸ニトリールの人体実験は後述
     偽札造
      製造 登戸研究所
      配布 上海『松機関』

 陸軍の盧溝橋以後の足跡
  北京占領 八月八日   昭和十二年(一九三七)
  上海占領 十一月二日  (〃)
  南京占領 十二月十三日 (〃)
  徐州占領 六月七日   昭和十三年(一九三八)
  広東占領 十月二十一日 (〃)
  武州三鎮 十月二十七日 (〃)
  海南島占 三月十日   昭和十四年(一九三九)
  南昌占領 三月二十七日 (〃)
 細菌部隊の設置
  北京 二月      昭和十三年(一九三八)
     場所…天壇 
  南京 四月十八日    (〃)
     場所…南京中央病院     
  広東 五月      昭和十四年(一九三九)
     場所…中山医科大学

 これらのあらましを知って
 初めて 日中戦争の実情が掴める
 ところが 今行はれてゐる平和教育は
 この内の一つを取りあげ
 そこで起きた事件だけを話す
 だから
 永遠に 日中戦争のあらましが掴めない
 試しに 近くにゐる
 親や先生に 戦争の話を聞いてみるといい
 
 ほぼ 何も知らない筈だ
 事件を知らずして 事件を論評できぬやうに
 史実を知らずして 戦争は論評できない

 何が言ひたいのか?

 史実を全く知らない人に
 「戦争はやってはいけない」と説いても
 無意味だといふことだ
 戦争のあらましを知らない人に
 一部の事件だけを取りあげて
 その悲劇をことさら大袈裟に語っても
 「戦争を知ることには繋がらない」

 戦争は まづは「あらまし」
 細かな事件は それからだ

 大人には その「あらまし」を伝へて行く責任がある
 私の場合は そのあらましを
 ネット『和たぐ新聞』や『和ブログ』で伝へて行く

 一人でも多くの子供や若いご両親に知っていただきたい
 その思ひだけで 書き始めた
 これからは いよいよ「大東亜戦争勃発」
 そこを 細かく追ってみたい

陸軍の進むべき道


 蒋介石が逃げ込んだ『重慶』か
 ソ連と闘ふ『北進』か
 米英蘭を睨んだ『南進』か

昭和十五年(一九四〇)
 六月
  つまり
  零式戦闘機が試作中のため
  長距離爆撃の掩護が出来ぬ頃

  陸軍の作戦課で 初めて
  『南方作戦』が取り上げられた
  作戦名『今後における戦争指導並作戦指導』
   起案者
    荒尾興功(おきかつ)
    実際 瀬島龍三
 七月
  陸軍作戦課は
  参謀数十数人を四班に分けて
   マレー半島
   フィリピン
   香港
   蘭印を 偵察した
 八月十五日
  偵察組が集まった
  検討された起案は
  『南方総合作戦計画』
   起案者 瀬島龍三
    冒頭には蘭印占領が明記され
     マレー
     フィリピン
     グアムを攻略する際の兵力区分もあり
     内容は戦争指導そのものだった

  この頃
  陸軍第二部欧米課に村上公亮を班長とする
  『南方班』が新設された
   任務は 身分を隠して忍び込み
   当地の軍事施設の状況
   現地人の風俗・風習
   地図・気象の情報収集である
   翌年の八月末(昭和十六年)までに資料は集められ
   極秘の内に
   『南方作戦計画』が作成された
   その起案は三宅坂の将校集会所で
   一ヶ月をかけて仕上げられた
昭和十六年(一九四一)
  十月一日から五日間
   陸軍大学校で図上研究
  十月十六日
   開戦決意閣内不一致により近衛内閣総辞職
  十月十八日
   東条内閣成立
  十月二十四日から三十日
   『大本営政府連絡会』
   略して『連絡会』が連日開かれ
  十一月一日
   『連絡会』で以下の三点決定
    ①対米英蘭戦争を決意す
    ②武力発動の時機を十二月初旬と定め
     陸海軍は作戦準備に入る
    ③対米交渉が
     十二月一日までに成功せば武力発動を中止

    確かに 兵員・兵器の移送は
    十一月以降でも間に合ふ
    しかし
    兵員・兵器を移送する「船」は
    直ぐには集まらない
    船を集める担当部署は
    令和五年広島サミットの開催地・広島の「宇品」
    そこにあった「船舶輸送司令部」である

    兵員の乗船地は
     ・内地
     ・朝鮮
     ・台湾
     ・中国の諸港

    民間から徴用した船を集めその船を戦争用に改造
    その『艤装』した船に 兵員たちの
     ・備品
     ・兵器や弾薬
     ・食糧を揃へ
    上陸用の
     ・小発(六〇〇)
     ・大発(六〇〇)
     ・特大発(六〇)を詰め込む

    これが船舶輸送部の仕事であった

    大本営が要求して来た船は
    当時の総船舶五〇〇万トン中の二〇〇万トン
    大小合はせて四〇〇隻
    しかし 船の兵装は 資材不足で間に合はず
    甲板には高射砲一門も 積まれてゐない
    これが実情であった

    だから 船舶輸送部の戦争準備は
    前年の十二月から始まった
    つまり
昭和十五年
 十二月から
    裏方の戦争準備は進められてゐたのだ

昭和十六年十一月には
    多くの船が 集合地となってゐた
    海南島の「三亜港」に向けて 出港してゐた

大東亜戦争とは何か

 盧溝橋事件に始まる日中戦争
 だが日本は 中国を思ふ様に占領できなかった
 そこで 海軍は
 長距離爆撃機を掩護するため
 航続距離の長い戦闘機を望んだ

 地上戦の主役となる陸軍は
 ・細菌兵器や
 ・化学兵器や
 ・偽造紙幣を 望んだ
そんな中で
 盧溝橋事件から約二年後の
昭和十九年九月一日に
 ドイツがポーランドを侵攻
 第二次世界大戦勃発
翌年の六月二十二日
 ドイツがソ連に四〇〇万の兵力を持って侵攻
 これを受けて 米・英は ただちにソ連支持を表明
 この時 日本は…

 松岡外相は『即時対ソ戦』を主張
 しかし
 海軍は絶対反対
 陸軍も即時参戦・武力発動には 賛成しなかった
 確かに ソ連を襲ふには好機だが
 陸軍は 対米関係の悪化で 資源補給困難を予測
 そのために 戦争前に
 仏印と泰(タイ)を 手中に 収めて置きたかったのだ
 七月二日
  御前会議
   そのまま南方作戦を進めるが
   場合によっては対ソ戦をする
昭和十六年
 七月七日
  関東軍は「関東軍特別演習」と
  呼ばれる軍事演習を幾度か実施
  しかし
  この時の「関特演」は 単なる軍事演習ではなく
  対ソ連開戦を
  完全に見据ゑてゐた「関東軍の戦力増強」策だった
  外務省の資料が語る様に
  場合によっては 対ソ戦をする
  そんな思ひがあり
  満州に 沢山の兵員
         軍馬
         戦争資材 が増強された
  しかし 
  この大兵力の移動が ソ連に見抜かれると
  ソ連は これを『対ソ開戦』と誤解する
  そこで 日本は以下の工夫をした

   ・特別演習のための移動と宣伝
   ・日の丸の内地見送り一切禁止
   ・移動は夜間を利用
   ・輸送列車を初めは逆方向に走らす

  こんな工夫をして ソ連の眼を反らした

 八月二日
  ソ満国境方面でのソ連の通信が 突然 途絶えた
  これを大本営は

   「ソ連が日本の兵力大規模移動に気づき
    奇襲先制攻撃を日本に仕掛けるために
    各隊の通信を禁止した」と考へた

   そこで直ちに 
   ソ連と外交交渉を行ひ
   ソ連の開戦意志を柔らげるべきだ
   こんな意見も出た

   しかし
   関東軍司令官・梅津美治朗大将から
   こんな電報が入った

    「ソ連軍が来襲してきた時は
     大本営に連絡はするが
     好機を失ふと判断した時は
     独断でソ連の空軍基地に
     航空攻撃を仕掛けるので予め了承せられたい」

   狼狽した参謀総長・杉山元は
    「反撃は 国境内にとどめ
     慎重な態度をとるべし」と返電

  しかし
  大本営陸軍本部は 反対する海軍の同意を得て
  天皇に上奏の上 天皇より以下の命令を受けた

   「ソ連空軍の攻撃を受けた折には
    ソ連領内に
    空軍を駆使して進攻してもよい」

  事実上のソ連への開戦命令だった

  しかし
  大本営を震撼させた対ソ開戦を決意させた事件は
  あっけない解決をみた

  交信が途絶えたのは
  デリンジャー現象が発生し
  ソ連の通信が途絶えたものだった

 八月九日
  陸軍は
  年内対ソ武力行使の企図を断念した
  しかし 兵力増員は続けられ
  満州の関東軍は七〇万人となった
  『無敵関東軍』と呼ばれたのは この頃であった

   補足解説 デリンジャー現象
    太陽面の爆発で
    地球の大気の上層にある電離層が変異
    この変異によって
    十分から数十分間に起こる短波通信障害

大東亜戦争とは


 ハワイ・南方同時奇襲作戦
 海軍真珠湾奇襲作戦
  起案者 山本五十六
 陸軍南方奇襲作戦
  起案者 瀬島龍三(初期)

 それぞれ開戦一年前から考案
 南方と言っても東西広く
  マレー半島
  フィリピン
  タイ
  香港
  シンガポール
  ジャワ
  スマトラ
  ボルネオ
  セレベス
  ビスマルク諸島
  チモール島
  ビルマ
これが陸軍主体の占領予定地

一方海軍主体奇襲・占領予定地は
 ハワイ真珠湾
 マキン島・タラワ島
 グアム島
 ウェーク島



右図は 防衛庁戦史研究室の『マレー進攻作戦』を参照
研究室にある資料『南方作戦』は

 東は ビスマルク諸島
 西は ビルマ
 南は 蘭領インド諸島に至る
 広域要地を一気に攻略せんとするものであり
 まことに史上まれにみる
 大規模な渡洋急襲作戦である

と自画自賛するが やり過ぎだと思はれる

兵員の食糧は どうするのか?
現地調達といふ名の「略奪」

住処は どうするのか?
即席又は接収といふ名の「略奪」

服従しない者はどうするのか?
天に逆らふ罪深き者として 天刑を下す
「さらし首」である

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和十七年に軍属として三井物産の船舶部に入社して
陸軍船舶部・宇品に勤務
後に昭南(シンガポール)に派遣された田島昌克は
その時の話を かう語る

昭南の駅前に首の座があり
生首を 四・五個並べて
その下に
 日本軍に反抗すると
 この様になるぞと
 英語 マレー語 支那語で 書いてある

この様なことをするから現地人の反抗を
受けることになるのだと思った
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

東アジアの解放・白人からの独立を掲げて
南方に進出した日本!
しかし その実態は…

どうも 表向きの意気込みと実際の行動は 大分異なる様だ

さて その広域な『南方作戦』だが
正式には
昭和十六年
 十一月六日 に決定された
  南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)
   任務は以下の侵攻の指揮
   ・マレー半島
   ・フィリピン
   ・オランダ領インドネシア
   ・ビルマ  
  戦闘司令部は『サイゴン』に置かれた
  秘密の作戦のため現地名『照海部隊本部』
  建物は 接収した「フランス銀行」
   現在 ベトナム国家銀行ホーチミン支店
   平成二十八年(二〇一六)に
   国家級芸術建築遺跡に認定された

 次は大本営直轄『南海支隊』
  指揮 堀井富太郎少将
   任務
   ・グアム占領 後に
   ・ラバウル占領
   後に
   ・東チモール占領
   後に
   ・ポートモレスビー占領(途中で中止)

 そして
 「海南島」の三亜港に 多くの船が集結し
 マレー上陸作戦が敢行さる

昭和十六年(一九四一)十二月四日 
 広島宇品を出港
  兵員・兵器・食糧等の輸送船
  それを護衛する艦船 計約六十
  この輸送船団は 先頭からどん尻まで約六・五㎞
  文字通りの大船団が 米英の厳しい警戒の中
  気づかれぬ様に マレー半島上陸地に着くのは
  奇跡ともいへる程 困難なことであった
  厳しさは それだけではない
 択捉島の単冠湾(ヒトカップ)に終結した
 機動部隊の真珠湾奇襲攻撃も同様
  アメリカの偵察に気づかれたら
  ハワイマレー同時奇襲攻撃が崩れ
  日本は緒戦で大敗する危険があった

 既に 米英は 日本が仕掛けて来ることは わかってをり
 それが
  ・いつ
  ・どこに来るか
  そこに視点が集中してゐた
 だから
  ハワイに向かふ「機動部隊」も
  マレーに向かふ「輸送船団」も
  発信は一切禁止の隠密航行
  息を呑む様に 慎重に航行した

 上陸後の戦闘準備も十分だった
 たとへば マレー半島の上陸部隊
  上陸地点からシンガポールまでおほよそ一〇〇〇㌔
  昭和十四年二月に占領した海南島も一周一〇〇〇キロ
  マレー上陸後シンガポールまでの一〇〇〇㌔とほぼ同じ
  だから 緒戦のマレー半島の銀輪部隊は
  海南島で 実地演習されてゐた

  それはたんなる「上陸」ではなく
  敵の銃弾が飛んでくる「敵前上陸」
  念入りに練習しておく必要があった
  
  練習はまだある
  大本営は 昭和十六年(一九四一)の三月
  南方地域上陸作戦を仮定した
  陸海軍の大々的な合同演習を実施
  三月二十七日 上海出発
   輸送船団を 艦艇が護衛
   その護衛船・輸送船団を 陸海軍の戦闘機が掩護
   東シナ海を渡り 北九州に上陸
   シンガポールに見立てた佐世保の攻略で演習終了
   演習が終はったのは四月四日

  さらに 大本営は
  上陸演習を行った第五師団に
  中国軍のゐる大陸沿岸を 幾つか敵前上陸させた
  この実戦を通して
  大本営も 南方作戦に自信を持ち 実戦の日を迎へた

  少し時間は遡るが
  蒋介石は 日本の「海南島」の占領を
   香港
   フィリピン
   マレーシア
   シンガポールへの南進に繋がると批判し
  『太平洋の満州事変』とも言った

  米英仏も 日本の「海南島」占領を批判
  そこで 日本は『領土拡張の野心無し』を訴ふ
  しかし
 三月三十日
  「海南島」の南の島々 つまり
  今の 「南沙諸島
  当時の「新南群島」の領有を宣言した



マレー上陸作戦部隊は「海南島」の三亜港に集まり
十二月四日に 出港
開戦は「十二月八日午前零時」である

イギリス極東司令部は

十月には  上陸用舟艇が 日本の各地で大量に作られ
海南島では 密林内で戦闘訓練が行はれ
十一月には その上陸舟艇を積んだ船が
      「三亜港」に 続々と集結してゐる

こんな情報をつかんでゐた

しかし 戦闘用意は他にもあった

たとへば(フィ=フィリピン)
 ①フィ・ダバオ占領任務の坂口支隊は
  十一月十九日 門司港を出て パラオで待機
 ②フィ・レガスピー占領任務の 木村支隊は
  十一月二十一日 名古屋港を出て
  十一月三十日  パラオで待機
 ③フィ・ラモン湾占領任務の十六師団は
  十一月二十二日 大阪港を出て 奄美大島へ
 ④ウェーク島とマキン・タラワ島は
  第四艦隊が その任務にあたった 

今までの歴史にない 広範囲に及ぶ同時奇襲作戦が
これから始まらうとしてゐた「ハナサク大作戦」

十二月四日
 マレー奇襲攻撃のために
 大輸送船団が三亜港を出港した
 その二日前の
十二月二日
 「広東」を六機の「直協機」が飛び立った
 それは 十二月一日に
 上海発広東着の中華航空機が
 汕頭(スワトウ)上空通過の通信を最後に
 交信不通となり 行方不明になったのだが
 この中華航空機・上海号を探し出す命を帯びた
 捜索機だった

 その日は雲深く
 捜索機は 探せぬままに
 広東飛行場に帰って来た

十二月三日
 電報班が中国軍の暗号文を受信 早速解読してみると
 
 『日本軍の飛行機が墜落してゐる
  当部隊は直ちに捜索に赴く』

 これを受けて 直ぐに 直協機が広東を飛び立った
 密雲立ちこめる山岳地帯だったが
 遂に 午前十時 墜落機が発見された
 南京・支那派遣軍総司令部は

 『重要書類を処分するため
 直ちに上海号を爆撃粉砕せよ』

 上海号の乗客に杉坂少佐がゐた
 少佐の任務は
  マレー奇襲作戦の命令書を
  広東の二十三軍司令官に直接手交することであった

 その命令書は 以下
  大陸第五百七十二号
   香港攻略に関する命令
    作戦開始は
    マレー方面への上陸 又は 空襲確認直後
    暗号名 ハナサクハナサク

 この書類が敵側に渡ったら 直ぐに米・英が仕掛けて来る
 さうしたら 
 「マレー大輸送船団」も
 給油のタンカーを沢山抱へる「真珠湾機動部隊」も
 大損害を受け 緒戦で 日本は敗退してしまふ
 だから大本営は 
 その命令書が 燃えてなくなることを願ひ
 『上海号』爆破粉砕命令を出した

 その前日の二日午後二時に
  大本営は 輸送部隊に
   大陸命第五六九号(鷲)
    ヒノデハ・ヤマガタを出してゐた

 意味は
  鷲   =対米英蘭への開戦決定
  ヒノデハ=開戦日ハ
  ヤマガタ=八日 であった

 それだけに
 大本営は 秘密書類の行方が 気になってゐた
 緒戦・大敗北で終はるか
 緒戦・大勝利で終はるか
 それは 秘密書類滅却の可否に かかってゐた

 十二月四日午前七時半
  マレー輸送船団 三亜港を進発
  しかし
  作戦命令書の行方は未だ不明
  大本営は 苛立ってゐた

  この時 中国通信傍受 解読すると…

   三日深夜 墜落機の搭乗者二名
   しかし 両名抵抗の末逃亡 目下捜索中

  作戦命令書を持つ杉坂少佐が
  生きてゐる可能性が出て来た
  しかし 同時に 杉坂少佐が即死してゐたら
  中国の捜索隊がそれを見つけ
  奇襲攻撃が 敵に知られ 日本は 緒戦で大敗北する
  そこで 
  支那派遣軍司令部は 上海号不時着地点へ向けて
  地上部隊・木村大隊を派遣した
  それだけではない
  広東は 香港に近いことから
  情報員の活動がさかんだった

  当時 日本は 
  宋子文の旧邸を「特殊情報班本部」としてゐた
   宋子文…重慶政府財政部長
       実の三姉妹は
       孫文・孔祥熙・蒋介石と それぞれ結婚
  
  陸軍中野学校出身者たちも
  偽名を使って潜入し
  人力車の車夫になったりして
  市民の間に まぎれこんでゐた

  その情報員たちには 以下の調査報告が命令された

  ・上海号の生存者の有無
  ・その数
  ・氏名
  ・拉致されたか 死亡したか
  ・それに付随した情報収集

  密偵と言っても 日本人は敵地に潜入はしない
  密偵は すべて現地の中国人だ
  それは 日本人が潜入しても
  広東語の訛・風俗・習慣から
  直ぐに 日本人だとわかってしまふからだった

  広東の場合
   本部     宋子文旧邸
   情報員    中野学校出身者
   密偵     中国人
   密偵への報酬 金銭
          食塩・ローソク等物資

  この密偵に支払はれる金銭
  ここにも『偽札』が使はれた

  当時 日本占領地域と中国では
  『境界線』が設けられてゐた
  密偵は 商人を装ひ
  たやすく中国側には 入り込めた

  しかし 日本軍の設けた『歩哨線』を
  突破するのは 難しかった
  そこで 密偵には 小さな許可証が用意されてゐた
  また 密偵の仕事は 精神教育として
  以下の様な噂を 弘めてゐた
 
  孫文は 確かに中国の父だ
  重慶政府の蒋介石も偉大だ
  しかし アジア全土を植民地にしようとする
  アメリカ・イギリスに煽動され
  進むべき道を誤ってゐるのは 残念だ

  そして 日本の情報員は
  密偵一人一人には かう説いた

  不幸な日中戦争を一日でも早く終了させ
  アジアをアジア人の手に取り戻す
  そんな意義深いことを
  君たちは やってゐる

墜落機の生存者
 
十二月一日・墜落の日
 乗客の一人・宮原中尉は 重症を負ひながらも生きてゐた
 気がつくと 一人の将校が 書類を燃やしてゐた
 書類に赤い色のものが混じってゐることから
 宮原は 燃やしてゐるものが暗号書らしいことに気づいた
 書類を燃やし終はると 
 将校は もう一人の男と立ち去った
 杉坂少佐と久野軍曹であった

 墜落機には まだ生存者がゐた
 宮原は その三人と会話した

十二月二日・墜落の翌日
 夜が明けた 雨は降ってゐた
 下方三〇〇㍍地点に敵の陣地を 宮原はみつけた
 早く逃げねば 敵がやって来る
 あたりを見ると
 夜には気づかなかったが 大きな軍用行李が破れて
 重慶発行銀行の『法幣』が 大量に散乱してゐた
 宮原は ポケットに 紙幣をたくさん詰め込んだ

 その紙幣を使って 現地の住民を手なづけ
 自軍の地へ戻らう さう決意した

 宮原は 他の三人と別れ 一人 墜落機から離れた
 ひっそり隠れる場所を探した

 四〇㍍くらゐ離れた所に 灌木の腐った穴があったので
 そこで 静かにしてゐると…
 墜落事故機体の方から
 もの凄い銃聲音と甲高い広東語

 しばらくすると 喚声と笑ひ聲

 生存者の三人がやられた
 喚聲は 大量の「法幣」だらう
 宮原は さう思った

十二月三日・墜落して二日目
 宮原が 隠れ忍ぶ灌木の穴から
 四〇㍍くらゐ離れた機体の地に
 直協機による爆撃が繰り返された
 宮原は
 何故 事故機に爆弾を投下するのか 全くわからなかった
 夜になった

十二月四日・墜落して三日
 聞き慣れた機関銃音をならす部隊が近づいて来た
 木村大隊である
 銃撃戦がしばらく続いた
 墜落機から見えた敵の陣地となってゐた台地に
 日の丸が掲げられた
 宮原は『オーイ』と聲を出し手を振った 助かったのだ
 宮原は直ぐに
 他三名の生存者の生死を聞いた
 一人も生きてゐなかった
 やはり敵にやられてしまってゐた
 その後 医務室に連れて行かれ
 宮原は 将校が 書類を燃やした後
 もう一人の男と 山の斜面を下ったことを話した

 話の内容から 軍司令部は
  開戦命令を持った杉坂少佐が
  生きてゐることを確信した
  しかし その後の行方がわからず
  秘密書類の消滅はわからなかった
  
十二月一日・墜落した日
 飛行機は墜落したが 二人とも奇跡的に無傷で生きてゐた
 一人は 総司令部の杉坂少佐
 もう一人は 暗号電報を扱ふ電報員の久野軍曹
 杉坂は 暗号文を扱ふ久野を知り
 安心して 秘密を打ち明け
 書類消滅を手伝って欲しいと久野に言ひ 
 墜落して直ぐに 作戦命令書は
 二人で書類を細かく引き裂き 一片一片を靴で踏みつぶし
 附近一体に埋められた
 杉坂は直ぐに 久野にかう言った

  どちらか一人が助かったら
  総司令部に
  書類は完全に処分したことを伝へるのだ

 二人は 墜落機から 宮原の聲や 呻き聲が聞こえるも
 その聲を無視して 山を下りた
 道のない 山の急斜面を下る
 それは 随分と難しかった
 二人には 新しい任務があった
 それは 作戦命令書の完全処理の報告であった
 二人は 道なき山を下り 自軍の陣地へと急いだ

二日経った
十二月三日・墜落して二日
 いつのまにか 山から平坦な道に辿り着いてゐた
 路上を歩くのは危険だが
 二人に山道を歩く気力はなかった
 その時
 塀に囲まれた兵舎の門に歩哨が二人 立って居た
 見つかった…
 慌てて逃げて草むらに飛び込んだ
 二人かたまると危険なのでとっさに 十㍍離れて隠れた

 三十分ほど経って 久野が 辺りを見まはすと
 杉坂少佐が 見当たらない
 どこかに 素早く退避した 久野は さう思った

久野の単独逃避行は 続く
十二月 四日 五日 六日
そして七日の夜

 遂に自軍に辿り着く
 兵舎の医務室に保護された久野は
 杉坂少佐と共に 
 秘密文書を完全処理したことを伝へた 
 それは 十二月七日 午後九時
 開戦三時間前だった

 杉坂少佐は
  久野と別れた後中国兵と交戦 戦死
  その後 斬首され 捨て置かれた

 なほ 上海号搭乗者の中に 一人
 陸軍中野学校出身者がゐた
 二期生の逸見達志=本名一色良
 何故一色が 乗ってゐたのか
 今もってつまびらかではない
 しかし

  ・上海に偽札散布本部の「松機関」
  ・一色が「逸木機関」の長であった
  ・飛行機に「大量の偽札」があった

 以上三点から 「大量の偽札」を使って
 「一色」
 何かを「広東」で やらうとしてゐた

 これは明らかであるが
 一体 何をやらうとしてゐたのか
 それは 今もわからない

 上海号事件は
  搭乗者十八名中 生存者は二名
  宮原中尉と久野軍曹であるが
  吉村昭は 直接お二人と会ひ 
  そこで 事件の真相を知った
  事件の真相が 本になって 世に知られたのは
  戦争が終はって 二十三年後のことであった


○大東亜戦争

大東亜戦争とは何か


大きく分けて以下三つ

 一…緒戦大暴れ 大成功
 二…四ヶ月後 ターニングポイント
 三…大暴れして占領した地域を
   悉くアメリカに奪はれ「敗戦」

一…トラトラトラ


真珠湾奇襲成功の暗号文「トラトラトラ」を受けて
連動した奇襲攻撃島々①②③

 ①グァム成功
 ②ウェーク成功
 ③マキン・タラワ成功

一…その後「順調」に占領した地域


 世界史に類例のない広大な地域を占領

三…ターニングポイント後


開戦から約四ヶ月後(ターニングポイント)
 昭和一七年(一九四二)四月十八日
  空母ホーネットより発艦した
  中型爆撃機B二五による本土初空襲受ける

 以後
  ①ミッドウェー海戦    ・惨敗
   ↓ ↓ ↓ 
  ②フィジー・サモア占領計画・全面中止
   ↓ ↓ ↓
  ③ガダルカナル占領計画  ・惨敗そして撤退
   ↓ ↓ ↓
  占領した地域の撤退・撤退・撤退…そして「敗戦」

 この大きな流れも
 全く語り継がれてゐない状況下で
 あの戦争の細かな武勇伝や悲劇を話されても
 話に なかなか入れないのは当たり前
 
 映画の大きな流れを知らずに
 細かなシーンを語られても
 内容が深まらないのと同じである

 よって本論は
 大東亜戦争の「あらまし」を綴ることに視点をあてた

開戦の経緯


マレー・ハワイ同時奇襲作戦だが
フィリピン空襲もそこに含まる
よって あの戦争の開戦の実体は
 ①マレー
 ②ハワイ
 ③フィリピン 同時奇襲作戦

 ①マレー半島・奇襲
  コタバル上陸に 始まる
  マレー半島への奇襲は 海南島・三亜港の出港が始まり
 ②ハワイ・奇襲
  ハワイ奇襲は 択捉島 ヒトカップ出港で始まる
 ③フィリピン・奇襲
  台湾から飛び立った爆撃機と零戦による空襲に始まる

時系列的にも
①②③の順に発生したが
フィリピン空襲が大幅に遅れた理由は以下
 台湾を 飛立つ時の濃霧だった
 しかし この遅れのために
 攻撃目標のクラーク飛行場には
 アメリカ空軍機が 
 偵察を終へ 補給するために 帰還してゐた
 結果 米空軍に大打撃を与へることができた

連動作戦
昭和十六年(一九四一)
 十二月八日に作戦開始の暗号名は
  ①ヒノデハヤマガタ (マレー)
  ②ニイタカヤマノボレ(ハワイ)
 
 「この作戦が成功」した時の暗号名は
  ①ハナサクハナサク(マレー)
  ②トラトラトラ  (ハワイ)

 『ハナサクハナサク』を受けて→香港占領開始
 『トラトラトラ』を受けて
   グアム島     占領開始
   ウェーク島    占領開始
   マキン島タラワ島 占領開始
 
占領完了は以下

 十二月十日
  グアム島占領→大宮島へ
  マキン・タラワ島占領

 十二月二十日(フィ=フィリピン)
  (フィ)ミンダナオ島・ダバオ占領

 十二月二十三日
  ウェーク島占領

 十二月二十五日
  香港占領

  ※当時の中国紙幣の状況
   重慶・蒋介石の紙幣(法弊)
   南京・日本傀儡政権汪兆銘の紙幣
   北部・共産党の紙幣

   蒋介石の「法弊」が主力であった
   香港に その「法弊」の印刷機あり
   その印刷機を香港占領時に略奪し
   日本の「登戸研究所」に移送
   これより『本物の偽札紙幣』が
   登戸で 大量に印刷された

開戦の翌年

昭和十七年(一九四二)
 一月十一日
  マレー・クアラルンプール占領
 一月二十三日
  ニューブリテン島・ラバウル占領
 二月十四日
  スマトラ島・パレンバン占領
 二月十五日
  シンガポール占領
 三月五日
  ジャワ島・バタビア占領
 三月十二日
  マッカーサー
  フィ・コレヒドール島から撤退




  怒涛の攻撃占領成功の裏には
  綿密な上陸・空襲作戦があった

  グアムもマレーも 波が高い
  そこで宮崎県の土々呂海岸で上陸練習
  マレーの自転車部隊は 事前に海南島で練習
  艦船から上陸する舟艇は
   ・小発
   ・大発
   ・特大発 が開発されてをり
  艦船から海岸への上陸技術は世界最高峰の位置にあった

  だから アメリカ海軍情報部も
  「日本は艦船からの海岸攻撃を
   完全に開発した最初の大国」と讃へた

  海軍に  堀越二郎がゐた様に
  陸軍には 市原健藏がゐた

   ・堀越ー零式戦闘機なら
   ・市原ー上陸舟艇である

  戦車を載せる安定舟艇・特大発は 世界に先駆けて開発
  開発の中心担当者が 市原健藏
  
  台湾からフィリピンまで片道千㌔
  爆撃機の往復は 当時では常識の距離だが
  それを護衛する戦闘機の往復二千㌔は 未だ無かった
  だから アメリカは
  フィリピンのクラーク飛行場で受けた空襲は
  空母から発艦されたものと思ひ込み
  日本の空母を探してゐた
  
  当時の日本には
  世界最高の「零式戦闘機」と
  世界最高の「上陸舟艇」とがあった

  上陸予定地も 細かく調査してゐた
  だから緒戦は 勝利 勝利 大勝利

  軍部も 国民もその戦勝に酔った

ターニング・ポイント


昭和十七年
 四月十八日
  「君たちの勝利は そこまで!」と ばかりに 
  米国の空母ホーネットから発艦した
  中型爆撃機B二五が 日本を初空襲

  当時の常識
   ①空母発艦機は 空母に帰る
   ②艦載機は飛行距離短い小型爆撃機

  その当時の常識を破った指揮官ドー・リットル
   ①空母に帰らず 日本を飛越え中国大陸着陸
   ②飛行距離の長い中型爆撃機を艦載

  空襲を許した海軍は 大恥をかいた
  これに日本は どう呼応したのか
  つまり
  「やられたらやり返す」これが「戦争の論理」だが
  どんな報復作戦を展開したのか?

  海軍の報復の当初は
   「フィジーサモア占領」
  陸軍の報復は
   「セッカン作戦」(中国大陸)

  海軍の作戦には もともと
  当時 未だ実施されてゐない
  「東太平洋作戦」と「MO作戦」があった
  
  「東太平洋作戦」とは
    ミッドウェー占領作戦
  「MO作戦」とは
    ポートモレスビー占領作戦

 ※ポートモレスビーとは
  ニューギニア東部の南にある都市
  大本営は ここの占領に固執した



海軍の報復作戦は 当初
 「フィジーサモア作戦」だけだった

しかし実情は以下

 初め海軍は
 米国の本土空襲再来を防ぐには
 警戒領域の拡大するしかないと考へ
 「フィジー・サモア占領」計画を主張



 ならばついでに 
 本来抱へてゐた「東太平洋作戦」もといふことになり
 従来より考へてゐたミッドウェー占領が追加された
 陸軍は猛烈に反発したが 山本五十六が押し通した

 すると 今度は ならばついでに
 アリューシャン列島のキスカ島もアッツ島も となり

 そこに本来 抱へてゐたポートモレスビー占領が入る


 したがって海軍の占領計画は 以下
  ①ポートモレスビー(ニューギニア)占領
  ②ミッドウェー島占領
  ③キスカ島・アッツ島占領
  ④フィジー島 サモア島占領
 
  作戦名にすると
   ①MO作戦
   ②MI作戦
   ②AL作戦
   ③FS作戦

  戦史の名前にすると
   ①珊瑚海海戦
   ②ミッドウェー海戦
   ③キスカ・アッツ無血占領
   ④全面中止

  時系列にすると
   昭和一七年(開戦の翌年)
    ①五月七~八日(MO作戦)
    ②六月五~七日(MI作戦)
    ③六月八日  (AL作戦)
    ④七月十一日 (FS作戦)
   
  その実情を簡単に書くと…
    ①ポートモレスビー占領実行部隊の
     南海支隊は ニューギニアに上陸できず
     作戦実行不可
    ②大敗北
    ③作戦成功・無血占領
    ④作戦中止
     作戦は「ガダルカナル占領」に代はる
     よって海軍は
     ガダルカナルに上陸し 飛行場の建設を急いだ
      

陸軍の作戦


 「セッカン作戦」(報復)
 日本初空襲したB二五は「麗水飛行場」に着陸してゐた
 よって この地域の飛行場を使へないやうにする
 それが「セッカン作戦」の本質
 しかし 単なる空爆では直ぐに修復可能だ
 使へないやうにするには どうしたらいいか?
 防疫給水部の出番である

セッカン作戦


 ○杭州
   /
    金華
     /  □麗水飛行場
      横峰
       /
        撫州
      \
    ○南昌

 
①開始
  東軍は「抗州」から「横峰」へ侵攻
  西軍は「南昌」から「横峰」へ侵攻
②合流したら…
  両軍合流したら元の駐屯地に帰る

両軍共に
侵攻して行く途中にある飛行場を破壊しながら進んだ
 
陸軍の進路に住む中国住民は逃げるので
そこは 人のゐない町になる

 合流後 両軍は元の駐屯地に帰る
 日本軍が去れば 逃げた中国住民は 戻って来る
 
 その中国住民の帰宅を見越して
 軍の撤退と同時に「関東防疫給水部」の隊員が

 ・井戸に細菌を投げ込み
 ・民家の中に 感染ノミを撒き
 ・兵隊が忘れて行った様に見える
  細菌入りの「ビスケット」を撒いた

 作戦は大成功であった
 地域一帯が 細菌感染され 飛行場は 使へなくなった

さらにこんなこともあった

 当時 日本軍は捕虜に厳しい
 そんな批判を受けてゐたので
 その批判をかはすために捕虜を解放した

 そこで その捕虜に「饅頭」まで配給し
 その映像を収録し 世界に宣伝

 しかし その「饅頭」には
 致死量に至らぬ程度の細菌が混ぜられてゐた

 合流した東西陸軍が撤退して行くのが八月中旬
 つまり細菌を散布しながら日本軍が撤退して行ったのが
 八月中旬から下旬
 
 その頃 ガダルカナルでは…

 日本軍の死闘が始まってゐた
 中国大陸で細菌散布して作戦成功を喜んでゐる頃
 太平洋の孤島ガダルカナルでは
 その細菌散布の天罰を受けるかのやうに
 日本軍の餓死との闘ひが始まってゐた

MO作戦の実情


昭和十七年(一九四二)
 五月三日
  ガダルカナルの北にある小さな島「ツラギ」を占領
五月七・八日
 空母同士の戦ひ珊瑚海海戦
 勝利できなかったため
 モレスビーの攻略部隊の南海支隊は上陸できず
 「ラビ」からのモレスビー攻略は中止となる



六月五日から七日
 ミッドウェー海戦始まる

 クラーク飛行場の好運とは
 別の悪運とも言へる現象が起こる
 
 空母の艦載機の爆弾を地上から魚雷に換へ終はった
 ちゃうど その時
 アメリカ空軍が空母を襲ふ
  艦載機は飛べない
  爆撃は受ける
  だから面白い様に 爆発が爆発を招き
  空母四隻が たちまち撃沈され
  艦載機二八五機を失った

 失った空母は
  加賀・赤城・飛竜・蒼龍
 陸軍上陸部隊は 
  ミッドウェー島に上陸も出来ぬ 大敗北であった
 
 この敗北は できれば隠したい
 陸軍の上陸部隊は 海戦後
 直ぐさま帰されることなく グアムで待機させらた
 帰国すれば 上陸も出来ぬ大敗北が
 上陸部隊の隊員から 国民にわかってしまふからだ

海軍の対応と変更

六月八日
 アリューシャン列島作戦決行
  アッツ島・キスカ島 無血占領
  幕末の光太夫たちが漂着した
  アムチトカ島は キスカ島の隣の小さな島だった

 ミッドウェー海戦で大敗北したため作戦変更
 フィジー・サモア作戦の中止である
 
新作戦は 以下
  ①ガダルカナルに「空港建設」
  ②「ラビ」からのモレスビー占領から
   「ブナ」からのモレスビー占領に切り換へられた



七月六日
 ガダルカナルの「ルンガ」に飛行場建設開始
八月五日
 ルンガ飛行場完成をじっと待ったアメリカの

反攻開始


昭和十七年八月七日
 ①米・ツラギ占領
 ②米・日本の「ルンガ飛行場」占領
    「ヘンダーソン飛行場」に改名

 これ以後の戦ひは 日本軍ほぼ全敗
 
MO作戦

 「ブナ」からモレスビー攻略
 七月二十一日
  横山先遣隊 ブナ上陸
 八月十八日
  南海支隊  ブナ上陸
 九月十六日
  イオリバイワ 占領
  モレスビーの夜景が見えた



しかし
九月二十六日 撤退開始 理由は以下
 「ガダルカナル」の戦況厳しく
 南海支隊への「補給困難」のため
 南海支隊は「ブナ」に戻ることになる
 しかし こちらも食糧難であった
十月四日
 支隊は 順調に「ココダ」に戻る
十一月十九日
 「クムシ河」
  河幅百㍍ 豪雨で増水激流の中
  カヌーで渡るも転覆
  支隊長・堀井富太郎 溺死他界
ーーーーーーーーーーーーーーー
しかし その頃
つまり 南海支隊が 
八月十六日出立地点の「ブナ」に戻らうとする頃

フィリピンの「コレヒドール」を
三月十二日に撤退したマッカーサーが
十一月十六日「ブナ」に反攻上陸してゐた



そこで南海支隊は 「ラエ」・「サラモア」に 撤退
かうして南方の拠点は

「ガダルカナル島」から「ブーゲンビル島
「ブナ」     から「ラエ・サラモア

に移って行った

大本営は これを「転進」と言ったが
正しくは「敗走」が正しい様に思はる

しかし 敗走しながらも 何時か モレスビーを攻略!
さう 思ってゐれば「転進」だが
餓えと疲労とマラリアと闘ひながらの「転進」に
果たして戦闘する意思と体力は 残ってゐただらうか

だから 大本営は
「ラバウル」から「ラエとサラモア」に
大量の「食糧」と「弾薬の物資」と「兵員」を送った
しかし
昭和十八年
 三月三日
  その大輸送船団が
  あっと言ふ間に撃沈されてしまった
  「ダンピールの悲劇」である



ガダルカナルの死闘


南方は「ガダルカナル島」と「ニューギニア島」
この二島を見ながら史実を追ふ必要がある
ここからは「ガダルカナル」を追ふ

昭和十七年
 七月六日
  ガダルカナル島 ルンガ飛行場建設始まる
 七月十一日
  ①「フィジー・サモア占領作戦」中止
  ②「ブナ」からのモレスビー攻略命令
八月五日
 ルンガ飛行場ほぼ完成
八月七日
 アメリカ軍上陸ルンガ飛行場略奪さる
 これから日本軍は三度 飛行場奪還を狙ふ

  八月 一木支隊 全滅
  九月 川口支隊 失敗
  十月 丸山師団 失敗

 「ガダルカナル島」は「餓島」といふ異名を持つ様に
 ここも ニューギニア同様 
 敵との闘ひ と同時に
 兵員自身の餓えと疲れとマラリアとの苛酷な闘ひがあった

 飢ゑの理由は
 輸送船団が 悉くやられ現地に食糧・物資が届かなかった

 そこで 
 食糧を入れたドラム缶を海に投げ込むなど
 色々と工夫をこらすも 食糧は届かず
 兵員は 餓えに苦しんだ

昭和十七年
 十二月三十一日
  遂に撤退命令が出た
  ガダルカナル島の放棄である
  年が明けて
昭和十八年
 一月二日
 「ブナ」では 日本軍が玉砕してゐた

ーー補足ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 昭和十七年十一月十六日
  ガダルカナルでルンガ飛行場奪還作戦が
  三度失敗した半月後
  マッカーサーが「ブナ」に上陸し反攻を開始してゐた
  その反撃を一ヶ月半受けた
 昭和十八年一月二日
  遂に「ブナ」が玉砕
 
 南方・二つの拠点の消失だ
  ①ガダルカナル島
  ②ニューギニア島の「ブナ」
 そこで代はりに生まれた新しい拠点が
  ①ブーゲンビル島
  ②ニューギニア島の「ラエ」と「サラモア」

 その後「サラモア」も 占領され
 「ラエ」は 連合軍に包囲された
 そこで用意された敗走コースがサラワケット山越えである



このコースを敗走したのが将兵三六四四人が溺死した
「ダンピールの悲劇」の五十一師団の隊員であった
「悲劇」の中 なほ生き残った兵隊が
「ラエ」で 連合軍と闘ってゐたのだ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

五十一師団兵士の手記
       群馬県 温井一衛
昭和十七年
 十二月
  五十一師団は南方派遣となり
 二十五日 
  宇品港出港
 三十一日
  九州佐伯港 八隻の輸送船団で出港
  ラバウルに向ふ
昭和十八年
 一月二十四日
  ラバウル着
 三月一日
  五十一師団七三〇〇人は
  「ラバウル」を出て ラエ」に向ふ
 三月二日
  先頭の「旭盛丸」撃沈
  駆逐艦二隻が 約八〇〇人救ひ
  「ラエ」に丸腰で上陸させる
 三月三日
  ダンピール海峡を通過する時
  戦爆一二〇機の大空襲を受け
  輸送船七隻全部と駆逐艦三隻撃沈
  弾薬・糧秣(食糧)二五〇〇トン
  全て海の藻屑となる
  将兵三六四四人溺死
  生存将兵二四二七人がラバウル帰還
 三月二十八日
  いよいよ私たちの出港
  無事 三十日に上陸
  ラエではなく ラエの東の「フィンシハーヘン」でした
 四月十二日
  守備隊の待つ「ラエ」に出立
 四月二十六日
  「ラエ」に到着
  この頃は 輸送船による物資輸送が困難なため
  輸送は 全て潜水艦輸送となり
  仕事は その荷揚げでした
  生活物資は 日に日に減り 一日あたり一人・米一合
 六月十三日
  「サラモア」に援軍に行く前
  マラリアに罹り 「ラエ」の野戦病院に入院
  その後 病院を転々とし 日本に帰国 そして終戦
  私が「ラエ」に入院した後
   五十一師団は 
   高さ四五〇〇㍍のサラワケット山越えを敢行
   二二〇〇人死没の悲劇に遭遇
   終戦までの「死亡率九八・六三㌫」
   そのほとんどが餓死と聞く

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日本軍の敗走の足跡

珊瑚海海戦
 「ラビ」からモレスビー攻略
 しかし 南海支隊上陸できず失敗
南海支隊の占領作戦も
 「ブナ」からモレスビー攻略
  途中「イオリバイワ」から撤退
ラエ・サラモアに拠点を移すも
  ダンピールの悲劇
ラエ・サラモアから敗走
  サラワケット山越えの悲劇




着目すべき部隊
 ・南海支隊
 ・五十一師団
 ・二十師団

南海支隊
 ①ラビーモレスビー攻略作戦 
   上陸できず
 ②ブナーモレスビー攻略作戦
   イオリバイワで撤退

  上陸時 約八千名
  帰還時 約三百名

   この時 餓えに苦しむ兵士は人肉を食べた
   そんな話があるが
   注目すべき点は 他にある

疑問点
 大本営は どうして米軍のブナ上陸を
 トラック諸島にゐる連合艦隊を出動させてでも
 阻止しなかったのか…

推測
 南海支隊は「餓えで全滅」
 これを予め 大本営は 予想してゐた
 だから 全力で救出に行かなかった
 ところが 三〇〇人も帰還した
 この奇跡の帰還に 驚いたのは 大本営ではなかったか…

五十一師団
 ③「ラエ」「サラモア」重点作戦
  ・ダンピールの悲劇
  ・サラワケット山越え
  ・ガリ転進→ウエワクへ

二十師団
 ④フィンシュハーヘンの戦
 ⑤ガリ転進→ウエワク
 ⑥ウエワク集結
 ⑦アイタペの戦
 ⑧終戦



『五十一師団』


昭和十八年
 一月二日 ブナ玉砕(南海支隊)
 一月七日
  五十一師団・五千名 ラエに上陸
  上陸時 執拗な攻撃を受けるも
  大半が 上陸に成功ラエ・サラモアを拠点にした

ニューギニア支配が始まる

 三月三日
  大量の輸送船が撃沈
  「ダンピールの悲劇」である
 三月十日
  フィンシュハーヘン占領
  フィンシュハーヘンが
  ラエ・サラモアへの物資輸送の「兵站基地」となる

しかし!
 九月四日
  ラエの東側 敵・上陸
 九月五日
  ラエの西側 敵・上陸
  五十一師団は 東西の逃げ道を塞がれた!
  残るは
  オリンピックマラソン選手・北本正路中尉が開拓した
  サラワケット山越えの「転進」しかなかった
 九月十五日
  二日分の「食糧」と

  「病に倒れりゃ 自決だよ
  歩けぬ身になりゃお先にどうぞ」
  
 こんな合言葉で
 「キアリ」までの「サラワケット山越え」が始まった



 ラエ→キアリ(囲み数字は亡骸の数)
 二ヶ月かけて「キアリ」到着
 途中約二二〇〇名 他界

 しかし 海岸線に出ても 連合軍が 道を塞ぐやうに
 「グンビ岬」に上陸してゐた
 そこで「ガリ」から 再び山道に入る
 これを『ガリ転進』といふ

 当時 戦闘司令部は
 サラワケット山越えの兵隊と
 苦戦する二十師団を援護するため「キアリ」に移ってゐた

 よって
 五十一師団の兵士たちは
 サラワケット山越の後は「キアリ」で休息を取り
 再び『ガリ転進』を経て「マダン」に到着した



三つの部隊とその試練

南海支隊
 ・オーエンスタンレー山越え
 ・豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア
  ブナ上陸時 約八〇〇〇名
  ブナ帰還時 約三〇〇名

五十師団
 ・サラワケット山越え二二〇〇 他界
 ・米豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア

二十師団
 ・ガリ転進山道迂回 三七〇〇 他界
 ・米豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア

『二十師団』


尾川正二の回想

昭和十八年(一九四三)
 一月六日
  完全武装して屯営の庭に整列
   ・遺書を書き
   ・頭髪と
   ・爪を添へた
  容易ならぬ戦場だとわかる
 
  龍山駅で貨物列車に積み込まれた
  終着駅は「釜山」だった
  小学校に収容された

 一月八日
  輸送船『靖国丸』に乗船
  といっても 荷物室である
  行く先は わからない
  やがて ニューギニアだとわかる

 一月二十一日 午後二時頃
  ニューギニアの「ウエワク」に着く
  任務は「飛行場建設」だった



三月十八日
 飛行場ができると
 今度は「マダン」まで三五〇㌔
 その「道路工事」と「架橋建設」
 「ウエワク」から「マダン」まで 大小二百の橋を作った
 
 誰が名づけたか…
 「アメリカ松」
 「ニューギニア杉」があった
 現地語は ピジン・イングリッシュ
 ミー(我)と
 ユー(汝)が通じるだけでも ありがたかった

 ピジンは 約千三百語
 私たちの語彙はその半分位だった
 ニューギニア最大の大河セピック河も渡った
 村には「シンシン」といふ歌舞があり
 村落には「シンシン」のための広場もあった
 裸足で踏み固められた土は
 テニスコートの様に なめらかで 綺麗だった
 
 夜行軍のとき 蛍木といふ大きな樹をみた
 高さ五~六㍍の樹が 何千といふ蛍の光を点滅させる
 ニューギニアに 三年ゐたが 二度しか見たことがない
 
 鳥の聲に驚くこともあった
 『ハラダ ハラダ』
 『ミヤハラ』と呼び掛けてくる
 『ホーラ ホラ ホラ』
 『オーハラクン』
 何千といふ鳥の大合唱である

五月五日
 ついに「マダン」に到着
 ここで家らしい家を造った
 任務は 「飛行場建設」と「作戦路啓開」
 この頃はまだ 戦争を忘れ
 現地の生活を楽しむ余裕があった

 山本五十六の死も アッツ島玉砕の報せも入った
 ちゃうど その頃
 マラリアで 一人他界
 水没者一名ゐたので 二人目だ

五月下旬
 ラエ・サラモアで
 五十一師団の死闘の報せが 日々 入って来た
 
 ここ「マダン」でも 敵の空襲が 始まった
 椰子の葉っぱで簑の様な物を作り
 ゴム林を出る時は それを必ず 羽織った
 日に日に爆音が増え 炊事は 夜だけになった
 昼の炊事は 煙が立ち昇ってしまふからだ

五月三十一日
 「神野大隊」が五十一師団の指揮下に入り
 マダンを立ち
 ミンデリ・ガリ・キアリ・
 シオ・フィンシュハーヘンを経て
 ラエ・サラモアまで駆け抜けた
 道路開拓は 中断となり
 二十師団は「フィンシュハーヘン」の援軍となる

九月四・五日
 ラエ東部=米軍上陸
 ラエ西部=豪軍落下傘部隊上陸
 東西を挟まれた「五十一師団」



九月十五日
 五十一師団の「サラワケット山越え」が始まる

九月二十二日
 二十師団の「フィンシュハーヘンの戦」始まる

 ニューギニアの主力部隊は
  「南海支隊」から「五十一師団」
  「五十一師団」から「二十師団」へと代はって行く

 フィンシュハーフェンで五五〇〇名の犠牲者を出した頃
十二月二十日
  「二十師団」にも 転進命令が下る

部隊着目
 ①南海支隊
 ②五十一師団
 ③二十師団

拠点着目
 ①ブナ      (南海部隊)
 ②ラエ・サラモア (五十一師団)
 ③ウエワク・マダン(二十師団)

苛酷な山越え着目
 ①オーエンスタンレー山脈 (南海支隊)
 ②サラワケット山・ガリ転進(五十一師団)
 ③ガリ転進        (二十師団)

南海支隊 一兵士の回想


語り部 和気道春(南海支隊)
聞き手 NHK記者
昭和十六年
 十二月十日  グアム上陸
昭和十七年
 一月二十三日 ラバウル上陸
 五月七日   珊瑚海海戦
ーー以下よりモレスビー攻略ーー
 七月二十三日 パサブアに上陸
        (ブナ近くの)
 オーエンスタンレー山越え



 イオリバイワ占領
  歩いて四・五日の所に
  モレスビーが見えて
  皆で勝った 勝ったと喜ぶ
  しかし 撤退命令
 撤退時は
 後から豪軍 海から米軍艦砲射撃
 そして
十一月中頃
  「クムシ河」 筏で下る
  途中から陸路を一週間位歩く
  「ブナ」近くの「ギルワ」の日本陣地に辿り着くも
  そこで負傷

ーーーーーー「回想」ここまでーーーーー

ブナの陥落
  昭和十七年(一九四二)
   十一月十六日
   「マッカーサー」の上陸に始まり

ラエ・サラモアの陥落
  昭和十八年
   六月三十日
    サラモア南四十㌔・ナッソウ湾に
    「連合軍」が上陸したことに始まる

   七月十二日
    陸軍中野学校出身の田中俊男らが
    「ラバウル」から飛行機で
    「ウエワク」に やって来た

ーーここからは 高砂族の活躍ーー

七月十八日
 「ウエワク」から「マダン」に到着
 直ぐに「猛頭山」の第十八軍戦闘司令部に向かった
 聞けば…
  マダン・エリマの貨物廠は
  連日爆撃され
  日本からの補給船の入港も激減してをり
  運搬役として はかりしれない働きをする
  「高砂族義勇隊」も遊休状態だった
 
  「台湾原住民高砂族」は
   純真で勇敢 闘争心も旺盛
   ジャングルでの行動は敏速
   そこで 軍司令部で 義勇兵を募集した所
   我も我もと 全員が応募して来た

八月一日
 陸軍中野学校出身の
 特定将校と下士官と高砂族義勇兵の
 「齋藤特別義勇隊」ができた
 「マダン」東方五十㌔「ソウ」で結成
 一ヶ月の
  ・破壊爆破訓練
  ・潜入訓練を受け
 「齋藤特別義勇隊」は 直ぐに
 「カイアピット方面」進攻に向ふ中井支隊に配属された



二十師団の仕事
 ①ウエワクーマダン  の道路工事
 ②マダンーヨコピーラエの道路工事
  
  「マダン」から「ヨコピ」まで完成したが
  「ラエ」の戦況厳しく道路工事中止
  
  任務は「ラエ」に残された
  中野英光五十一師団の救援へと代はった

「ラエ」から「マダン」までの脱出ルート
 ①カイアピットー歓喜嶺ーマダン
 ②サラワケットーキアリーマダン
  当初は この二つの内①のカイアピットルートだった

六月三十日
 敵が「ナッソー湾」に上陸してから 戦況悪化
八月二十三日
 中野英光五十一師団長 サラモアで かう言った
 
 「この陣地を最後の一線として
  一歩も後退を許さずここを確保できぬ場合は
  師団は 本陣地で玉砕する
  軍旗を奉焼し 傷病兵も決起
  全弾撃ち尽くすまで敵を倒し 最期を飾る」

しかし
九月五日
 敵軍 ナザブ高原に落下傘部隊降下
 日本軍
  ①カイアピットルートが危険
  よって 中野五十一師団は
  ②サラワケット山越えの脱出ルート選択
 敵軍
 「カイアピット」から「マダン占領」を狙ふ

 その敵軍の進攻を食ひ止めたのが
 二十戦完勝の「齋藤特別義勇隊」であった

齋藤特別義勇隊


昭和十八年
 九月二十三日
  敵   ザカラガ部落に宿営中
  義勇隊 潜入して宿営を悉く爆破

  義勇隊の役割
   もし潜入爆破失敗したら
   敵陣に突入して自爆するのが任務
   文字通り「決死隊」であった
  初陣の戦果は以下
   敵軍  死者 六十以上
       負傷 八十以上 
   義勇隊 死者 無
       負傷 無 
 
 二回目の戦闘
  義勇隊 「魂の森」を拠点
  敵軍  ダキサリアに宿営
  
  戦果は 以下
    敵軍 殺傷 三百以上
   義勇隊 殺傷 無
 
 三回目の戦闘は
  敵軍  「魂の森」宿営
 義勇隊 「魂の森」の奥
 
  義勇兵八名の帰還が心配されたが 無事に帰って来た
  戦果は 敵軍死傷二百名以上
  
  兵站基地となってゐた「マダン」や「エリマ」では

  『潜入攻撃隊とかが暴れ回って 
  敵の進撃部隊を攪乱阻止してゐる』

 こんな噂が 弘まってゐた
 暗いニュースが多いニューギニア
 「高砂族義勇隊」の活躍が
 多くの日本兵を勇気づけてゐた

グンビ岬 敵軍上陸


昭和十九年一月二日
 敵軍
  日本軍の「ガリ」ー「マダン」の退路を塞ぐ様に
  「グンビ岬」上陸
  すぐさま「飛行場建設」



 退路日本軍
  「ガリ」から「グンビ岬」を迂回する様に
  「フィニステル山系」に入り
  再び海岸線に出る「転進路」に入る
  これを「ガリ転進」と言ふ
 
 救援日本軍
  疲弊した日本軍を救援
  その任務を負ったのも「齋藤特別義勇隊」であった

 この時
 数々の敵陣潜入爆破を成功させた
 齋藤特別義勇隊は「クワトウ」にゐた
 命を受けた義勇隊は 直ぐ 早朝に出発
 「ボガジン」に向かひ 右折して海岸道に入り
 「ポング」に向かった
 「ポング」から山道に入り ガリ転進部隊のために
  ・「道標」を置き
  ・「簡易糧秣集積所」を造り
  ・「道路補修」を行った

一月二十八日
 救援義勇隊ヨガヨガ到着

一月二十九日
 転進部隊の「堀江先遣隊」が到着
 堀江から事情を聞くと
 五十一師団・二十師団の順に 転進が進んてゐるといふ
 ボロボロになった軍衣のまま
 夢遊病者の様に杖をついて歩く疲弊した多数の兵士は
 友軍の領域に入った途端
 安心してか
 歩行不能となり
 転進から落伍して そのまま残り
 土に還る者が 続出した

 ※堀江氏のご長男に
  この時の感動の出会を
  お父さんからお聞きしてゐないか お尋ねしたが
  残念ながら お聞きしてゐなかった

上陸した敵軍

昭和十九年
 一月十九日
  総攻撃を敢行
  歩兵・片山中隊長の堅陣
  百機に及ぶ敵機の反復攻撃で 遂に 玉砕
  敵軍 続けて「歓喜嶺」占領
  
  転戦部隊の救出に目途をつけた「齋藤特別義勇隊」は
  今度は「マダン」を守るために
  「エリマ」から「マダン」に向かった

  「マダン」は 以前の面影はなく
  砲爆撃の跡だけが残ってゐた
  「ムギル」に着くと
  「齋藤特別義勇隊」は かう評された

   高砂族のお蔭で
   ニューギニアの原住民が味方になって
  「隠し道」まで教へてくれた
   また「カイアピット」から押し寄せて来る敵軍を
  正規軍だけで封じ込めることは 不可能だった
  「十八軍」が生き残れたのも
  「齋藤特別義勇隊」の敵陣潜入爆破のお蔭であるし
  ガリ転進部隊の収容成功も
  「齋藤特別義勇隊」の活躍あればこそ

 その高砂族を
 二十師団の参謀長吉原矩(かね)は かう語る

 高砂族は
 かつては蔑視されてゐたが
 民族的にみて大和民族と極めて近い
 見かけと言ひ 肌色と言ひ
 全く同一で 習慣も 多くの共通点がある
 僅か 数ヶ月の教育で日本語を 完全に話し
 性格は 極めて従順勤勉 
 特に「我は日本人なり」との信念で
 心が満ちあふれてゐた
 また 極めて人なつっこく 愛すべき戦士だった
 いつも ハイハイと従順に
 自己の職責を全うした高砂兵
 今なほ
 呼び掛けてみたい気がしてならない

マダンからウエワク


二十師団が「ガリ転進」を終へ
「マダン」→「ハンサ」→「ウエワク」に敗走
この様子を元兵士が語る

昭和五十三年(一九七八)
 三月二十日
  聞き手 草賀類子
  語り部 小畑耕一

  私の余命も もういくばくもない
  今なら 何を話してもいいでせう
  こんな前置きをして話し始めた
  昭和十九年(一九四四)
   三月十日
    軍が「マダン」を放棄
   それから二ヶ月「ハンサ」は混乱
   五月十日
    マダンが敵の手に落ちた
    敵は ウエワクの先アイタペ・ホルランジアに上陸
    「ハンサ」は 連日連夜爆撃された
    爆撃のたびに
    三百人から四百人の死者が出た
    しかし 死体を埋めるための
    穴を掘れる人間はゐなかった
    片腕 片足のない兵隊
    死にかかった兵士が 歩いてゐた
    誰かが ミイラ部隊と呼んでゐた
    「ハンサ」は後方「ウエワク」と
    戦闘司令所のあった「マダン」と丁度中間
    物資輸送の拠点だった
    北に見える「マナム富士」は
    噴煙をあげてをり 風光明媚な場所で
    将兵の郷愁を募らせたが
    「ハンサ」は見る影もなく壊滅した
    我々二十師団は
    約三週間「ハンサ」にゐて
    一部は「舟」で
    大半は徒歩でセピックの河口を通って
    「ウエワク」へ敗退して行った
    この辺の湿地帯は凄く(底無沼)
    大木を倒して その上を歩くのだが
    いったん足を取られると からだが沈んでしまひ
    軍帽だけが浮かんで来る

    靴が なくなったら歩けない
    そこで 半死半生の兵から「靴」を奪ふ
    これは まだいい方で
    よろけ歩く兵を 強い兵が倒して
    靴を略奪することもあった

 昭和二十年(一九四五)には
   「人肉を喰ったものは死刑にする」
   こんな命令を出さなければならぬ
   事態にまでなってゐた
   
   自分の隣の兵を殺して喰ふ
   そんな状態にまで堕ちた

   しかし 軍は これを秘した

   将官が 部下に殺されて喰はれた
   こんな例は ざらにあった

   脱走兵がジャングルの中 待ち伏せして
   歩く兵を襲って喰った

   体の小さい同級生がゐた
   彼は 塩を作ってゐた
   ある日 彼を探しに行ったら
   河に彼の首が浮いてゐる
   わけを聞いてみると
   仲間が彼の作った塩を奪ひ 殺して喰ったといふ

   内地に帰って来た私には
   彼の遺族に会って
   そのことを報告する勇気はなかった
   吉原矩(かね)中将が
   戦闘司令所を作ったとき
   憲兵が
   一人の陸軍中尉を人肉を喰った疑ひで連行
   その中尉は 某大学医学部の教授
   取り調べの時
   どうせ死ぬ兵隊なんだ
   さういふ奴らを喰って
   敵が上がって来た時に闘ふのが
   何故悪いと豪語した
   結局彼は 死刑になった
   人肉問題は
   ニューギニア戦線の至る所であった
   連合軍も
   この問題を表向きにしたくなかった
   名誉の戦死と報告してゐる遺族に
   貴方の息子さんは敵に喰はれました
   なんて言へますか?
   
   しかし
   終戦と同時に 現場に踏み込まれ
   喰ひ散らかした死体が 発見され
   豪軍の記者に証拠写真を撮られた
   豪州の新聞には
   人喰人種と報道されてしまった

ガリ転進年譜


昭和十九年(一九四四)
 一月二日
  敵軍グンビ岬上陸
 一月十九日
  敵軍総攻撃敢行
   一回目 十五機
   二回目 二十五機
   三回目 反復延百樹で猛爆
  片山真一中隊長 敵弾受 他界
  部下 必死に抵抗するも屏風山にて玉砕他界
 一月二十二日
  ガリ転進部隊・ガリ出発
  堀江先遣隊を先頭に
   五十一師団 六〇〇〇名
   二十師団  六九〇〇名
   おほよそ  一三〇〇〇名
 二月十八日 マダン着 他界約四千

ニューギニア戦史


ニューギニア占領拠点
 ①ブナ        南海支隊
 ②ラエ・サラモア   五十一師団
 ③フィンシュハーヘン 二十師団

撤退
 ①ブナ    昭和十七年十一月下旬
 ②ラエ    昭和十八年九月十五日
 ③フィンシュ 昭和十八年十二月二十日

難関撤退地と他界者数
 
 ①オーエンスタンレー山脈・クムシ河 筏下り
   他界七七〇〇名
 ②サラワケット山越
   他界二二〇〇名
 ③ガリ転進
   他界四〇〇〇名
 ④ラム・セピック湿地帯
   他界五〇〇名

激戦地と戦死他界者
 フィンシュハーヘン 
  開戦 昭和十八年九月二十二日
  撤退 同年   十二月二十日
  他界 五五〇〇名
 
 アイタペ会戦
  開戦 昭和十九年七月十日
  撤退 同年   八月四日
  他界 一万三〇〇〇名

以下概略
ニューギニア戦史地図



①MO作戦
②ブナーポートモレスビー作戦
③ラエ・サラモア拠点
④フィンシュハーヘン拠点
⑤サラワケット山越え
⑥フィンシュハーヘン撤退
⑦ガリ転進
⑧ウエワク集結
⑨アイタペ会戦
⑩終戦

二十師団歩兵の記録


 二十師団は「フィンシュハーヘン」撤退後
 「シオ」を経て「キアリ」に向ふ
 「キアリ」では 五十一師団が
 サラワケット山越えを経て休息しながら
 二十師団の「キアリ」到着を待ってゐた
 二十師団は「キアリ」で休息する余裕もなく
 「マダン」までの転進路を歩く

昭和十九年(一九四四)
 一月二十二日
  ガリ転進始まる
  堀江先遣隊を先頭に
  五十一師団・二十師団が続く

  この転進で 医学で説明できない経験をした
  突然来る『冴え』を三度経験した
  ローソクが燃え尽きるとき
  一瞬明るくなるとか
  死の直前に ふっと病状がよくなる
  そんなことがあるといふ
  たとへ さうであらうと
  その『爽やかさ』が嬉しかった
  どこにも体力らしいものが 残ってゐないのに
  何かが湧き出て来る瞬間がある

  布一枚で全身を覆ふ兵がゐた
  全身に漂はせてゐる屍臭
  その兵が 軍医の所に来た
  軍医も 瞬間顔をそむけた
  布を取って 軍医は唸った
  どす黒い筋肉が カラカラになって
  その骨に付着してゐる
  その兵の左手は 完全に白骨となってゐた
  かういふことが 有り得るか?
  こんな状態で生きられるのか?
  医学で説明がつかない

  私は 奇妙な文明の利器を創案してゐた
  帯剣で穴を開けた飯盒の蓋『大根おろし』である
  木の芯 木の根
  すりおろせば 何でも食べらる
  日本人の知惠である
  ニューギニア戦を 最もよく語る物
  それは この『大根おろし』
  それは 木の根は 地下に潜る
  地下に潜れば地下の生活が 作られて行く
  何万人もの地下に潜る生活を
  木の根は 良く知るから…

  自分の力で苦難の道を突破した
  そんな思ひあがりはないが
  連日 砲爆撃を受けながら
  転進部隊を守り
  敵を一兵も通さなかった「片山中隊」
  大きな恩恵を受けてゐたことを
  後で知った
 三月十日
  待望久しい海岸に出た
  民家を天幕で囲った
  糧秣倉庫に着いた
  一人三合の米の配給
  三ヶ月ぶりの米に狂喜した
  海岸線は むちゃくちゃに叩かれてゐた
  ここもまた 崩れた肉体と 狂った神経が
  置き去りにされてゐた

  ぶつぶつつぶやきながら あてもなく彷徨ふ者
  廃屋に住みついて 異様に輝く眼を据ゑてゐる
  遂に「ハンサ」に着く
  ここから七十名の中隊と共に歩く

  ここでアイタペ作戦の噂を聞く

  『十八軍は絶望である
   究極にはセピック河上流に
   自活籠城するしかない
   現地物質は限度がある
   兵員を養へる量はない
   今度の作戦は 口減らしである』

昭和十七年
 十一月より
  ガダルカナル 十七軍
  ニューギニア 十八軍
 十八軍司令官「安達二十三」は
  絶望的な作戦であれ 何であれ
  兵士たちから
  ぶつぶつ文句が出ることはなかったが
  この流言だけは異様な重さがあった

アイタペ会戦
 七月十日 戦闘開始
 八月四日 撤退
  戦死他界 一三〇〇〇
  弾薬・糧食全て尽き果て
  「ブーツ」に撤退することになった
  七十名の中隊も 十数名になった



  敗戦から このアイタペ会戦を
  無意味とするのではない
  兵隊が 事前に作戦に懐疑的になってゐた
  これが異常なのだ
  命令に従順でなければ 戦争には勝てぬ
  容赦ない攻撃に対しては 容赦ない覚悟が要求される
  兵隊の感覚には
  意外に確かなものがあり
  流言の形で漂ってくるものにも
  真実の一面をついてゐることが多い
  
  アイタペ会戦後
  
  二十師団七十九連隊の場合
   四三二〇名  →約四〇名に激減
   七〇名の中隊→十数名
   口減らし作戦の実証である

終戦までの山村暮らし

 七〇名ゐた中隊は 今は十数名
 地面が乾いてゐればゴロ寝もできる
 からりと乾いた土地はない
 廃屋をあてにしても 宿れる身分でもない
 どしゃぶりの中で 木を切り倒し
 自然木を柱に 宿とする
 苛立ちながら 慌ただしく動く
 そんな毎日を繰り返してゐると
 化石の様に無感動になるか
 ある怒りに集中するしかない

 山へ進むべき方向だけが 示され
 帰着すべき処は 何も示されない
 そんな中 何かと行動を共にした
 田中曹長とは 何かの因縁か 一緒に歩いてゐた
 「ほっといて先行って下さい」と座り込むと
 黙って笑ってゐる
 とうとう一人になった
 さう思ってゐると
 二人分の芋を煮て待ってくれてゐる

昭和十九年八月下旬
 開放してもらった二軒の民家に
 装具を解いてくつろいだ
 自活の道を求めて
 山に籠り 再起を待つことにした
 場所は ニブリハーヘン
 酋長は日本名を「カトウ」と言ひ
 三十歳前後の男
 真っ赤な褌一本 ぴちぴちと動き
 テキパキ采配する
 「カトウ」は
 ワンテム・ウォーク(一緒に働き)
 ワンテム・カイカイ(一緒に食べる)
 と言って歓迎してくれた
 中隊十数名はここで世話になった

翌日
 中隊主力をニブリハーヘンに置き
 田中曹長と二人で「ヌンボク」に向かった
 二人だけで新しい城を築かうといふわけだ
 
 ヌンボクに着くと
 太鼓の通信で 連絡済みで
 みんな広場に出て 迎へてくれた
 ここの酋長は日本名「ヒンガシ」
 五十くらゐの男である
 床の高い民家を用意してくれた
 ここが
 しばしの「わが家」となった
 しばらくすると 田中曹長が
 ぶらぶらしてゐるより 
 「何か教へよう」といふことになり
 酋長「ヒンガシ」にもちかけると
 「ヒンガシ」も喜んだ
 
 二 三十人の子供が集まった
 地面に地図を描いて
 ニューギニア 日本を教へ
 東西南北を教へた
 子供たちは
 サンキュー・ベリーマシタとお礼の言葉を言ふ
 
 三ヶ月が過ぎてゐた

 日本に味方する原住民もゐれば
 敵軍に味方する原住民もゐる
 そんな敵に懐柔された遊撃隊に
 日本兵が 多数やられ始めた

戦史を振り返ると…
昭和十八年八月
 ナッソウ湾に 敵軍が上陸し
 ラエ・サラモアの五十一師団が
 敵軍に追ひつめられてゐた頃
 「絶対国防圏」が発せられた
 ・ラバウル
 ・東部ニューギニアの放棄である
 わかりやすく言ふと
 
 「絶対国防圏以外の地域には
  食糧補給もしないし 救援部隊も出動しない」

 つまり 現地で闘ふ兵隊は 現地に置き去りにされた

昭和十九年
 四月以降
  第四航空軍と第九艦隊は
  西部ニューギニアに転用された
  遊撃隊の日本兵殺戮が 頻繁に起こり始めた頃
  酋長「ヒンガシ」が私を呼び かう言った
  「スサメと一緒に寝てくれ」
  スサメといふ青年も
  屈託無く「一緒に寝よう」と言ふ

  今 思ひ返してみると
  遊撃隊の夜襲から守ってやらう
  そんな友情だったことがわかる

この温かい友情は 終生の思ひ出となってゐる
昭和十九年
 十二月初旬
  移動命令が出た
   酋長「ヒンガシ」も
   村落の青年たちも
   メリー(娘)たちも
   無邪気に見送ってくれた
 
 二週間歩いて
 パンケンブといふ村に落ち着く
 一個中隊全員が入れる大きな民家が提供された
 酋長は「オルセンバン」
 顔立ちのいい「ハムレット」がゐた
 「ハムレット」は 椰子の木陰のハンモックで
 静かに 
 ピジンイングリッシュで書かれた聖書を読んでゐた

 酋長の「オルセンバン」は この聖書を見せてくれた
 それは ピジンの学習に役立った
 
 二ヶ月が過ぎた
 
 生活を共にするにつれ 相互理解も深まる
 ・オハヨウ
 ・クンバンワ
 ・ゴクロンサンなど
 ことばに人間の英知を感じた

昭和二十年
 一月下旬
  出動命令下る
  「オルセンバン」は 途中まで送ってくれた
  「特別挺身攻撃隊」の編成があり
  中隊を離れ「特別挺身攻撃隊」に入り
  十国峠に向った
  戦闘開始は三月二十三日頃
  敵は 潰滅状態にあった
  日本軍の猛烈な反撃に狼狽
  遺体の収容もできなかった
 ある日
  誰それが死んだ 取りに行かう
  といふ怖ろしい言葉が交はされる
  「あの時 行かなくて良かった」といふ戦後の述懐は
  戦ひ 終はって聞いた切実な言葉

  恐らく食肉としての遺体を取りに行かう!
  さういふ掛聲に 思ひとどまった経験を
  良かったと言ってゐるのではなからうか
 
 それは
 一人一人の内的な自由の聲である
 一切の常識がなくなり
 新しい自分を作って行く時

 「権威あるものは 内なる良心のみである」

 続けて ウェーバーは言ふ

 「行動の正しさを求めるものは
  国家乃至英雄の様な被造物の命令ではない
  内なる良心の聲である」

 ニューギニア戦線
 生きようとして生きられるものでもなく
 死なうと思っても死ぬこともできぬ
 
 いよいよ絶望と思って椰子の木に背をもたせかけ
 拳銃を抜き自決を決意した将校がゐた
 銃口をこめかみに当て引き金を引いた
 不発だった
 二発目も引いたが これも不発
 これは何だと思ひ 
 三発目は上空に向けて放ってみた
 今度は 実弾が飛び出した

 将校は 
 この時 何物かの「生きよ」といふ意志を感じた
 
 ニューギニアの生還者は形は違ってゐても
 皆 そんな偶然によって生かされてゐたのではないか

昭和二十年
 五月
  出動命令下る
  田中曹長は「ヌンボク」に残り
  私は「カボエビス」の陣地に移った
  体力は どこにも残ってゐない
  ここで 田中曹長の惨死を聞いた
  もし あの時 ヌンボクに
  田中曹長と一緒に残留してゐたら…
  「カボエビス」では
  敵は 間断なく撃ち続けてくる
  しかし 威嚇射撃で
  ただ脅かすだけの撃ち方だった
  さう とわかれば気楽に対応できる
 「危険のあるところ救ひの力も育つのだ」と思ひ直し
 空を仰いだ

 中隊に紛れ込んで来た兵士が こんな話をしてくれた
 
  翼を広げると七㍍位のコウモリ
  四㍍位の大豚もゐた
  カラマンボ湖では 夜中の零時零分
  蓮の花が一斉に花開く
  開花の音は 機関銃の一斉射撃に似て居る
 
  体長二十㍍のワニや三㍍位のウナギもゐた
  蝶は 羽を広げると七十㌢
  途方もないスケールの動物たち
  こんな秘境の中に暮らしてゐた



  終戦直前の部隊配置である
  矢印は 敵の進撃路
  徐々に追ひつめられた軌跡
  私のゐた七十九連隊も わづか五名となってゐた
 八月十五日
  この頃 兵は約一万
  十八軍主力九三〇〇は「ヌンボク」を中心にして
  玉砕陣地と決めてゐた
  遠く南に離れたセピック河には
  二八〇〇の吉原中将のセピック兵団がゐた
  突然 敵陣地から「バンザイ」の聲が聞こえた
  われわれは「海行かば」を歌ひながら
  七十九連隊旗を葬った
 九月二十五日
  ボイキンの海岸で武装解除
  小銃・帯剣をドラム缶に放りこむ
  個人に帰った
  生き残った正確な人員 一一〇九七名
  一七万余の南方最大勢力が 今 ここに約一万
  ムッシュ島に送られた
 
  ムッシュ島では 食糧も配給されたが
  毎日 十数名が他界
  結局 ムッシュ島の病没者は 一一四八名に及んだ
 引揚げ船
  鹿島  昭和二十年十一月末
  高栄丸 昭和二十一年一月九日
  鹿島  昭和二十一年一月十一日
  酒匂  昭和二十一年一月十一日
  氷川丸 昭和二十一年一月二十三日
  鳳翔  昭和二十一年一月二十四日

 われわれ七十九連隊は
 航空母艦・鳳翔で帰還
 乗船すると 直ぐに
 握り飯と干からびたタクアンが支給された
 涙があふれた
 戦友たちも 皆 放心してゐる
 「米の飯を喰って死にたい」と言った
 亡き戦友の最期のことばが
 皆の心に しみてゐるからだらう
 しかし どこかで誰かが言ふ
 「どうしても喰へんなぁ」
 今 この贅沢が 涙となってあふれるのである
 帰国するまで 三度停船した
 祖国を前にしながら亡くなった人の水葬である
 毛布にくるまれた遺体が沈んで行く
 瞑目し 頭を垂れる
 無念の思ひが伝はってくる

昭和二十年
 七月二十五日
  十八軍に全軍玉砕命令が出た時
  一切の記録と書類は焼却された
  以下の記録は 残務整理の時
  個人の記憶を辿って作成されたもの
  正確な数字は 到底わからぬ

   部隊名   総兵員  生還者
   七十八連隊 五七二五 一一二
   七十九連隊 六一五一 九一
   八十連隊  五二五八 九〇
   
   七十九連隊の生還者九十一名
   しかし 敗戦の時
   連隊長は 生存者六十七名と言った

師団名   総兵員   生還者
二十師団  二三三八五→七八五
四十一師団 一九九六〇→五九二
五十一師団 二八八八八→二七五三

酋長のその後


 酋長 カトウ
 酋長 ヒンガシ
 酋長 オルセバン
 三人の酋長に世話になった
 そこには
 大酋長「カラオ」の恩恵があった
 カラオも 最後まで 日本軍のために献身してくれた
 それが 何かの利欲になるとは 到底思へなかった
 衰弱し 疲労したわれわれの姿に
 ただ同情しての協力であった様に 思はれてならない
 その後のカ「カラオ」について
 全く知るところなく過ぎた

昭和四十七年(一九七二)
 九州朝日放送で「カラオ」が
 悲惨な運命を辿ったことを知った
 「日本軍に協力した罪」で捕らへられ
 妻と息子二人が斬殺され
 カラオも三年投獄
 後 マラリアのため釈放
 現在 残された息子と二人で暮らしてゐると言ふ

 テレビ放送の後 数年を経ずして
 カラオの死亡を知った
 同時に 
 一般酋長で「処刑」された者もあるといふ
 「片腕切断」の酋長の写真も見せられた
 われわれのために
 死んだり 残酷な刑罰を受けた
 忘却しへないものがつきまとふ

 戦争は終はってゐない
 消えたと思っても どこかでまた 燃え上がる
 
 「知」だけが 突っ走って
 人間的な特徴が見失はれたら 暗闇の世となるだらう

 この「戦争の段階」を乗り越える力を
            人間は持ってゐると信じたい
        


幕末近代の萌芽

寛政四年(一七九二)


ラクスマンが国書を持って
日本との交易を求めて根室に来た
しかし
幕府は 丁寧に断り ロシアに帰す

この時 幕府は
入港許可書と誤認する『信牌』を
ラクスマンに渡してゐた

それから十数年後の文化元年(一八〇四)
二度目の使節・レザノフが
長崎に来航
交易を求める国書を持って来た
もちろん『信牌』も一緒に
しかし
幕府は 入港を認めなかった

レザノフ使節団は
 六ヶ月待たされた挙げ句
 居丈高な態度で帰された
 ペテロパブロフスクに帰った
 レザノフが
 この経緯を部下のフォストフに語ると
 フォストフは怒り
その報復として
・択捉島
・利尻島
・樺太の大泊 で暴れた
「略奪」と「放火」そして「拉致」であった

これを『露寇事件』といふ

文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月であった

フォストフは 人質を返す時
ロシア語とフランス語で書かれた
『一通の手紙』を 解放した人質に持たせた

しかし 当地では 和訳できる者がをらず
手紙は 長崎・出島に送られ
オランダ商館長ドウフが和訳した
こんなことが書かれてゐた

「ロシアとの交易を断れば
来春大軍で 日本全土を攻撃する」

これで 多くの日本人が「恐露病」にかかってしまった

文化八年(一八一一)
今度は 幕府が その報復として
北方四島の土地調査に来てゐたゴローニンを
国後島で 拉致・捕獲した
しかし ゴローニンは 賢者で牢屋暮らしであったが
現実は 松前藩の人にロシア語を教へ 客人扱となってゐた

文化九年(一八一二)
そのゴローニンの部下リコルドは その報復として
日本人五人を捕虜として 捕虜の交換を試みた
その捕虜の一人に
当時の有名商人高田屋嘉兵衛がゐた
嘉兵衛は ペトロパブロフスクに連行された

嘉兵衛も賢く
リコルドの日本人捕縛の意図を汲み取り

「フォストフが大暴れした後
 人質解放に持たせた手紙は 一軍人のもので
 ロシアの国家意思ではないと その旨を書き
 その事件を陳謝すれば 幕府も 理解し
 人質交換に応ずる」と説いた

リコルドは 嘉兵衛を信頼し
嘉兵衛の説く様に動き
文化十年(一八一三)無事 人質交換が成功した

その後 ゴローニンは 当時の様子をまとめて本にした
『日本幽囚記』である
文化十三年(一八一六)であった

この本で 高田屋嘉兵衛は 日本の英雄として
描かれてゐたが その理由は 前述の通りである

樺太事情


樺太は 当時 島ではなく 陸続きと考へられてゐたが
大陸と離れてゐることがわかった
間宮海峡の発見であり
それは 文化五年(一八〇八)

それから おほよそ四十年後
樺太北部の対岸 つまりアムール川の河口に
ロシアは

嘉永三年(一八五〇)に
 「ニコライエフスク」といふ町を作り

嘉永六年(一八五三)八月には
 樺太の「大泊」に軍事砦を作ってゐた

嘉永六年と言へば その頃は
 六月に ペリーが浦賀来航
 七月に プチャーチン長崎来航
 そんな時であった

フェートン号事件


文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月に「露寇事件」
 北方で ロシアが暴れ
 人質まで取られ
 解放された時には
 開国拒否したら「日本全土攻撃」
 こんな脅しを受けてゐた

文化五年(一八〇八)八月十五日
 フェートン号事件発生
 当時西欧は フランス革命で 大きく揺れ動いてゐた
 フランスは
 オーストリア・英・オランダに 宣戦布告
 オランダは 占領され
オランダ国王ウイレム五世も追放され
 オランダ国王の座には ナポレオンの甥である
 ルイ・ナポレオンが就いてゐた
 
 追放されたウイレム五世は イギリスと軍事同盟を結び  オランダの海外植民地を
 イギリスの管理下に置くことに同意
 そこで イギリスは
 オランダ領・東インドに イギリス艦隊を派遣
 ところが 
 現地のオランダ艦隊は イギリス艦隊の指示に従はぬ
 
 そこで イギリスとオランダが戦闘状態になった
 そのため
 長崎へのオランダ船の入港は 中断となってゐた
 そこにオランダ国旗を掲げた船が長崎に入港して来た
 
 オランダ商館長のドウフは
 その船を 怪しんだが
 そこは 長崎奉行には伏せてゐた
 
 オランダが今 フランスに支配されてゐることが
 幕府に知れると 幕府はオランダ以外の国と貿易をする
 それはオランダに不利益だった

 幕府の小舟が 近づき
 国旗の「旗合せ」をするが 不一致
 そこで イギリス軍艦は
 慌てて 
 小舟に乗船してゐた オランダ商館の蘭人二人を拉致

 小舟にゐた日本の二人の通詞は 海に飛込み逃げ帰った
 
 イギリス側は オランダ船が 長崎に逃げ込んだと
 拉致したオランダ人に 厳しく問ひつめたが
 二人は「オランダ船の入港はない」と答へ続けた
 そこで イギリス軍艦は
 ボートを出して 海岸近辺を探す
 
 この行為が 
 日本人には 上陸地点を探す行為に見えた
 
 そこで幕府の長崎奉行の松平は 守備役の武士を集め
 小舟でイギリス軍艦を囲み 松明を投げ込む戦闘を考へた

 ところが 拉致された一人のオランダ人が
 手紙を持って解放された

 手紙には かう書かれてゐた
 「解放したオランダ人に
  飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
  要求に応じぬ時は 
  もう一人の捕虜を殺害し
  日本船・唐船を全て焼き払ふ」

 この手紙を読んだ奉行松平は
 「法外之横文字」と激怒
 フェートン号の焼討実行に入る

 今では 学校も 役所も そして交番の看板も
 そして警察官の背中も 平気で横文字で書くが
 当時は 横文字を 
 「邪悪な文字」と見る風習があった

『以呂波問瓣』著者體認(たいにん)は かう語る
 オランダなどは
 皆悉く横文字の国なり
 梵字漢字 一向に通用せず
 儒道も知らず 仏道も神道も無し
 仁義も因果もなく 畜生の如くなる国なり

こんな自国の文字への自負心が あったためだらう
奉行・松平は「法外之横文字」に 侮蔑されたと憤り
先頭に立って 焼き討ちを進めた

この奉行の憤りを見て
ドウフは このままでは部下が殺されてしまふとみて
奉行・松平に
「飲料水」と「食糧」を イギリス艦に送ることを懇願

奉行も ドウフの気持ちを汲んで
解放されたオランダ人に
「食糧」と「飲料水」を持たせて帰艦させた
この時ドウフは 奉行の許可を得て
牛二頭・豚などを艦に送った

夜になって 帰艦したオランダ人と
艦に残されたオランダ人の二人が解放された

翌一七日
役人が フェートン号に赴くと
イギリス側は
「要求した水・食糧が足りない!
一品でも足りぬ場合は 港を出ぬ」
さう 威嚇して来た

この態度に 奉行松平が再び憤り
小舟で軍艦を囲んで松明を投げ込む軍艦の焼討ちを急いだ

しかし 午後になって風が吹くと
フェートン号は 動き出し 湾外の外に出て
水平線下に姿を消した

奉行松平は 地団駄を踏んで口惜しがったが
憤りを秘めて家来をねぎらひ
その夜に 酒宴を開いた

すると 深夜 生垣の近くで 
腹を切り 喉元深く突き刺して
自刃してゐる松平が発見された

幕府あての書状が残されてゐた
そこには かう書いてあった

事件の経過が書かれ
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたことを申し訳なく切腹する

幕府の対応


「北方」と「長崎」の警備の増強
通詞たちには
「ロシア語」と「英語」の習得を急がせた

英語の教授は
オランダ商館長・次席ブロムホフが担当
習った通詞たちは
文化七年十二月(一八一〇)
 『諳厄利亜語和解』一冊
  「あんげりあごわげ」
文化八年二月(一八一一)
 『諳厄利亜語和解』二冊・三冊
同年九月(一八一一)
 『諳厄利亜興学』十冊
文化十一年(一八一四)六月
『諳厄利亜語林大成』日本初の英和辞書が出来た

日本初の英語辞書の概要


品詞分類は 以下

      江戸時代  現代
静詞    名詞
冠詞    同
代名詞   同虚静詞  形容詞
動詞    同形動詞  副詞
接続詞   同所在詞  前置詞嘆息詞  感動詞
・単語は六千語
・ABC順に並べられ
・発音と和訳が記されてゐた

時代は 十数年前に遡る

ラクスマン来日


寛政四年(一七九二)
 来日目的
  ①漂流民の返還
  ②日本との交易
 漂流民は
 天明二年(一七八二)十二月
  紀州白子浜(鈴鹿市)を出て
  遠州灘で大風に遭ひ漂流した
  「紳昌丸」の乗組員十七名
 帰還時 生存者五名
  ・光太夫(船頭)
  ・磯吉
  ・小市 の三名が帰還
 生存者残り二名は ロシアで改宗して
 ロシア・イルクーツク残留
  ・庄蔵と新藏であった

 庄蔵は 途中 凍傷で片足切断
 病院に入院中
 帰国の夢を抱へ続けることは
 有り得ぬことを夢見る妄想と悟って 改宗・現地残留
 
 新藏は
 仲間の埋葬を引き受けるも 改宗者以外は 野ざらしで
 棺桶も売ってくれないことから
 仲間の埋葬をきっかけに改宗

漂流の足跡は以下

・白子浜出港 遠州灘漂流始
 七ヶ月漂流
 漂流中 幾八  他界 一

 アリューシャン列島・アムチトカ島
 原住民とロシアの孤島支配者と共に 四年暮らす
 この間に
  磯吉の父三五郎 他界 二
  次郎兵衛    他界 三
  安五郎     他界 四
  作次郎     他界 五
  清七      他界 六
  長次郞     他界 七
 
 この頃
 エト・チョワ=「これ 何?」を覚え
 ロシア語を 皆で 覚え始めた
 スパシーボ  =「ありがたう」
 ヤッポンスカヤ=「日本」
 ダー     =「はい」

 藤助      他界 八
 光太夫は 七つの木標を立てた
 お墓である

カムチャッカ東岸に到着


アムチトカ島に
孤島勤務交代の船来るも座礁沈没 
そこで ロシア人・日本人協力して 船をこしらへ 出港
めざすは「カムチャッカ半島」まで

おほよそ一月の船旅だった

上陸すると 役人が来て 宿泊所が 用意されてゐた
着いて半年後
 与惣松     他界 九
 勘太郎     他界 十
 藤藏      他界 十一

日露の混血児


藤藏の埋葬を終へ 宿に帰ると…
「日本人 おいでか」
明らかに 日本語である
尋ねてみると…
『父は 下北半島の南部生まれで多賀丸の船乗りでしたが
 漂流して 千島の孤島に漂着
 そこで ロシア人に保護され カムチャッカに来ました
 父は 帰ることができず 私の母と夫婦になり
 子供三人 つまり私と妹の二人が さうです
父は もし自分が死んだ後に 日本の漂流民が来たら
 言葉が通じなければ 話せない
 その時のために お前たちに 日本語を教へておく
 さう 言って 毎日 日本語を教へてくれました
 父は昨年の春 亡くなりました』

その妹エレナと磯吉が恋仲となる
光太夫は
磯吉が 恋心に負けて「カムチャッカに留まる」
さう 言ひ出すことを心配した

カムチャッカの役人・カピタンは
漂流民をオホーツクまで連れて行く様に言はれてをり
光太夫は
その出発の準備を 促されてゐた

光太夫は 生き残った新藏や庄蔵
そして 磯吉 小市 九右衛門に
集合場所を伝へて 出発を待った

磯吉が心配だったが
磯吉は 集合場所に来た
どうしても 日本に帰りたい
その気持ちが勝ったのだらう

オホーツクまでは
 カムチャッカ半島北部を
 東から西に横断して「チギリ」へ行く
 そこから船で 海を渡って
オホーツクの港町に着く

船には
 カピタン一行 十五名
 漂流民    六名
 乗客     約八十名

オホーツクは
カムチャッカ・チギリとは
全く異なる町だった

港には 大小多くの船があり
人家も二百戸ほどあり
家も がっしりとしてゐた

上陸すると役人がやってきて
「ヤクーツクへ行く」と言ひ
 
 光太夫に 銀三十枚
 船乗りに 銀二十五枚を渡し
 旅館で体を休め 旅装を整へるやうに指示された

ヤクーツクまでは馬車の旅だった

そこは 恐るべき寒さだった
ロシアで最も寒い地で
耳や鼻が壊死して落ち 頬なども腐って脱落するといふ

ここでも到着すると 役人が来て
直ぐに 宿に案内してくれたが
「イルクーツクに行って下さい」と言はれた

出発は 一ヶ月後の十二月だった

イルクーツクに行くには
キビツカといふ名の幌馬車の「幌」が必要で
「キビツカが無ければ凍え死ぬ」と言はれ
百枚の銀貨が渡された

光太夫たちは「キビツカ」に乗込み
イルクーツクへ 向った

イルクーツクに到着する前
庄蔵が凍傷になった
オリョクマといふ町で 医者に診てもらひ 応急処置
三日休んで 出立

庄蔵の足の痛みが激しくなり
キリギといふ町で休息

光太夫は 庄蔵に
「ここで春まで静養し
 治ったら イルクーツクまで来い
 今のままでは 一緒の旅は無理だ」と諭すも
庄蔵は泣いて拒んだ

光太夫が 何度も何度も諭したが
庄蔵は それでも一緒に行くと言ひ張り
結局 庄蔵も 皆と一緒に イルクーツクに出立

イルクーツク
人家三千戸もある大きな町だった
同行してゐる役人が 役所に入り
出て来ると イルクーツクの生活費として
 一日  銅貨五枚
 一ヶ月 百五十枚 を月の初めに渡すと 言った

この後 光太夫は 役所に行き
庄蔵の治療を頼んだ

役所は 病院を紹介してくれた
そこは治療費を払へぬ貧しい病人を
皇帝に任命された官医が 一般の患者同様に
治療を受けられる施設だった

光太夫は 直ぐに
江戸の小石川の薬園中に設けられた養生所と同じだと思った
吉宗時代に 小川笙船(しょうせん)といふ医家の
建言を取入れて 建てられたもので
費用一切は 幕府が負担してゐた

庄藏は この病院で足を切断
療養に 長い時間を要したが
最後は 義足で歩ける様にまで回復してゐた

ある日 
カムチャッカからオホーツクまで同行してくれた
役人カピタンが 訪れた

「イルクーツクまで仕事に来た」と言ふと
光太夫は「日本に帰りたい」と言った

カピタンは そのためには
政府高官に働きかける必要がある
それには 
その方面に知人の多い「キリロ」が相応しい といふことで
イルクーツクの有識者「キリロ」を紹介してくれた

後に 
光太夫たちを日本に送還したアダム・ラクスマンの父である

このキリロ・ラクスマンの助力で
光太夫たちは 日本に帰ることができた
以後は 帰国許可の経緯である

帰国願書


願書作成手順
 光太夫が 漂流の経緯を語る
 キリロが それを記述して
 帰国願書を書き上げる
 それを光太夫が自筆した

提出先
 初めはイルクーツク省・長官

キリロは 必ず上手く行く
光太夫を さう励ました
返事を待ってゐる時
日本語を話すロシア人三人が訪れた
三人の素性は
 父 宮古町の久助 ①
 父 南部の三之助 ②
 父 南部の長松  ③

三人のロシア名は それぞれ
 ①トラペズニコフ
 ②タタリーナフ
 ③セメノフ

日本語のレベル
 ①日本語上手
 ②③ 片言の日本語

トラペズニコフの話


四十五年前の延享元年(一七四四)
 船 ・多賀丸 乗船員十八名
 漂流場所不明
 漂着・オンネコタン島
 漂流中 七名 他界
 上陸後 船頭 他界
 生存者 十名

 カムチャッカに連れて行かれ
 イルクーツクに移送され 落ち着く
 イルクーツクには「航海学校」があり
 その中に「日本語学校」があり
 その十人は 
 皆 日本語学校の教師になるも
 やがて 次々と他界

 その教師の中の日本人三人が
 この地で結婚 子供に恵まれました
 私たち三人です
 今日 お伺ひしたのは
 (久助の妻 つまり)
 私・トラペスニゴフの母が
 どうしても 父の仲間に会ひたい
 会って ご馳走したい

 こんな話を持ちかけて来た

光太夫たちは喜んで その招待を受けた
トラペスニゴフの母は かう言った

「久助は 優しく
 私と子供たちを愛してくれた
 酒を呑むと よく日本の歌を歌ってゐた」

楽しい 食事会だった

数日後 光太夫は 考へた
何故 久助は 日本に帰らなかったのだらうか
それは 帰国願書を 出さなかったから だらうか…

光太夫は この質問をぶつけてみた
トラペズニコフは かう言った

「確かに 父は帰りたがってゐました
 しかし その願ひが 果たせなかったは
 父だけではありません
 九十年前初めて来た人は『伝兵衛』
 彼も日本語を教へ 改宗し
 ガブリエルの名を戴きました

 次は 三右衛門
 彼も洗礼を受け イバンと名乗り
 伝兵衛の助手として働きました
 やがて 二人とも 他界
 日本語の教師がゐなくなった時
 今度は ソーザとゴンザといふ二人の漂流民が来ました
 
享保十三年(一七二八)
 若潮丸は 大阪へ向けて薩摩を出港
 その後漂流し カムチャッカ半島に漂着
 ソーザは 宗藏 三十五歳
 ゴンザは 権蔵 十一歳
 ヤクーツクを経て 首都・ペテロブルグに送られ
 女帝アンナと 会ふ
その後 神学校に入れられ ロシア語を本格的に学び
 二人は 日本語学校の教師に…
 その年に 宗藏 他界
 教師は権蔵一人となりましたが
 ロシア語に 熟達し 校長ボグダノフと共に
 世界初の『露日辞典』を作成
 その権蔵も 二十一歳で他界
 その後 日本語学校は 教師不在のまま
 校長ボグダノフの尽力で存続
 六年後「多賀丸」の漂流民が
 日本語教師となりました 私の父・久助です」

光太夫は 怖ろしくなった
ロシアに漂流した者は
全て改宗させられ 帰国の望みを断たされ
日本語教師にさせられ この地で 生を終へる

光太夫は 心の中で叫んだ
「違ふ!」 
彼らは帰国願書を提出せず
ロシアの言ひなりに暮らしたのだ
私たちには キリロがゐる
キリロが帰国願書を 皇帝に届けてくれる

さう 思ひを強くした頃
キリロと光太夫が
イルクーツク省・長官に呼ばれた

帰国嘆願書の返書は以下

 帰国のことは思ひとどまり
 オロシア国にて仕官すべし
 生活は十分に配慮する

光太夫が
「断じて承知できません」と言ふと
長官は すかさず
「改めて帰国願を出しますか」
キリロは
「その様にして下さい」
かう 返答した

再度の帰国願作成手順は以下
 ①光太夫が強い帰国の願を述ぶ
 ②それをキリロが書く
 ③長官とキリロが清書し
 ④光太夫が 最後に署名する

かうして 二度目の帰国願が出来た
しかし 一回目の帰国願が
却下されたことを 聞いた庄蔵は
帰国の望みを抱いてイライラ暮らすより
平穏無事に その日その日を暮らす
それだけでいい
さう 言って改宗を覚悟したその頃

二度目の帰国願の返書が来た
今度は
キリロだけが長官に呼ばれ
光太夫は キリロから以下の話を聞いた

 仕官を承知するなら 初めは下役人だが
 カピタンまで優先昇進させる 
 仕官する意思がないのなら 商人になればいい
 必要な資金は提供するし 税金も免除する

光太夫は キリロに
「ありがたうござゐます」と言ひ
直ぐに 続けて かう言った

「私たちは 仕官にも商人にも なる気はありません
 たとへ どのやうな高官にとりたてられ
 豊かな商人にならうとも
 故国へ戻ることの方が 幸せなのです」

これを聞いたキリロは
黙って 書面を書き出した
三度目の帰国願である
キリロが 光太夫に見せた
そこには

 どのやうな高官 または富裕の身にして下さるより
 自分にとっては
 帰国を許してくれることが最大の恩恵だ

光太夫の思ひが そのまま綴られてゐた
光太夫は その帰国願に 直ぐに署名した

直ぐに ロシア政府の報復があった

いつもの様に 毎月の生活補助金を
役所に 磯吉が受け取りに行くと
「生活補助金の支給停止」と言はれた
役人に 詳細を問ひただすと
光太夫たちが 政府の回答を拒否した時
「生活補助金の支給を停止せよ」
こんな通達が来て居たと言ふ

慌てた光太夫が キリロを訪ぬと
キリロは
「心配 要りません
 私が 生活費を保障します
 負けてはいけません
 必ず良い報せがある
 その日を あなたたちと共に 私は 待ちます」と言った

しかし 三度目の返書は来ない
十一ヶ月経っても 返事が来ない
役人が 自分の手許に置いて
皇帝の眼に届いてゐないのでは…
キリロは さう思った
「皇帝に直訴しよう」
キリロは 光太夫に さう言った

光太夫が 直訴を決意した頃
六十歳の九右衛門が 病に倒れた
直訴出立の二日前だった
そこで 光太夫は 葬儀の手配を 新藏に任せ 都へ急いだ

ペテルブルグ


一月十五日 イルクーツク出立
二月十九日 ペテルブルグ着

キリロは 知り合ひの外務大臣代行・陸軍元帥に
四度目の「帰国願書」を手渡した

しかし 返書は来ない
さうかうしてゐるうちに
皇帝は 避暑のため
「ペテルブルグ」から「セロ」に移り
九月にならぬと帰って来ないと聞く

光太夫は 
「イルクーツクに戻りたい」とキリロに伝へた
キリロは
「避暑地のセロに行かう」 さう 励ました
光太夫は「もういいです」
キリロは「諦めてはいけない」
キリロは 光太夫を諭した
二人は 避暑地「セロ」に出立

五月八日であった
セロに着いて 直ぐに
キリロの知人ブシと会ふ
ブシは 皇帝から厚く信頼された花園の管理人だった
キリロは 直ぐにブシに 事情を説明した
成り行きを理解したブシは
 
 「皇帝に 光太夫からの願書を
  採り上げでもらふ様に働きかける」

さう約束した

六月になった
願書の返事は 未だない
光太夫は イルクーツクに戻りたい
さう思ってゐた
帰国願望も 弱くなってゐた

六月二十八日
 ペテルブルグで
 四度目の願書を受け取った外務大臣代行・陸軍元帥が
 避暑地「セロ」に来て
 経過を女帝エカテリーナに報告
 女帝は「直ちに参内させよ」
 さう 言った

ブシの家に戻ったキリロと光太夫は
女帝との拝謁(はいえつ)の作法を練習した

数日後
ブシの家から 避暑地の宮殿に馬車で向った
馬車を降りて 宮殿の中に入ると
願書を届けてくれた外務大臣代行と商務大臣の二人が
迎へてくれた

二人に先導される様にして
その後を 光太夫とキリロが歩いた
大きな階段の両側には
四百人ほどの男たちが立ってゐた
光太夫は 一人で階段を昇り
教へられた通りの作法の後 後ずさりして階段を降りた

女帝
「この書は誰が書いた? 定めしキリロであらう」
キリロは 頭を下げ
「仰せの通り 私でござゐます
 こちらの光太夫の申すままを書きました」

秘書官が近づき
光太夫に事情の説明を促した
光太夫は ゆっくりと かう言った

「白子浜を出て 暴風雨に遭ひ漂流
 七ヶ月の漂流中一名他界 
 そして ロシア領のアムチトカ島に漂着
 孤島に出張してゐたロシア商人に
 保護されましたが
 風土と食物になじめず 七名他界
 後に カムチャッカに移送されましたが
 そこでも三名が他界
 半島横断後 
 チギリからオホーツク
 そして ヤクーツク・イルクーツクに移送
 この途中 仲間の一人が凍傷になり
 イルクーツクの病院で 片足を切断

 私こと光太夫が キリロと二人で
 ペテルブルグに向ふ直前
 そこでまた仲間の一人が 他界しました
 日本を出ました時は十七人でしたが
 今は 五人となりました」

女帝は「オホ・ジャウコ」と言った
    可哀相に といふ意味である

光太夫が 後で知り得たことだが
「帰国願」は
元老院の政務次官のもとに止められ
皇帝には届かなかった
願書を止め置いた政務次官は
七日の謹慎処分を受けてゐた

女帝エカテリーナは
「イルクーツクで旅の準備を整へ
 港はオホーツクにせよ」と
イルクーツクの省・長官に指令した

後日 商務大臣は
女帝から餞別の下賜の命を受け
光太夫を屋敷に招いた

下賜一覧
 光太夫には…
  金メダル
   このメダルは ロシアで
   格別の勲功があった者にしか下賜されぬ名誉あるもの
   過去に二人 賜った者がゐる
   一人は 花火師
   もう一人は 九年かけてアメリカ一周をした航海士
   このメダルを首にかけた者は
   ロシア本国では 最高の栄誉を以て迎へられる
  自鳴鐘(時計)
  金貨 百五十枚

 小市と磯吉には…
  銀メダル
 小市・磯吉・新藏・庄蔵に…
  各々金貨五十枚
 帰国までの生活費として
  光太夫 銀貨  ・九百枚
  他四名 各々銀貨・三百枚
 さらに
  光太夫に 帰国三人分として
   馬車等帰国費用 銀貨・三百枚
   帰国食事代   銀貨・二百枚

光太夫は
女帝の温情の深さに感動した

故国への旅


問題は 庄蔵と新藏だった
改宗したために 帰国不可
しかし 黙って帰ることもできない
新藏は 冷静冷淡な所があるので
恐らく 話しても大丈夫

問題は 庄蔵だった
庄蔵の改宗は
本来は帰りたいが 帰れない
どうせ帰れないなら ロシアで気楽に過ごせばいい
こんな選択からの改宗だった
だから 磯吉も小市も
庄蔵に 自分達の帰国決定は 言へなかった
そこで 光太夫が
帰国出立直前に 庄蔵に伝へることになった

その日が来た 光太夫は
「いとまごひに来た
 私(光太夫)と磯吉と小市は
 今日出立する
 お前と新藏は改宗したので 連れて行くわけにはいかん
 お前が気の毒で 私も辛い
 いつまでも達者に居てくれ
 ここで別れたら二度と会へない
 互ひに 顔を良く見ておかう
 お前の顔を決して忘れない
 達者でな」と言って
逃げる様に 庄蔵の借家を出た

背後に 庄蔵の気配を感じた
突然 野獣の様な叫び聲が聞こえた
光太夫は 走りながら振り返った

路上に出て来た庄蔵が
片足で跳ねる様に追ひながら
「連れて行ってくれ おれも帰る」
子供の様に 大きな聲をあげて
泣き叫んでゐる
庄蔵は 倒れては起き上がり
泣きわめいて追って来る
庄蔵が哀れで
光太夫の 眼から涙があふれ出た
頬に流れる涙もぬぐうことなく
光太夫は 走り続けた
庄蔵の聲が 耳について離れなかった
光太夫は 嗚咽(おえつ)した

新藏との別れ


新藏には 出立の日を
予め小市が 帰国を手紙で伝へてゐた
予想通り 
新藏は 動揺することなく 冷静であった

出立の日
小市と磯吉が荷馬車で走ってゐると
後から新藏が 馬でついて来た
いつまでも ついて来るので
「もう 戻った方がいい」と磯吉と小市が言ふも
新藏は
「もう少し…」と言ってついて来る
仕方がないので 二人は馬を止め
「ここで別れよう」と言ふと
新藏も 馬から降りて
「ここから引き返す」と言った

その時 突然 新藏から
うっ といふ呻き聲が漏れ
はじける様な泣き聲をあげ
磯吉に しがみついて来た

激しい泣き方で 幼児の様に 磯吉の体をゆする
磯吉は 黙って新藏の背中をさする
磯吉も小市も 涙が止まらなかった
「体に気をつけてな」
「冬の寒さに負けるなよ」
互ひに手を振りながら別れた
約束の地点で 光太夫と合流し
三人で オホーツクまで急いだ

ロシア使節団


オホーツクに着くと
キリロの次男「アダム・ラクスマン」が
三ヶ月も前から この地に来て
旅仕度を整へ 待ってゐた

船名 エカテリーナ号
形  商船
通訳 トラペズニコフ
    多賀丸・久助の長男
   トゴルコフ
    トラペズニコフの本語学校の教へ子
団長 アダム・ラクスマン 
    二十六歳 陸軍中尉
水先案内人
   シャリバン
交易準備
  ロシアの商人一団
  (総員四十二名であった)


寛政四年(一七九二)
 八月九日
  オホーツク出港
 九月三日
  根室近辺到着
 九月四日
  松前藩主張役所・根室上陸
 十一月五日
  船上寒さ厳しく
  許可得て 陸に仮小屋建築
寛政五年(一七九三)
 三月十二日
  ロシア船員一人  他界
 三月二十三日
  松前藩 鈴木熊藏 他界
  熊蔵は
  ロシア人から 温かい人柄で好かれてゐた
 四月一日
  ロシアとの交渉の幕吏到着
  その夜 小市意識混濁状態
 四月二日
  夜明け近く 小市 他界
  根室に
  「伊勢国白子浦水主小市」と書かれた木標を立てる
 四月四日
  幕府…ここで漂流民受取り
     即刻 使節団ロシア帰港を希望
  アダム・ラクスマン…
   女帝の命にて 漂流民返還
   よって
   軽い身分の者に漂流民を渡せないと主張
  
  結局
   「松前藩」にて漂流民受取決定
 五月三日
  エカテリーナ号先導役の幕府の船が到着
 六月九日
  二船・箱館入港
 六月十一日
  箱館から陸路で松前に向ふ
  おびただしい数の警備がつき
  大名行列の様な総勢四二〇名の大行列となった
 六月二十一日
  松前藩浜屋敷にて第一回会談
  ラクスマンの主張
   漂流民を届けた際に
   日本との友好協約締結を希望
  幕府…終始無言
 六月二十四日 第二回会談
  日本との通商を求むなら
  長崎に赴くように告げ
  長崎に入港する「許可証」を与へる用意がある
  と言った
 六月二十七日 第三回会談
  幕吏  石川将監・村上大学
  ロシア アダム・ラクスマン
  幕府側
   漂流民二人受取証書と
   入港許可書『信牌(しんぱい)』を渡す
  ロシア側
   大鏡二個
   ピストル二挺
   寒暖計二個 を幕府に進呈
 七月十六日
  ロシア使節団 箱館出港

ーーー当時の様子ーーー
安永七年(一七七八)
 ロシア船 根室に来航
 交易求むも 幕府拒否
 ロシア船には
 日本語学校の日本人教師から
 日本語を習ったロシア人通訳もゐた
 ロシア船は そのまま去った
安永八年(一七七九)
 根室と釧路の間 やや釧路よりの
 厚岸(あっけし)に来航
 交易を求むも 幕府は再び拒絶
ーーー     ーーーー

こんな時に ロシア事情に通じ
ロシア語も身につけた二人光太夫と磯吉が帰国
対露交渉に欠かせぬ重要人物だった
だから 幕府は
江戸までの道中 役人が毒味までして二人を守った

寛政五年 江戸へ

七月十六日
 光太夫一行 津軽海峡渡る
八月十七日
 江戸の入口 千住宿に着く
 奉行所の取調べが終はると
 雉子橋外の長屋に運ばれた
 十畳の座敷に 別々に入れられた
 窓は全て板が打ち付けられ
 同心が昼夜警護にあたってゐた
九月十八日
 江戸城内・吹上御物見所の
 白州に導かれ 問答を受けた
 質問者は
 ・桂川甫周(ほしゅう)
 ・高井清寅(きよとら)

その後 桂川甫周が たびたび
光太夫を訪ねては 質問をつづけ
それが 厖大な記録となり 
後に『北槎聞略』としてまとめられた
今は岩波文庫で読める

寛政六年(一七九四)七月一日
 二人は 奉行所に出頭
 今後の処置の申渡し書が
 読み上げられた

 「光太夫四十四歳 磯吉二十九歳は
  オロシアに渡って
  長年苦難に遭ひながら
  帰国したことは『奇特成志』(きとくなるし)
  その苦労に対し
  光太夫に 金三十枚
  磯吉に  金二十枚 を下賜する」

つづけて
 一 漂流民は帰還すると 故郷へ戻すのが習ひだが
   二人は江戸に留まる様にせよ 
   宿所は 番町の薬園内にある住居とする
   月々の生活費は 
   光太夫に金三両 磯吉に二両とする
 二 両人とも思ひのままに妻帯し
   安楽に暮らすが良い 薬園に住むとはいへ
   植物の世話は 一切しなくてよい
 三 赤人の国(ロシア)の様子を
   みだりに人に話してはならぬ

二人は 右の申渡しを受け
その日の内に 六畳三間の薬園の住居に移った

念願の帰国を果たすも
根室で 他界した小市にも
同等の扱ひをすべきとの聲多く
小市の妻「けん」には 銀十枚が下賜された
蘭学者の桂川甫周は 「北槎聞略」をまとめた後も
光太夫のもとを訪れた

ある日 甫周は 光太夫に
「大槻玄沢の蘭学者たちの
 芝蘭堂(しらんど)新元会と称する会に
 正賓として出て欲しい」と言った
開催日は
寛政六年(一七九四)閏(うるう)十一月十一日
西洋暦では一七九五年一月一日
会場は 大槻玄沢の家塾・芝蘭堂
ナイフとフォークが用意され 酒も 葡萄酒が出された

寛政七年(一七九五)
 光太夫四十五歳 磯吉三十歳
 この年 周囲の勧めもあって
 光太夫は 十八歳の娘「まき」を嫁として迎へ入れた
 翌年 磯吉も 嫁をもらった
寛政九年(一七九六)
 「まき」が 男子を産む
 光太夫は 名を亀二郎と名づけた
寛政十年(一七九八)十一月二十八日
 故郷若松村の亀山藩が帰郷許可
 しかし 滞在期間は三十日
 磯吉は 故郷「若松村」に出立
 七十五歳の母は
 磯吉にしがみついて泣く
 磯吉は そこで父三五郎の死を詳しく語る
 妹たち 知人親類も 駆けつけ
 その日の酒宴は 夜まで続いた

一方 光太夫のもとには
ロシア語習得を願ふものが よく 訪れてゐた
ロシア地図の作成にあたってゐた幕府天文方の間重富も
その一人であった

文化二年(一八〇五)
 ロシアから帰国した漂流民が
 江戸に入り 市中の話題となった
 前年の文化元年(一八〇四)に
 来日したロシア使節レザノフの
 乗る船で帰国した四人だった

寛政五年(一七九三)十一月二十七日
 船  若宮丸
 出港 陸奥国石巻
 船乗 十六名
 漂流 五ヶ月
 漂着 アリューシャン列島
寛政七年(一七九五)
 ロシア人の保護を受け
 オホーツクからイルクーツクに移送
聞き取り役は
 光太夫たちは 桂川甫周だったが
 若宮丸船員は 大槻玄沢だった

しかし 帰還した船乗りたちは
光太夫たちの様に「ロシア語」に精通してゐなかった
そのため
彼らの漂流生活は詳しくわからなかった

そこで大槻は 厖大な聞書の校閲を 光太夫に頼んだ
光太夫は 快く引き受けた
大槻と二人で記録の細部にわたって 一つ一つ検討した

庄蔵と新藏


イルクーツクの生活記録に
日本語通訳のトゴルコフの家で世話になった とあった
トゴルコフは
漂流民久助の長男トラペズニコフの日本語学校の教へ子で
一緒に 根室に来た通訳だった

光太夫は驚き 記録を読みすすめた
記録によれば

トゴルコフの勧めで
漂流民二人が 改宗
これを不快に思った儀兵衛は
二人と別れ 庄蔵の家に移った
庄蔵は 病身で 儀兵衛と同居した年の夏に他界
儀兵衛が看取ったといふ

新藏の名も出て来た
新蔵は「日本語学校の教師」になってゐた
若宮丸の漂流民は
新藏について「怜悧」と表現
冷たい人柄と感じてゐたのだらう

光太夫の活躍


文化元年(一八〇四)
 幕府は
 ラクスマンに渡した入港許可書「信牌」を手にした
 ロシア使節レザノフの入港拒否
 これによって ロシアとの関係は悪化
 
 これより 光太夫のもとに 語学の才に長けた者が
 以前より頻繁に訪れる様になった
 通詞・馬場佐十郞もその一人だった
 彼は 幕府の命を受けてロシア語を習ひに来てゐた
 馬場は
 「ロシア語短文集」をまとめた
 そこには一四〇〇の単語があった
 洋学者・足立左内も習ひに来てゐた

○露寇事件

文化元年(一八〇四)
 若宮丸の漂流民が返還された
 その二年後
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月に
 ロシアは
 樺太・択捉・利尻島を襲った
 これは 明らかに 幕府の
 ・入港拒否
 ・通商拒否 の報復だった
 
 人質解放時には
 「通商拒否すれば日本全土攻撃」
 こんな脅しの手紙も送られて来た

文化八年(一八一一)
 北方海域調査に来たゴローニンが
 国後島にて 薪・水補給を求む
幕府はこの時 ゴローニンら捕縛拘留
文化九年(一八一二)
 部下の「リコルド」が
 国後島に来て ゴローニン返還要求するも
 幕府 拒否
 リコルド 報復として 高田屋嘉兵衛ら拿捕

文化十年(一八一三)五月
 高田屋嘉兵衛を釈放し ゴローニンの釈放を要求
 幕府 露寇事件の謝罪と略奪品の返還を要求
 「リコルド」了承して退去
同年九月
 人質解放交渉のため「リコルド」箱館入港
 通訳 馬場佐十郞
    足立左内
通訳の二人は 前述した様に
光太夫の宿所に訪れ ロシア語を習ひに来た二人だった
 日露交渉は 順調に進み
 ゴローニンは 解放された

文政十一年(一八二八)
 四月十五日 光太夫 他界
 七十八歳 本郷の興安寺に眠る
天保九年(一八三八)
 十一月十五日 磯吉 他界
 遺言により
 磯吉 本郷の興安寺に埋葬
 七十三歳であった

嘉永四年(一八五一)
 五月二十二日 亀二郎 他界
 光太夫の息子・亀二郎は 学識を備へた学者となり
 姓を大黒とし 号を梅陰とした
 同じく 興安寺に眠る 五十五歳であった

原作 吉村昭『大黒屋光太夫』
詩文 岩田修良
打語 天地之詞(和式入力)
日付 令和六年八月九日


コロナ騒擾に学ぶ
○和ブログ

「コロナ騒擾」を振返り 次に来るウィルス感染に備へる

 一 mRNAそのものの問題(m=メッセンジャー)
 二 mRNAを包む脂質ナノ粒子の問題
 三 免役システム誤作動の問題
 四 コロナ感染陽性判定の問題
 五 ワクチン接種・後遺症
 六 ワクチン接種後の社会現象
 七 次に来るウィルス感染に どう対応すべきか

はじめに


コロナ騒擾を振り返る書籍が出て来てゐる
しかし どれをみても
その中で生まれた個々の問題を浮き彫りにするに留まり
全体の流れを見失ってゐる
そのためか
「では 次に来るウィルスにどう対応するのか」
そこまて語る書籍に 出会ふことはない

たとへば
・スパイクタンパクの問題
・脂質ナノ粒子の問題
・免役システム誤作動の問題
この問題の どこかに視点が注がれ
あるひはそれら全般の問題に触れるも
「では どう対応したら良かったのか」
その理想とする対応にまで 話は進まない

あるいは「コロナワクチン接種後」に起きた
・日和見感染の増加
・癌の高速転移の増加
・死亡者急増
・平均寿命の低下
・自殺者の増加等々の社会現象に触れるも
「では どう対応すべきだったのか」
その理想とする対応にまで 話が進まない

このやうな「総括」では
また ウィルス騒擾が起きた時
同じ対応が繰り返される可能性が高い

つまり 今のままでは
新たなウィルスが出て来た時
問題があることを承知しながらも
その問題には目をつぶり
mRNAでの対応しかない
国は こんな選択をするのではあるまいか

しかし これから示すやうに
mRNAワクチンには 余りに問題が多い
確かに 脂質ナノ粒子が抱へる問題に着目して
脂質ナノ粒子を使用しないmRNAの開発も進む
しかし スパイクタンパクの問題は依然と残るし
正常細胞攻撃の不都合な免疫不全も依然と残る

よって これからのウィルス対応は
副作用の少ない安全な薬での対応が望ましい
安全な薬はないのか 
その薬は どう開発すればいいのか
それを探りあてて 私論を締めたい

mRNAとは…


細胞に設計図を渡して
無害のウィルス(=スパイクタンパク)を作り
これを体の免役システムが攻撃して抗体をつくって
有毒なウィルスに対抗する
これがmRNAのウィルス対策だが
以下 二つの問題があった

①…造られたスパイクタンパクは 残存しないのか
  
  当初より ワクチン推進派は
  造られたスパイクタンパクは
  一・二週間で消えると主張してゐたが
  嫌疑派は 残存するのでは…と疑ってゐた

  令和七年(二〇二五)二月
   イェール大学の岩崎教授が
   「スパイクタンパクの残存」を公表したことで
   この論争に 決着がついた
  
  やはり スパイクタンパクは残ってゐた

  高知大学の佐野茂紀(しげとし)特任教授が
  早くから指摘してゐたスパイクタンパクの体内残存は 
  アメリカ在住の日本人教授に 確認され
  「世界の常識」となった

  佐野教授の場合
  帯状疱疹で
  炎症を起こしてゐる部分の
  皮下組織を 特殊な方法で染色することで
  帯状疱疹の原因を探し出すものだった
  
  佐野教授は 検査を何度も繰り返し
  複数の患者さんから
  ワクチン接種由来のスパイクタンパクを確認
  これを論文にまとめて 公表してゐた
  
  岩崎教授は ワクチン推進派だが
  ワクチン接種によって
  ワクチン接種・後遺症があるなら
  その事実を見ないふりをすることは
  学者の良心に悖(もと)るとして
  スパイクタンパクとワクチン後遺症の関連を探ってゐる
  
  今後の この研究の成果を待ちたい

②…mRNAを包む脂質ナノ粒子

  mRNAは 不安定で壊れやすいため
  何かで包む必要があった
  この包装を脂質ナノ粒子(LNP)と言ふが
  これは
  『ポリエチレングリコール』といふ成分でできてゐる
  この成分が 一部の人にアレルギー反応を起こす

  ワクチン接種後
  「全身にジンマシン」が出たり
  「腹痛」や「吐き気」
  あるひは「呼吸困難」を訴へる人が出たが
  これは強いアレルギー反応と考へられ
  mRNAの包装に使はれた
  『ポリエチレングリコール』の仕業と
  考へられてゐる

  そこで 今は
  脂質ナノ粒子を使はないmRNAの
  研究開発も進められてゐる

  さて 話題は変はるが
  そのmRNAを包んだ「脂質ナノ粒子」は
  体内のどこに辿りつくのだらうか…
  
  体内で毒素として認識された場合
  一般に 「肝臓」や「脾臓」に運ばれる
  したがって 
  脂質ナノ粒子が
  この二つの臓器に集まるのは自然
  
  では この他には どこに辿り着くのか
  ファイザー社が提示した資料では
  あらゆる臓器に辿り着いてゐたが
  中でも「卵巣」と「大腿骨」が多かった

  大腿骨には 骨髄があり
  そこでは 以下の六つの免疫細胞
   ①単球
   ②樹状細胞
   ③好中球
   ④NK細胞
   ⑤T細胞
   ⑥B細胞 が造られてゐるから

  そこに異物の「脂質ナノ粒子」が運ばれたら
  これらの免疫細胞に異変が生ずることも
  十分考へられる

  なかでもNK細胞は
  一日に 三千から五千も体内に造られる
  癌細胞を殺すことで有名だ

  このNK細胞に異変が起きたら
  体内て発生する三千から五千の癌細胞を
  殺しきれず 癌が増えて行くことは
  容易に想像できる 
  
  令和二年(二〇二〇)『ネイチャー』に
  ちょっと気になる論文が掲載された

  「コロナワクチン接種後 二日目にリンパ球が減少」
  
  リンパ球は 前述の免疫細胞の
  ④NK細胞 ⑤T細胞 ⑥B細胞の三種で
  リンパ球が減少すると
  一般の細菌やウィルスに抵抗できなくなる

日和見感染


  体内には常時 なんらかのウィルスが存在し
  それが免疫細胞によって抑へられてゐるため
  そのウィルス感染症は 発芽せず
  体内で 活性化しない
  しかし 何らかの原因で 個人の免疫力が低下すると
  突然 免疫細胞に抑へられてゐたウィルスが活発になり
  あっといふまに増殖し その病に苦しめられる
  これを「日和見感染」と言ふ

  その代表的な「ウィルス」が 「帯状疱疹」である
  高知大学の佐野特任教授は
  ワクチン接種後の「帯状疱疹」の急増に着目し
  患者さんの皮下組織に
  スパイタンパクが潜むことを見つけた
  つまり
  ・スパイクタンパクで その部位の免疫力が低下
  ・結果 眠ってゐた帯状疱疹が活性化
  
  こんな絡繰りで
  ワクチン接種後
  帯状疱疹が急増したのではないかと推論したのだ

  令和七年の夏
  百日咳ウィルス感染の増加
  新種のニンバスコロナ感染の増加も話題になってゐる
  
  佐野特任教授は 言ふ
  「mRNAは
   結果として免疫力を下げる
   だから
   他の感染症にも 当然感染しやすくなる」
   
  ワクチン接種をした結果
  スパイクタンパクが体に残り
  結果
  ・体内で眠ってゐたウィルスも活性化し
  ・体外のウィルス感染にも罹りやすくなる
  
  俄に 信じがたい事態が生まれてゐたやうだ

ワクチン接種後の社会現象


 ワクチン接種後の社会現象として
 もう一つ注目したいのは
 癌の高速転移である

 「原発不明・癌」
 最近 新聞や週刊誌によく出て来る言葉だが
 これは原子力発電の原発とは無関係
 癌の全身転移が余りにも高速で
 どの部位の「癌」が全身に転移したか特定できない
 こんな「癌」を 「原発不明・癌」と言ふ

 今まで
 いや コロナワクチン接種前と言った方がいい
 
 コロナワクチン接種前まで
 癌は 三年から五年かけて
 ジワジワと全身に転移し 患者さんを死に追ひ込んだ
 
 ところが ワクチン接種後
 従来の常識を超えた癌の高速転移が生まれ
 あっといふ間に 他界するケースが出てきたと言ふ

 森田洋之医師の報告事例を引く

  ワクチン接種一ヶ月前
  健康診断受診 どこにも異常無し

  ワクチン接種
  接種後 体調不良が続く

  ワクチン接種後 一ヶ月
  病院の診断 癌が全身に転移
        「原発不明・癌」と診断され
        自宅に帰された

  その二ヶ月後 他界

 森田は この高速癌転移の死を
 常識外だと言ひ
 こんな常識外の癌が増えてゐると
 『何かがをかしい・癌急増』で警鐘する

 続けて森田は
 ワクチン接種後の社会現象として



 ①死亡者の急増(右図)
 ②自殺者の急増
 ③平均寿命の低下 をグラフを使って説明する

 今
 自民党は 参院選の大敗の分析を急ぎ
 それから新総裁を決めると言ふ

 さうだらうか
 今 総括すべきは
 ・自民党の大敗
 ・参政党の躍進だらうか

 今 総括すべきは
 「コロナ騒擾」とは何だったのか
 一体 何が問題だったのか
 騒擾の後 社会はどう変化したのか
 ここを明らかにして
 今後は この教訓をどう活かし どうすべきか
 こんな「総括」を早急にまとめるべきであるまいか

 注目すべきことは
 ワクチン接種後に起きた以下の社会現象だ
 ・日和見感染急増
 ・癌の高速転移急増
 ・死亡者の急増 であり
 これらは 理由は不明にせよ
 免疫力の低下によって
 自然発生してゐることは 明らかだ

 ここでその解決策に入る前に
 一つ 大切なことを忘れてゐたので追加する
 それは コロナ感染の陽性判定である

PCR検査


 コロナ騒擾の時に 良く聞いた言葉である
 キャリー・マリス博士が 開発した検査で
 博士は これでノーベル賞を受賞してゐる
 博士は コロナ騒擾が起きる前 急死するが
 他界する前に
 「PCR検査は 感染症の判定に使ってはならならい」
 さう警告してゐたと言ふ
 理由は 増幅値を変へることで
 いくらでも陽性反応を増やしたり
 陰性反応を増やしたりできるからだ

 つまり
 増幅値を高めに設定し 陽性反応がでやすくすれば
 為政者は これを以て感染症の拡大を煽ることができ
 その逆に
 増幅値を低目に設定すれば 陰性反応が出やすくなるので
 為政者は これを以て感染症の鎮圧をアピールできる
 こんな政治利用ができるから
 PCR検査の開発者は
 感染症の判定に使ってはならぬと警告したのだらう

 しかし
 この絡繰りは 今でも日本では常識となってゐないから
 次に起こるウィルス感染症の陰陽判定に
 また PCR検査が使はれる可能性がある
 国民は またも為政者たちに欺されるのだらうか
 
 国民一人一人が
 コロナ騒擾を振り返り
 何が問題で どうすべきだったか
 そこを考へてをく必要は ここにある
 同じ失敗を繰り返さないことだ

どうすべきだったか


 いよいよ結論である
 あのウィルス対策は どうすべきだったのか
 どう対応するのが 最善だったのか
 
 つまり
 どうすれば
 ワクチン接種後の死亡者を出さずに済んだのか
 どうすれば
 ワクチン接種・後遺症に苦しむ方を出さずに済んだのか

 令和七年二月二七日
  ワクチン接種した医師が
  厚労省に 接種後の死亡確認申請  =二二〇〇名以上
  厚労省が 渋々認めた接種後死亡認定=九八三名
  
  しかし 
  医師を通じた死亡確認申請は
  そのご家族が 面倒な書類申請を通して行ふため
  接種後の死亡確認申請を出す方が少なく
  人によっては
  その割合は 全体の五%程度だと言ふ人もゐる
  したがって 話半分として十%のご家族が
  接種後の死亡確認してゐたとすると

  ワクチン接種後の死亡者
   ①申請しなかった死亡者…二万二千人(推定)
   ②死亡確認申請    …二二〇〇人(実数)
   ③厚労省認定     …九八三人 (実数)

 毒を飲んで亡くなった方ではなく
 国が推奨した薬を受けて亡くなった方々であるから
 「薬害」と言っていいだらう
 
 実際 名古屋市立大学薬学部の粂和彦教授は
 令和六年(二〇二四)一月二十三日
 薬害の講義で『新型コロナワクチン』を取りあげ
 将来 このワクチンが
 薬害と認定とされる可能性があると語った

 あの大騒ぎをして打ちまくったmRNAは
 将来 
 サリドマイド鎮痛・催眠薬のやうに
 薬害の一つとして 名を後世に残すのか
 それとも 
 コロナ感染から世界を救った救世主・mRNAとして
 後世に名を残すのか

ワクチン後遺症に苦しむ方々ご紹介


 『新型コロナワクチン影の輪郭』大石邦彦著より引く

一…名古屋市内在住
  曾我奈緒美さん(四十八歳)
  仕事 保育士助手
  ワクチン接種
   令和三年(二〇二一)七月一日 一回目接種
  その二週間後
   ・首だけが 左右に少し振れる程度で
   ・首から下が動かなくなった
  救急搬送
   診断 ギランバレー症候群
      免疫が自分の神経を攻撃し
      手足に力が入らなくなる病気
 
  この病気の絡繰りこそ
  免疫システムの不都合な誤作動と言へる

  mRNAは
  細胞に 設計図を渡してスパイクタンパクを造る
  体の免疫細胞たちは それを見てゐる
  よって 真の病原体は 
  スパイクタンパクを造る細胞だと誤認する
  結果 正常な細胞を攻撃し始める
  「免疫システムの誤作動」である

  曾我さんは どうだったか
  物を掴まうとしても掴めない
  手を自分の顔に近づける すると手は急に
  肩の後に引っ張られだ

  ある日のこと
  ロールパンを手にした時
  自分の意志とは 裏腹に
  フワフワのパンを自分の手が勝手に鷲掴みして
  パンを潰してしまった
 
  コントロール不能の体になってしまったのだ

  その曾我さんも 
  リハビリを経て 半年後に退院して自宅に帰る

  しかし
  自宅に帰ってもリハビリは続く
  自分の名前を書くのに 一分以上かかった
 
  保育士の助手として 復帰されただらうか
  気になるところだ
  その後は 只今調査中

二…関西地方に住む五十代前半の女性
  仕事 高校教師
  ワクチン接種
  令和三年(二〇二一)九月四日
   接種一回目
   翌日 頭痛・めまい からだに力が入らない
   検査入院  診断 異常なし

   動悸・息切れ・頭痛・めまい・不眠
   体に力が入らず 箸も持てなくなった
   トイレは 這って行ったが
   一時期は 這ふこともできず
   トイレの前に布団を敷いて生活してゐた
 
  その後

   介護認定を受けて
   息子と二人で暮らすことになったが
   介護認定も ワクチン後遺症といふ病を
   国が認定しないため 
   別の精神疾患として介護認定を受けた
  
   どこかをかしくないだらうか
   このをかしなことを放置して置く
   ここに今の政治の問題がある

   令和五年(二〇二三)の年末
   一枚の写真がCBCテレビの大石に送られて来た
   寝たきりだった彼女がスーツを来てゐた
   車椅子や杖の生活が ややうやく終はったと言ふ
   遺書まで書き 死を覚悟した彼女が
   ワクチン後遺症を乗越え 健康を恢復した
   大石は 彼女に
   「あなたを追ひ込んだものは何ですか」と聞いた
   彼女は
   「紛れもなくワクチンですよ」と即答した

   これから
   寝たきりの期間に感じたことを
   多くの人に伝へたいと言ふ

   何時か『和ブログ』に登場してもらひ
   ワクチン後遺症の話を 語ってもらひたい

 
三…愛知県春日井市に住む 五十代の女性
  ①令和三年(二〇二一)八月 一回目接種
    三九度の高熱が一週間続く
  ②令和三年(二〇二一)九月 二回目接種
    三九度の高熱が一週間続く
  ③令和四年(二〇二二)三月 三回目接種
    四〇度を越える熱が二週間続く
    足に力が入らなくなり歩行困難
    手にも力が入らなくなった
    脱毛したため丸刈りにした
    診断 線維筋痛症
    四つの医療機関が『ワクチン後遺症』と診断
  
   現況は 只今調査中


四…奈良県に住む倉田麻衣子さん 四十一歳
  仕事 看護士
  令和三年(二〇二一)一回目・二回目ワクチン接種
   問題はなかった
  日時不明 三回目の接種
   四〇度の高熱 仕事二週間欠勤
  日時不明 四回目の接種
   めまいで倒れ 一週間欠勤
  日時不明 五回目の接種
   娘の名前も 顔も思ひ出せない記憶障害
   数日後 立てなくなった

 その後

   ワクチン接種後症候群として認められ
   労災で
   医療費と休業補償を受け取ってゐる

  倉田さんは 言ふ

   国は正しい情報を国民に伝へて欲しい
   国が強く推奨したワクチンによって
   健康被害を受けてゐる方がたくさんゐる
   その方々に きちんと目を向けて欲しい

  倉田さんは 今

   奈良県内の主要な駅前でマイクを手に持ち
   自分に起きた事実を話し
   一刻も早く 
   ワクチン後遺症の方々を救済して欲しいと訴へてゐる

 
五…若い男性 元高校球児のエースピッチャー 岐阜県男性
  結婚生活は二年で終はり 子供は一歳六ヶ月

  令和三年(二〇二一)十一月十一日 二回目接種
   三十八度の熱・倦怠感・体調不良が続く
 
  五日後の十六日 他界
          死因…急性うっ血性心不全

  解剖は岐阜大学の道上医師が担当
   死因…心筋融解・横紋筋融解による急性うっ血性心不全
  道上医師は
   心臓の筋肉が溶けて動かなくなったものだと言ひ
   それは市販される薬で起こるとは考へにくいので
   「新型コロナワクチン関連死」としたと言ふ

六…東正秋さんの息子・三十九歳
  彼女はゐたが未婚 千葉で一人暮らし
  父正秋さんとは十三年断絶状態だった
  
  令和三年(二〇二一)九月四日
   首や肩に痛みが出るが
   ワクチンの副反応とは思はなかったが
   体調不良は続いてゐた
  
  九月二十五日 二回目接種
   接種から三日後 連絡が途絶えたため
   彼女が警察に連絡して 彼の家に入ると
   既に 他界されてゐた
   近くに 体温計があった
   電源を入れると 四十一・五度が表示された
   温度計は 四十二度までしか表示されない
   その体温を超えれば ほとんどの人が死亡するからだ

ワクチン接種後の社会現象


 ワクチン接種後
  ・癌の高速転移
  ・日和見感染の増加
  ・死者数の急増
  ・平均寿命の低下
  ・自殺者の増加 は
 森田洋之医師の報告『何かがをかしい・癌急増』に見た

 今度は 年間百体以上の遺体を解剖してゐる
 広島の法医学者の長尾正崇教授の報告だ
 接種後の四人の遺体を調べたところ
  遺体の体温は 一般に二十度台以下であったが
  四人とも 三十三度 三十四度と
  一般では 考へられない高温だったと言ふ
  続けて教授は
  死亡時の推定体温は 四十二・四十三度だと言ふ
 
  その死に至る体温の高温は
   スパイクタンパクを造りだす正常細胞を
   免疫細胞が 病原体と誤認し
   正常細胞を攻撃する免疫システムの誤作動
   さう 言へるかもしれない

七…愛知県大治町の吉田紀子さん 四十九歳
 令和三年(二〇二一)七月十五日 一回目接種
  特に副反応もなく いつも通りに暮らす
 四日後
  ひどい頭痛と嘔吐がとまらない
  そんな連絡が
  外出中のご主人の吉田史郎さんに入る
  急いで帰宅し 救急車を呼ぶ
  妻の紀子さんは 救急車の中で意識喪失
  脳内出血であった
  緊急手術をするも そのまま他界

 脳の血管には
 「脳関門」といふ関所があり
 不純物が 脳内に侵入するのを防いでゐる
 また「脂質ナノ粒子」が「脳関門」を通過することは
 科学者たちは わかってゐる
 
 よって
 mRNAを包んだ「脂質ナノ粒子」が
 「脳関門」を通過して
 脳内のどこかの細胞に 遺伝子設計図を渡し
 その細胞が「スパイクタンパク」を造り
 造られた「スパイクタンパク」が 
 血流の流れを止める障害物となり
 それで脳内出血が起こった
 こんな絡繰りが 考へられる

 人類初の
 遺伝子操作の人工化合物・スパイクタンパク
 これが 体内でどんな立居振舞をするのか
 それは開発者たちにも わからなかった
 開発者たちの
 一・二週間で消えるといふ予想は
 見事に裏切られ
 体内にスパイクタンパクは 残った
 人体に どんな悪影響を及ぼしたか
 それは ワクチン接種後の
 社会現象を見れば わかる

 免疫力の低下である

さて 人類初の遺伝子操作による
人工化合物・スパイクタンパクが
この世に出る前に

土壌に棲む微生物・放線菌が吐き出す
天然有機化合物を土台にした薬剤は作られてをり
年に一度の服用で 失明になる病を防いだり
それにプラスした服薬で 
ゴジラのやうな足(左図)も治し多くの人類を救ってゐた



その天然有機化合物は
薬学的には マクロライド系化合物と言ひ
機能的には 色々な病に効くので
多機能型抗生物質と言はれてゐる

その効能を調べてみると
頭痛・肩こり・筋肉痛
肺炎・皮膚炎・感染症
果ては「癌」にまで効くのではないかと期待され
その方面での研究も されてゐた

どうして こんなに効くのだらうか?
開発者は
マクロライド化合物には
予期せぬ広範な生物活性化があるといふ

ホームセンターに行くと
最近は 植物の肥料の他に
植物活性液として「メネデール」や「リキダス」が
売られてゐる
生物活性物質とは こんな植物活性液のやうな
私たちの細胞を活性化させる そんな物と思はれるが
土壌に棲む放線菌が吐き出す天然有機化合物には
三十余りの生物活性物質を作る力があるといふ

その生物活性物質の一つ一つの効能は
今なほ研究中と言へる 
だから開発者の大村博士は
「私たちは その天然化合物の効能の十分の一も知らない」
と言ふ

その天然有機化合物を吐き出す放線菌であるが
アメリカにも生息してゐるか 否か
二十五万株を調べても ゐなかった
また 他国の生息の報告もないことから
日本発の天然有機化合物と言はれてゐる

こんな画期的な天然有機化合物の名前も
その薬剤も 知らされてゐないところに
コロナ騒擾が起こった

多くの国民は
日本発の天然有機化合物には
予期せぬ広範な生物活性があることを知らない
それがために 色んな病に効くので
多機能型抗生物質と言はれてゐることも知らない
また それが 感染症に効くことも知らされてゐない

だから
令和七年になって流行り始めた
「百日咳ウィルス」や
再び広がる「ニンバス・コロナ感染」に対して
ひょっとして ひょっとしたら
日本の土壌にゐた放線菌が吐き出す天然有機化合物が
三十余りの生物活性物質を作るから
その生物活性物質が ウィルスを退治してくれるかも…
こんな発想が湧いて来ない

もったいない話である

既にmRNAのコロナ対応の負の遺産は見た
しかし
静岡県伊東市の川奈ゴルフ場の土壌にゐた
放線菌が吐き出す天然有機化合物エバーメクチンから
作られた多機能型の抗生物質イベルメクチンの
さまざまな薬効を 私たちは知らない

幾つか 個人的に薬効を確認してみた


①風邪ひき熱発の解熱剤
 一錠十二㎎を二錠 二回
 翌日回復

②山歩きの筋肉痛
 一錠十二㎎を一回 
 翌日回復

③痛風発作の入口の症状
 左足四本の足指関節
 一錠十二㎎を二回
 翌日回復

④疲れた時に発症する口内炎
 一錠十二㎎を朝晩二回
 翌日回復

⑤草取りによるジンマシン発生
 左腕のみ 放置すると全身転移(今までは)
 二錠十二㎎ 朝一回
 三日目あたりから ジンマシン薄くなる
 七日目 ほぼ赤い斑点が消えた
 凄い イベルメクチン凄いと思った
 皮膚科の塗り薬に比べれば
 効果はじっくりだが
 天然化有機合物が作る 
 生物活性物質によるものだから
 ちょっと時間はかかるが 自然療法だから安心だ

⑥草取やりすぎ・ほぼ痛風発作
 朝二錠十二㎎
 左足の(親指除く)四本指関節の痛み全く無し
 喜ぶも 八時間以上の草取りの疲労からか
 夜は 右脚・痛風発作前兆 やっと歩行の状態となる
 慌てて 二錠十二㎎
 寝る前に二錠十二㎎ 合計四錠
 
 その後

 イベルメクチン無くなり
 個人輸入したが
 届くまで二週間かかる
 只今 イベル到着待機中
 
 イベルメクチン無しの暮らしは以下
 
 踵(かかと)をつけて歩けるが
 大分怪しい 右足は完全に痛風発作だが
 まだ 踵をつけて歩ける
 発作時に ここで止まることはなく
 重症化して完全に歩けなくなるまで行くが
 今回は イベルメクチンのお蔭か そこまで行かない

残念ながら
百日咳ウィルスと
コロナウィルス退治の話はないが
もし 知り合ひが 罹ってしまったら
以下のやうなイベルメクチンの飲み方を勧めてみたい

四歳未満の乳幼児
 ・ミニ断食(八時間から十時間)の後 三㎎一錠
四歳以上の幼児 
 ・ミニ断食(八時間から十時間)の後 六㎎一錠
小学低学年から中学年 
 ・ミニ断食(八時間から十時間)の後 十二㎎一錠
高学年から中学生以上
 ・ミニ断食(八時間から十時間)の後 十二㎎二錠

著者個人の治験事例
 筋肉痛       …効果有り
 解熱剤       …効果有り
 鎮痛剤(痛風発作) …効果有り 
 アレルギーの発疹  …スピードは遅いも確実に効果有り

本来ならば
安全な薬なので医者の処方箋なしで
市販薬として購入できれば
さまざまな個人の薬効事例が報告されるだらうが
今は 個人輸入で入手するしかないので
ごく一部のイベルマニアしか利用してゐない
もったいない話である

ウィルスに対応する安全な薬は何か


既に見て来たやうに
遺伝子操作による人工化合物スパイクタンパクは
・体内に残るし
・残って「免疫不全」や
・血管に溜まって「血流不全」を起こしてゐる
とても安全な薬とは言へない

間違いなく薬害レベルの被害者が出てゐる

この薬害レベルの死亡者と後遺症の方々を
放置して 先に進めば
また 同じやうな死亡者と
後遺症の患者さん多数生まれることはわかってゐる

では どうするか


副作用が ほとんどなく
そしてウィルスにも効く
土壌に棲む微生物が吐き出す天然有機化合物
それは
生物活性物質を三十余りも所有するといふ
推量するに これら多種多様な生物活性物質が
色んな薬効をもたらしてゐるのだらう

驚くことは
 週一回の服用で 感染予防できること

罹った場合は
 幼児…一錠三㎎  一日二錠治るまで
 子供…一錠六㎎  一日二錠治るまで
 大人…一錠十二㎎ 一日二錠治るまで

健康増進としても 週一回一錠で十分だ

最善策は何だったのか


・イベルメクチンを市販薬として承認し
・月一回 一世帯の家族の週四回分を
 「感染対策」と「免疫力向上対策」として
 各市町村の「自治会」を通じて無料配布

こんな対策が 最善だったのではあるまいか

あとがき


ウィルスと言へば ワクチン
これは西洋の常識
余り知られてゐませんが 日本には
ウィルスにも 放線菌が吐き出す天然有機化合物が有効
こんな発見があります

この微生物の効能を日本で常識にしようと
長年努力し続けてゐるのが大村博士

博士は かう言ひます
 微生物が作るものには無駄がない
 それを まだ 人間が知らないだけだ
 微生物は 無尽蔵の可能性を秘めてゐる

ある日のこと
博士は 腐ったカボチャの土壌に着目し
いつものやうに 土壌をビニル袋に入れて
研究室に持ち帰り 細かく分析してみました
すると そこには
放線菌に属する微生物が棲みついてゐて
ウィルスの感染を阻止する新しい物質を
産生してゐたことがわかったのです
ゴルフ場の土壌や 腐ったカボチャの土壌に
人に有用な天然有機化合物を吐き出す微生物が棲んでゐた

この事実に着目しますと…

だったら 
もっと良質な土壌に 
もっと良質な天然有機化合物を吐き出す微生物が
棲んでゐるかもしれない
そんな発想が生まれます

そこで 考へた良質な土壌が くぬぎの腐葉土です
聞けば 菊の展覧会での優秀作品は
くぬぎの腐葉土を使ってゐて
綺麗な花を咲かせるには欠かせないものだと言ひます

その「くぬぎの腐葉土」を
東洋哲学の真髄=地・水・火・風で育成したら
そこに 
放線菌に優るとも劣らない微生物がゐるかもしれません 
 


 ここには
  地面の「地」
  雨水の「水」
  発酵の「火」
  大きな「風」があります

 この四大の箱を「草取此炉」と名づけました
 
 静岡県の伊東市の川奈ゴルフ場の土壌には
 三十余りの生物活性物質を保有するエバーメクチンを
 産生する放線菌がゐました
 
 この天然有機化合物が
 三十余りの生物活性物質を保有してゐます
 残念なのは その一つ一つの生物活性物質が 
 体の免役システムにどんな働きをしてゐるのか
 明らかにされてゐないことです

 

さらに 残念なことは 
このエバーメクチンの薬効の「奥行き」と「広さ」を
多くの国民が知らないことです
個人の治験事例で恐縮ですが

 ①…解熱剤としても
 ②…筋肉痛の鎮痛剤としても
 ③…草取りの時に出る発疹の抗炎症剤としても
 ④…痛風発作の鎮痛剤としても
 ⑤…疲れた時に出る口内炎の退治にも 有効でした

市販薬で人気のある
 ロキソニンよりも
 風邪薬よりも
 疲労回復ドリンクよりも 効果は ありさうです

是非 一度お試し下さい

しかし このお試しが大変です
ネットで 外国から個人輸入しなければならないからです

アメリカでは
一部の州で 市販薬として購入できるやうですが
日本では そんな気運は起こりません
何故でせうか…

土壌に棲む微生物が産生する天然有機化合物に
三十余りの生物活性物質があることが
知らされてゐないからです
さらに その活性物質が
「ウィルス感染」や「癌」にまで有効作用することも
知らされてをりません

「宝の持ち腐れ」といふ言葉がありますが
それは 
その天然有機化合物「エバーメクチン」と
その薬剤である「イベルメクチン」に 
そのままあてはまります

実に もったいない話です

どうしたらいいでせうか… 
来たるべき新種のウィルスに どう対応したらいいでせうか

どんなウィルス対応をすれば
後遺症や死者を出さずに済むのでせうか

また どうしたら 今起きてゐる
死亡者急増
癌の高速転移急増
日和見感染急増といふ異常現象を乗り越えられるのでせうか

その解を求めた研究論文が 
この『コロナ騒擾に学ぶ』でした

初めて聞く言葉や
今起きてゐる社会現象をわかりやすくするために
縦書き詩文で綴りました

お役に立つことあらば…
その思ひを込めて まとめました ご一読下さい

令和七年七月五日(八月二十七日)  
             私塾鶴羽實 塾長 岩田修良

幕末から大東亜戦争まで
信を失った日本

一 ロシアとの出来事(鎖国維持)
   ①ラックスマン来日    寛政四年(一七九二)
   ②レザノフ来日      文化元年(一八〇四)
   ③露寇事件        文化三年・四年
   ④ゴローニン捕縛事件   文化八年(一八一一)
    ・高田屋嘉兵衛捕縛事件 文化九年(一八一二)
    ・ゴローニン解放    文化十年(一八一三)

   事件あるも結局「鎖国維持」できた

二 イギリスとの出来事(鎖国維持)
   ①フェートン号事件    文化五年(一八〇八)
   ②長崎出島事件      文化十年(一八一三)
   ③大津浜事件       文政七年(一八二四)
   ④トカラ列島 宝島事件  同年
     無二念異国船打払令  文政八年(一八二五)
   ⑤モリソン号事件     天保八年(一八三七)
     蛮社の獄(⑤に呼応) 天保十年(一八三九)

   事件あるも結局「鎖国維持」できた

三 「不完全鎖国」から「開国」まで
   ①フランス極東艦隊のアルクメーヌ号 那覇入港
   ②オランダ国王の開国勧告
   ③アメリカからの手紙
   ④ペリー    浦賀来航 嘉永六年(一八五三)
   ⑤プチャーチン 長崎来航 同年
   ⑥スターリング 長崎来航 嘉永七年
   ⑦ハリス来日
   ⑧横浜開港←「開国開始」

四 内乱から薩長暴力革命政府誕生まで
   ①安政の大獄  
   ②桜田門外の変 
   ③王政復古
   ④鳥羽伏見の戦
   ⑤箱館戦争  
   
五 薩長革命政府のアジア・南方侵略開始から終焉
   ①「草梁倭館」略奪 大東亜戦争開始
   ②「朝鮮侵略」
   ③「満州侵略」
   ④「南方進出」「中国侵略」(和たぐ新聞)
   ⑤「大東亜戦争」(和たぐ新聞)

右の一五〇年の「史実」を淡々と「縦書詩文」で綴る

 一 ロシアとの関係
 二 イギリスとの関係
 三 「不完全鎖国」から「開国」まで
 四 「内乱」から「暴力革命政府誕生」まで
 五 革命政府のアジア・南方拡張期から敗戦まで
    敗戦するも
    革命政府の国体維持して今日に至る

革命政府が 破壊したもの
 ①昔の日の丸 幕末     
 ②和暦    明治
 ③国典喪失  明治
 ④縦書    戦後 
 ⑤専業主婦  戦後
  
したがって 古き良き日本を取り戻すには
 ①昔の日の丸復古 
 ②和暦復古
 ③国典復古
 ④縦書復古
 ⑤専業主婦復古

そのためには
薩長の革命に至るまでの歴史と
薩長の革命政府による世界制覇の夢の足跡を知る必要あり
つまり
革命政府がやった愚策を知り
その足跡を知れば 
それを元に戻したくなるのが人情だ
さすれば 和が国は 和で豊かな暮を実感できる

革命政府は
 『古事記』の「禍津日神」を国旗にしてしまった
 今の日の丸は「禍の火種」である
 だから 禍が多い 
 当たり前だ 「禍の火種」を国旗にすれば
 禍が多いのは 当たり前だ
 
 それは国宝『清水寺縁起』を見ればわかる
 お近くの図書館に行かれ 確認されたし
 何と 大和朝廷が 今の日の丸軍を退治してゐる
 そして 日の丸軍の姿を見られよ
 地獄に住むと言はれた餓鬼畜生の姿をしてゐる
 「賤しい民」である
 「賤しい民」とは何か どんな心の持ち主か…
 「金くれ 物くれ 飯をくれ」
 権力者に餌付けされ 手なづけられた人である
 餌付けされて行くに内に 自尊心を失ってゐるのだ
 
 平田篤胤の「日文」から生まれた「皇国」
 その権力者たちに餌付けされた国民の姿
 金くれ 物くれ 飯をくれ
 この「皇国」が 世界制覇して 世界は安定する
 佐藤信淵の世界平和論である
 異心暴力革命政府は
 この佐藤信淵の『宇内混同秘策』を教書とした
 世界制覇の拠点を「東京」としたのも教書に拠る
 そして アジア・南方侵略が始まった
 それは 釜山の「草梁倭館」の略奪に始まる

 確かに大東亜戦争は 昭和十六年十二月八日に始まった
 それは 東南アジア・南方への拡大である
 その始まりは 釜山「草梁倭館」の略奪に始まる 

革命政府は
 天保末期に完成した
 弘化元年(一八四四)より採用された太陰太陽暦が
 世界に誇る和暦である事に気づかず
 勢ひ西暦を 国暦としてしまった
 そのために 昔を暦で体感できず
 過去との繋がりを無くした国民は
 糸の切れた凧となり 
 浮き世の風のまにまに 暮らすやうになった

 天保和暦は 地球の公転面が楕円であることに気づき
 それを修正した世界最高水準の太陰太陽暦であった
 

革命政府は
 国典「天地之詞」を抹殺するために
 五十音図に着目させ 真字とカナを重んじ
 かな文字を嫌った
 しかし 貫之から香川桂樹まで 
 古人は「天地之詞」を教典とし
 力をも入れずして天地を動かす詞を探った

 人力で平和を構築出来ないことを知ってゐたからだ
 香川の以下の歌を最後に「天地之詞」の研究は終はった

  天地の
  動く調べを
  尋ぬれば
  心の奥の
  峰の松風

 和が国の文化とは何か…
 貫之が 仮名序に
 ー力をも入れずして天地を動かすーと言ったやうに
 力をも入れずして「天地を動かす詞」である
 それが 

  ・歌なのか
  ・文字なのか
  ・木と葉なのか

 それは未だにわからない
 だから「天地之詞」を研究する必要がある
 ややこしいのは 
 この教典が密教の教典になってしまひ
 秘匿されながら 語り継がれて来たことだ
 たとへば 忠臣蔵の暗号文
 山? 川! は「天地之詞」の三行詞である

 これが和が国の教典である
 だから今一度 知惠を絞って和訳する必要がある

 何故か?
 そこに力をも入れずして天地を動かす詞が
 語られてゐると思はるからだ
 探せば 必ず世界を平和にする詞に出会す筈だ
 
 さすれば 自づと「十井文字」に辿りつける
 したがって 国典の復古は 不可欠だ

革命政府は
 横文字に注目するあまり
 和が国の文字が 縦に真っ直ぐ歩くことを忘れ
 すっかり横書文化にしてしまった
 交番を「KOBAN」と書いて恥づることなく
 国名を「JAPAN」と変へて恥づることなし
 和文字を捨てて 横文字を使ふことをオシャレだと
 信じて疑はぬ民族にまで 堕ちてしまった
 
革命政府は
 家に帰ったらお母さんがゐる
 家にお母さんがゐることが
 子供が一番安定することを忘れ
 西洋風の夫婦共働きを奨励
 結果 
 不安定な子供
 不安定な親たちが増え
 親と子供の心は荒んで来た
 専業主婦といふ仕事が
 どれだけ価値があるのか
 どれだけ子育てに有効なのか
 そこに気づかず そして比較研究もせず
 やたらお金をばらまき 
 専業主婦を減らすことに力を注ぐ
 専業主婦が増えれば
 保育所の数も減るし 政府の補助金も減る

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 こんな荒んだ世の中に誰がした?
 「禍の火種」である

 それに気づくことなく
 気づいても知らんぷりし続けた私たち日本国民である
 一日でも早く 昔の日の丸を取返さねばならぬ
 このまま永遠に「禍天下」にして置く訳には行かぬ
 
 昔の日の丸は
 ・ののさま 山山
 ・ほっこり 高天
 ・草取此炉 心眼

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和たぐ新聞(只今 以下三つ)
 ロシアとの関係
  ①ラックスマン
 アジア・南方侵略
  ④南方進出・中国侵略
  ⑤大東亜戦争

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一 ロシアとの出来事

①寛政四年(一七九二)九月三日
 ラックスマン
 光太夫・磯吉・小市三人の漂流民と国書抱へて根室入港
  幕府 国書受け取らず
  代はりに長崎入港許可書を渡して ロシアに帰す
  詳細は大黒屋光太夫

②文化元年(一八〇四)九月六日
  レザノフ入港許可書と国書持って長崎入港
  半年幽閉状態で待たされ 強行にロシアに帰さる
  将軍へのご進物まで拒否されて退去
  カムチャッカに戻り 日本の非礼を語る
  日本の非礼に 部下の
  フォストフ大尉怒り 仕返しを考ふ

③文化三年(一八〇六)九月十一日  樺太で略奪放火 
③文化四年(一八〇七)四月二十九日 択捉島で略奪放火
  後日解放された人質は 手紙を持ってゐた
  
  そこには
  「ロシアとの交易を断れば
   来春は 日本全土を攻撃する」と書かれてゐた
  
  極度にロシアを怖れる「恐露」は
  この時に生まれ 今に残る
  この事件を「露寇事件」といふ

④文化八年(一八一一)六月四日
 松前藩 北方四島測量のゴローニン捕縛
  幕府側の「露寇事件」の仕返しだ
 ロシアも ならばこちらも…
 文化九年(一八一二)八月十四日
  ゴローニンの部下リコルドが
  大阪商人・高田屋嘉兵衛を捕縛
  ペトロバブロフスクに収監された

  
  しかし 嘉兵衛は賢く
  片言のロシア語を習得して ロシアにかう諭す
  
  「日本全土を攻撃するといふのは
   ロシア皇帝の意志ではなく
   一軍人の吐いた言動であると語り
   幕府に その旨を陳謝すれば
   幕府は必ずわかって
   ゴローニンを解放する」

  これを聞いたリコルドは

 文化十年(一八一三)五月六日
  嘉兵衛を信じ
  ロシアの陳謝文を嘉兵衛に持たせ
  嘉兵衛を「国後島」で解放

  蝦夷に戻った嘉兵衛は
  松前奉行所とリコルドの仲立ちとなり奔走

 同年八月二十六日
  ゴローニンは 箱館で解放された
  その時の様子をゴローニンがまとめた
  『日本幽囚記』である

  この書で 嘉兵衛は
  日本の英雄として讃へられた
  この書のオランダ語の和訳に取組んだのが
  後にシーボルト事件で捕まり
  後に獄死する高橋景保
  
二 イギリスとの出来事

①フェートン号事件
オランダ事情
 そのころ ヨーロッパは
 フランス革命に端を発した戦乱で
 大きく揺れてゐた
 フランスは 

  ・オーストリア
  ・イギリス
  ・オランダに 宣戦布告

 フランスのナポレオン・ボナパルトは
 大軍を率いて イタリア オーストリアに進攻

 そしてオランダも占領!
 ウィリアム五世は追放
 オランダの国王には 
 甥のルイ・ナポレオンが就いた
 
 追放されたウィリアム五世は
 イギリスと軍事同盟を結んだ
 
 この時 ウィリアム五世は
 
  オランダの海外植民地を
  イギリス陸・海軍の管理下にすることに同意
 
 イギリスは この同意にもとづいて
 オランダの各地の植民地を掌中に治め
 その勢ひは オランダ領東インドに及んだ

 そこで イギリスは
 東インド総督・ピーターに
 「イギリスの管理下にある」ことを通告

 しかし 総督・ピーターは その通告を拒否

 そのため 
 イギリスの東インド艦隊が
 オランダ領東インド艦隊を攻撃した

 この戦ひで オランダ艦隊が
 長崎の出島に逃げたと思って
 文化五年(一八〇八)八月十五日
 イギリス船が オランダ国旗を掲げて
 長崎に入港して来た

 ーー略ーー

 入港して来た船の確認に
 出島の商館員のホゼマンとスヒンメルが向かふも
 その場で イギリス艦隊に捕縛された
 夕方になって人質の一人ホゼマンが解放された

 ホゼマンが言ふには
 フェートン号は 二隻の「オランダ船」が
 インドネシアのバタビアを出港して
 長崎に向かったといふ情報を得て
 その「船」を追ったが 船影を確認できず
 既に長崎に入港してゐると推定し
 オランダ国旗を掲げて入港したといふ

 ホゼマンは 
 フェートン号艦長ペリューの書簡を持って居た
 ペリューの書簡は
 フェートン号に乗ってゐたオランダ人の水兵が
 オランダ語にしたものだった
 これを大通詞中山作三郎が即座に和訳した

  ・本日中に ホゼマンに
   飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
  ・要求に応じぬ場は
   スヒンメルを殺害し 港内の船を全て焼き払ふ

 これを聞いた長崎奉行松平康英は 
 「法外之横文字」と激怒した

 商館長のドーフは 
 艦内に残されたスヒンメルが忍びない とし
 松平に 艦内に飲料水と食糧を送ることを嘆願した
 これを受けて松平は飲料水と食糧を持たせて
 ホゼマンを帰艦させた
 ドーフは 
 松平の許しを得て 牛二頭・豚等を送った

 一方 松平は 合戦に備へ
 フェートン号が出られぬやうに 港口に小舟を多数沈め
 おほよそ百艘の小舟に葦と藁を満載して
 フェートン号を囲んだ

 火を放ってフェートン号を炎上させるつもりだった
 この合戦は 長崎市中にも伝へられ
 旅人は争って長崎を離れ
 多くの奉公人が 田舎へ逃げ帰った
 商品は売れず 売れたものは ローソクと草鞋だった
 
 入港して来たその翌日の午後二時頃(八つ)
 不意に フェートン号の舳先が港外に向けられ
 港外に動き出した
 奉行松平は 拳をふり地団駄を踏んで口惜しがった
 午後五時過ぎには 水平線下に消えてゐた
 
 松平は 家来をねぎらひ 夜 酒宴を開いたが
 深夜 庭の生垣のそばに毛氈(もうせん)を敷き
 腹を切り 咽喉を鍔元(つばもと)まで突き刺して
 自刃してゐるのが発見された

 幕府あての書状が残されてゐた
 そこには

 事件の経過が記され
 奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
 恥辱を異国にさらしたこと申し訳なく切腹する
 
 と 記されてゐた 
 
 文化三年と文化四年に起きた「露寇事件」
 その翌年の文化五年に起きた「フェートン号事件」
 ロシアに続くイギリスの暴挙として
 幕末 多くの日本人に この事件は記憶された


文政七年(一八二四)五月二十八日
 イギリス人が 茨城大津浜に上陸
 大津浜事件である

  水戸藩では ロシアの襲撃と誤認して 抜刀隊が出動
  しかし どうも様子がをかしい 
  上陸して来たイギリス人は
  攻撃的ではなく友好的だった

  ここにオランダ商館長から英語をならった通詞が来た
  通詞たちの習った英語は 全く通じなかった

  その理由が 通詞たちにはわからなかったが
  後日 商館長ドーフの英語が
  オランダ訛であることがわかった
  結局 身振り手振りで意思疎通を図ると
  上陸した目的は 長い船旅で起こる
  ビタミンC不足の壊血病だった
  そこで 水戸藩は 大量の野菜や酒を提供した

同年(一八二四)七月八日
 イギリス人が トカラ列島の宝島に上陸
 宝島事件である

  前述とは別のイギリス人で
  今度は食用の牛を求めて来た
 
  薩摩の出先の役人が断るも 執拗に求めて
  イギリス人は 遂に牛三頭を強奪
  それを見た役人吉村九郎が 脅しで銃を撃つと
  たまたま 一人に命中して射殺
  これで イギリス人が 慌てて逃げた

  この大津浜事件と宝島事件をきっかけに
  幕府は 当時の天文方筆頭の高橋景保に
  幕府の好ましい対応を訊いた

  高橋景保は 当時の世界情勢に通じてゐたため
  多くの捕鯨船が 
  日本近海に集まってゐることを知ってゐた

  だから 空砲を鳴らして捕鯨船を脅かし追ひ払へばいい
  それでも上陸しようとするものには
  薪と水を提供し 静かに退去させる

  こんな案を出した

  これを聞いた幕府の役人遠山景晋(かげみち)は
  空砲では生ぬるいとし
  撃つか撃たぬか迷ふことなく撃て!といふ意味を込め
文政八年(一八二五)二月十八日
 幕府 無二念打払令を発令
  タカ派とハト派の対立はここに始まる

  今からちゃうど二百年前になる
  したがって
  平和路線(高橋景保)を歩くべきか
  軍拡路線(遠山景晋)をとるべきかの議論は
  今に始まるものではなく
  二百年前から続く対立であって
  未だに その決着は出てゐない
  
天保八年(一八三七)六月二十八日
 漂流民の送還と通商を求めるアメリカ船・モリソン号が
 マカオを出て浦賀に入るも 日本は砲撃
 船は翌月 鹿児島湾に碇泊するも
 再び砲撃を受け 船は漂流民を乗せたままマカオに退去
 ーモリソン号事件ーである

天保九年(一八三八)
 幕府は オランダ商館長のグラッディソンから
 来航の目的を聞いた
 そこで幕府は 再び入港した場合 どうするか審議した
 結果は 同じ
 漂流民は受け取らず 異国船は打ち払ふべし

同年(一八三八)十月
 この頃 遠藤勝助が主宰する
 洋学研究集団「尚歯会」があった
 そこに幕府の評定所の記録方・芳賀市三郎がゐた
 芳賀は うっかりそこで幕府の秘密を漏らした
 芳賀は 前年と同様にモリソン号が来航したら
 容赦なく砲撃を浴びせる意志を
 幕府が固めたことを伝へた

 尚歯会の者たちは動揺した
 何故なら
  イギリスは世界の強国で
  火力に恵まれた軍船も多い
  それに比べて日本の武力は貧弱
  このやうな状況で 発砲すれば
  イギリスは 大規模な武力行動を起こし
  それは 日本の滅亡に繋がると考へたからだった

 崋山は 当時の世界情勢に通じてをり
 イギリスが東洋の植民地政策を
 積極的に進めてゐることを知ってゐた
 だから渡辺崋山は
  もし こちらから砲撃すれば
  それを口実に多くの軍船を出動させて
  日本を占領し 植民地にすることが予想される
  異国船打払令は
  日本の存亡に係はる危険なものとして
  強くその法令に反対した

  さらに
  外国との交流を避けてゐるのは日本だけで
  鎖国政策を続けることは無理だと断じ
  幕府を非難した
 『慎機論』である

 高野長英も『夢物語』を書き かう説いた
  こちらから砲撃すれば
  相手は礼儀知らずと考へ
  後に大きな禍ひを起こすおそれがある
  だから モリソン号が再び来航したら
  漂流民を受け取り
  鎖国政策のため交易は出来ぬことをさとし
  おだやかに退去させるべきだ と
  幕府の異国船打払を批判

ーーーここまでがモリソン号事件ーーー

 以下が これを受けて一気に
 洋学研究集団「尚歯会」の潰滅を狙って起きた事件が
 「蛮社の獄」である
 だから広辞苑は「蛮社の獄」を かう語る

  江戸幕府が
  渡辺崋山と高野長英らの
 「尚歯会」に加へた言論弾圧
 
 この二人の幕府批判が
 洋学嫌ひの鳥居耀蔵の目にとまった
 
 当時の「尚歯会」には
 崋山や長英の他に 後に活躍する
 江川英龍や川路聖謨 高島秋帆もゐた
 この三人の失脚も 鳥居は狙って事件を作った
 
 令和七年一月一〇日
 
 ー続くー






『長英逃亡』吉村昭
天保十五年(一八四四)六月
 一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
    適塾の講義を開始
 二月 間宮林蔵他界(二十六日)
     樺太が島であることを発見
     シーボルトは その樺太地図を見て
     樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
     ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
 三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
     アヘン戦争が終はり 英・仏は
     極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
     本土開国開始が 米国ペリーなら
     琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
     フランスが 琉球に 交易を求めて来た
 五月  水戸藩主徳川斉昭
     藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
 その六月 江戸の伝馬町では…

 唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
 高い表門に近づいて行く
 小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
              =約一辺百㍍正方形
 大きな牢獄だ
 武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
 連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
 牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
 統率者 牢名主(以下役職上位順)
  ・添役
  ・隅役
  ・二番役
  ・三番役
  ・四番役
  ・五番役 計十二名の役人がゐる
 新入りの囚人は 同心ではなく 
 この囚人たちの役人が対応する慣習があった
 牢内で同心・役人含め
 全ての者が 賄賂を受け取ることができた
 牢屋奉行に賄賂をおくると
 待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
 牢内での役人による制裁は 公然と許され
 役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
 
 大牢は 東牢・西牢と二つあり
 どちらに入れるかは 同心ではなく 
 牢名主が決めた
 その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
 それは 東牢の方が
  ・穏やかで
  ・一人あたりの空間も広く
  ・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
 また 牢名主は 役付き囚人に
 酷く扱はぬやう注意するのが常だった
 牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
 五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
 牢に入った証文には かう書かれてゐた
  生国  陸奥
  年齢  三十六歳
  町医師 高野長英 


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