令和6年8月4日 江戸に近代の萌芽を見る Watag eXtensible Markup Language
江戸に近代の萌芽を見る

史実淡々

和たぐ新聞
幕末
完結号
 発行 私塾鶴羽實
 郵番 四三八ー〇〇八六
 住所 磐田市見付二七八六
 電話 〇五三八ー三三ー〇二七三
 FX 〇五三八ー三一ー五〇〇三
 電信 logosアmvbドbiglobeレneスjp
 編者 岩田修良
 カナ ア=@ ドレス=ドット
寛政四年(一七九二)
ラクスマンが国書を持って
日本との交易を求めて根室に来た
しかし
幕府は 丁寧に断り ロシアに帰す
この時 幕府は
入港許可書と誤認する『信牌』を
ラクスマンに渡してゐた

それから十数年後の
文化元年(一八〇四)
二度目の使節・レザノフが
長崎に来航
交易を求める国書を持って来た
もちろん『信牌』も一緒に
しかし
幕府は 入港を認めなかった
レザノフ使節団は
六ヶ月待たされた挙げ句
居丈高な態度で帰された

ペテロパブロフスクに帰った
レザノフが
この経緯を部下のフォストフに
語ると フォストフは怒り
その報復として
・択捉島
・利尻島
・樺太の大泊 で暴れた
略奪と放火そして拉致であった
『露寇事件』といふ
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月であった
フォストフは 人質を返す時
ロシア語とフランス語で書かれた
『一通の手紙』を
解放した人質に持たせた
当地では 和訳できる者がをらず
手紙は 長崎・出島に送られ
オランダ商館長ドウフが和訳した
こんなことが書かれてゐた
ロシアとの交易を断れば
来春大軍で 日本全土を攻撃する

これで 多くの日本人が
恐露病にかかってしまった

文化八年(一八一一)

今度は 幕府が その報復として
北方四島の
土地調査に来てゐたゴローニンを
国後島で 拉致・捕獲した

しかし ゴローニンは 賢者で
牢屋暮らしであったが 現実は
松前藩の人にロシア語を教へ
客人扱となってゐた

文化九年(一八一二)

そのゴローニンの部下
リコルドは その報復として
日本人五人を捕虜として
捕虜の交換を試みた
その捕虜の一人に
当時の有名商人高田屋嘉兵衛がゐた
ペトロパブロフスクに連行された
嘉兵衛も賢く
リコルドの意図を汲み取り
フォストフが大暴れした後
人質解放に持たせた手紙は
一軍人のもので
ロシアの国家意思ではないと
その旨を書き
その事件を陳謝すれば
幕府も 理解し
人質交換に応ずると 説いた

リコルドは 嘉兵衛を信頼し
嘉兵衛の説く様に動き
文化十年(一八一三)
無事 人質交換が成功した

その後 ゴローニンは
当時の様子をまとめて本にした
『日本幽囚記』である
文化十三年(一八一六)であった

この本で 高田屋嘉兵衛は
日本の英雄として描かれてゐたが
その理由は 前述の通りである

樺太事情

樺太は 当時 島ではなく
陸続きと考へられてゐたが
大陸と離れてゐることがわかった
間宮海峡の発見であり それは
文化五年(一八〇八)であった
それから おほよそ四十年後
樺太北部の対岸 つまり
アムール川の河口に
ロシアは
嘉永三年(一八五〇)に
ニコライエフスクといふ町を作り
嘉永六年(一八五三)八月には
樺太の大泊に軍事砦を作ってゐた
嘉永六年 その頃は
六月に ペリーが浦賀来航
七月に プチャーチン長崎来航
そんな時であった
フェートン号事件

文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月の
露寇事件
北方で ロシアが暴れ
    人質まで取られ
    解放された時には
    開国拒否=日本全土攻撃
    こんな脅しを受けてゐた
文化五年(一八〇八)八月十五日
 フェートン号事件発生
 当時西欧は フランス革命で
 大きく揺れ動いてゐた
 フランスは
 オーストリア・英・オランダに
 宣戦布告
 オランダは 占領され
 オランダ国王ウイレム五世も追放
 オランダ国王の座には
 ナポレオンの甥である
 ルイ・ナポレオンが就いてゐた

 追放されたウイレム五世は
 イギリスと軍事同盟を結び
 オランダの海外植民地を
 イギリスの管理下に置くことに同意
 そこで イギリスは
 オランダ領・東インドに
 イギリス艦隊を派遣

 ところが 現地のオランダ艦隊は
 イギリス艦隊の指示に従はぬ
 そこで イギリスとオランダが
 戦闘状態になった そのため
 長崎へのオランダ船の入港は
 中断となってゐた
 そこにオランダ国旗を掲げた船が
 長崎に入港して来た
 オランダ商館長のドウフは
 その船を 怪しんだが
 そこは 長崎奉行には伏せてゐた
 
 オランダが今 フランスに
 支配されてゐることが
 幕府に知れると 幕府は
 オランダ以外の国と貿易をする
 それはオランダに不利益だった

 幕府の小舟が 近づき
 国旗の旗合はせをするが 不一致
 そこで イギリス軍艦は
 慌てて 小舟に乗船してゐた
 オランダ商館の蘭人二人を拉致
 小舟にゐた日本の二人の通詞は
 海に飛込み逃げ帰った

 イギリス側は
 オランダ船が
 長崎に逃げ込んだと
 拉致したオランダ人に
 厳しく問ひつめたが
 二人はオランダ船の入港はないと
 答へ続けた
 そこで イギリス軍艦は
 ボートを出して 海岸近辺を探す
 
 この行為が 日本人には
 上陸地点を探す行為に見えた
 そこで幕府の長崎奉行の松平は
 守備役の武士を集め
 小舟でイギリス軍艦を囲み
 松明を投げ込む戦闘を考へた
 
 ところが 拉致された一人の
 オランダ人が
 手紙を持って解放された
 手紙には かう書かれてゐた
 解放したオランダ人に 飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ 要求に応じぬ時は もう一人の捕虜を殺害し 日本船・唐船を全て焼き払ふ

 この手紙を読んだ奉行松平は
 法外之横文字と激怒し
 フェートン号の焼討実行に入る
 今では 学校も 役所も
 そして交番の看板も
 そして警察官の背中も
 平気で横文字で書くが
 当時は 横文字を
 
 邪悪な文字と見る風習があった
 『以呂波問瓣』は かう語る
オランダなどは
皆悉く横文字の国なり
梵字漢字 一向に通用せず
儒道も知らず 仏道も神道も無し
仁義も因果もなく
畜生の如くなる国なり

こんな自国の文字への自負心が
あったためだらう 奉行・松平は
法外之横文字に 侮蔑されたと憤り
先頭に立って 焼き討ちを進めた

この奉行の憤りを見て ドウフは
このままでは部下が殺されてしまふ
そこで奉行に 飲料水と食糧を
イギリス艦に送ることを懇願した
奉行も ドウフの気持ちを汲んで
解放されたオランダ人に
食糧と飲料水を持たせて帰艦させた
この時ドウフは 奉行の許可を得て
牛二頭・豚などを艦に送った

夜になって 帰艦したオランダ人と
艦に残されたオランダ人の二人が
解放された

翌一七日
役人が フェートン号に赴くと
要求した水・食糧が足りない!
一品でも足りぬ場合は 港を出ぬ
さう 威嚇して来た
この態度に 奉行松平が再び憤り
小舟で軍艦を囲んで松明を投げ込む
軍艦の焼き討ちを急いだ

しかし 午後になって風が吹くと
フェートン号は 動き出し
湾外の外に出て
水平線下に姿を消した

奉行松平は
地団駄を踏んで口惜しがったが
憤りを秘めて家来をねぎらひ
その夜に 酒宴を開いた
すると 深夜 生垣の近くで
腹を切り 喉元深く突き刺して
自刃してゐる松平が発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには かう書いてあった
 事件の経過が書かれ 奉行としての役目が果たせなかったことを詫び 恥辱を異国にさらしたことを申し訳なく切腹する
北方・長崎事件の対応

北方・長崎警備の増強と
通詞たちに
ロシア語と英語の習得を急がせた
英語の教授には
オランダ商館長・次席ブロムホフ

習った通詞たちは
文化七年十二月(一八一〇)
 『諳厄利亜語和解』一冊
あんげりあごわげ
文化八年二月(一八一一)
 『諳厄利亜語和解』二冊・三冊
同年九月(一八一一)
 『諳厄利亜興学』十冊
文化十一年(一八一四)六月
『諳厄利亜語林大成』
日本初の英和辞書が出来た
日本初の英語辞書の概要

品詞分類は 以下
江戸時代  現代
静詞   名詞
冠詞    同
代名詞   同
虚静詞  形容詞
動詞    同
形動詞  副詞
接続詞   同
所在詞  前置詞
嘆息詞  感動詞
・単語は六千語
・ABC順に並べられ
・発音と和訳が記されてゐた
ラクスマン来日

寛政四年(一七九二)
来日目的
 @漂流民の返還
 A日本との交易
漂流民は
天明二年(一七八二)十二月
紀州白子浜(鈴鹿市)を出て
遠州灘で大風に遭ひ漂流した
紳昌丸の乗組員十七名
帰還時 生存者五名
・光太夫(船頭)
・磯吉
・小市 の三名が帰還
残り二名は改宗して
ロシア・イルクーツク残留
・庄蔵と新藏
 庄蔵は 途中 凍傷で片足切断
 病院に入院中
 帰国の夢を抱へ続けることは
 有り得ぬことを夢見る妄想と
 悟って 改宗現地残留
 新藏は
 仲間の埋葬を引き受けるも
 改宗者以外は 野ざらしで
 棺桶も売ってくれないことから
 仲間の埋葬をきっかけに改宗

漂流の足跡は以下
・白子浜出港 遠州灘漂流始
 七ヶ月漂流
 漂流中 幾八  他界 一
@アリューシャン列島・アムトチカ島
 原住民とロシアの孤島支配者と
 共に四年暮らす
 磯吉の父三五郎 他界 二
 次郎兵衛    他界 三
 安五郎     他界 四
 作次郎     他界 五
 清七      他界 六
 長次カ     他界 七
 
 この頃
 エト・チョワ=これ 何?を覚え
 ロシア語を 皆で 覚え始めた
 スパシーボ  =ありがたう
 ヤッポンスカヤ=日本
 ダー     =はい

 藤助      他界 八

 光太夫は 七つの木標を立てた
 お墓である
カムチャッカ東岸に到着

アムトチカ島に
孤島勤務交代の船来るも
座礁沈没 そこで
ロシア人・日本人協力して
船をこしらへ 出港
めざすカムチャッカ半島まで
おほよそ一月の船旅だった

上陸すると 役人が来て
宿泊所が 用意されてゐた
着いて半年後
 与惣松     他界 九
 勘太郎     他界 十
 藤藏      他界 十一
日露の混血児

藤藏の埋葬を終へ
宿に帰ると…
『日本人 おいでか』
明らかに 日本語である
尋ねてみると…
『父は 下北半島の南部生まれで
 多賀丸の船乗りでしたが
 漂流して 千島の孤島に漂着
 そこで ロシア人に保護され
 カムチャッカに来ました
 父は 帰ることができず
 私の母と夫婦になり 子供三人
 私と妹の二人が さうです
 父は もし自分が死んだ後に
 日本の漂流民が来たら
 言葉が通じなければ 話せない
 その時のために お前たちに
 日本語を教へておく
 さう 言って
 毎日 日本語を教へてくれました
 父は昨年の春 亡くなりました』

その妹エレナと磯吉が恋仲となる
光太夫は
磯吉が 恋心に負けて
カムチャッカに留まる
さう 言ひ出すことを心配した

カムチャッカの役人・カピタンは
漂流民をオホーツクまで
連れて行く様に言はれてをり
光太夫は
出発の準備を 促されてゐた
光太夫は 生き残った新藏や庄蔵
そして 磯吉 小市 九右衛門に
集合場所を伝へて 出発を待った
磯吉が心配だったが
磯吉は そこに来た
どうしても 日本に帰りたい
その気持ちが勝ったのだらう

オホーツクまでは
カムチャッカ半島北部を
東から西に横断してチギリへ行く
そこから船で 海を渡って
オホーツクの港町に着く

船には
 カピタン一行 十五名
 漂流民    六名
 乗客     約八十名

オホーツク
カムチャッカ・チギリとは
全く異なる町だった
港には 大小多くの船があり
人家も二百戸ほどあり
家も がっしりとしてゐた

上陸すると役人がやってきて
「ヤクーツクへ行く」と言ひ
光太夫に銀三十枚
船乗りに銀二十五枚を渡し
旅館で体を休め
旅装を整へる様に指示された

ヤクーツクまでは馬車の旅だった
そこは 恐るべき寒さだった
ロシアで最も寒い地で
耳や鼻が壊死して落ち
頬なども腐って脱落するといふ

ここでも到着すると役人が来て
直ぐに 宿に案内してくれ
「イルクーツクに行って下さい」
さう言はれた
出発は 一ヶ月後の十二月だった
イルクーツクに行くには
キビツカといふ名の
幌馬車の「幌」が必要で
「キビツカが無ければ凍え死ぬ」
と言はれ 百枚の銀貨が渡された

光太夫たちは キビツカに乗込み
イルクーツクへ 向った
イルクーツクに到着する前
庄蔵が凍傷になった
オリョクマといふ町で
医者に診てもらひ 応急処置
三日休んで 出立
庄蔵の足の痛みが激しくなり
キリギといふ町で休息
光太夫は 庄蔵に
ここで春まで静養し
治ったら イルクーツクまで来い
今のままでは 一緒の旅は無理だ
と諭すも 庄蔵は泣いて拒んだ
光太夫が 何度も何度も諭したが
庄蔵は それでも一緒に行くと
言ひ張り 結局 庄蔵も
皆と一緒に イルクーツクに出立
イルクーツク
人家三千戸もある大きな町だった
同行してゐる役人が 役所に入り
出て来ると
イルクーツクの生活費として
 一日  銅貨五枚
 一ヶ月 百五十枚を
月の初めに渡すと 言った

この後 光太夫は 役所に行き
庄蔵の治療を頼んだ
役所は 病院を紹介してくれた
そこは治療費を払へぬ貧しい病人を
皇帝に任命された官医が
一般の患者同様に
治療を受けられる施設だった
光太夫は 直ぐに
江戸の小石川の薬園中に設けられた
養生所と同じだと思った
吉宗時代に 小川笙船といふ医家の
建言を取入れて 建てられたもので
費用一切は 幕府が負担してゐた

庄藏は この病院で足を切断した
療養に 長い時間を要したが
最後は 義足で歩ける様にまで
回復してゐた

ある日 カムチャッカから
オホーツクまで同行してくれた
役人カピタンが 訪れた
イルクーツクまで仕事に来たと言ふ
光太夫が 日本に帰りたいといふと
カピタンは そのためには
政府高官に働きかける必要がある
それには その方面に知人の多い
キリロが相応しい といふことで
イルクーツクの有識者キリロを
紹介してくれた
後に 光太夫たちを日本に送還した
アダム・ラクスマンの父である

このキリロ・ラクスマンの助力で
光太夫たちは
日本に帰ることができた
以後は 帰国許可の経緯である

帰国願書

願書作成手順
 光太夫が 漂流の経緯を語る
 キリロが それを記述して
 帰国願書を書き上げる
 それを光太夫が自筆する

提出先
 初めはイルクーツク省長官

キリロは 必ず上手く行く
光太夫を さう励ました

返事を待ってゐる時
日本語を話すロシア人三人が訪れた
三人の素性は
 父 宮古町の久助  @
 父 南部 の三之助 A
 父 南部 の長松  B
三人のロシア名は それぞれ
 @トラペズニコフ
 Aタタリーナフ
 Bセメノフ
日本語のレベル
 @日本語上手
 AB 片言の日本語
トラペズニコフの話

四十五年前の延享元年(一七四四)
船 ・多賀丸 乗船員十八名
漂流場所不明
漂着・オンネコタン島
漂流中 七名 他界
上陸後 船頭 他界
生存者 十名
カムチャッカに連れて行かれ
イルクーツクに移送され 落ち着く

イルクーツクには 航海学校があり
その中に 日本語学校がある
その十人は 皆
日本語学校の教師になるも
やがて 次々と他界

その教師の中の日本人三人が
この地で結婚 子供に恵まれました
私たち三人です

今日 お伺ひしたのは
(久助のお嫁さん つまり)
私・トラペスニゴフの母が
どうしても 父の仲間に会ひたい
会って ご馳走したい と
その話を持ちかけて来た
光太夫たちは喜んで
その招待を受けた

トラペスニゴフの母は かう言った
久助は 優しく
私と子供たちを愛してくれた
酒を呑むと
よく日本の歌を歌ってゐた
楽しい 食事会だった

数日後 光太夫は
何故 久助は 日本に帰らなかった
それは 帰国願書を
出さなかったから だらうか…
この質問をぶつけてみた

トラペズニコフは かう言った
「確かに 父は帰りたがってゐた
 しかし その願ひが
 果たせなかったは
 父だけではありません
 九十年前初めて来た人は 伝兵衛
 彼も日本語を教へ 改宗し
 ガブリエルの名を戴きました
 次は 三右衛門
 彼も洗礼を受け イバンと名乗り
 伝兵衛の助手として働きました
 やがて 二人とも 他界

 日本語の教師がゐなくなった時
 今度は ソーザとゴンザといふ
 二人の漂流民が来ました
 享保十三年(一七二八)
 若潮丸は
 大阪へ向けて薩摩を出港
 その後漂流し
 カムチャッカ半島に漂着
 ソーザは 宗藏 三十五歳
 ゴンザは 権蔵 十一歳
 ヤクーツクを経て
 首都・ペテロブルグに送られ
 女帝アンナと 会ふ
 その後 神学校に入れられ
 ロシア語を本格的に学び
 二人は 日本語学校の教師に…
 その年に 宗藏 他界
 教師は権蔵一人となりましたが
 ロシア語に 熟達し
 校長ボグダノフと共に
 世界初の『露日辞典』を作成
 その権蔵も 二十一歳で他界
 その後 日本語学校は
 教師不在のまま
 校長ボグダノフの尽力で存続
 六年後「多賀丸」の漂流民が
 日本語教師となりました
 私の父・久助です」

光太夫は 怖ろしくなった
ロシアに漂流した者は 全て
改宗させられ
帰国の望みを断たされ
日本語教師にさせられ
この地で 生を終へる

光太夫は 叫んだ
違ふ! 
彼らは 帰国願書を提出せず
ロシアの言ひなりに暮らしたのだ
私たちには キリロがゐる
キリロが
帰国願書を 皇帝に届けてくれる
さう 思ひを強くした

願書の返事

キリロと光太夫が
イルクーツク省長官に呼ばれた
返書は以下
 帰国のことは思ひとどまり オロシア国にて仕官すべし 生活は十分に配慮する

光太夫が
「断じて承知できません」と言ふと
長官は すかさず
「改めて帰国願を出しますか」
キリロは
「その様にして下さい」
かう 返答した
再度の帰国願作成手順は以下
 @光太夫が強い帰国の願を述ぶ
 Aそれをキリロが書く
 B長官とキリロが清書し
 C光太夫が 最後に署名する

かうして 二度目の帰国願が出来た

しかし 一回目の帰国願が
却下されたことを 聞いた庄蔵は
帰国の望みを抱いて
イライラ暮らすより
平穏無事に その日その日を暮らす
それだけでいい
さう 言って改宗を覚悟した

二度目の帰国願の返書が来た

今度は
キリロだけが長官に呼ばれ
光太夫は キリロから聞いた
 仕官を承知するなら 初めは下役人だが カピタンまで優先昇進させる 仕官する意思がないのなら 商人になればいい 必要な資金は提供するし 税金も免除する

光太夫は キリロに
「ありがたうござゐます」と言ひ
直ぐに 続けて かう言った
「私たちは 仕官にも商人にも
 なる気はありません
 たとへ
 どのやうな高官にとりたてられ
 豊かな商人にならうとも
 故国へ戻ることの方が
 幸せなのです」

 これを聞いたキリロは
 黙って 書面を書き出した
 三度目の帰国願である
 キリロが 光太夫に見せた
 そこには
 どのやうな高官 または富裕の身にして下さるより 自分にとっては 帰国を許してくれることが最大の恩恵だ
と 光太夫の思ひが
そのまま綴られてゐた
光太夫は 直ぐに署名した

ロシア政府の報復

いつもの様に 毎月の生活補助金を
役所に 磯吉が受け取りに行くと
生活補助金の支給停止と言はれた
役人に 詳細を問ひただすと
光太夫たちが
政府の回答を拒否した時は
生活補助金の支給を停止せよ
こんな通達が来て居たと言ふ

慌てた光太夫が キリロを訪ぬと
キリロは
「心配 要りません
 私が 生活費を保障します
 負けてはいけません
 必ず良い報せがある
 その日を あなたたちと共に
 私は 待ちます」と言った

ペテルブルグ

しかし 三度目の返書は来ない
十一ヶ月経っても 返事が来ない
役人が 自分の手許に置いて
皇帝の眼に届いてゐないのでは…
キリロは さう思った
「皇帝に直訴しよう」
キリロは 光太夫に さう言った

光太夫が 直訴を決意した頃
六十歳の九右衛門が 病に倒れた
直訴出立の二日前だった
そこで 光太夫は 葬儀の手配を
新藏に任せ 都へ急いだ

一月十五日 イルクーツク出立
二月十九日 ペテルブルグ着

キリロは 知り合ひの外務大臣代行
陸軍元帥に
四度目の帰国願書を手渡した

しかし 返書は来ない
さうかうしてゐるうちに
皇帝は 避暑のため
ペテルブルグからセロに移り
九月にならぬと帰って来ないと聞く

光太夫は イルクーツクに戻りたい
キリロに伝へた キリロは
「避暑地のセロに行かう」
さう 励ました
光太夫は「もういいです」
キリロは「諦めてはいけない」
キリロは 光太夫を諭した
二人は 避暑地セロに出立
五月八日であった

セロに着いて 直ぐに
キリロの知人ブシと会ふ
ブシは 皇帝から厚く信頼された
花園の管理人だった キリロは
直ぐにブシに 事情を説明した
成り行きを理解したブシは 
皇帝に 光太夫からの願書を
採り上げでもらふ様に働きかける
さう約束した

六月になった
願書の返事は 未だない
光太夫は イルクーツクに戻りたい
さう思ってゐた
帰国願望も 弱くなってゐた

六月二十八日

 ペテルブルグで
 四度目の願書を受け取った
 外務大臣代行・陸軍元帥が
 避暑地セロに来て
 経過を女帝エカテリーナに報告
 女帝は「直ちに参内させよ」
 さう 言った

ブシの家に戻ったキリロと光太夫は
女帝との拝謁の作法を練習した
はいえつ

数日後 ブシの家から
避暑地の宮殿に馬車で向った
馬車を降りて 宮殿の中に入ると
願書を届けてくれた外務大臣代行と
商務大臣の二人が迎へてくれた

二人に先導される様にして
その後を 光太夫とキリロが歩いた
大きな階段の両側には
四百人ほどの男たちが立ってゐた

光太夫は 一人で階段を昇り
教へられた通りの作法の後
後ずさりして階段を降りた

「この書は誰が書いた
 定めしキリロであらう」
キリロは 頭を下げ
「仰せの通り 私でござゐます
 こちらの光太夫の申すままを
 書きました」

秘書官が近づき
光太夫に事情の説明を促した
光太夫は ゆっくりと かう言った

白子浜を出て 暴風雨に遭ひ漂流
七ヶ月の漂流中一名他界 そして
ロシア領のアムトチカ島に漂着
孤島に出張してゐたロシア商人に
保護されましたが
風土と食物になじめず 七名他界
後に
カムチャッカに移送されましたが
そこでも三名が他界
半島横断後 チギリからオホーツク
ヤクーツク・イルクーツクに移送
この途中 仲間の一人が凍傷になり
イルクーツクの病院で 片足を切断
私こと光太夫が キリロと二人で
ペテルブルグに向ふ直前
仲間の一人が 他界しました

日本を出ました時は十七人でしたが
今は 五人となりました

女帝は「オホ・ジャウコ」と言った
可哀相に といふ意味である
光太夫が 後で知り得たことだが
帰国願は
元老院の政務次官のもとに止められ
皇帝に届かなかった
願書を止め置いた政務次官は
七日の謹慎処分を受けてゐた

女帝エカテリーナは
「イルクーツクで旅の準備を整へ
港はオホーツクにせよ」と
イルクーツクの省長官に指令した

後日 商務大臣は
女帝から餞別の下賜の命を受け
光太夫を屋敷に招いた

下賜一覧

光太夫には…
 金メダル
  このメダルは ロシアで
  格別の勲功があった者にしか
  下賜されぬ名誉あるもの
  過去に二人 賜った者がゐる
  一人は 花火師
  もう一人は 九年かけて
  アメリカ一周をした航海士
  このメダルを首にかけた者は
  ロシア本国では
  最高の栄誉を以て迎へられたる
 自鳴鐘(時計)
 金貨 百五十枚
小市と磯吉には…
 銀メダル

小市・磯吉・新藏・庄蔵に…
 各々金貨五十枚

帰国までの生活費として
 光太夫 銀貨  ・九百枚
 他四名 各々銀貨・三百枚

さらに
光太夫に 帰国三人分として
馬車等帰国費用 銀貨・三百枚
帰国食事代   銀貨・二百枚

光太夫は
女帝の温情の深さに感動した
故国への旅

問題は 庄蔵と新藏だった
改宗したために 帰国不可
しかし 黙って帰ることもできない
新藏は 冷静冷淡な所があるので
恐らく 話しても大丈夫
問題は 庄蔵だった
庄蔵の改宗は
本来は帰りたいが 帰れない
どうせ帰れないなら
ロシアで気楽に過ごせばいい
こんな選択からの改宗だった

だから 磯吉も小市も 庄蔵に
自分達の帰国決定は 言へなかった
そこで 光太夫が帰国出立直前に
伝へることになった

その日が来た 光太夫は
「いとまごひに来た
 私と磯吉と小市は
 今日出立する
 お前と新藏は改宗したので
 連れて行くわけにはいかん
 お前が気の毒で 私も辛い
 いつまでも達者に居てくれ
 ここで別れたら二度と会へない
 互ひに 顔を良く見ておかう
 お前の顔を決して忘れない
 達者でな」と言って
逃げる様に 庄蔵の借家を出た

背後に 庄蔵の気配を感じた
突然 野獣の様な叫び聲が聞こえた
光太夫は 走りながら振り返った
路上に出て来た庄蔵が
片足で跳ねる様に追ひながら
「連れて行ってくれ おれも帰る」
子供の様に 大きな聲をあげて
泣き叫んでゐる
庄蔵は 倒れては起き上がり
泣きわめいて追って来る
庄蔵が哀れで
光太夫の 眼から涙があふれ出た
頬に流れる涙もぬぐうことなく
光太夫は 走り続けた
庄蔵の耳について離れなかった
光太夫は 嗚咽した

新藏との別れ

新藏には 出立の日を
予め小市が 手紙で伝へてゐた
予想通り 新藏は
動揺することなく 冷静であった

出立の日

小市と磯吉が荷馬車で走ってゐると
後から新藏が 馬でついて来た
いつまでも ついて来るので
「もう 戻った方がいい」と
磯吉と小市が言ふも 新藏は
「もう少し…」と言ってついて来る
仕方がないので 二人は馬を止め
「ここで別れよう」と言ふと
新藏も 馬から降りて
「ここから引き返す」と言った
その時 突然 新藏から
うっ といふ呻き聲が漏れ
はじける様な泣き聲をあげ
磯吉に しがみついて来た
激しい泣き方で
幼児の様に 磯吉の体をゆする
磯吉は 黙って新藏の背中をさする
磯吉も小市も 涙が止まらなかった
「体に気をつけてな」
「冬の寒さに負けるなよ」
互ひに手を振りながら別れた
約束の地点で 光太夫と合流し
三人で オホーツクまで急いだ

ロシア使節団

オホーツクに着くと
キリロの次男
アダム・ラクスマンが
三ヶ月も前から この地に来て
旅仕度を整へ 待ってゐた
船名 エカテリーナ号
形  商船
通訳 トラペズニコフ
    多賀丸・久助の長男
   トゴルコフ
    トラペズニコフの
    日本語学校の教へ子
団長 アダム・ラクスマン
     二十六歳 陸軍中尉
水先案内人 シャリバン
交易準備  ロシアの商人一団
総員四十二名であった
寛政四年(一七九二)
 八月九日
  オホーツク出港
 九月三日
  根室近辺到着
 九月四日
  松前藩主張役所・根室上陸
 十一月五日
  船上寒さ厳しく
  許可得て 陸に仮小屋建築

寛政五年(一七九三)
 三月十二日
  ロシア船員一人  他界
 三月二十三日
  松前藩 鈴木熊藏 他界
  ロシア人から
  温かい人柄で好かれてゐた
 四月一日
  ロシアとの交渉の幕吏到着
  その夜
  小市意識混濁状態
 四月二日
  夜明け近く 小市 他界
  根室に伊勢国白子浦水主小市
  と書かれた木標を立てる
 四月四日
  幕府…ここで漂流民受取り即刻
     使節団ロシア帰港を希望
  アダム・ラクスマン…
   女帝の命にて 漂流民返還
   軽い身分の者に 渡せない
  結局
   松前藩にて漂流民受取決定
 五月三日
  エカテリーナ号先導役の
  幕府の船が到着
 六月九日
  二船・箱館入港

 六月十一日
  箱館から陸路で松前に向ふ
  おびただしい数の警備がつき
  大名行列の様な
  総勢四二〇名の大行列となった

 六月二十一日
  松前藩浜屋敷にて第一回会談
  ラクスマンの主張
   漂流民を届けた際に
   日本との友好協約締結を希望
  幕府…終始無言

 六月二十四日 第二回会談
  日本との通商を求むなら
  長崎に赴くように告げ
  長崎に入港する「許可証」を
  与へる用意がある と言った

 六月二十七日 第三回会談
  幕吏  石川将監・村上大学
  ロシア アダム・ラクスマン
  幕府側
   漂流民二人受取証書と
   入港許可書『信牌』を渡す
しんぱい
  ロシア側
   大鏡二個
   ピストル二挺
   寒暖計二個 を幕府に進呈
 七月十六日
  ロシア使節団 箱館出港
安永七年(一七七八)
 ロシア船 根室に来航
 交易求むも 幕府拒否
 ロシア船には
 日本語学校の日本人教師から
 日本語を習ったロシア人通訳もゐた
 ロシア船は そのまま去った

安永八年(一七七九)
 根室と釧路の間 やや釧路よりの
 厚岸(あっけし)に来航
 交易を求むも 幕府は再び拒絶

こんな時に ロシア事情に通じ
ロシア語も身につけた二人が帰国
対露交渉に欠かせぬ重要人物だった
だから 幕府は 江戸までの道中
役人が毒味までして二人を守った
寛政五年 江戸へ

七月十六日
 光太夫一行 津軽海峡渡る
八月十七日
 江戸の入口 千住宿に着く
 奉行所の取調べが終はると
 雉子橋外の長屋に運ばれた
 十畳の座敷に 別々に入れられた
 窓は全て板が打ち付けられ
 同心が昼夜警護にあたってゐた
九月十八日
 江戸城内・吹上御物見所の
 白州に導かれ 問答を受けた
 質問者は
 ・桂川甫周(ほしゅう)
 ・高井清寅(きよとら)
その後 桂川甫周が たびたび
光太夫を訪ねては 質問をつづけ
それが 厖大な記録となり 後に
『北槎聞略』としてまとめられた
ほくさぶんりゃく
今は岩波文庫で読める

寛政六年(一七九四)七月一日
 二人は 奉行所に出頭
 今後の処置の申渡し書が
 読み上げられた

 光太夫四十四歳 磯吉二十九歳は
 オロシアに渡って
 長年苦難に遭ひながら
 帰国したことは『奇特成志』
きとくなるし
 その苦労に対し
 光太夫に 金三十枚
 磯吉に  金二十枚 を下賜する
つづけて
 一 漂流民は帰還すると 故郷へ
   戻すのが習ひだが 二人は江
   戸に留まる様にせよ 宿所は
   番町の薬園内にある住居とす
   る 月々の生活費は 光太夫
   に金三両 磯吉に二両とする

 二 両人とも思ひのままに妻帯し
   安楽に暮らすが良い 薬園に
   住むとはいへ 植物の世話は
   一切しなくてよい

 三 赤人の国(ロシア)の様子を
   みだりに人に話してはならぬ

二人は 右の申渡しを受け
その日の内に 六畳三間の
薬園の住居に移った
念願の帰国を果たすも
根室で 他界した小市にも
同等の扱ひをすべきとの聲多く
小市の妻「けん」には
銀十枚が下賜された

蘭学者の桂川甫周は
「北槎聞略」をまとめた後も
光太夫のもとを訪れた
ある日 甫周は 光太夫に
大槻玄沢の蘭学者たちの
芝蘭堂新元会と称する会に
しらんどう
正賓として出て欲しい と言った
開催日は
寛政六年(一七九四)閏十一月十一日
うるう
西洋暦では一七九五年一月一日
会場は 大槻玄沢の家塾・芝蘭堂
ナイフとフォークが用意され
酒も 葡萄酒が出された
寛政七年(一七九五)
 光太夫四十五歳 磯吉三十歳
 この年 周囲の勧めもあって
 光太夫は 十八歳の娘「まき」を
 嫁として迎へ入れた
 翌年 磯吉も 嫁をもらった
寛政九年(一七九六)
 まきが 男子を産む
 光太夫は 名を亀二郎と名づけた
寛政十年(一七九八)十一月二十八日
 故郷若松村の亀山藩が帰郷許可
 しかし 滞在期間は三十日
 磯吉 故郷若松村に出立
 七十五歳の母は
 磯吉にしがみついて泣く
 磯吉は詳しく父三五郎の死を語る
 妹たち 知人親類も 駆けつけ
 その日の酒宴は 夜まで続いた
光太夫のもとには
ロシア語習得を願ふものが
よく 訪れてゐた
ロシア地図の作成にあたってゐた
幕府天文方の間重富も
はざましげとみ
その一人であった

文化二年(一八〇五)
 ロシアから帰国した漂流民が
 江戸に入り 市中の話題となった
 前年の文化元年(一八〇四)に
 来日したロシア使節レザノフの
 乗る船で帰国した四人だった

帰国した四人

寛政五年(一七九三)十一月二十七日
 船  若宮丸
 出港 陸奥国石巻
 船乗 十六名
 漂流 五ヶ月
 漂着 アリューシャン列島
寛政七年(一七九五)
 ロシア人の保護を受け
 オホーツクから
 イルクーツクに移送された

聞き取りは
 光太夫たちは 桂川甫周だったが
 若宮丸船員は 大槻玄沢だった

しかし 帰還した船乗りたちは
光太夫たちの様に
ロシア語に精通してゐなかった
そのため 彼らの漂流生活が
つまびらかにわからなかった
そこで大槻は 厖大な聞書の校閲を
光太夫に頼んだ
光太夫は 快く引き受けた
大槻と二人で記録の細部にわたって
一つ一つ検討した

庄蔵と新藏

イルクーツクの生活記録に
日本語通訳のトゴルコフの家で
世話になった とあった
トゴルコフは
漂流民久助の長男トラペズニコフの
日本語学校の教へ子で
一緒に 根室に来た通訳
光太夫は驚き 記録を読みすすめた
記録によれば
トゴルコフの勧めで
漂流民二人が 改宗
これを不快に思った儀兵衛は
二人と別れ 庄蔵の家に移った
庄蔵は 病身で
儀兵衛と同居した年の夏に他界
儀兵衛が看取ったといふ

新藏の名も出て来た
新蔵は
日本語学校の教師になってゐた
若宮丸の漂流民は
新藏について「怜悧」と表現
冷たい人柄と感じてゐたのだらう

光太夫の活躍

文化元年(一八〇四)
 ラクスマンに渡した
 入港許可書「信牌」を手にした
 ロシア使節レザノフの入港拒否
 これによって
 ロシアとの関係は悪化
 これより 光太夫のもとに
 語学の才に長けた者が
 以前より頻繁に訪れる様になった
 通詞・馬場佐十カもその一人
 彼は 幕府の命を受けて
 ロシア語を習ひに来てゐた
 馬場は
 「ロシア語短文集」をまとめた
 そこには一四〇〇の単語があった
 洋学者足立左内も習ひに来てゐた
露寇事件

文化元年(一八〇四)
 若宮丸の漂流民が返還された
 その二年後
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月に
 ロシアは
 樺太・択捉・利尻島を襲った
 これは 明らかに 幕府の
 ・入港拒否
 ・通商拒否 の報復だった
 人質解放時には
 通商拒否すれば日本全土攻撃
 こんな脅しの手紙も送られて来た
文化八年(一八一一)
 北方海域調査に来たゴローニンが
 国後島にて 薪・水補給を求む
 この時 ゴローニンら捕縛拘留
文化九年(一八一二)
 部下のリコルドが国後島に来て
 ゴローニン返還要求するも
 幕府 拒否
 リコルド 報復として
 高田屋嘉兵衛ら拿捕
文化十年(一八一三)五月
 高田屋嘉兵衛を釈放し
 ゴローニンの釈放を要求
 幕府 露寇事件の謝罪と
    略奪品の返還を要求
 リコルド了承して退去
同年九月
 人質解放交渉のため
 リコルド箱館入港
 通訳 馬場佐十カ
    足立左内
 通訳の二人は 前述した様に
 光太夫の宿所に訪れ
 ロシア語を習ひに来た二人だった
 日露交渉は 順調に進み
 ゴローニンは 解放された

文政十一年(一八二八)
 四月十五日 光太夫 他界
 七十八歳 本郷の興安寺に眠る

天保九年(一八三八)
 十一月十五日 磯吉 他界
 遺言により
 磯吉 本郷の興安寺に埋葬
 七十三歳であった

嘉永四年(一八五一)
 五月二十二日 亀二郎 他界
 光太夫の息子・亀二郎は
 学識を備へた学者となり
 姓を大黒とし 号を梅陰とした
 同じく 興安寺に眠る
 五十五歳であった

原作 吉村昭『大黒屋光太夫』
詩文 岩田修良
打語 天地之詞



日付 令和六年八月九日