令和6年4月4日 情勢地図 Watag eXtensible Markup Language
大東亜戦争

史実淡々

第1号
大東亜戦争
 発行 私塾鶴羽實
 郵番 四三八ー〇〇八六
 住所 磐田市見付二七八六
 電話 〇五三八ー三三ー〇二七三
 FX 〇五三八ー三一ー五〇〇三
 電信 logosアmvbドbiglobeレneスjp
 編者 岩田修良
 カナ ア=@ ドレス=ドット
情勢地図


第一次世界大戦中に
ドイツ領を占領し その後
国際連盟の委任統治となった
南洋群島
グアムに視点を置けば
アメリカが
日本を敵視したのが よくわかる
大正十二年(一九二三)に
日本軍が 対米作戦要領で
開戦劈頭グアム占領
加へた気持ちも
地図を見れば 理解できる
史実を知るには
当時の情勢地図に眼を通すのが
まづ初め
パラオ諸島の小さな島
コロール島
南洋群島の本庁が置かれたのは
大正十一年(一九二二)四月一日
また
昭和十五年(一九四〇)
二月十一日には
こんな南洋~社が創建された
御祭~は 天照大御神
それは 恐らく
異心暴力革命政府が
仰いだ
真っ赤な嘘月だらう
当時
復古してゐたら
天照大御神は
何をさしたであらうか
それは おそらく
鮮血滲む 真赤な火の玉ではなく
純心無垢な日の丸だった
と思はる
今では破天荒な私説であるが
昔の文献から探れば
真っ赤な嘘月を
日の丸とみる認識の方が
余程 常識外れな見方となる

国宝・土佐光信著
  『清水寺縁起』
室町時代に書かれた
絵巻物語である
そこに 常識外れの日の丸が
描かれてゐる
今から三十数年前
高校教員だった私は
真っ赤な嘘月を
何の疑ひもなく 無邪気に
昔の日の丸だと思ひ込んでゐた
ところが ある日 ひょいっと
手にした『清水寺縁起』
そこでは 驚くことに
大和朝廷が
日の丸軍を退治してゐた
あれ? 日の丸って
大和朝廷の国旗ではなかったの?
朝廷に退治されてゐる日の丸軍は
蝦夷(えぞ)
その蝦夷軍の容姿が またスゴイ
人として描かれてゐない
ーへんてこな気持ちになったー
その姿は 地獄に住むといはれた
『餓鬼畜生』の姿であった
そんな堕ちた人々になってゐた

一体 これは
何を意味するのだらうか
何故 この絵が
国宝として今に残るのか

日の丸好きには
そんな疑念が晴れない
この複雑な思ひを抱へて二十数年
ー略ー
令和四年八月九日
古代と思はる
昔の国旗の図柄が 浮かんだ


今の日の丸は 本物か?
それとも偽物か?
この迷ひを持ち続けた結果の
産物である
もちろん真相は わからない
今の日の丸が本物で
ここで言ふ
に相当する
純心無垢な日の丸
偽物かもしれない

しかしどうしても さう思へない
『古事記』の言ふ
禍津日~(まがつひのかみ)
見えてしまふ
それは 以下の『禍』の
語源展開式に由来する
禍=わざわい
 =わざわひ
 =ワざ輪火
 =ロ座輪火(ロ=ワ)
 =四界に座する火輪

絵体の知れた姿にすると…
@四界(に)
A座する火輪

昨年末 岸田首相は
自分が火の玉となると言ったら
四海に浮かぶ輪島が
火の玉となって炎上した

よって 以下の結論が
常に浮かんで来る

今の日の丸は 日の丸ではない
それは 真っ赤な嘘月(うそつき)
古事記の『禍津日~』(まがつひのかみ)
『禍の火種』
『地獄の猛火』である
この認識を語り継ぐために
土佐光信は
『清水寺縁起』を描いた
土佐の認識が 本物だから
歴史は
この書を国宝として残した
ところが 何時も心は西洋の人
こんな人たちばかりだから
折角の国宝も役に立たずにゐる
それだけの話だ

過去に眼が向かないのだ
だから 大東亜戦争もわからない
歴史に無知であることに
何の恥らいもなく
唯 遊ぶことだけが
生きがいとなってしまった

しかし 中には 歴史を知りたい
そんな方もゐる
そんな子供もゐる
そんな方や子供たちのために
歴史を淡々と語りたい

戦前の大陸事情

戦前の大陸事情は
戦前の南洋群島と同様
あまり知られてゐない
当時の確かな情勢地図を
教はってゐないからだ
昭和十一年十二月三十一日
ワシントン軍縮条約が失効
つまり
条約による制約がなくなる
やりたい放題になったわけだ
だから
昭和十二年一月一日から
『南洋の南進』と
『大陸の南進』とが加速した
南洋は『飛行場建設』を急ぎ
大陸は『中国支配』が加速した

少し 時間は遡るが
明治二十四年(一八九一)
榎本武揚(たけあき)が外相になると
直ぐに 植民計画を実施するため
南洋群島・ニューギニア・
マレー半島を調査した
興味深いことは
大東亜戦争の緒戦が
榎本の意志を継ぐかの様に
マレー半島の
コタバル上陸に始まり
グアム・ウェーク・
マキン・タラワ
ラエ・サラモアを占領
それは 榎本が植民地調査をした
マレー半島
南洋群島の拡大領域
ニューギニア東部であった
   

昭和十二年
 七月七日   盧溝橋事件@
 十二月十三日 南京占領 A
昭和十三年
 十月二十七日 武漢三鎮占領B

蒋介石の国民政府は
重慶に退いてゐた

この頃は 念願の国産機
九六式艦上戦闘機と
九六式中型陸上攻撃機を
三菱名古屋航空機製作所で生産
制式採用の昭和十一年が
皇紀二五九六年に相当するので

末尾の九六を取って
九六式と名づけられた
ところが
武漢漢口飛行場から
爆撃地重慶まで 片道七五〇`
航続距離が長かったため
九六式艦上戦闘機は
掩護につけない
よって 九六式中型爆撃機は
掩護なしで出撃してゐた
防備が極端に弱かった爆撃機は
迎へ撃つ中国空軍に
簡単に撃墜され
大きな損害を出してゐた
だから 海軍は
爆撃機と同様に 航続距離が長く
そして 高速で
大きな弾を撃つ機銃のついた
新型艦上戦闘機を望んでゐた
とはいっても
九六式艦上戦闘機も
「外国の超一流機のやうだ」と
試乗した前原謙治中将が
称賛した様に
世界の航空先進国で
製作された戦闘機を
遙かに越えた
高度な性能を備へてゐた

その性能を上回る戦闘機を
海軍は要求して来たのだ

日本航空機の技術の高さは
以下の事実が物語る
朝日新聞社の「神風号」が
立川ーロンドン 一五三五七`を
九十四時間十七分五十六秒の
短時間で翔破!
世界新記録を樹立してゐた

新型戦闘機の性能

九十六式艦上戦闘機
 高度 三二〇〇b
 時速 四五〇`
 機銃 七・七_二挺
新型艦上戦闘機
 高度 四〇〇〇b
 時速 五〇〇`
 機銃 二〇_二挺追加

新型の戦闘機は
昭和十二年の試作機といふことで
十二試艦上戦闘機と言はれた

昭和十二年十二月二日
盧溝橋事件が起きて 五ヶ月後
航空母艦「加賀」に
当時最高の性能を持つ
九六式艦上戦闘機を載せ
中国空軍と 空中戦をさせた
中国軍は英・米・ソの戦闘機
ここで 日本は
圧倒的な強さを見せた
ソ連製の戦闘機十機撃墜を最後に
南京上空から 外国機を追放
南京の制空権を取ったのだ
しかし海軍は 日本の基地から
中国大陸を攻撃出来る戦闘機
九六式戦闘機よりも
航続距離の長い戦闘機を望んだ
それは 将来の『南進』を
見据ゑてのものと思はる
つまり米領フィリピンへの攻撃
この戦闘を
海軍は 夢見てゐたのだらう
開戦劈頭グアム占領 それには
フィリピンの米軍飛行基地
シンガポールの英・東洋艦隊
この二つが邪魔だったのだらう
南京占領

少し黒みがある水色の地名
これは
細菌部隊が置かれた地名
平房(へいほう)本部
牡丹江(ぼたんこう)
林口(りんこう)
孫呉(そんご)
ハイラルは その支部である
ワシントン軍縮条約失効の翌日
昭和十二年(一九三七)一月一日
この日から
南洋・大陸の支配は加速したが
もう一つ 資源の少ない国が
大国に勝つ戦術として考へられた
細菌戦の準備は その五年前の
昭和七年四月二日に始まった
それは
陸軍軍医学校に防疫研究室
八月に 石井四郎が主幹となり
以後 石井を中心に
細菌戦の研究と実戦が展開された
それは 石井個人の作戦ではなく
国を挙げての作戦であった
昭和十五年(一九四〇)十二月二日
満州に存した本部と四支部は以下
孫呉
B ノ     A林口
   ノ     \ @牡丹江
     /  \ 
  ハルピン○  ■平房(本部)
      \/
   安達    /
  \      新京(満州国首都)
\          /
Cハイラル        奉天
五番目の支部は大連
また 当時は中国にも
南京北京広東
支部が置かれてゐた
コタバル上陸作戦に始まる
マレー半島占領
シンガポール占領が終はると
シンガポールには
南方防疫給水部が置かれた
南方の行政官庁が
コロール島にあった様に
南方の細菌部隊の本拠地が
シンガポールに置かれたのだ
ここを拠点に
ジャカルタ支部などが置かれた

当時の細菌戦は
空中散布が 一般的であったが
細菌は 光に弱く
空中落下してゐる間に
死滅するため 空中散布をしても
細菌戦にならない
さう 考へられてゐた

そこで石井は考へた
感染させた『蚤』を養育し
さらにその『蚤』を鍛錬し
その鍛へあげた『蚤』を
空中散布すれば
その『蚤』が 人にたかって
人を細菌感染させることができる

そこで石井は
風呂桶に蚤を入れ
そこにライトを照らした
光りを嫌がる蚤は逃げる
元気のいい蚤が素早く逃げる
逃げ道を用意して
排水口から逃られる様にした

逃げ遅れた蚤を 殺処分して
元気よく逃げた蚤だけを集めた
鍛へ上げられた
精鋭『蚤部隊』の誕生である

精鋭部隊を作りあげれば
実践して その成果をみたくなる
これが人情である
実戦された主な細菌戦は以下三つ
戦前
 昭和十五年十月下旬
  寧波に空中散布
 昭和十六年十一月四日
  常徳に空中散布
戦中
 昭和十七年五月から九月
  セッカン作戦
被験者

人体実験に使用された人は
合法的に利用された
悪事を働くには
それが 合法的である様にみせる
これが肝要であるが
その法律は
昭和十三年(一九三八)一月二十六日
発せられた
『特移扱に関する件通牒』
日本の植民地支配に
・抵抗した者
・抵抗したとみなされる者は
裁判をせず 事件送致をせず
平房まで連行する
これを『特移扱』と呼び
『平房』に被験者を極秘に集めた

連行する人に注目されたい
日本の植民地支配に
・抵抗する者
・抵抗するとみなされる者
これなら 極端な話
誰でも 疑ひをかけられる
そして 裁判もなく
黙って 平房に連れて行ける
かうして
連行されて人体実験された人は
少なくとも三千人はゐた

その人たちは 満州では『マルタ』
南京では『材木』と呼ばれ
医学界では『満州猿』と呼ばれ
公然と人体実験されてゐた
当時の認識を知らないと
了解しにくいことだが
日本軍に抵抗する人たちは
満州では『匪賊』
朝鮮では『不逞鮮人』
国内では『国賊』と呼ばれ
人間扱ひされなかった

たとへば 大杉栄事件
大杉栄は 社会主義者であった
愛人は伊藤野枝
そして甥っ子

関東大震災が起きた時
社会主義者と朝鮮人が
暴動を起こして政府を転覆させる
こんなデマが広がってゐた

そこで 国内の治安維持といふ名目で
社会主義者には
憲兵らの厳しい監視の眼があった
そこで 訊問を受け 連行され
その日の内に三人は絞め殺された
主犯は 甘粕大尉
驚くべきことは
検察の論告求刑文
要点だけを簡単にご紹介する
和が国は 法治国家であるから
社会主義者だからといって
殺していいことにはならない
しかし!
甘粕大尉の国を思ふ気持ち
それは美しい
よって 減刑!
時の日本政府に逆らふ者は
法治国家であるから
直ぐさま
殺していいとはならない
しかし!
こんな人々を放置しておいたら
和が国の繁栄はない
その思ひを以て
国を守るためにとった行為は
美しい!
それを検察が言ふ
ここに 私たちが
想像しても 想像しきれぬ
戦前の異常な意識がある
こんな意識があったから
中国人や朝鮮人も
平気で殺せたのではないか…
この
病的な優越感
病的な独善的思考は
一体 どこから来るのか…
私が 考へたいことは
常に最後は心の問題になって来る
私の仮説は一つ
禍の火種である
禍=わざわい(現かな)
 =ワざわひ(旧かな)
 =ロ座輪火
 =四界に座する火輪
禍の火種に
心が支配された結果の
自然現象
だから

清く
明るく
とことん和

今回の自民党の事件
どう考へても心の問題である
だから
いくら制度や法を変へても
裏金を合法的に作る!
この意識がある限り
永遠に 裏金作りは終はらない
絶対にやらない
裏金は 二度と作らない
ハッキリ言って その心があれば
裏金事件は 二度と起きない
にもかかはらず
誰も 心の問題とは言はない
この
自身が想像するに
こんな『此炉』(こころ)の中に住む
青人草
庭の椢葉
隣の檪葉の産物

だと思ってゐる

椢…西のくぬぎ
檪…東のくぬぎ

昔 雑草は雑草ではなく
青人草(あをひとぐさ)といった
何故か?
こんな語源展開式を考へてみた
青人草=青ノし
   =青の詩
人=ノし


だとすると
大地の草は『此炉』の中で
清くと詩ってゐることになる

さらに考ふべきは
青人草の意味である
広辞苑によれば 青人草とは
『国民』のことをいふ
この国民を
かつて この地にゐた人とすると
かつて この国に暮らした人が
この地が恋しくなって
草の姿になって降りて来た
こんな『昔の死生観』に出会す
もちろん この仮説を
人に無理強いするつもりはない
唯 この考へ方で
自分の人生が 大きく変はった
これだけは伝へたい
もちろん いい意味で変はった
だから 私塾鶴羽實は
春・夏・冬の講習になると
生徒と一緒に草取をする
いや それだけで終はらない
その草を『此炉』に納める
そして東洋哲学の真髄
四大=万物の根源要素
   地・水・火・風を説く
地=地面の地
水=雨水の水
火=発酵の火
風=気孔の風

生徒諸君も
大いに納得してくれる

話は 十二試艦上戦闘機に戻る
世界初の渡洋爆撃

昭和十二年七月七日
 盧溝橋事件が起きる
 日本政府の不拡大方針もあったが
同 年  七月二十八日
 北史に駐屯してゐた日本軍が
 総攻撃を開始
同 年  八月八日
 北京入城もあり
 盧溝橋の局地的戦闘は
 全面戦争に広がって行った
同 年  八月十四日
 鹿屋航空隊が
 台北の松山基地から
 東シナ海を横断して
 抗州・広徳の飛行場を爆撃した
 

鹿屋航空隊 (台北・松山基地)
木更津航空隊(長崎・大村基地)
海を渡って航続距離の長い爆撃を
当局は 『渡洋爆撃』と名づけ
戦果は誇張されて報道された
国民は 報道に煽られ 熱狂した
渡洋爆撃の初めは以下の三日
十四日
 台北・松山基地ー抗州
  距離は六二〇`
十五日
 台北・松山基地ー南昌
 長崎・大村基地ー南京
  大村ー南京は 距離九六〇`
  往復・約千浬(かいり)
  当時では並外れた距離
  ※一浬=一八五二b
十六日
 鹿屋 ・台北ー句容・揚州
 木更津・済州ー南京(蘇州)
勇ましく報道されたが
日本側の人・機の損失は
・搭乗員 六五名
・爆撃機
  鹿屋隊  八機
  木更津隊 十二機

国内では『渡洋爆撃』が
有名になったが
世界からは 都市への爆撃は
「無差別爆撃」だと非難を浴びた

戦後になって
この非道なる爆撃の報ひとして
東京大空襲・原爆を受けた
こんな報復の論理を
主張する者も出た
これら一連の爆撃は
出撃機数
投弾量
機動距離
どれをとっても 間違ひなく
世界航空戦史に例を見ない
『大破壊力』と『残忍さ』
この二つの記録を
更新するものといへる

こんな意見が出るほどの
中国大陸への大空爆であったが
日本側の被害も甚大であった
だから 海軍航空本部は
長距離爆撃機を掩護する
有能な戦闘機が欲しかった
昭和十二年十月五日
中島飛行機と三菱重工に
十二試艦上戦闘機計画要求書を
交付した
三菱の堀越二郎は
海軍の要求する性能を見て
確かに 出来たら世界一と思ふ
しかし 作る自信はなかった
だからだらう 中島飛行機は
十二試艦上戦闘機の開発を
早々に辞退してしまった
製作は 三菱重工一社となった
作業は難航を極めたが
堀越は 諦めなかった

昭和十三年四月二十二日
 木型の実物大模型が出来た
 厳しい海軍の審査を受け
 百近い修正が指摘されたが
 一次審査は合格した
昭和十四年三月十六日
 遂に試作機が完成した

三月二十三日の午後七時
 名古屋市港区大江町の
 海岸埋立て地区にある
 三菱重工株式会社
 名古屋航空機製作所から
 シートで厳重に覆はれた
 大きな荷を積んだ牛車が
 静かに引き出された
 行先は各務原(かがみはら)の
 飛行場だ
 距離は 約四十二`
 二十四時間をかけて運ばる
 トラックで運べば二時間
 しかし 悪路のため
 激しい振動で 機体は
 すっかり 傷ついてしまふ
 馬で運べば 十二時間だが
 途中で暴れる可能性がある
 そこで牛車で運ばれた
 戦争中も 同様だった

 各務原に運ばれた試作機は
 テスト飛行が繰り返された
 海軍の要求する
 時速五〇〇`は突破した
 試作機の三号機から
 発動機が中島製に変更され
 馬力は上がり 時速も
 五三三`に上がった
 ドイツ 最速・四四四`
 アメリカ最速・四二六`
 満足のゆく戦闘機が出来た

第二次世界大戦勃発

昭和十四年九月一日
 ドイツが二〇〇〇機を駆使して
 ポーランド侵攻
 ポーランドの同盟国であった
 イギリス・フランスは
 九月三日 ドイツに宣戦布告
 そんな中
 二号機が十月十八日に完成
 十二月に完成した三号機が
 遂に五三三`を実現した

第二次世界大戦勃発当時
まだ 零式戦闘機は
完成されてをらず試作機だった
ここで日中戦争を振り返ってみる
昭和十二年
・盧溝橋事件 七月七日
・北支駐屯日本軍総攻撃開始
       七月二十八日
・北京占領  八月八日
・上海事件  八月十三日
・渡洋爆撃  八月十四〜十六日
 掩護の戦闘機をつけず
 爆撃機だけの渡洋爆撃は
 確かに爆撃の戦果はあるものの
 損害も 甚大だった
 そこで 航続距離が長く
 戦闘能力の高い戦闘機が望まれた
 その計画書が交付されたのが
 十月五日であった
・上海占領  十一月二日
・南京占領  十二月十三日
 ー南京虐殺事件が起きるー
昭和十三年
・徐州占領  五月十九日
・広東占領  十月二十一日
・武漢三鎮  十月二十七日

昭和十四年
・海南島占領 二月十日
 試作機一号 三月十六日
・南昌占領  三月二十七日

第二次世界大戦勃発 九月一日
 ドイツ軍 二〇〇〇機の航空機で
 ポーランド侵攻
 九月三日
 ポーランドと同盟国の
 英・仏がドイツに宣戦布告
 第二次世界大戦勃発である
昭和十四年
 十月  試作機二号
 十二月 試作機三号

情勢地図は以下
昭和十五年
 ドイツは
 四月 デンマーク・ノルウェー征服
 五月 オランダ・ベルギー征服
 フランスがドイツとの国境線に
 建設したマジノ防衛施設を
 迂回してベルギー方面から侵攻
 六月十四日 パリ陥落
そして 七月
横山保大尉が指揮する
六機の十二試艦上戦闘機が
横須賀を離陸
大村飛行場で燃料補給して上海
再び燃料補給して 上海を発ち
横山大尉は 漢口へと向かった
漢口の飛行場には
五・六百人の出迎へがゐた
出迎への中には
航空隊司令官の山口多聞少将
大西滝二郎少将もゐた
数日後 横山は 二人に呼ばれ
速やかに 一二試艦上戦闘機で
爆撃機を掩護して敵地に乗込め
と言はれた
しばらくして
横須賀から 進藤三郎大尉が
指揮する九機も到着
十五機の十二試艦上戦闘機が
漢口に集結した
連日の猛訓練で 隊員たちの
操縦技術も上がった七月末
その年の紀元二六〇〇年を
記念して 十二試艦上戦闘機は
零式艦上戦闘機と命名された
ゼロ戦の誕生である
零式戦闘機の初陣

昭和十五年八月十九日
 陸攻五十四機
 護衛の零式戦闘機十二機
 漢口を離陸して 重慶に向かった
 重慶には三十機の戦闘機がゐた
 爆撃機は 予定通り重慶を空襲
 しかし
 重慶から敵の戦闘機は出て来ない
 どうやら 敵は あらかじめ
 新鋭戦闘機の情報得てゐて
 巧みに 逃げてゐる様だった
同年 八月二十日
 掩護につくも 敵機現れず
 重慶の空襲は
 敵機のゐない中
 余裕で爆撃が続けられた
同年 九月十二日
 横山飛行隊十二機が
 陸攻二十七機を掩護して出撃
 しかし そこでも敵機は
 出て来なかった
 以下の情報が入って来た

 中国空軍は日本の空爆が終はると
 重慶上空に現れ 何度も旋回
 その後に 中国空軍機は
 日本航空隊に大損害を与へ
 追ひ払った と報道してゐる

 そこで 横山と進藤大尉は
 空爆の後 爆撃機と共に
 帰るフリをして 急に反転して
 重慶に戻り 中国空軍機を撃つ
 こんな作戦を考へた
同年九月十三日
 進藤三郎が指揮する十三機が
 爆撃機と共に 漢口を離陸
 重慶は 漢口から片道七五〇`
 時計の針は 午後一時半をさす
 重慶の市街が見えて来た
 進藤は 周囲をすばやく見渡した
 いつもの様に 中国空軍機の
 機影は全く見えなかった
 陸攻隊の爆撃が始まった
 市街地の至る所に
 かすかな火がひらめくと
 その中から黒煙が湧き
 またたくまに 上空に立ち昇る
 重慶上空は 地上から舞ひ上がる
 黒煙でおおはれた
 やがて爆撃は 終はった
 陸上攻撃機が機首をもどしたので

 進藤も 部下の機を集合させ
 重慶上空を離れた
 それから十分後
 重慶から約五十`の地点
 進藤大尉の一番機を先頭に
 一斉に反転 重慶に向かった
 三機が一団をなして九グループ
 編隊を組んで飛んでゐた
 ソ連が誇る
 戦闘機二十七機であった

 たちまち
 すさまじい空中戦が始まった

 二〇_機銃を浴びたのか
 主翼が吹き飛び墜落してゆく
 瞬時に炎に包まれ
 白煙を引いて霧もみ状に落下する
 動きが緩慢なものは ソ連製
 その中を閃光の様に動く零戦
 余りにも対照的な動きであった
 破壊され落下してゆくのは
 全て ソ連製の中国空軍機だった

 進藤は
 空戦の余りのすさまじさに呆れた
 空中戦は一〇分で終はった
 空戦後の集合場所は
 重慶東方五〇`
 反転した場所だった
 五機の零式戦闘機が
 高度三〇〇〇bでゆっくりと
 旋回して仲間を待った
 三機は深追ひしたものとして
 十機で 中継地点の宣昌に着陸
 静かに 部下の帰りを待った
 一機 そして又一機
 十三機 全てが帰って来た
 進藤は
 こみあげてくるもの感じた
 部下たちは興奮しきってゐた
 燃料補給してゐる間に 進藤は
 部下たちから報告を聞いた
 一人一人の撃墜数を合はせると
 二十七機であった
 戦果は直ぐに 宣昌基地から
 漢口基地に報告された

 以後 中国空軍は成都に退避
 重慶には容赦ない爆撃が続いた
 瓦礫の続く廃墟となった
 重慶への爆撃は終はり
 次の爆撃地は成都になった
 情勢地図は下段
進藤三郎氏について 調べてみた
 戦時中は市民から敬意を以った待遇を受けて来たが 戦後になると 戦犯扱ひされて 子供たちから石を投げられることもあった 戦時中 誠心誠意働いて一生懸命闘って来たことに悔いはないが そのことが 戦後になってバカみたいに言はれて来て つまらない人生だった と嘆いてゐたと言ふ 平成十二年(二〇〇〇)二月二日 自宅のソファで眠った様に他界した その表情は 微笑んでゐるかの様だった
昭和十五年十月五日
 成都への初攻撃
 横山保大尉指揮の零式戦闘機八機
 陸上攻撃機二十七機の掩護
 午前八時三〇分 漢口基地を離陸
 途中 宣昌で燃料補給
 ここから成都まで七四〇`
 午後二時十分 成都上空につく
 上空に敵機はゐない
 高度を下げてみると
 飛行場に 戦闘機が並んでゐた
 横山は 銃撃を命じた
 次々と 飛行場にならぶ機が
 炎上して行った
 この間に ソ連製中型爆撃機発見
 二〇_機銃弾が当たると同時に
 急速に落下 地上に触れて大爆発
 横山は 一機の損失もないことを
 確認すると 炎と煙におほはれた
 成都上空を離れた
 攻撃結果は以下
 六機撃墜 二十九機炎上大破

 その後十二月末まで
 出撃回数 二十二回
 撃墜数  五十九機
 撃破機  百一機
 零式戦闘機の損失は ゼロだった
 この成果に日本海軍は狂喜した

昭和十六年三月二十四日
 成都への爆撃は続けられてゐた
 この日も 横山戦闘機隊は
 八機で掩護につき成都に向かった
 敵機は 三倍を超える三十機
 すさまじい戦闘が繰り広げられた
 十分後
 成都上空を飛んでゐるのは
 零式戦闘機八機だけだった
 撃墜二十七機
 零式戦闘機の損失はゼロだった

昭和十六年八月三十一日
 昭和十二年八月十九日に始まった
 爆撃機による 中国への空襲は
 爆撃地を
 ・南京・南昌
 ・重慶
 ・成都・昆明 と変へながら
 掩護戦闘機も
 九六式戦闘機から
 零式戦闘機へと変へながら
 中国大陸が
 日本の制空権下に治められたため
 昭和十六年八月三十一日で
 終了した

零式戦闘機の活躍
昭和十五年八月十九日
 重慶への出撃で始まり
昭和十六年八月三十一日終了
その戦果
 撃墜 一六二機
 撃破 二六四機
 損失 二機

海軍が狂喜したのもわかる
国民が戦果に醉ったのもわかる
しかし それで
平和を守ることが出来たか?
そこを篤と考へたい
軍部の思ひ

@海軍の狙ひ グアム占領
A陸軍の狙ひ 細菌戦で勝つ

グアム占領には
フィリピンの米軍
シンガポールの英・東洋艦隊
この二つが邪魔だった
これら二つを叩くには
航続距離の長い爆撃機と
それを掩護する戦闘機が必要だ
ところが 九六式戦闘機は
爆撃機と同じ様に飛べない
どうしても航続距離が短くなる
だから 爆撃機を掩護できない
だから 戦闘機を空母に載せ
攻撃地の近くまで運ぶ必要がある
しかし これでは戦闘機が限らる
そこで 航続距離の長い戦闘機が
必要になる その思ひから
零式戦闘機が生まれた

漢口基地から
重慶・成都・崑明への空爆は
海軍の本部にしてみれば
航続距離の長い 将来の
フィリピン・シンガポールへの
予行演習だったのかもしれない

下段の南洋群島に注目されたい
日本が全島『永久占領』するには
見れば見るほど
米領グアムも欲しくなる
開戦劈頭グアム占領
海軍の思ひがよくわかる

南洋本庁・コロール島
南洋群島
ーー昭和十六年十二月八日以後ーー
大東亜戦争緒戦占領地
A陸軍の狙ひ

満州国建国の翌月
昭和七年四月
 牛込区戸山町の軍医学校内
 防疫部地下室に
『防疫研究室』新設
 主幹・梶塚隆二
八月に 石井四郎が主幹となる
昭和八年九月
 五千坪ある近衛騎兵隊の敷地に
 二階建・七八五坪の
 『研究室』が新築された
 大きさのイメージは以下
 ※五千坪  一六五〇〇平方b
       一二八b四方
 ※七八五坪 二五九二平方b
       五一b四方
昭和十一年だが
その『防疫研究室』が
当時の早稲田第一高等学院
現在の早稲田文学部の南西に
あるのがわかる
写真は ネット掲載のもの
ここが 細菌部隊の
内地本部である
戸山町の本部に続き
戦地の本拠地も作られてゆく
その場所は
満州国・ハルピン南東七十`
背陰河(はいいんが)なる寒村に
守備隊といふ名目で
防疫班『東郷部隊』創設
一説に 石井の変名
東郷はじめに由来するといふ
ところが昭和九年 
十六名の被験者が脱走
秘密露呈を怖れて
背陰河の東郷部隊は 閉鎖
一時 東郷部隊は帰国

陸軍は もっと大きく
絶対に秘密を守れる機関を渇望
そこで 新たな
ハルピン南方二〇`の
『平房』への移転を計画
昭和十一年 四月二十三日
 関東軍参謀長 板垣征四郎は
 陸軍次官 梅津美治郎に
 細菌戦準備のため
 『関東軍防疫部』の新設を要求
 この戦地の細菌基地の新説を
 『陸軍五十年史』は かう語る
 同機関(関東防疫部)は
 内地防疫研究室と相呼応して
 皇軍防疫の中枢なるは勿論
 防疫に関し 駐屯地作戦上
 重要なる使命を達成せん事に
 邁進しつつあり

昭和十二年七月七日

 盧溝橋事件起きる
 以後の中国大陸の
 制空権獲得までの話は述べた
よって ここではこのまま
陸軍の細菌戦の野望を追ふ

中国では 北京・南京・広東に
細菌部隊の支部ができるが
いづれも 占領した中国施設を
そのまま利用した 様子は以下
『北京支部』
 昭和十二年八月八日・北京占領
 支部は翌年の二月
 北京天壇中央防疫所を占拠して
 北支那防疫給水部を創設
 世界遺産に登録されてゐる
 『天壇』近くにあったと思はる
 その出先機関は
 済南・天津・青島等十数カ所に
『南京支部』
 昭和十二年十二月十三日占領
 支部は翌年四月十八日
 南京中央病院を拠点とした
 その出先機関は
 上海・蘇州・抗州・金華・
 武昌・漢口・九江・岳州など
『広東支部』
 昭和十三年十月二十一日占領
 翌年五月 広州市の
 中山医科大学を拠点とした
 大東亜戦争の緒戦で香港占領
 逃げ惑ふ避難民と広東難民に
 毒物による大量殺戮があった
ーーーーーーーーーーーーーー
 大東亜戦争勃発後は
 昭和十七年四月一日
 シンガポールの
 エドワード病院の一角占領
 当初 部隊員は二〇〇人ゐた
 つづいて
 マニラ
 ジャカルタ
 バンドンにも支部が置かれた
ーーーーーーーーーーーーー
  少し 時間は戻る
昭和十三年六月
 一辺六`四方の建設予定地
 しかし そこには
 地元の農村があった
 そこで
 その四つの村の住民には
 一ヶ月以内の立ち退き令を出し
 家を焼き 平地にした
 広さは 六一〇f
 一f=一〇b四方たから
 六一〇f=六一〇〇b四方
     =六・一`b四方
 巨大施設である
 それは
 監獄・収容実験棟の他に
 飛行場・鉄道・~社・病院
 職員たちの宿舎を
 作る予定だったからだ
 敷地確保に動き出す前の
 同年一月二十六日には
 『特移扱ニ関スル件通牒』が
 出された
 植民地支配に抵抗する者
 抵抗したとみなされる者たちを
 裁判もせずに 合法的に
 『平房』に連行することが
 できるやうにしたのだ
 そこは 広さや建物からみて
 『陸軍平房・特移村』
 以後 この私称を使ふ
史称=関東軍防疫給水部
私称=陸軍平房・特移村

史称からは
想像のつかない
大きな秘密の特移村であった
陸軍平房・特移村

満州国のハルピン南方二〇`の
『平房』に作った
裁判もせずに
事件送致もせずに
日本の植民地支配に抵抗した者
抵抗したとみなされる者たちを
警察や憲兵が連行する『村』
完成は 昭和十五年だった

囚人の『平房』までの連行を
『特移扱』と言ふ その様子は
ハルピンの駅までは列車
ハルピンから平房までは
目隠しされてトラック移送
中国大陸占領は
盧溝橋事件に始まり
同年 北京・上海・南京占領
翌年 広東・武漢まで占領が進み
海軍による 長距離空襲は
漢口から重慶へと進んでゐた
一方その頃 陸軍は
来たるべき細菌戦に備へ
内地に『防疫研究室』を作り
満州には その実戦部隊の
巨大基地『陸軍平房・特移村』を
作ってゐた
昭和十五年十二月までには
中国に 北京・南京・広東
満州には 平房の本部の他に
ハイラル・林口・孫呉・牡丹江に
支部が作られてゐた

細菌部隊
 内地本部 戸山町・防疫研究室
 実戦本部 満州・平房
 満州支部 牡丹江・林口・孫呉
      ・ハイラル
 中国支部 北京・南京・広東
もう一つの秘密機関

陸軍は 細菌戦だけではない
電波攻撃や毒物攻撃
偽札による中国攪乱も考へてゐた
その本部も昭和十四年には
出来てゐた
『登戸研究所』である
その沿革を見てみよう

第一次世界大戦では
科学の力が戦争に利用され
以後は 細菌戦や毒ガス戦が
考へられる様になってゐた
この流れを受けて 日本も
新宿 戸山ヶ原に
『陸軍科学研究所』を設置した
大正八年(一九一九)である
四月十二日
以下の勅令一一〇号がでた(要旨)
欧州大戦の実験並びに
帝国陸軍の実況に鑑み
陸軍技術を進歩せしむる為には
陸軍火薬研究所を廃し
新たに 科学研究所を設置する
大正十四年四月二十七日には
新たに化学兵器部門が追加された
つまり『陸軍科学研究所』は
一部 力学・電磁気学
二部 火薬・爆発
三部 化学兵器の三部構成となる

昭和二年四月 二部に
『秘密戦資材研究室』が新設さる
室長は 篠田鐐大尉

昭和十二年十一月
場所を川崎市の生田に定め
名を『登戸実験場』に改めた

その経緯を防衛庁資料はかう語る

科学の未知の領域を開拓し
奇襲戦力大なる新兵器を
創造する研究に重点を置く
しかし 現研究所は
危険が伴ふ研究をするには 狭く 秘密維持も難しいので
昭和十二年五月
建設地を 郊外の生田村に定め
同年 十一月 土地を購入し
是を『登戸実験場』と命名し
同年 十二月十二日
研究員の一部を移転し研究開始

奇襲力の大きな
科学兵器を作る機関が
川崎の生田に設置され
『登戸実験場』と命名され
昭和十二年十二月十二日に始動
その翌日が 南京入城である

翌年の昭和十三年の四月には
奪ひ取った『南京中央病院』に
細菌部隊が設置され
獄舎は『動物園』と呼ばれてゐた
中国支配の戦闘司令部である
支那派遣軍総司令部が南京に
置かれたのは その翌年
昭和十四年の九月であった
北京・上海・広東・漢口には
陸軍の支部が置かれた
ドイツが ポーランド侵攻した頃
日本は
右図の様に中国支配を進め
新たに法幣偽札造りも始めてゐた
昭和十四の四月
参謀本部は
偽札による中国経済混乱を企画

偽札造りを『杉工作』と名づけ
偽札を『登戸研究所』で作らせ
その機関を『松機関』とした

これを受けて 同年八月
登戸研究所に
『偽札製作部門』が置かれた
これで『登戸研究所』には
・電波兵器の一科
・毒物兵器の二科
・偽札製作の三科が揃った
昭和十四年九月十六日であった
当時の中国の通貨は

国民政府の通貨 法幣
共産党軍の通貨 辺区券
日本軍の通貨  軍票 があった

しかし 現実は
国民政府の『法幣』が優勢で
現地での物資の調達は
法幣でなければならなかった
そこで 考案された作戦が
『法幣偽札造り』であった
その任務を受けたのが
登戸研究所の三科長の山本憲藏
失敗に失敗を重ね 試行錯誤の末
法幣の量産体制を整へ
上海の『松機関』に 順調に
持ち込め 偽札が順調に

散布されるのは
その一年後の昭和十五年であった
紙質・インキ・漉かし技術には
内閣印刷局や凸版印刷が…
製紙では 巴川製紙が活躍した

運搬は 陸軍中野学校出身者
長崎を経て海路で上海の
『松機関』に運ばれ
そこで 法幣偽札が弘められた
偽札で 現地の物資調達が
できる様になったのだ

大東亜戦争が始まると
印刷の技術は 頂点に達した

その理由は以下
真珠湾・マレー半島同時奇襲作戦
真珠湾を攻撃したら…
 ・グアム島占領
 ・ウェーク島占領
 ・マキン島 タラワ島占領
 ・フィリピン飛行場攻撃が…
  予め組み込まれてゐた
マレー半島上陸したら…
 ・香港占領も 予定されてゐた

その香港占領は 開戦同年
十二月二十五日
ここで 日本は 国民政府の
印刷機を手にいれ 登戸に移送
結果
真偽判定出来ぬ偽札造りに成功
以後 登戸研究所で大量印刷され
上海の『松機関』での配布は
戦争が終はるまで続いた
茶枠の
グアム・ウエーク・マキン・タラワ
この四島の占領と フィリピンの
イバ・クラーク飛行場への空爆は
真珠湾攻撃を合図に開始された
連鎖攻撃であった
そして マレー半島上陸を合図に
香港占領作戦が開始され
同年十二月二十五日占領すると
日本は 香港にあった
法幣印刷機を手に入れた
これで 真偽判定出来ぬ
法幣偽札造りが可能になった

あの手この手

中国占領に苦戦した日本は
あの手この手を使った
まづ 通常の武力征伐
海軍 南京への渡洋爆撃に始まり
   重慶への空爆
陸軍 支那派遣軍総司令部設置
   支部は
   北京・上海・漢口・広東

細菌兵器は
 本部 防疫研究室
 製造 満州平房
 実戦 北京・南京・広東

毒物兵器は
 製造 登戸研究所
 試験 南京中央病院
    青酸ニトリールの
    人体実験は後述

偽札造りは
 製造・登戸研究所
 拠点・上海『松機関』
つまり 盧溝橋事件に始まる
日中戦争を知るには
海軍航空部隊の長距離爆撃
陸軍の盧溝橋以後の足跡
  北京占領
  上海占領
  南京占領
  徐州占領
  広東占領
  武州三鎮占領
  南昌占領 に留まることなく
細菌部隊の
 北京・南京・広東の設置
毒物試験に使はれた南京中央病院
上海に設置された『松機関』
これらのあらましを知って
初めて 日中戦争の実情が掴める
大人には
そのあらましを伝へて行く
責任があると思ふ

私の場合は
そのあらましを
ネット『和たぐ新聞』で伝へる
それを 自分の責務とした

一人でも多くの子供や
若いご両親に知っていただきたい
その思ひだけで 書き始めた
下段からは
いよいよ 大東亜戦争勃発
そこを 細かく追ってみたい
陸軍の進むべき道

蒋介石が逃げ込んだ『重慶』か
ソ連と闘ふ『北進』か
米英蘭を睨んだ『南進』か
昭和十五年六月
つまり
零式戦闘機が試作中のため
長距離爆撃の掩護が出来ぬ頃
陸軍の作戦課で初めて
『南方作戦』が取り上げられた

作戦名
『今後における戦争指導並作戦指導』
起案者
 荒尾興功(おきかつ)
 実際 瀬島龍三
翌月(昭和十五年七月)
陸軍作戦課は
 参謀数十数人を四班に分けて
 マレー半島・フィリピン
 香港・蘭印を偵察させた
その翌月の八月十五日
 偵察組が集まった
 検討された起案は
 『南方総合作戦計画』
 起案者 瀬島龍三
 冒頭には蘭印占領が明記され
 マレー フィリピン グアムを
 攻略する際の兵力区分もあり
 内容は戦争指導そのものだった
この頃
 陸軍第二部欧米課に
 村上公亮を班長とする
 『南方班』が新設された
任務は
 身分を隠して忍び込み
 当地の軍事施設の状況
 現地人の風俗・風習
 地図・気象の情報収集である

翌年の八月末(昭和十六年)までに
 資料は集められ 極秘の内に
 『南方作戦計画』が作成された
 その起案は
 三宅坂の将校集会所で
 一ヶ月をかけて仕上げられた
十月一日から五日間
 陸軍大学校で図上研究された
十月十六日
 開戦決意閣内不一致により
 近衛内閣総辞職
二日後の十八日
 東条内閣成立
十月二十四日から三十日
 『大本営政府連絡会』
 略して『連絡会』が連日開かれ
十一月一日
『連絡会』で以下の三点決定

・対米英蘭戦争を決意す
・武力発動の時機を
 十二月初旬と定め
 陸海軍は作戦準備を完整す
・対米交渉が
 十二月一日までに成功せば
 武力発動を中止す

確かに 兵員・兵器の移送は
十一月以降でも間に合ふが
兵員・兵器を移送する船は
直ぐには集まらない
担当部署は
令和五年広島サミットの開催地
広島の『宇品』にあった
船舶輸送司令部である

兵員の乗船地は
 ・内地
 ・朝鮮
 ・台湾
 ・中国の諸港だが

民間から徴用した船を集め
その船を 戦争用に改造し
つまり船を『艤装』し 
そこに兵員たちの
 ・備品
 ・兵器や弾薬
 ・食糧を揃へ
上陸用の
 ・小発(六〇〇)
 ・大発(六〇〇)
 ・特大発(六〇)を詰め込む
これが船舶輸送部の仕事であった
大本営が要求して来た船は
当時の総船舶五〇〇万トン中の
      二〇〇万トン
大小合はせて四〇〇隻

しかし 船の兵装は
資材不足で間に合はず
甲板には高射砲一門も
積まれてゐない
これが実情であった
船舶輸送部の戦争準備は
前年の十二月から始まり
昭和十六年十一月には多くの船が
集合地となってゐた海南島の
三亜港に向けて 出港してゐた

大東亜戦争とは何か

盧溝橋事件に始まる日中戦争
中国を思ふ様に占領できなかった
そこで 海軍は
長距離爆撃機を掩護するため
航続距離の長い戦闘機を望み
地上戦の主役となる陸軍は
細菌兵器や
化学兵器や
偽造紙幣を 望んだ
そんな中で
盧溝橋事件から約二年後の
昭和十九年九月一日に
ドイツがポーランドを侵攻
第二次世界大戦勃発
翌年の六月二十二日
ドイツがソ連に
四〇〇万の兵力を持って侵攻
これを受けて 米・英は
ただちにソ連支持を表明

この時 日本は…

松岡外相は
『即時対ソ戦』を主張
しかし
海軍は絶対反対
陸軍も即時参戦・武力発動には
賛成しなかった
確かに ソ連を襲ふには好機だが
陸軍は 対米関係の悪化で
資源補給困難を予測し
仏印と泰(タイ)を 手中に
収めて置きたかったのだ

七月二日 御前会議
・そのまま南方作戦を進めるが
・場合によっては対ソ戦をする

外務省の資料が
昭和十六年七月七日
 関東軍は「関東軍特別演習」と
 呼ばれる軍事演習を幾度か実施
 しかし この時の「関特演」は
 単なる軍事演習ではなく
 対ソ連開戦を見据ゑた
 関東軍の戦力増強策だった
と語る様に
場合によっては 対ソ戦をする
そんな思ひがあり 満州に沢山の
兵員
軍馬
戦争資材 が増強された

しかし この大兵力の移動が
ソ連に見抜かれると ソ連は
これを『対ソ開戦』と誤解する
そこで 日本は以下の工夫をした
・特別演習のための移動と宣伝
・日の丸の内地見送り一切禁止
・移動は夜間を利用
・輸送列車を逆方向に走らす
八月二日
 ソ満国境方面での
 ソ連の通信が途絶えた

これを大本営は
ソ連が
日本の兵力大規模移動に気づき
奇襲先制攻撃を
日本に仕掛けるために
各隊の通信を禁止した と考へた
そこで
直ちにソ連と外交交渉を行ひ
ソ連の開戦意志を柔らげるべきだ
こんな意見も出た
しかし
関東軍司令官梅津美治朗大将から
こんな電報が入った
ソ連軍が来襲してきた時は
大本営に連絡はするが
好機を失ふと判断した時は
独断でソ連の空軍基地に
航空攻撃を仕掛けるので
予め了承せられたい

狼狽した参謀総長杉山元は
反撃は 国境内にとどめ
慎重な態度をとるべし と返電

大本営陸軍本部は
反対する海軍の同意を得て
天皇に上奏の上
以下の命令を受けた
ソ連空軍の攻撃を受けた折には
ソ連領内に
空軍を駆使して進攻してもよい

事実上のソ連への開戦命令だった
しかし
大本営を震撼させた
対ソ開戦を決意させた事件は
あっけない解決をみた
交信が途絶えたのは
デリンジャー現象が発生し
ソ連の通信が途絶えたものだった

八月九日
 陸軍は
 年内対ソ武力行使の企図を
 断念した
しかし 兵力増員は続けられ
満州の関東軍は七〇万人となった
『無敵関東軍』と呼ばれたのは
この頃であった

補足解説 デリンジャー現象
太陽面の爆発で
地球の大気の上層にある電離層が変異
この変異によって
十分から数十分間に起こる短波通信障害
大東亜戦争とは
ハワイ南方同時奇襲作戦
 海軍真珠湾奇襲作戦
  起案者 山本五十六
 陸軍南方奇襲作戦
  起案者 瀬島龍三(初期)
 それぞれ開戦一年前から考案
 南方と言っても東西広く
  マレー半島・フィリピン
  タイ・香港・シンガポール
  ジャワ・スマトラ・ボルネオ
  セレベス・ビスマルク諸島
  チモール島
  ビルマ
これが陸軍主体の占領予定地
一方海軍主体奇襲・占領予定地は
  ハワイ真珠湾
  マキン島・タラワ島
  グアム島・ウェーク島

=占領予定地
=占領予定

右図は 防衛庁戦史研究室の
『マレー進攻作戦』を参照
研究室は この『南方作戦』を
東はビスマルク諸島
西はビルマ
南は蘭領インド諸島に至る
広域要地を
一気に攻略せんとするものであり
まことに史上まれにみる
大規模な渡洋急襲作戦である

と自画自賛するが
やり過ぎだと思はる

兵員の食糧は どうするのか
現地調達といふ名の略奪である
住処は どうするのか
即席 又は接収といふ名の略奪
服従しない者はどうするのか
天に逆らふ罪深き者として
天刑が下る さらし首である
三井物産の船舶部に入社
昭和十七年に軍属として
陸軍船舶部・宇品に勤務
後に昭南(シンガポール)に
派遣された田島昌克は
その時の話を かう語る
昭南の駅前に首の座があり
生首を 四・五個並べて
その下に
日本軍に反抗すると
この様になるぞと
英語 マレー語 支那語で
書いてある
この様なことをするから
現地人の反抗を
受けることになるのだと思った
東アジアの解放
白人からの独立を掲げて
南方に進出した日本!
しかし その実態は…
どうも 表向きの意気込みと
実際の行動は 大分異なる様だ

さて 広域な『南方作戦』だが
正式には昭和十六年十一月六日に
決定された
南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)
 任務は以下
 ・マレー半島
 ・フィリピン
 ・オランダ領インドネシア
 ・ビルマ  侵攻の指揮
戦闘司令部は『サイゴン』
秘密の作戦のため
現地名『照海部隊本部』
建物は 接収したフランス銀行
現在
ベトナム国家銀行ホーチミン支店
平成二十八年(二〇一六)に
国家級芸術建築遺跡に認定された

次は
大本営直轄『南海支隊』
 指揮 堀井富太郎少将
 任務
 ・グアム占領 後に
 ・ラバウル占領
 後に
 ・東チモール占領
 後に
 ・ポートモレスビー占領
  途中で中止となる
海南島の三亜港に
多くの船が集結し
マレー上陸作戦が敢行さる
十二月四日 出港
兵員・兵器・食糧等の輸送船
それを護衛する艦船 計約六十
この輸送船団が
米英の厳しい警戒の中
気づかれぬ様に
マレー半島上陸地に着くのは
奇跡ともいへる程
困難なことであった
厳しさは それだけではない
択捉島の単冠湾(ヒトカップ)
終結した 機動部隊の真珠湾奇襲攻撃も同様
アメリカの偵察に気づかれたら
ハワイマレー同時奇襲攻撃が崩れ
日本は
緒戦で大敗する危険があった

既に 米英は
日本が仕掛けて来ることは
わかってをり
それが いつ どこに来るか
そこに視点が集中してゐた
だから
ハワイに向かふ機動部隊も
マレーに向かふ輸送船団も
発信は一切禁止の隠密航行
息を呑む様に 慎重に航行した
上陸後の戦闘準備も
十分だった
たとへば マレー半島の上陸部隊
上陸地点からシンガポールまで
おほよそ一〇〇〇`ある

昭和十四年二月に占領した
海南島も一周一〇〇〇キロある

マレー上陸後シンガポールまでの
一〇〇〇`とほぼ同じ
だから 各部隊は 敵前上陸後
自動車・自転車を連ねて
島を一周した
緒戦のマレー半島の銀輪部隊は
海南島で 実地演習されてゐた

たんなる上陸ではなく
敵の銃弾が飛んでくる敵前上陸
念入りに練習しておく必要がある
練習はまだある

大本営は 昭和十六年の三月
南方地域上陸作戦を仮定した
陸海軍の大々的な合同演習を実施
三月二十七日 上海出発
輸送船団を 艦艇が護衛
その護衛船・輸送船団を
陸海軍の戦闘機が掩護
東シナ海を渡り 北九州に上陸
シンガポールに見立てた
佐世保の攻略で演習終了
演習が終はったのは 四月四日

さらに 大本営は
上陸演習を行った第五師団に
中国軍のゐる大陸沿岸を
幾つか敵前上陸させた

この実戦を通して
大本営も 南方作戦に自信を持ち
実戦の日を迎へた

少し時間は遡るが
蒋介石は 日本の海南島の占領を
香港・フィリピン
マレーシア・シンガポールへの
南進に繋がると批判し
『太平洋の満州事変』とも言った
米英仏も 日本の侵攻を批判

そこで 日本は
『領土拡張の野心無し』を訴ふ

しかし 三月三十日
海南島の南の島々 つまり
今の南沙諸島
当時の新南群島の領有を宣言した
領土は 下段の様に増えてゐた
茶枠
緑の地名
紺枠の島々
『ハワイ南方同時奇襲作戦』の
占領予定地である
マレー上陸作戦部隊は
海南島の三亜港に集まり
十二月四日に 出港
開戦は十二月八日午前零時である

イギリス極東司令部は
十月には
 上陸用舟艇が
 日本の各地で大量に作られ
 海南島では
 密林内で戦闘訓練が行はれ
十一月には
 その上陸舟艇を積んだ船が
 三亜港に 続々と集結してゐる

こんな情報をつかんでゐた

しかし 戦闘用意は他にもあった

たとへば
フィ・ダバオ占領任務の
坂口支隊は
十一月十九日 門司港を出て
       パラオで待機

フィ・レガスピー占領任務の
木村支隊は
十一月二十一日 名古屋港を出て
十一月三十日  パラオで待機

フィ・ラモン湾占領任務の
十六師団は
十一月二十二日 大阪港を出て
        奄美大島へ
ウェーク島とマキン・タラワ島は
第四艦隊が その任務にあたった
 
今までの歴史にない
広範囲に及ぶ同時奇襲作戦が
これから始まらうとしてゐた

ハナサク大作戦

十二月四日
マレー奇襲攻撃のために
大輸送船団が三亜港を出港した

その二日前の十二月二日
広東を六機の直協機が飛び立った
それは 十二月一日に
上海発広東着の中華航空機が
汕頭(スワトウ)上空通過の
通信を最後に 交信不通となり
行方不明になったのだが
この中華航空機・上海号を
探し出す命を帯びた捜索機だった

その日は雲深く
捜索機は 探せぬままに
広東飛行場に帰って来た

十二月三日
電報班が中国軍の暗号文を受信
早速解読してみると
『日本軍の飛行機が墜落してゐる
 当部隊は直ちに捜索に赴く』
これを受けて 直ぐに
直協機が広東を飛び立った
密雲立ちこめる山岳地帯で
遂に 午前十時 墜落機発見さる
南京・支那派遣軍総司令部は
『重要書類を処分するため
 直ちに上海号を爆撃粉砕せよ』

上海号の乗客に杉坂少佐がゐた
少佐の任務は
マレー奇襲作戦の命令書を
広東の二十三軍司令官に
直接手交することであった
その命令書は 以下
大陸第五百七十二号
 香港攻略に関する命令
 作戦開始はマレー方面への
 上陸又は空襲確認直後攻略開始
 暗号名 ハナサクハナサク

この書類が敵側に渡ったら
直ぐに 米・英が仕掛けて来る
さうしたら
マレー大輸送船団も
給油のタンカーを沢山抱へる
真珠湾機動部隊も 大損害を受け
緒戦で 日本は敗退してしまふ

だから大本営は その命令書が
燃えてなくなることを願ひ
『上海号』爆破粉砕命令を出した

その前日の二日午後二時に
大本営は 輸送部隊に
大陸命第五六九号(鷲)
ヒノデハ・ヤマガタを出してゐた
意味は
鷲=対米英蘭への開戦決定
ヒノデハ=開戦日ハ
ヤマガタ=八日 であった
それだけに
大本営は 秘密書類の行方が
気になってゐた
緒戦・大敗北で終はるか
緒戦・大勝利で終はるか
それは 秘密書類滅却の可否に
かかってゐたからだ

十二月四日午前七時半
 マレー輸送船団 三亜港を進発
 しかし
 作戦命令書の行方は未だ不明
 大本営は 苛立ってゐた
 この時 中国通信傍受
 解読すると…
 三日深夜 墜落機の搭乗者二名
 しかし 両名抵抗の末逃亡
 目下捜索中
 作戦命令書を持つ杉坂少佐が
 生きてゐる可能性が出て来た
 しかし 同時に
 杉坂少佐が即死してゐたら
 中国の捜索隊がそれを見つけ
 奇襲攻撃が 敵に知られ
 日本は 緒戦で大敗北する
 そこで 支那派遣軍司令部は
 上海号不時着地点へ向けて
 地上部隊 木村大隊を派遣した
 それだけではない
 広東は 香港に近いことから
 情報員の活動がさかんだった
 当時 日本は 宋子文の旧邸を
 特殊情報班本部としてゐた
宋子文…重慶政府財政部長
実の三姉妹は
孫文・孔祥熙・蒋介石と
それぞれ結婚
陸軍中野学校出身者たちも
偽名を使って潜入し
人力車の車夫になったりして
市民の間に まぎれこんでゐた
その情報員たちには
以下の調査報告が命令された
・上海号の生存者の有無
・その数
・氏名
・拉致されたか 死亡したか
・それに付随した情報収集

密偵と言っても
日本人は敵地に潜入はしない
密偵は すべて現地の中国人だ
それは 日本人が潜入しても
広東語の訛・風俗・習慣から
直ぐに日本人だとわかってしまふ
広東の場合
 本部  宋子文旧邸
 情報員 中野学校出身者
 密偵  中国人
 密偵への報酬
     金銭
     食塩・ローソク等物資
 この密偵に支払はれる金銭
 ここに『偽札』が使はれた

当時 日本占領地域と中国で
『境界線』が設けられてゐた
密偵は 商人を装ひ
たやすく中国側には 入り込めた
しかし
日本軍の設けた『歩哨線』を
突破するのは 難しかった
そこで 密偵には
小さな許可証が用意されてゐた

密偵の仕事は 精神教育として
以下の様な噂を 弘めてゐた
孫文は 確かに中国の父だ
重慶政府の蒋介石も偉大だ
しかし アジア全土を 植民地にしようとするアメリカ・イギリスに 煽動され 進むべき道を誤ってゐるのは 残念だ

そして 情報員は
密偵一人一人には かう説いた
不幸な日中戦争を一日でも早く終了させ アジアをアジア人の手に取り戻す そんな意義深いことを 君たちは やってゐる

墜落機の生存者

十二月一日・墜落の日
乗客の一人・宮原中尉は
重症を負ひながらも生きてゐた
気がつくと 一人の将校が
書類を燃やしてゐた
書類に赤い色のものが
混じってゐることから
宮原は 燃やしてゐるものが
暗号書らしいことに気づいた
書類を燃やし終はると 将校は
もう一人の男と立ち去った
杉坂少佐と久野軍曹であった

墜落機には まだ生存者がゐた
宮原は その三人と会話した

十二月二日・墜落の翌日
夜が明けた 雨は降ってゐた
下方三〇〇b地点に敵の陣地を
宮原はみつけた
早く逃げねば 敵がやって来る
あたりを見ると
夜には気づかなかったが
大きな軍用行李が破れて
重慶発行銀行の『法幣』が
大量に散乱してゐた
宮原は ポケットに
紙幣を たくさん詰め込んだ
その紙幣を使って
現地の住民を手なづけ
自軍の地へ戻らう さう決意した
宮原は 他の三人と別れ
一人 墜落機から離れた
ひっそり隠れる場所を探した
四〇bくらゐ離れた所に
灌木の腐った穴があったので
そこで 静かにしてゐると…
墜落事故機体の方から
もの凄い銃聲音と甲高い広東語
しばらくすると 喚声と笑ひ聲
生存者の三人がやられた
喚聲は 大量の法幣だらう
宮原は さう思った

十二月三日・墜落して二日目
宮原が 隠れ忍ぶ灌木の穴から
四〇bくらゐ離れた機体の地に
直協機による爆撃が繰り返された
宮原は
何故事故機に爆弾を投下するのか
全くわからなかった
夜になった

十二月四日・墜落して三日
聞き慣れた機関銃音をならす
部隊が近づいて来た
木村大隊である
銃撃戦がしばらく続いた
墜落機から見えた
敵の陣地となってゐた台地に
日の丸が掲げられた
宮原は『オーイ』と聲を出し
手を振った 助かったのだ

宮原は直ぐに
他三名の生存者の生死を聞いた
一人も生きてゐなかった
やはり敵にやられてしまってゐた
その後 医務室に連れて行かれ
宮原は 将校が
書類を燃やした後もう一人の男と
山の斜面を下ったことを話した

話の内容から 軍司令部は
開戦命令を持った杉坂少佐が
生きてゐることを確信した
しかし その後の行方がわからず
秘密書類の消滅はわからなかった

適地をさまよふ二人

十二月一日・墜落した日
飛行機は墜落したが 二人とも
奇跡的に無傷で生きてゐた
一人は 総司令部の杉坂少佐
もう一人は
暗号電報を扱ふ電報員の久野軍曹
杉坂は 暗号文を扱ふ久野を知り
安心して 秘密を打ち明け
書類消滅を手伝って欲しいと
久野に言ひ 墜落して直ぐに
作戦命令書は
二人で 書類を細かく引き裂き
一片一片を靴で踏みつぶし
附近一体に埋められた

杉坂は直ぐに 久野にかう言った
どちらか一人が助かったら
総司令部に
書類は完全に処分したことを
伝へるのだ
二人は 墜落機から
宮原の聲や 呻き聲が聞こえるも
その聲を無視して 山を下りた
道のない 山の急斜面を下る
それは 随分と難しかった

二人には 新しい任務があった
それは 作戦命令書の
完全処理の報告であった
二人は 道なき山を下り
自軍の陣地へと急いだ
二日経った

十二月三日・墜落して二日
いつのまにか
山から平坦な道に辿り着いてゐた
路上を歩くのは危険だが
二人に山道を歩く気力はなかった
とその時
塀に囲まれた兵舎の門に
歩哨が二人 立って居た
見つかった…
慌てて逃げて草むらに飛び込んだ
二人かたまると危険なので
とっさに 十b離れて隠れた
三十分ほど経って
久野が 辺りを見まはすと
杉坂少佐が 見当たらない
どこかに 素早く退避した
久野は さう思った

久野の単独逃避行は 続く
十二月 四日 五日 六日
そして七日の夜
遂に自軍に辿り着く
兵舎の医務室に保護された久野は
杉坂少佐と共に
秘密文書を完全処理したことを
伝へた それは 十二月七日
午後九時 開戦三時間前だった
杉坂少佐は 久野と別れた後
中国兵と交戦 戦死
その後斬首され捨て置かれた

なほ上海号搭乗者の中に 一人
陸軍中野学校出身者がゐた
二期生の逸見達志 本名一色良
何故一色が 乗ってゐたのか
今もってつまびらかではない
しかし
・上海に偽札散布本部の松機関
・一色が逸木機関の長であった
・飛行機に大量の偽札があった
以上三点から
大量の偽札を使って 一色が
何かを広東で やらうとしてゐた
これは明らかであるが
一体 何をやらうとしてゐたのか
それは 今もわからない

上海号事件は
搭乗者十八名中 生存者は二名
宮原中尉と久野軍曹であるが
吉村昭は 直接お二人と会ひ
そこで 事件の真相を知った
事件の真相が
本になって 世に知らたのは
戦争が終はって
二十三年後のことであった