『長英逃亡』吉村昭
天保十五年(一八四四)六月
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英
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