大東亜戦争の教書
人 大東亜戦争を批判する者多くあれど
その教書を知る人 一人二人なり
そこに述べられたる<皇国>を知る人は 皆無といへり
その訳は 維新の本性<ご一新>にあればこそ…
そこで<ご一新>を語りながら<皇国>に迫り
万国は皇国を根本とする認識を明らかにし
大東亜戦争の根本思想に迫り
大東亜共栄圏構想が 破綻した理由をあきらかにする
------------------------
<ご一新>
ご一新=語一新
革命前の<語一>は何か
『天地之詞』
あめつち <語一>=<あ>
ほしそら
やまかわ
みねたに
雲霧
室苔
人犬
上末
由王さる
遠不世与
江乃○於
奈禮居天
革命後
ア=語一新
カ
サ
タ
ナ
ハ
マ
ヤ
ラ
ワ
------------------------
皇国とは
皇国=十二 ノ日 国
=十二 の日 国
ア 一
カ 二
サ 三
タ 四
ナ 五
ハ 六
マ 七
ヤ 八
ラ 九
ワ 十
=十二 の日 国
=アカ の日 国
=赤 の日 国
故に<皇国>とは 赤の日(の)国
今の日の丸である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皇国=真っ赤な日の丸
したがって 万国は 皇国を以て根本とするとは
真っ赤な日の丸が 万国の根本である といふ認識
その思想は どこに由来するか?
『天柱記』にある

佐藤は 太陽を決して<太陽>と書かなかった
絶対に<日輪>と書いた
何故か?
太陽=日輪=真っ赤な日の丸が連想されるからだ
しかし!
真っ赤な日の丸=蝦夷の日の丸であり
それは真っ赤な嘘月・禍の火種であったから
偽物の日の丸を退治する大和朝廷の絵を
土佐光信は 絵巻物として遺した
それを歴史は 国宝として遺した

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ赤な日の丸=赤鬼であることを
古人は どう語り継いだのか?
空海直筆の<いろは>文字あり
出雲の神門寺に所蔵されてゐたとある
その中に三つの<異体字有り>
読めば<オ二和・蝦夷>すなはち
<鬼は蝦夷> 本紙でいふ<真っ赤な嘘月>であり
土佐が語り継いだ<蝦夷の日乃丸>である
画像にしたので じっくり見ていただきたい

--------------------------
『混同秘策』佐藤信淵著
そもそも 世界の地理を詳しくみると
万国は皇国(真っ赤な日の丸)を以て根本とし
皇国は 信に万国の根本なり
そもそも 皇国より外国を侵略するには たやすく
他国より皇国を攻むるには難し
皇国(真っ赤な日の丸)より他国を侵略開拓するには
まづ 支那国を併呑するを肇めとせよ
支那は強大であるが 皇国の敵ではない
その他の蛮族は 言ふに及ばず
全世界を治むるには まづ王都(東京)を建立すべし
王都の地は 江戸を以て第一とす
王都をこの地に定め 長く移動することなし
世界侵略のためには 中国を手中に収むべし
そのためには
まづ 満州を攻めて取るべし
迷ひをもって<天朝>に従はず
<天兵(日の丸軍)>を拒みて防戦する者は
悉く殺して 許すことなかれ
これ すなはち<天罰>を行ふなり
支那(中国)は南京を取り
ここを仮の皇居とせよ
経済の大典は
<カケマクモ畏き産霊(むすび)の神の教へ>にて
世界万国の蒼生(国民)を救ふ法なり
この法を拒む者は 天地の罪人なり
軍を出して天罰を行ひ 蒼生(国民)が
悪俗に沈むを救ふべし
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ赤な日の丸(皇国)が 万国の根本だから
皇国が 世界制覇をして 全世界を属領とせよ
侵略したら その地を繁栄させる<経済の大典>を普及せよ
これに抗ふ者は 天下の罪人だから
軍事力を以て天罰を与へよ
これは 蒼生が 悪俗に沈むを救ふ法なり
↑ ↑
今からおほよそ二百年前の
皇国世界制覇思想である
この書に気づかずして 異心革命政府の足跡を追ふこと不可
一人でも多くの人に この大東亜戦争の教書に気づいて欲しい
その教書を知る人 一人二人なり
そこに述べられたる<皇国>を知る人は 皆無といへり
その訳は 維新の本性<ご一新>にあればこそ…
そこで<ご一新>を語りながら<皇国>に迫り
万国は皇国を根本とする認識を明らかにし
大東亜戦争の根本思想に迫り
大東亜共栄圏構想が 破綻した理由をあきらかにする
------------------------
<ご一新>
ご一新=語一新
革命前の<語一>は何か
『天地之詞』
あめつち <語一>=<あ>
ほしそら
やまかわ
みねたに
雲霧
室苔
人犬
上末
由王さる
遠不世与
江乃○於
奈禮居天
革命後
ア=語一新
カ
サ
タ
ナ
ハ
マ
ヤ
ラ
ワ
------------------------
皇国とは
皇国=十二 ノ日 国
=十二 の日 国
ア 一
カ 二
サ 三
タ 四
ナ 五
ハ 六
マ 七
ヤ 八
ラ 九
ワ 十
=十二 の日 国
=アカ の日 国
=赤 の日 国
故に<皇国>とは 赤の日(の)国
今の日の丸である
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皇国=真っ赤な日の丸
したがって 万国は 皇国を以て根本とするとは
真っ赤な日の丸が 万国の根本である といふ認識
その思想は どこに由来するか?
『天柱記』にある

佐藤は 太陽を決して<太陽>と書かなかった
絶対に<日輪>と書いた
何故か?
太陽=日輪=真っ赤な日の丸が連想されるからだ
しかし!
真っ赤な日の丸=蝦夷の日の丸であり
それは真っ赤な嘘月・禍の火種であったから
偽物の日の丸を退治する大和朝廷の絵を
土佐光信は 絵巻物として遺した
それを歴史は 国宝として遺した

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ赤な日の丸=赤鬼であることを
古人は どう語り継いだのか?
空海直筆の<いろは>文字あり
出雲の神門寺に所蔵されてゐたとある
その中に三つの<異体字有り>
読めば<オ二和・蝦夷>すなはち
<鬼は蝦夷> 本紙でいふ<真っ赤な嘘月>であり
土佐が語り継いだ<蝦夷の日乃丸>である
画像にしたので じっくり見ていただきたい

--------------------------
『混同秘策』佐藤信淵著
そもそも 世界の地理を詳しくみると
万国は皇国(真っ赤な日の丸)を以て根本とし
皇国は 信に万国の根本なり
そもそも 皇国より外国を侵略するには たやすく
他国より皇国を攻むるには難し
皇国(真っ赤な日の丸)より他国を侵略開拓するには
まづ 支那国を併呑するを肇めとせよ
支那は強大であるが 皇国の敵ではない
その他の蛮族は 言ふに及ばず
全世界を治むるには まづ王都(東京)を建立すべし
王都の地は 江戸を以て第一とす
王都をこの地に定め 長く移動することなし
世界侵略のためには 中国を手中に収むべし
そのためには
まづ 満州を攻めて取るべし
迷ひをもって<天朝>に従はず
<天兵(日の丸軍)>を拒みて防戦する者は
悉く殺して 許すことなかれ
これ すなはち<天罰>を行ふなり
支那(中国)は南京を取り
ここを仮の皇居とせよ
経済の大典は
<カケマクモ畏き産霊(むすび)の神の教へ>にて
世界万国の蒼生(国民)を救ふ法なり
この法を拒む者は 天地の罪人なり
軍を出して天罰を行ひ 蒼生(国民)が
悪俗に沈むを救ふべし
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真っ赤な日の丸(皇国)が 万国の根本だから
皇国が 世界制覇をして 全世界を属領とせよ
侵略したら その地を繁栄させる<経済の大典>を普及せよ
これに抗ふ者は 天下の罪人だから
軍事力を以て天罰を与へよ
これは 蒼生が 悪俗に沈むを救ふ法なり
↑ ↑
今からおほよそ二百年前の
皇国世界制覇思想である
この書に気づかずして 異心革命政府の足跡を追ふこと不可
一人でも多くの人に この大東亜戦争の教書に気づいて欲しい
聖地旅順と帝国の半世紀
『聖地旅順と帝国の半世紀』渡辺浩平著 白水社
旅順の中心部に<白玉山>といふ標高百三十㍍の小山がある
現在 白玉山塔と言はれてゐる塔は
日本が日露戦争戦没者追悼のために建立したもので
明治四十二年(一九〇九)に完成されたものである

発案者は乃木希典と東郷平八郎で
当時は<表忠塔>と名づけられた
塔の形は ロケットに見えるが<ローソク>で
尖端は 砲弾をかたどってゐる
塔内に入ると 螺旋階段二七三段があり
登ると 旅順港が 一望できる
展望台の欄干には 陸軍の記章である
五芒星(魔除け)が 埋め込まれてゐる

旅順は
明治三八年(一九〇五)から昭和二〇年(一九四五)の四〇年間 日本の租借地であったが
昭和二〇年八月二十二日にソビエトが進駐し
昭和三十年まで ソビエトが統治してゐた
<聖地旅順>の完成は
昭和十九年(一九四四)一〇月一日
ここ旅順に 関東神宮の鎮座祭が おこなはれた
神社は 明治初年に 以下の五つが生まれた
無格社…一
村社 …二
郷社 …三
府県社…四
官社 …五 最も格式ヽ高い神社
関東神宮は 最も格式の高い官幣大社である
日本国外に建立された官幣大社は
台湾神社
樺太神社
朝鮮神宮
パラオ コロール島の南洋神社がある
○台湾神社
①明治三十四年(一九〇一)十月二十七日鎮座
②所在地 圓山大飯店の辺り
③北白川宮能久親王

○樺太神社
①明治四四年(一九一一)八月二十三日鎮座
②所在地 樺太豊原町旭ヶ岡(大泊より北)
③大國魂命 大己貴命 少彦名命

○朝鮮神宮
①大正十四年(一九二六)十月十五日
②朝鮮京畿道京城府南山
③天照大御神 明治天皇


○南洋神社
①昭和十五年(一九四〇)二月
②コロール島アルミズ高地
③天照大御神 明治天皇

○関東神宮
①昭和十九年(一九四四)十月一日・鎮座
②旅順
③天照大御神 明治天皇

真っ赤な嘘月が 世界の中心となって世界制覇を狙った足跡が
右の史実
しかし 真っ赤な嘘月を中心とする万国制覇は中途終了
敗戦といふ形で終了した
それは 世界を平和にするどころか
南方・アジア方面で 激しい戦乱を引き起こす種となった
平和にほど遠い世界となった
もし<六王>が開発されてゐたら…
南方・アジアに このやうな悲劇は 置きてゐないだらう

<六王>とは和王へのへのもへじが
<常世の幟>の文字になったもので 平和のシンボルと言へる

二〇三高地に 砲弾の形をした塔が聳え立つ
名を<爾霊山(にれいさん)>と言ふ
名は(二〇三・にれいさん)に由来し
意味は 爾(君たちの霊の山)であると言ふ


明治三十七年(一九〇四)十一月三十日
乃木の次男・乃木保典 二百三高地にて他界
乃木の長男・乃木勝典は 半年前の五月二十七日
金山の戦にて他界してゐる
今と つくづくふな?と思ふ所は
亡き人を弔ふ意識である
亡き人をつくづく思ふ気持ちである
亡き人を思ふ振りして思ふ心と
心から 亡き人を思ふ ここが今と昔と全く違ふ
--------------------------------------------
結論
台湾神社も
朝鮮神宮も
樺太神社も
南洋神社も
関東神宮も消えたが
白玉山塔と爾霊山は 歴史が遺した
何故か?
乃木の死者を弔ふ厚い思ひが遺したのだらう
日の丸の振りをした偽物の真っ赤な嘘月は
みごとに 歴史が闇に葬ったが
未だに 偽物に気づかず本物の日の丸と誤認する人が多い
だから 遠い昔の日本を思ふことができない
残念で 残念で そして情けない
武装兵力を以て 平和を守ると息巻く人の心に
亡くなった人への思ひやりを少しも感ずることがない
多くの日本人に 今の武装兵力保有論者の
思ひ遣りなき心に 一日でも早く気づいて欲しい

大連北部に<南山>有り
ここで乃木の長男・勝典は 負傷し他界
大連と旅順は 随分と離れてゐる
地図の<旅順>の北部に<白玉山塔>がある
旅順の中心部に<白玉山>といふ標高百三十㍍の小山がある
現在 白玉山塔と言はれてゐる塔は
日本が日露戦争戦没者追悼のために建立したもので
明治四十二年(一九〇九)に完成されたものである

発案者は乃木希典と東郷平八郎で
当時は<表忠塔>と名づけられた
塔の形は ロケットに見えるが<ローソク>で
尖端は 砲弾をかたどってゐる
塔内に入ると 螺旋階段二七三段があり
登ると 旅順港が 一望できる
展望台の欄干には 陸軍の記章である
五芒星(魔除け)が 埋め込まれてゐる

旅順は
明治三八年(一九〇五)から昭和二〇年(一九四五)の四〇年間 日本の租借地であったが
昭和二〇年八月二十二日にソビエトが進駐し
昭和三十年まで ソビエトが統治してゐた
<聖地旅順>の完成は
昭和十九年(一九四四)一〇月一日
ここ旅順に 関東神宮の鎮座祭が おこなはれた
神社は 明治初年に 以下の五つが生まれた
無格社…一
村社 …二
郷社 …三
府県社…四
官社 …五 最も格式ヽ高い神社
関東神宮は 最も格式の高い官幣大社である
日本国外に建立された官幣大社は
台湾神社
樺太神社
朝鮮神宮
パラオ コロール島の南洋神社がある
○台湾神社
①明治三十四年(一九〇一)十月二十七日鎮座
②所在地 圓山大飯店の辺り
③北白川宮能久親王

○樺太神社
①明治四四年(一九一一)八月二十三日鎮座
②所在地 樺太豊原町旭ヶ岡(大泊より北)
③大國魂命 大己貴命 少彦名命

○朝鮮神宮
①大正十四年(一九二六)十月十五日
②朝鮮京畿道京城府南山
③天照大御神 明治天皇


○南洋神社
①昭和十五年(一九四〇)二月
②コロール島アルミズ高地
③天照大御神 明治天皇

○関東神宮
①昭和十九年(一九四四)十月一日・鎮座
②旅順
③天照大御神 明治天皇

真っ赤な嘘月が 世界の中心となって世界制覇を狙った足跡が
右の史実
しかし 真っ赤な嘘月を中心とする万国制覇は中途終了
敗戦といふ形で終了した
それは 世界を平和にするどころか
南方・アジア方面で 激しい戦乱を引き起こす種となった
平和にほど遠い世界となった
もし<六王>が開発されてゐたら…
南方・アジアに このやうな悲劇は 置きてゐないだらう

<六王>とは和王へのへのもへじが
<常世の幟>の文字になったもので 平和のシンボルと言へる

二〇三高地に 砲弾の形をした塔が聳え立つ
名を<爾霊山(にれいさん)>と言ふ
名は(二〇三・にれいさん)に由来し
意味は 爾(君たちの霊の山)であると言ふ


明治三十七年(一九〇四)十一月三十日
乃木の次男・乃木保典 二百三高地にて他界
乃木の長男・乃木勝典は 半年前の五月二十七日
金山の戦にて他界してゐる
今と つくづくふな?と思ふ所は
亡き人を弔ふ意識である
亡き人をつくづく思ふ気持ちである
亡き人を思ふ振りして思ふ心と
心から 亡き人を思ふ ここが今と昔と全く違ふ
--------------------------------------------
結論
台湾神社も
朝鮮神宮も
樺太神社も
南洋神社も
関東神宮も消えたが
白玉山塔と爾霊山は 歴史が遺した
何故か?
乃木の死者を弔ふ厚い思ひが遺したのだらう
日の丸の振りをした偽物の真っ赤な嘘月は
みごとに 歴史が闇に葬ったが
未だに 偽物に気づかず本物の日の丸と誤認する人が多い
だから 遠い昔の日本を思ふことができない
残念で 残念で そして情けない
武装兵力を以て 平和を守ると息巻く人の心に
亡くなった人への思ひやりを少しも感ずることがない
多くの日本人に 今の武装兵力保有論者の
思ひ遣りなき心に 一日でも早く気づいて欲しい

大連北部に<南山>有り
ここで乃木の長男・勝典は 負傷し他界
大連と旅順は 随分と離れてゐる
地図の<旅順>の北部に<白玉山塔>がある
短編和歌『田代栄助』
田代栄助
振り返り
見れば昨日も
影も無し
行く末暮らし
死出の山道
秩父事件の困民党の総理・田代栄助
田代が 命を懸けて残したかったものは
この歌ではなかったか…
このままでは『行く末暗し』がわかってゐたから
立ち上がったのだらう
しかし 和が国には
田代たちが知り得なかった
『平和鶴鳴』や『平和の四大の言弾』があった
非暴力でも 暴力政府に勝てる
そんな偉大な言弾が 和が国にはあった
短編和歌『田代栄助』は
PDFでも
和たぐ新聞でも 読めます
返還から略奪へ
竹島問題概略
①寛文七年(一六六七)
竹島(鬱陵島)を日本の西北限とする
↓ ↓
②元禄七年(一六九四)
朝鮮 鬱陵島は自領だと主張
↓ ↓
③元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側 日本の領土だと主張
ところが
③元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
調べてみると「竹島」は
朝鮮から四十里
日本から六十里
よって竹島は
「朝鮮と地続きであったこと疑無し」とし
朝鮮に「還す」と述べた後
この処置は「以前と同じではない」と
改めて 幕府の「認識の転換」を語り
いつまでも争ひが続くよりは
朝鮮・日本 お互ひに
争ひごとがないことに越したことはないと述べた
これより 竹島(鬱陵島)は
日本・朝鮮両国が 渡海禁止とし
両国の「言争」は無くなった
↓ ↓
安政五年(一八五八)
薩長革命政府の先導者・松蔭は
長年の慣行を破り
竹島の開拓占領を企画提案
↓ ↓
これより「竹島問題」再燃
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下 簡易年譜である
元和四年(一六二三)
幕府
伯耆(ほうき)国の米子の町人
村川市兵衛・大谷甚吉に
「竹島」への渡航を許可
元和九年(一六二三)
米子の大谷甚吉
越後より伯耆国米子に帰航の際「竹島」に寄る
全竹島開基は 大谷甚吉なり
経て「竹島」にて病死
島に石碑あり
本名 浄本と号す
後「竹島院」と号す
寛文七年(一六六七)
出雲藩士齋藤豊仙
藩命により『隱州視聴合記』をつくる
「竹島」を日本西北限とする
元禄五年(一六九二)
二月十一日(和暦)
村川市兵衛の船
因幡藩(鳥取県東部)の許可得て 米子出向
隠岐の福浦を経て
三月二十六日
伊賀島(小さな竹島か?)に到着
三月二十七日
鬱陵島に到着
朝鮮人が漁労してゐるのを確認
市兵衛が「日本領であることを告げる」と
朝鮮人は「漂着した」と言ふ
市兵衛は 昨秋小屋に残して来た
釣道具と漁船が無くなってゐるのことに気づく
そこで 朝鮮人に
「再びここに来ぬやう」伝へて帰った
その後
鬱陵島に市兵衛が渡航するも
朝鮮人の妨害でやむなく帰る
元禄六年(一六九三)
四月十七日
船頭黒兵衞 米子を出港
その日の内に鬱陵島に着くと
そこで朝鮮人四十二人が漁労をしてゐた
その内の安龍福と朴於屯の二人を
密漁の証人として捕まへて連れて帰る
四月二十八日
鳥取藩 江戸に処置を伺ふ
五月十三日
江戸から指示書が届く
「密猟者二人を長崎に送り
朝鮮に送還し 朝鮮に密漁を抗議せよ」
十二月
朝鮮から返事が届く
鬱陵島に赴いた朝鮮人二人の送還の礼と
彼らを厳重に処することが書かれ
最後に かう書いてあった
「朝鮮では 海禁を厳重にしてをり
鬱陵島への往来は許可してゐない」
元禄七年(一六九四)
三月
日本が言ふ「竹島」と
朝鮮が言ふ「鬱陵島」の領土問題で
幕府は 多田与左衛門を派遣
八月九日
結論でず
九月
朝鮮は「鬱陵島」は朝鮮領だと述べた
元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側の主張
鬱陵島で
日本漁民は 漁労してゐるが
その間 一度も朝鮮の役人を見てゐない
したがって
「実質日本領である」と主張した
元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
邦人が竹島(=鬱陵島)に渡航して
漁業を行ふことを禁止する
竹島の地は
因幡に属せりといへども
我が人 居住すること無し
徳川秀忠の時
「米子の村人」から
その島での「漁労の願」を受け
これを許したことが始まりであった
今 その地理を計るに
因幡から六十里ばかり
朝鮮から四十里ばかり
これは かつて「竹島」が
朝鮮と陸続きであったこと疑無し
日本が 兵力を以て自領とすれば
何を求めてのことなのか 得る物無し
また その始まりをみると
そこは朝鮮との陸続きで
日本が 取ってはならぬ所であった
よって 今「竹島を還す」
そこに往き 漁労するを禁ずることを以て
敢へて「詞」にはしないが
朝鮮国は こちらの意を汲んで貰ひたい
この処置は 明らかに
以前の幕府の認識とは異なるが
争ひが絶えず起こるよりは
日本・朝鮮両国が お互ひ
争ひなく過ごすことに越したことはない
この件 宜しく
元禄十一年(一六九八)
三月二十五日
朝鮮から対馬藩宗義真(よしまさ)に 書が届く
そこには
渡航禁止の処置に謝意を表しながらも
その島は 日本名・竹島
朝鮮名・鬱陵島と一島二名であるが
朝鮮領であることは紛れもないことだが
今後は 日本・朝鮮共に
当地に往来しないやう取り締まりたい
と書いてあった
元禄十二年(一六九九)
一月
対馬の宗義真が 朝鮮国礼曹に
竹島の一件につき
日本・朝鮮共に入島しないことを謝し
その旨を幕府に伝ふ
宝永七年(一七一〇)
二月七日
新井白石
日本大君=天皇
日本国王=将軍とし
最高権威が「日本国王・将軍」だとし
朝鮮にも通達
天保七年(一八三六)
十二月二十三日
幕府
鬱陵島の密貿易に関しての判決を出す
異国の属島へ渡海いたし
立木等伐採して持ち帰る
これ不届なり 死罪を申し付く
天保八年(一八三七)
二月
幕府
元禄よりこの方
竹島への渡海停止の仰せが出さる
異国渡海の儀は 重大御制禁
竹島も同様に心得 渡海いたすまじく候
安政五年(一八五八)
七月
竹島開拓計画
吉田松陰の提案
桂小五郎・のちの大村益次郎(村田蔵六)に
密かに提案してゐた
元禄九年(一六九六)から百六十年近く続いた
日本名・竹島 朝鮮名鬱陵島への渡海禁止
その地を明らかに「異国」と認識し 渡海を禁止した幕府
ところが 異心革命煽動者・松蔭は
その「渡海禁止」の「異国の地」を『開拓せよ』と
同志を唆してゐた
唆す=(そそのか)す
何故か?
大東亜戦争の教書『混同秘策』佐藤信淵著に
「取りやすきところから取れ」との指示有ればこそ
松蔭の大陸出撃論は 前著より生まれたものであって
松蔭のアイデアではない
現在の「禍の火種」を
日本船の印とする旨を幕府に申し出た島津斉彬も
これまた大陸出撃論者であったが
これも佐藤の『混同秘策』の影響を受けた案とみていい
①寛文七年(一六六七)
竹島(鬱陵島)を日本の西北限とする
↓ ↓
②元禄七年(一六九四)
朝鮮 鬱陵島は自領だと主張
↓ ↓
③元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側 日本の領土だと主張
ところが
③元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
調べてみると「竹島」は
朝鮮から四十里
日本から六十里
よって竹島は
「朝鮮と地続きであったこと疑無し」とし
朝鮮に「還す」と述べた後
この処置は「以前と同じではない」と
改めて 幕府の「認識の転換」を語り
いつまでも争ひが続くよりは
朝鮮・日本 お互ひに
争ひごとがないことに越したことはないと述べた
これより 竹島(鬱陵島)は
日本・朝鮮両国が 渡海禁止とし
両国の「言争」は無くなった
↓ ↓
安政五年(一八五八)
薩長革命政府の先導者・松蔭は
長年の慣行を破り
竹島の開拓占領を企画提案
↓ ↓
これより「竹島問題」再燃
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下 簡易年譜である
元和四年(一六二三)
幕府
伯耆(ほうき)国の米子の町人
村川市兵衛・大谷甚吉に
「竹島」への渡航を許可
元和九年(一六二三)
米子の大谷甚吉
越後より伯耆国米子に帰航の際「竹島」に寄る
全竹島開基は 大谷甚吉なり
経て「竹島」にて病死
島に石碑あり
本名 浄本と号す
後「竹島院」と号す
寛文七年(一六六七)
出雲藩士齋藤豊仙
藩命により『隱州視聴合記』をつくる
「竹島」を日本西北限とする
元禄五年(一六九二)
二月十一日(和暦)
村川市兵衛の船
因幡藩(鳥取県東部)の許可得て 米子出向
隠岐の福浦を経て
三月二十六日
伊賀島(小さな竹島か?)に到着
三月二十七日
鬱陵島に到着
朝鮮人が漁労してゐるのを確認
市兵衛が「日本領であることを告げる」と
朝鮮人は「漂着した」と言ふ
市兵衛は 昨秋小屋に残して来た
釣道具と漁船が無くなってゐるのことに気づく
そこで 朝鮮人に
「再びここに来ぬやう」伝へて帰った
その後
鬱陵島に市兵衛が渡航するも
朝鮮人の妨害でやむなく帰る
元禄六年(一六九三)
四月十七日
船頭黒兵衞 米子を出港
その日の内に鬱陵島に着くと
そこで朝鮮人四十二人が漁労をしてゐた
その内の安龍福と朴於屯の二人を
密漁の証人として捕まへて連れて帰る
四月二十八日
鳥取藩 江戸に処置を伺ふ
五月十三日
江戸から指示書が届く
「密猟者二人を長崎に送り
朝鮮に送還し 朝鮮に密漁を抗議せよ」
十二月
朝鮮から返事が届く
鬱陵島に赴いた朝鮮人二人の送還の礼と
彼らを厳重に処することが書かれ
最後に かう書いてあった
「朝鮮では 海禁を厳重にしてをり
鬱陵島への往来は許可してゐない」
領土確認交渉
元禄七年(一六九四)
三月
日本が言ふ「竹島」と
朝鮮が言ふ「鬱陵島」の領土問題で
幕府は 多田与左衛門を派遣
八月九日
結論でず
九月
朝鮮は「鬱陵島」は朝鮮領だと述べた
元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側の主張
鬱陵島で
日本漁民は 漁労してゐるが
その間 一度も朝鮮の役人を見てゐない
したがって
「実質日本領である」と主張した
「竹島」朝鮮に返還す
元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
邦人が竹島(=鬱陵島)に渡航して
漁業を行ふことを禁止する
竹島の地は
因幡に属せりといへども
我が人 居住すること無し
徳川秀忠の時
「米子の村人」から
その島での「漁労の願」を受け
これを許したことが始まりであった
今 その地理を計るに
因幡から六十里ばかり
朝鮮から四十里ばかり
これは かつて「竹島」が
朝鮮と陸続きであったこと疑無し
日本が 兵力を以て自領とすれば
何を求めてのことなのか 得る物無し
また その始まりをみると
そこは朝鮮との陸続きで
日本が 取ってはならぬ所であった
よって 今「竹島を還す」
そこに往き 漁労するを禁ずることを以て
敢へて「詞」にはしないが
朝鮮国は こちらの意を汲んで貰ひたい
この処置は 明らかに
以前の幕府の認識とは異なるが
争ひが絶えず起こるよりは
日本・朝鮮両国が お互ひ
争ひなく過ごすことに越したことはない
この件 宜しく
元禄十一年(一六九八)
三月二十五日
朝鮮から対馬藩宗義真(よしまさ)に 書が届く
そこには
渡航禁止の処置に謝意を表しながらも
その島は 日本名・竹島
朝鮮名・鬱陵島と一島二名であるが
朝鮮領であることは紛れもないことだが
今後は 日本・朝鮮共に
当地に往来しないやう取り締まりたい
と書いてあった
元禄十二年(一六九九)
一月
対馬の宗義真が 朝鮮国礼曹に
竹島の一件につき
日本・朝鮮共に入島しないことを謝し
その旨を幕府に伝ふ
宝永七年(一七一〇)
二月七日
新井白石
日本大君=天皇
日本国王=将軍とし
最高権威が「日本国王・将軍」だとし
朝鮮にも通達
天保七年(一八三六)
十二月二十三日
幕府
鬱陵島の密貿易に関しての判決を出す
異国の属島へ渡海いたし
立木等伐採して持ち帰る
これ不届なり 死罪を申し付く
天保八年(一八三七)
二月
幕府
元禄よりこの方
竹島への渡海停止の仰せが出さる
異国渡海の儀は 重大御制禁
竹島も同様に心得 渡海いたすまじく候
安政五年(一八五八)
七月
竹島開拓計画
吉田松陰の提案
桂小五郎・のちの大村益次郎(村田蔵六)に
密かに提案してゐた
元禄九年(一六九六)から百六十年近く続いた
日本名・竹島 朝鮮名鬱陵島への渡海禁止
その地を明らかに「異国」と認識し 渡海を禁止した幕府
ところが 異心革命煽動者・松蔭は
その「渡海禁止」の「異国の地」を『開拓せよ』と
同志を唆してゐた
唆す=(そそのか)す
何故か?
大東亜戦争の教書『混同秘策』佐藤信淵著に
「取りやすきところから取れ」との指示有ればこそ
松蔭の大陸出撃論は 前著より生まれたものであって
松蔭のアイデアではない
現在の「禍の火種」を
日本船の印とする旨を幕府に申し出た島津斉彬も
これまた大陸出撃論者であったが
これも佐藤の『混同秘策』の影響を受けた案とみていい
○中国侵略から開戦まで
情勢地図

第一次世界大戦中にドイツ領を占領し
その後
国際連盟の委任統治となった南洋群島地図
アメリカ統治のグアムに視点を置けば
当時のアメリカが 日本を敵視したのが よくわかる
水色=大東亜戦争前の日本の南洋支配
茶色=大東亜戦争緒戦占領地
緑色のポートモレスビーは 占領できなかった所
紺色の「コロール島」は
南洋支配を祈願して 大きな南洋神社を建立した島だ
特に注目していただきたい所は
①グアム
②ウェーク
③マキン・タラワ島
ハワイ奇襲攻撃成功の暗号文
「トラ トラ トラ」を受けて
テニアンから①グアム
ウオッゼから②ウェーク
ヤルートから③マキン・タラワへの奇襲攻撃開始
言ひたいことは一つ
ハワイ真珠湾攻撃成功の連絡を受けて
三方面の奇襲作戦が 同時に起きてゐること
真珠湾攻撃だけに視点を当ててしまふと
同時に始まった革命政府の南洋支配の意図が
見えなくなってしまふ
大正十二年(一九二三)に
日本軍が
『対米作戦要領』で「開戦劈頭グアム占領」を唱へた
その気持ちも「地図」を見れば よくわかる
南洋支配に 米国のグアムは邪魔だったのだ
パラオ諸島の小さな島「コロール島」に
南洋群島の「本庁」が置かれたのは
大正十一年(一九二二)四月一日
南洋群島の「総本山」として
左図の南洋神社が創建されたのは
昭和十五年(一九四〇)二月十一日
御祭神は 天照大御神

ここでの着眼点は「天照大御神」
それは 恐らく 異心暴力革命政府が
仰いだ「真っ赤な嘘月」だらう
しかし それは
『古事記』ヽ 「禍津日神」
土佐光信が語る「地獄の猛火」
「禍の火種」」
和王の国旗は 以下
大日のらい
清く明るく
とことん豊
今では破天荒な私説であるが
昔の文献から探れば「真っ赤な嘘月」を
古代からの「日の丸」とみる認識の方が 余程 常識外だ
国宝・土佐光信著『清水寺縁起』は 室町時代に書かれた
そこに 偽物の「日の丸」を 大和朝廷が退治する
そんな絵が描かれてゐる
今から三十数年前 高校教員だった私は
「真っ赤な嘘月」を 何の疑ひもなく 無邪気に
「昔の日の丸」だと思ひ込んでゐた
ところが ある日 ひょいっと手にした『清水寺縁起』
そこでは 驚くことに
大和朝廷が「今の日の丸」を退治してゐた
「あれ? 日の丸って
大和朝廷の国旗ではなかったの?」
誰もが思ひ浮かぶ疑問である
朝廷に退治されてゐる日の丸軍は 蝦夷(えぞ)軍
その蝦夷軍の容姿が またスゴイ 人として描かれてゐない
ーへんてこな気持ちになったー
その姿は 地獄に住むといはれた『餓鬼畜生』の姿
そんな蝦夷軍は 堕ちた人々になってゐた
一体 これは 何を意味するのだらうか
何故 この絵が「国宝」として今に残るのか?
日の丸好きには そんな疑念が晴れない
この複雑な思ひを抱へて二十数年
ー略ー
令和四年八月九日
古代の日の丸と思はれる図柄が 浮かんだ

今の日の丸は 本物か?
それとも偽物か?
この迷ひを持ち続けた結果の産物である
もちろん真相は わからない
しかし どうしても 今の日の丸は
『古事記』の言ふ
禍津日神(まがつひのかみ)に見えてしまふ
それは 以下の『禍』の語源展開式に由来する
禍=わざわい
=わざわひ
=ワざ輪火
=ロ座輪火(ロ=ワ)
=四界に座する火輪
「絵体」の知れた姿にすると…
①四界(に)
②座する火輪
↓ ↓

令和五年末 岸田首相は「自分が火の玉」になると言った
さうしたら
四海に浮かぶ「輪島」が

↓ ↓ ↓
「火の玉」となってしまった

↓ ↓
さうしたら
その 「禍の火」を刈り取る
つまり「火っ樵り」する
昔の日の丸が 令和七年九月に 現れた
↓ ↓

よって 以下の結論が 常に浮かんで来る
今の日の丸は 日の丸ではない
それは 真っ赤な嘘月(うそつき)
古事記の『禍津日神』(まがつひのかみ)
『禍の火種』
『地獄の猛火』である
この認識を語り継ぐために
土佐光信は『清水寺縁起』を描いた
土佐の認識が 本物だから
歴史は この書を「国宝」として残した
ところが「何時も 心は西洋人」
こんな人たちばかりだから
折角の国宝も役に立たずにゐる それだけの話だ
過去に眼が向かないのだ
だから 「大東亜戦争」もわからない
いや 「コロナ騒擾」も全く知らない
歴史に無知であることに 何の恥らいもなく
唯 遊ぶことだけが 生きがひとなってしまった
しかし 中には 歴史を知りたい
そんな大人もゐれば
そんな子供もゐる
そんな方や子供たちのために 歴史を淡々と語りたい
戦前の大陸事情
戦前の大陸事情は 戦前の南洋群島と同様
あまり知られてゐない

当時の確かな史実と情勢地図を 教はってゐないからだ
昭和十一年(一九三六)十二月三十一日
ワシントン軍縮条約が失効
つまり 条約による「軍縮の制約」がなくなり
「やりたい放題」になったわけだ
だから
昭和十二年(一九三七)一月一日から
『南洋の南進』と『大陸の南進』とが加速した
南洋は『飛行場建設』を急ぎ
大陸は『中国支配』が加速した
少し 時間は遡るが
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明治二十四年(一八九一)
榎本武揚(たけあき)が外相になると
直ぐに 植民計画を実施するため
南洋群島・ニューギニア・マレー半島を調査した
興味深いことは 大東亜戦争の緒戦が
榎本の意志を継ぐかの様に
マレー半島の「コタバル上陸」に始まり
グアム
ウェーク
マキン・タラワ
ラエ・サラモアを占領
↓ ↓
それは 榎本が植民地調査をした
マレー半島と南洋群島の拡大領域ニューギニア東部だった
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中国の大陸情勢

昭和十二年(一九三七)
七月七日 盧溝橋事件 ①
十二月十三日 南京占領 ②
昭和十三年(一九三八)
十月二十七日 武漢三鎮占領③
蒋介石の国民政府は「重慶」に退いてゐた
この頃は 念願の国産機
九六式艦上戦闘機と九六式中型陸上攻撃機を
三菱名古屋航空機製作所で生産してゐた
制式採用の昭和十一年が
皇紀二五九六年に相当するので
末尾の「九六」を取って 九六式と名づけられた
ところが
武漢漢口飛行場から爆撃地重慶まで 片道七五〇㌔
航続距離が長かったため
九六式艦上戦闘機は 掩護につけない
よって 九六式中型爆撃機は 掩護なしで出撃してゐた
防備が極端に弱かった中型爆撃機は
迎へ撃つ中国空軍に
簡単に撃墜され 大きな損害を出してゐた
だから 海軍は 中型爆撃機と同様に
「航続距離」が長く そして
「高速」で
「大きな弾」を撃つ機銃のついた
新型艦上戦闘機を望んでゐた
とはいっても
九六式艦上戦闘機も
「外国の超一流機のやうだ」と
試乗した前原謙治中将が称賛した様に
世界の航空先進国で製作された戦闘機を遙かに越えた
高度な性能を備へてゐた
その性能を上回る戦闘機を 海軍は要求して来たのだ
当時の日本航空機の技術の高さは 以下の事実が物語る
朝日新聞社の「神風号」が
立川ーロンドン 一五三五七㌔を
九十四時間十七分五十六秒の短時間で翔破!
世界新記録を樹立してゐた
九十六式艦上戦闘機
高度 三二〇〇㍍
時速 四五〇㌔
機銃 七・七㍉二挺
↓ ↓ ↓ <八>この移行を海軍は望んだ八>
新型艦上戦闘機
高度 四〇〇〇㍍
時速 五〇〇㌔
機銃 二〇㍉二挺追加
新型の戦闘機は
昭和十二年の試作機といふことで
十二試艦上戦闘機と言はれた
昭和十二年十二月二日
つまり
「盧溝橋事件」が起きて おほよそ五ヶ月後
航空母艦「加賀」に当時最高の性能を持つ
九六式艦上戦闘機を載せ 中国空軍と空中戦をさせた
中国軍は英・米・ソの戦闘機
ここで 日本は 圧倒的な強さを見せた
ソ連製の戦闘機十機撃墜を最後に
南京上空から 外国機を追放
南京の「制空権」を取ったのだ
しかし 海軍は
「日本の基地」から「中国大陸」を攻撃出来る戦闘機
九六式戦闘機よりも 航続距離の長い戦闘機を望んだ
それは 将来の『南進』を見据ゑてのものだった
海軍の夢は
「開戦劈頭グアム占領」
それには
・フィリピン の米軍飛行基地
・シンガポールの英・東洋艦隊
この二つが邪魔だった
だから
世界最速で
長い距離の敵地まで飛べて
そこに「大きな弾」を撃つ機銃のついた
戦闘機が欲しかった
南京占領

少し黒みがある水色の地名は 細菌部隊が置かれた所
平房(へいほう)が本部
牡丹江(ぼたんこう)
林口(りんこう)
孫呉(そんご)
ハイラルは その支部である
ワシントン軍縮条約失効の翌日
昭和十二年(一九三七)一月一日
この日から南洋・大陸の支配は加速したが
戦史を振り返るには
もう一つの視点が必要だ
それは
資源の少ない国が 大国に勝つ戦術
「細菌戦」である
その準備は
中国侵略が始まる五年前の
昭和七年(一九三二)
四月二日に 始まった
陸軍軍医学校に防疫研究室設置
八月
石井四郎が主幹となり以後
石井を中心に
細菌戦の研究と実戦が展開された
それは 石井個人の作戦ではなく
国を挙げての作戦であった
昭和十五年(一九四〇)十二月二日
満州に存した本部と四支部は以下
孫呉
③ ノ ②林口
ノ \ ①牡丹江
/ \
ハルピン○
\/■平房(本部)
安達 /
\ 新京(満州国首都)
\ /
④ハイラル 奉天
五番目の支部は「大連」
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また 大東亜戦争・開戦間近には
中国にも
「北京」
「南京」
「広東」に 支部が置かれてゐた

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大東亜戦争開始後
日本軍が コタバルに上陸すると…
マレー半島占領
そしてシンガポール占領が終はると
シンガポールには「南方防疫給水部」が置かれた
南方の行政官庁が「コロール島」にあった様に
南方の細菌部隊の本拠地が
「シンガポール」に置かれたのだ
ここを拠点に
「ジャカルタ支部」などが置かれた
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当時の細菌戦は
ペストやチフス菌の空中散布が 一般的であったが
細菌は 光に弱く
空中落下してゐる間に死滅するため
空中散布をしても細菌戦にならない
さう 考へられてゐた
そこで石井は 下記の作戦を考へた
細菌感染させた『蚤』を養育し
さらにその『蚤』を鍛錬し
その鍛へあげた『蚤』を空中散布すれば
その『蚤』が 人にたかって
人を細菌感染させることができる
そこで石井は
風呂桶に蚤を入れ そこに ライトを照らした
光りを嫌がる蚤は 直ぐに逃げる
つまり 元気のいい「蚤」は素早く逃げる
だから元気のいい「蚤」の逃げ道を用意して
排水口から逃られる様にした
逃げ遅れた蚤を 役立たずとして殺処分
元気よく逃げた蚤だけを集めた
かうして
鍛へ上げられた「蚤部隊」が作られた
「精鋭部隊」を作りあげれば
実践して その成果をみたくなる
これが人情である
実戦された主な細菌戦は以下三つ
○戦前
昭和十五年十月下旬
寧波に空中散布
昭和十六年十一月四日
常徳に空中散布戦中
○戦中
昭和十七年五月から九月
セッカン作戦
被験者に使用された人体は 「合法的」に用意された
その法律は
昭和十三年(一九三八)一月二十六日発せられた
『特移扱に関する件通牒』
日本の植民地支配に
・抵抗した者
・抵抗したとみなされる者は
裁判をせず 事件送致をせず「平房」まで連行する
これを『特移扱』と呼び
本部の『平房』に 被験者は極秘に集められた
連行された人に注目されたい
日本の植民地支配に
・抵抗する者 或いは
・抵抗するとみなされる者
これなら 極端な話 誰でも 疑ひをかけられる
そして 裁判もなく 黙って 平房に連れて行ける
かうして 連行されて人体実験された人は
少なくとも三千人はゐた
その人たちは
満州では『マルタ』
南京では『材木』と呼ばれ
医学界では『満州猿』と呼ばれ
医学界では 公然と人体実験されてゐた
当時の認識を知らないと了解しにくいことだが
日本軍に抵抗する人たちは
満州では『匪賊』
朝鮮では『不逞鮮人』
国内では『国賊』と呼ばれ
人間扱ひされなかった
たとへば 大杉栄事件
大杉栄は 社会主義者であった
愛人は 伊藤野枝 そして甥っ子もゐた
関東大震災が起きた時
社会主義者と朝鮮人が暴動を起こして政府を転覆させる
こんなデマが広がってゐた
そこで 国内の治安維持といふ名目で
社会主義者には 憲兵らの厳しい監視の眼があてられた
そこで 大杉は憲兵の訊問を受け 連行され
その日の内に三人は絞め殺された
主犯は 甘粕大尉
驚くべきことは 検察の論告求刑文
要点だけを簡単にご紹介する
和が国は 法治国家であるから
社会主義者だからといって
殺していいことにはならない
しかし!
甘粕大尉の国を思ふ気持ち それは美しい
よって 減刑!
時の日本政府に逆らふ者は
日本は法治国家であるから
直ぐさま殺していいとはならない
しかし!
こんな人々を放置しておいたら
和が国の繁栄はない
その思ひを以て つまり
国を守るためにとった行為は美しい!
こんな思ひを検察官が法廷で言ふ
ここに 私たちが 想像しても 想像しきれぬ
戦前の「異常な意識」がある
こんな意識があったから
中国人や朝鮮人も 平気で殺せたのではないか…
この病的な優越感・病的な独善的思考は
一体 どこから来るのだらうか…
私が 考へたいことは
常に最後は 心の問題になって来る
私の仮説は一つ
禍の火種である
禍=わざわい(現かな)
=ワざわひ(旧かな)
=ロ座輪火
=四界に座する火輪

「禍の火種」に 心が支配された結果の自然現象
だから
その「禍の火」を「火っ樵り」刈り取る必要がある

自民党の裏金事件
どう考へても心の問題である
だから いくら制度や法を変へても
裏金を合法的に作る!
この意識がある限り 永遠に 裏金作りは終はらない
「絶対にやらない」と心に決める以外止める手はない
ハッキリ言って その心があれば
裏金事件は 二度と起きない
にもかかはらず 誰も 心の問題とは言はない
自由嘘月党の諸氏は
心が「禍津日神」に 奪はれてゐるのだ
話は 十二試艦上戦闘機に戻る
世界初の渡洋爆撃
昭和十二年
七月七日
盧溝橋事件が起きる
日本政府の不拡大方針もあったが
七月二十八日
北史に駐屯してゐた日本軍が 総攻撃を開始
八月八日
北京入城もあり
盧溝橋の局地的戦闘は 全面戦争に広がって行った
八月十四日
鹿屋航空隊が台北の松山基地から東シナ海を横断して
抗州・広徳の飛行場を爆撃した
鹿屋航空隊 (台北・松山基地)
木更津航空隊(長崎・大村基地)
この海を渡って航続距離の長い爆撃を
当局は『渡洋爆撃』と名づけ
戦果は 誇張されて報道された
国民は 報道に煽られ 熱狂した
渡洋爆撃の初めは以下の三日
八月十四日
台北・松山基地ー抗州
距離は六二〇㌔
八月十五日
台北・松山基地ー南昌
長崎・大村基地ー南京
大村ー南京は 距離九六〇㌔
往復・約千浬(かいり)
当時では並外れた距離 ※一浬=一八五二㍍
八月十六日
鹿屋 ・台北ー句容・揚州
木更津・済州ー南京(蘇州)
勇ましく報道されたが
日本側の人と・機の損失も大きかった
亡くなった搭乗員=六五名
損失爆撃機 =鹿屋隊 八機
=木更津隊 十二機
国内では「渡洋爆撃」が有名になったが
世界からは
都市への爆撃は「無差別爆撃」だと非難を浴びた
戦後になって
この「非道なる爆撃」の報ひとして
「東京大空襲」と「原爆」を受けた
こんな報復の論理を主張する者も出た
これら一連の爆撃は
①出撃機数
②投弾量
③機動距離
どれをとっても
間違ひなく 世界航空戦史に例を見ない
『大破壊力』と『残忍さ』
この二つの記録を更新するものと言へる
こんな意見が出るほどの
中国大陸への激しい大空爆であった
しかし
日本側の被害も甚大であった
だから 海軍航空本部は
長距離爆撃機を掩護する
有能な戦闘機が欲しかった
昭和十二年(一九三七)十月五日
海軍は
中島飛行機と三菱重工に
十二試艦上戦闘機計画要求書を交付した
三菱の堀越二郎は
海軍の要求する性能を見て
確かに 出来たら世界一と思った
しかし 作る自信はなかった
だからだらう
中島飛行機は
十二試艦上戦闘機の開発を早々に辞退してしまった
製作は 三菱重工一社となった
作業は難航を極めたが 堀越は 諦めなかった
昭和十三年(一九三八)四月二十二日
木型の実物大模型が出来た
厳しい海軍の審査を受け 百近い修正が指摘されたが
一次審査は合格
昭和十四年(一九三九)三月十六日
遂に試作機が完成
三月二十三日の午後七時
名古屋市港区大江町の
海岸埋立て地区にある三菱重工株式会社
名古屋航空機製作所からシートで厳重に覆はれた
大きな荷を積んだ「牛車」が 静かに引き出された
行先は各務原(かがみはら)の飛行場
距離は 約四十二㌔
二十四時間をかけて運ばれた
トラックで運べば二時間
しかし 悪路のため 激しい振動で
機体は すっかり 傷ついてしまふ
馬で運べば十二時間だが 途中で暴れる可能性がある
そこで「牛車」で運ばれた
戦争中も 同様だった
各務原に運ばれた試作機は
テスト飛行が繰り返された
海軍の要求する時速五〇〇㌔は突破した
試作機の三号機から
発動機が中島製に変更され 馬力は上がり
時速も五三三㌔に上がった
ドイツ 最速・四四四㌔
アメリカ最速・四二六㌔
満足のゆく戦闘機が出来た
第二次世界大戦勃発
昭和十四年(一九三九)
九月一日
ドイツが二〇〇〇機を駆使して ポーランド侵攻
ポーランドの同盟国であったイギリス・フランスは
九月三日
ドイツに宣戦布告
そんな中
十月十八日
二号機が完成
十二月
三号機機が完成
遂に五三三㌔を実現した
第二次世界大戦勃発当時
零式戦闘機は
まだ 完成されてをらず試作機だった
ここで日中戦争を振り返ってみる
昭和十二年(一九三七)
一…盧溝橋事件 七月七日
二…北支駐屯日本軍総攻撃開始 七月二十八日
三…北京占領 八月八日
四…上海事件 八月十三日
五…渡洋爆撃 八月十四~十六日
掩護の戦闘機をつけず
爆撃機だけの渡洋爆撃は
確かに爆撃の戦果はあるものの
損害も 甚大だった
そこで
航続距離が長く
戦闘能力の高い戦闘機が 望まれた
その計画書が交付されたのが 十月五日
中国侵略はさらに加速する
六…上海占領 十一月二日
七…南京占領 十二月十三日
ー南京虐殺事件が起きるー
昭和十三年(一九三八)
八…徐州占領 五月十九日
九…広東占領 十月二十一日
十…武漢三鎮 十月二十七日
昭和十四年(一九三九)
十一…海南島占領 二月十日
試作機一号 三月十六日
十二…南昌占領 三月二十七日
情勢地図

九月一日
ドイツ軍 二〇〇〇機の航空機でポーランド侵攻
九月三日
ポーランドと同盟国の英・仏が
ドイツに宣戦布告第二次世界大戦勃発である
十月 試作機二号
十二月 試作機三号
昭和十五年(一九四〇)
ドイツは
四月 デンマーク・ノルウェー征服
五月 オランダ・ベルギー征服
フランスがドイツとの国境線に建設した
マジノ防衛施設を迂回してベルギー方面から侵攻
六月十四日 パリ陥落
その頃日本では
七月
横山保大尉が指揮する六機の
十二試艦上戦闘機が 「横須賀」を離陸
「大村飛行場」で燃料補給して「上海」
再び燃料補給して 「上海」を発ち
横山大尉は 「漢口」へと向かった
「漢口」の飛行場には 五・六百人の出迎へがゐた
出迎への中には 航空隊司令官の
山口多聞少将 大西滝二郎少将もゐた
数日後
横山は 山口と大西の二人に呼ばれ
「速やかに 十二試艦上戦闘機で
爆撃機を掩護して敵地に乗込め」と言はれた
しばらくして
「横須賀」から
進藤三郎大尉が指揮する九機も 到着
十五機の十二試艦上戦闘機が「漢口」に集結した
連日の猛訓練で隊員たちの操縦技術も上がった
七月末
その年の紀元二六〇〇年を記念して
十二試艦上戦闘機は零式艦上戦闘機と命名された
ゼロ戦の誕生である
↓このゼロを頂いた「零戦」
二六〇〇年
零式戦闘機の初陣
昭和十五年
八月十九日
陸攻五十四機
護衛の零式戦闘機十二機
「漢口」を離陸して「重慶」に向かった
「重慶」には三十機の敵の戦闘機がゐた
爆撃機は 予定通り「重慶」を空襲
しかし
「重慶」から敵の戦闘機は出て来ない
どうやら 敵は あらかじめ
新鋭戦闘機の情報得てゐて
巧みに 逃げてゐる様だった
八月二十日
零戦が掩護につくも 敵機現れず
「重慶」の空襲は 敵機のゐない中
余裕で爆撃が続けられた
九月十二日
横山飛行隊十二機が 陸攻二十七機を掩護して出撃
しかし そこでも敵機は 出て来なかった
以下の情報が入って来た
中国空軍は 日本の空爆が終はると
「重慶」上空に現れ 何度も旋回
その後に
中国空軍機は 日本航空隊に
大損害を与へ追ひ払ったと報道してゐる
そこで 横山と進藤大尉は
空爆の後 爆撃機と共に帰るフリをして 急に反転し
「重慶」に戻り 中国空軍機を撃つ
こんな作戦を考へた
九月十三日
進藤三郎が指揮する十三機が爆撃機と共に
「漢口」を離陸
「重慶」は「漢口」から片道七五〇㌔
時計の針は 午後一時半をさす
重慶の市街が見えて来た
進藤は 周囲をすばやく見渡した
いつもの様に
中国空軍機の機影は全く見えなかった
陸攻隊の爆撃が始まった
市街地の至る所にかすかな火がひらめくと
その中から黒煙が湧き
またたくまに 上空に立ち昇る
「重慶」上空は 地上から舞ひ上がる
黒煙でおおはれた
やがて爆撃は 終はった
陸上攻撃機が機首をもどしたので
進藤も 部下の機を集合させ 重慶上空を離れた
それから十分後 「重慶」から約五十㌔の地点
進藤大尉の一番機を先頭に 一斉に反転
「重慶」に向かった
敵機目撃!
三機が一団をなして九グループ
編隊を組んで飛んでゐた
ソ連が誇る戦闘機二十七機であった
たちまち すさまじい空中戦が始まった
零戦の二〇㍉機銃を浴びたのか
敵機の主翼が吹き飛び墜落してゆく
瞬時に炎に包まれ 白煙を引いて霧もみ状に落下する
動きが緩慢なものは ソ連製の戦闘機
その中を閃光の様に動く零戦
余りにも対照的な動きであった
破壊され落下してゆくのは
全て ソ連製の中国空軍機だった
進藤は 空戦の余りのすさまじさに呆れた
空中戦は一〇分で終はった
空戦後の集合場所は 重慶東方五〇㌔
反転した場所だった
五機の零式戦闘機が 高度三〇〇〇㍍でゆっくりと
旋回して仲間を待った
三機は深追ひしたものとして
初めは十機で 中継地点の「宣昌」に着陸
静かに 部下の帰りを待った
一機 そして又一機 十三機 全てが帰って来た
進藤は こみあげてくるもの感じた
部下たちは興奮しきってゐた
燃料補給してゐる間に
進藤は 部下たちから報告を聞いた
一人一人の撃墜数を合はせると二十七機であった
戦果は直ぐに
「宣昌基地」から「漢口基地」に報告された
以後
中国空軍は「成都」に退避
「重慶」には容赦ない爆撃が続いた
瓦礫の続く廃墟となった
「重慶」への爆撃は終はり
次の爆撃地は「成都」になった
情勢地図

進藤三郎氏について 調べてみた
戦時中は市民から敬意を以った待遇を受けて来たが
戦後になると 戦犯扱ひされて
子供たちから石を投げられることもあった
戦時中
誠心誠意働いて一生懸命闘って来たことに悔いはないが
そのことが 戦後になってバカみたいに言はれて来て
つまらない人生だった と嘆いてゐたと言ふ
平成十二年(二〇〇〇)二月二日
自宅のソファで眠った様に他界した
その表情は 微笑んでゐるかの様だった
昭和十五年
十月五日
「成都」への初攻撃
横山保大尉指揮の零式戦闘機八機
陸上攻撃機二十七機の掩護
午前八時三〇分 漢口基地を離陸
途中「宣昌」で燃料補給
ここから「成都」まで七四〇㌔
午後二時十分
成都上空につく
上空に敵機はゐない
高度を下げてみると 飛行場に戦闘機が並んでゐた
横山は 銃撃を命じた
次々と 飛行場にならぶ機が炎上して行った
この間に ソ連製中型爆撃機発見
二〇㍉機銃弾が当たると同時に急速に落下
地上に触れて大爆発
横山は 一機の損失もないことを確認すると
炎と煙におほはれた「成都上空」を離れた
攻撃結果は以下
六機撃墜 二十九機炎上大破
その後十二月末まで
出撃回数 二十二回
撃墜数 五十九機
撃破機 百一機
零式戦闘機の損失は ゼロだった
この成果に日本海軍は狂喜した
昭和十六年
三月二十四日
「成都」への爆撃は続けられてゐた
この日も 横山戦闘機隊は八機で掩護につき
「成都」に向かった
敵機は 三倍を超える三十機
すさまじい戦闘が繰り広げられた
十分後
成都上空を飛んでゐるのは
零式戦闘機八機だけだった
撃墜二十七機
零式戦闘機の損失はゼロだった
昭和十六年
八月三十一日
前年の八月十九日に始まった爆撃機による空襲は
中国の制空権を支配したため 終了
爆撃地を
「南京」
「南昌」
「重慶」
「成都」
「昆明」と変へながら
掩護戦闘機も
「九六式戦闘機」から
「零式戦闘機」へと変へながら
日本は中国の制空権を取った
零式戦闘機の活躍
昭和十五年
八月十九日
「重慶」への出撃で始まり
昭和十六年
八月三十一日
「成都」の空中戦で終了
その戦果
撃墜 一六二機
撃破 二六四機
損失 二機
海軍は狂喜した
国民もその甚だしい戦果に醉った

しかし それで平和を守ることが出来たか?
そこを篤と考へたい
軍部の思ひ
①海軍の思惑 グアム占領
②陸軍の思惑 細菌戦で勝つ
しかしグアム占領には
フィリピンの米軍
シンガポールの英・東洋艦隊
この二つの邪魔物がゐた
これら二つを叩くには
航続距離の長い爆撃機と
それを掩護する戦闘機が必要だった
ところが 九六式戦闘機は 爆撃機と同じ様に飛べない
どうしても航続距離が短くなる
だから 爆撃機を掩護できない
だから 戦闘機を空母に載せ
攻撃地の近くまで運ぶ必要があった
しかし 空母からの発艦では戦闘機が限らる
そこで 航続距離の長い戦闘機が必要になる
その思ひから「零式戦闘機」が生まれた
漢口基地から重慶・成都・崑明への空爆は
海軍の本部にしてみれば
航続距離の長い
フィリピン・シンガポールへの
予行演習だったのかもしれない
今度は南洋群島に注目されたい

日本が南洋全島を『永久占領』するには
見れば見るほど
米領グアムが欲しくなる
「開戦劈頭グアム占領」と
唱へた海軍の長年の夢が がよくわかる
陸軍の思惑
満州国建国の翌月
昭和七年(一九三二)
四月
牛込区戸山町の軍医学校内・防疫部地下室に
『防疫研究室』新設
主幹・梶塚隆二
八月
石井四郎が主幹となる
昭和八年(一九三三)
九月
五千坪ある近衛騎兵隊の敷地に
二階建・七八五坪の『研究室』が新築された
大きさのイメージは以下
※五千坪 一六五〇〇平方㍍=一二八㍍四方
※七八五坪 二五九二平方㍍ =五一㍍四方
つまり
一二八㍍四方の敷地に
五一㍍四方の「建物」ができた
ここが 細菌部隊の「国内本部」である
続いて 戦地の「本拠地」も作られてゆく
その場所は
満州国・ハルピン南東七十㌔
背陰河(はいいんが)なる寒村に
守備隊といふ名目で
防疫班『東郷部隊』が創設された
一説に 石井の変名「東郷はじめ」に由来
昭和九年(一九三四)
十六名の被験者が脱走
秘密露呈を怖れ 背陰河の東郷部隊は 閉鎖
一時 東郷部隊は帰国
だから陸軍は もっと大きく
絶対に秘密を守れる機関を渇望した
そこで浮上したのが
ハルピン南方二〇㌔の『平房』への移転を計画
昭和十一年(一九三六)
四月二十三日
関東軍参謀長 板垣征四郎は
陸軍次官 梅津美治郎に
細菌戦準備のため『関東軍防疫部』の新設を要求
この戦地の細菌基地の新説を
『陸軍五十年史』は かう語る
同機関「関東防疫部」は
(戸山の)内地防疫研究室と相呼応して
皇軍防疫の中枢なるは勿論
防疫に関し 駐屯地作戦上
重要なる使命を達成せん事に邁進しつつあり…
昭和十二年(一九三七)
七月七日
盧溝橋事件以後の
中国大陸の「制空権獲得」までの話は述べた
よって ここからは陸軍の細菌戦の野望を追ふ
満州の細菌部隊は
中国では
北京
南京
広東に 広まるが
いづれも
占領した中国施設をそのまま利用した

『北京支部』
昭和十二年(一九三七)
八月八日 北京占領
昭和十三年(一九三八)
二月
北京天壇中央防疫所を占拠して
「北支那防疫給水部」を創設
世界遺産に登録されてゐる『天壇』近く
その出先機関は
済南
天津
青島等 十数カ所に及んだ
『南京支部』
昭和十二年
十二月十三日占領
昭和十三年
四月十八日
「南京中央病院」を拠点とした
その出先機関は
上海
蘇州
抗州
金華
武昌
漢口
九江
岳州など
『広東支部』
昭和十三年
十月二十一日占領
昭和十四年
五月 広州市の「中山医科大学」を拠点とした
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大東亜戦争勃発後は
昭和十七年(一九四二)
四月一日
シンガポールのエドワード病院の一角占領
当初 部隊員は二〇〇人ゐた
つづいて
マニラ
ジャカルタ
バンドンにも細菌部隊の支部が置かれた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
少し 時間は戻って話は満州の「平房」本部建設

昭和十三年(一九三八)
六月
一辺六㌔四方の建設予定地
しかし そこには地元の農村があった
そこで その四つの村の住民には
一ヶ月以内の立ち退き令を出し 家を焼き 平地にした
広さは 六一〇㌶
一㌶=一〇㍍四方たから
六一〇㌶=六一〇〇㍍四方
=六・一㌔㍍四方
巨大施設である
そこに 監獄・収容実験棟の他に
飛行場・鉄道・神社・病院
さらに職員たちの宿舎を作る予定だったからだ
この敷地確保に動き出す前の
一月二十六日
『特移扱ニ関スル件通牒』が出された
裁判もせずに
植民地支配に抵抗する者 もしくは
抵抗したとみなされる者たちを
合法的に『平房』に連行することが
できるやうにしたのだ
そこは 広さや建物からみて『陸軍平房・特移村』
以後 この私称を時折使ふ
正称=関東軍防疫給水部
私称=陸軍平房・特移村
史称からは想像のつかない
大きな秘密の「特移村」であった
陸軍平房・特移村
満州国のハルピン南方二〇㌔の『平房』に作った
裁判もせずに
事件送致もせずに
日本の植民地支配に抵抗した者
抵抗したとみなされる者たちを
警察や憲兵が連行する『村』である
完成は 昭和十五年だった
囚人の『平房』までの連行を『特移扱』と言ふ
その様子は以下
ハルピンの駅までは「列車」
ハルピンから「平房」までは
目隠しされて「トラック移送」
中国大陸占領は
盧溝橋事件に始まり
同年 北京・上海・南京占領
翌年 広東・武漢まで占領が進む
海軍による 長距離爆撃は
漢口から重慶へと進んでゐた
一方その頃 陸軍は
来たるべき細菌戦に備へ
内地に『防疫研究室』を作り
満州には その実戦部隊の
巨大基地『陸軍平房・特移村』を作ってゐた
昭和十五年十二月までには
中国に 北京・南京・広東
満州には 平房の本部の他に
ハイラル・林口・孫呉・牡丹江に支部が作られてゐた

細菌部隊は 以下
内地本部 戸山町・防疫研究室
実戦本部 満州・平房
満州支部
牡丹江(ぼたんこう)
林口(りんこう)
孫呉(そんご)
ハイラル
中国支部
北京
南京
広東
もう一つの秘密機関
陸軍・登戸研究所
陸軍は「細菌戦」だけではない
「電波攻撃」や「毒物攻撃」
果ては偽札による「中国攪乱」も考へてゐた
その本部も昭和十四年には 出来てゐた
登戸研究所である
その沿革を見てみよう
第一次世界大戦では 科学の力が戦争に利用され
以後は
「細菌戦」や「毒ガス戦」が考へられる様になってゐた
この流れを受けて 日本も
新宿 戸山ヶ原に『陸軍科学研究所』を設置
大正八年(一九一九)である
四月十二日 以下の勅令一一〇号がでた(要旨)
欧州大戦の実験並びに
帝国陸軍の実況に鑑み
陸軍技術を進歩せしむる為には
「陸軍火薬研究所」を廃し
新たに「科学研究所」を設置する
大正十四年(一九二五)
四月二十七日
新たに化学兵器部門が追加された
つまり『陸軍科学研究所』は
一部 力学・電磁気学
二部 火薬・爆発
三部 化学兵器の三部構成となる
昭和二年(一九二七)
四月
二部に『秘密戦資材研究室』が新設さる
室長は 篠田鐐大尉
昭和十二年(一九三七)
十一月
場所を川崎市の生田に定め
名を『登戸実験場』に改めた
その経緯を防衛庁資料はかう語る
科学の未知の領域を開拓し
奇襲戦力大なる新兵器を
創造する研究に重点を置く
しかし 現研究所は
危険が伴ふ研究をするには
狭く 秘密維持も難しいので
昭和十二年五月
建設地を 郊外の生田村に定め
同年十一月
土地を購入し 是を『登戸実験場』と命名し
同年十二月十二日
研究員の一部を移転し研究開始
奇襲力の大きな科学兵器を作る機関が
川崎の生田に設置され
『登戸実験場』と命名された
その翌日が「南京入城」
昭和十三年(一九三八)四月
略奪した『南京中央病院』に
細菌部隊が設置された
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これより 陸軍の司令部の配置を綴る
中国支配の「戦闘司令部」である
支那派遣軍総司令部が「南京」に置かれたのは
昭和十四年(一九三九)九月
その後
「北京」
「上海」
「広東」
「漢口」に 陸軍の支部が置かれた

ドイツが ポーランド侵攻した頃
日本は右図の様に中国支配を進め
新たに「法幣偽札造り」も始めてゐた
昭和十四年(一九三九)
四月
参謀本部は 偽札による中国経済混乱を企画
偽札造りを『杉工作』と名づけ
偽札を『登戸研究所』で作らせ
その機関を『松機関』とした
昭和十四年(一九三九)
八月
登戸研究所に
『偽札製作部門』が置かれた
これで「登戸研究所」には
・電波兵器の一科
・毒物兵器の二科
・偽札製作の三科が揃った
九月十六日であった
当時の中国の通貨は
国民政府の通貨 法幣
共産党軍の通貨 辺区券
日本軍の通貨 軍票 があった
しかし現実は 国民政府の「法幣」が優勢で
現地での物資の調達は「法幣」が必要だった
そこで 考案された作戦が「法幣偽札造り」であった
その任務を受けたのが
登戸研究所の三科長の山本憲藏
失敗に失敗を重ね 試行錯誤の末
法幣の量産体制を整へ
上海の『松機関』に
順調に持ち込め 偽札が順調に 散布されるのは
その一年後の昭和十五年であった
紙質・インキ・漉かし技術には
内閣印刷局や凸版印刷が…
製紙では 巴川製紙が活躍した
運搬は 陸軍中野学校出身者
「長崎」を経て海路で「上海」の『松機関』に運ばれ
そこで 「法幣偽札」が弘められた
「偽札」で 現地の物資調達ができる様になったのだ
大東亜戦争が始まると
印刷の技術は 頂点に達した
その理由は以下
真珠湾・マレー半島同時奇襲作戦
真珠湾を攻撃したら…
・グアム島占領
・ウェーク島占領
・マキン島 タラワ島占領
・フィリピン飛行場攻撃が…
予め組み込まれてゐた
マレー半島上陸したら…
・香港占領も 予定されてゐた
その香港占領は
十二月二十五日
ここで 日本は 国民政府の印刷機を手にいれ
登戸に移送した
結果
真偽判定出来ぬ偽札造りに成功
以後 登戸研究所で大量印刷され
上海の『松機関』での配布は
戦争が終はるまで続いた
わかりやすく綴ると
本物の「法弊」が「登戸」で造られ
「上海」で ばらまかれてゐたのだ
真珠湾攻撃成功の合図「トラトラトラ」を受けて
グアム
ウエーク
マキン・タラワ島への侵攻は開始された
マレー半島上陸の合図「ハナサクハナサク」を受けて
香港占領作戦が開始され
同年十二月二十五日に占領すると
日本は 香港にあった「法幣印刷機」を手に入れ
これで 真偽判定出来ぬ
「法幣偽札造り」が可能になった
日中戦争を知るには
まづ 海軍の制空権獲得
海軍 渡洋爆撃に始まり
「重慶」への空爆
そして「成都」空爆後 制空権獲得
陸軍 南京に支那派遣軍総司令部設置
支部は
北京・上海・漢口・広東
細菌兵器は
本部 国内戸山の防疫研究室
實驗 満州平房
実戦 北京・南京・広東
毒物兵器製造
本部 登戸研究所
試験 南京中央病院
青酸ニトリールの人体実験は後述
偽札造
製造 登戸研究所
配布 上海『松機関』
陸軍の盧溝橋以後の足跡
北京占領 八月八日 昭和十二年(一九三七)
上海占領 十一月二日 (〃)
南京占領 十二月十三日 (〃)
徐州占領 六月七日 昭和十三年(一九三八)
広東占領 十月二十一日 (〃)
武州三鎮 十月二十七日 (〃)
海南島占 三月十日 昭和十四年(一九三九)
南昌占領 三月二十七日 (〃)
細菌部隊の設置
北京 二月 昭和十三年(一九三八)
場所…天壇
南京 四月十八日 (〃)
場所…南京中央病院
広東 五月 昭和十四年(一九三九)
場所…中山医科大学
これらのあらましを知って
初めて 日中戦争の実情が掴める
ところが 今行はれてゐる平和教育は
この内の一つを取りあげ
そこで起きた事件だけを話す
だから
永遠に 日中戦争のあらましが掴めない
試しに 近くにゐる
親や先生に 戦争の話を聞いてみるといい
ほぼ 何も知らない筈だ
事件を知らずして 事件を論評できぬやうに
史実を知らずして 戦争は論評できない
何が言ひたいのか?
史実を全く知らない人に
「戦争はやってはいけない」と説いても
無意味だといふことだ
戦争のあらましを知らない人に
一部の事件だけを取りあげて
その悲劇をことさら大袈裟に語っても
「戦争を知ることには繋がらない」
戦争は まづは「あらまし」
細かな事件は それからだ
大人には その「あらまし」を伝へて行く責任がある
私の場合は そのあらましを
ネット『和たぐ新聞』や『和ブログ』で伝へて行く
一人でも多くの子供や若いご両親に知っていただきたい
その思ひだけで 書き始めた
これからは いよいよ「大東亜戦争勃発」
そこを 細かく追ってみたい
陸軍の進むべき道
蒋介石が逃げ込んだ『重慶』か
ソ連と闘ふ『北進』か
米英蘭を睨んだ『南進』か
昭和十五年(一九四〇)
六月
つまり
零式戦闘機が試作中のため
長距離爆撃の掩護が出来ぬ頃
陸軍の作戦課で 初めて
『南方作戦』が取り上げられた
作戦名『今後における戦争指導並作戦指導』
起案者
荒尾興功(おきかつ)
実際 瀬島龍三
七月
陸軍作戦課は
参謀数十数人を四班に分けて
マレー半島
フィリピン
香港
蘭印を 偵察した
八月十五日
偵察組が集まった
検討された起案は
『南方総合作戦計画』
起案者 瀬島龍三
冒頭には蘭印占領が明記され
マレー
フィリピン
グアムを攻略する際の兵力区分もあり
内容は戦争指導そのものだった
この頃
陸軍第二部欧米課に村上公亮を班長とする
『南方班』が新設された
任務は 身分を隠して忍び込み
当地の軍事施設の状況
現地人の風俗・風習
地図・気象の情報収集である
翌年の八月末(昭和十六年)までに資料は集められ
極秘の内に
『南方作戦計画』が作成された
その起案は三宅坂の将校集会所で
一ヶ月をかけて仕上げられた
昭和十六年(一九四一)
十月一日から五日間
陸軍大学校で図上研究
十月十六日
開戦決意閣内不一致により近衛内閣総辞職
十月十八日
東条内閣成立
十月二十四日から三十日
『大本営政府連絡会』
略して『連絡会』が連日開かれ
十一月一日
『連絡会』で以下の三点決定
①対米英蘭戦争を決意す
②武力発動の時機を十二月初旬と定め
陸海軍は作戦準備に入る
③対米交渉が
十二月一日までに成功せば武力発動を中止
確かに 兵員・兵器の移送は
十一月以降でも間に合ふ
しかし
兵員・兵器を移送する「船」は
直ぐには集まらない
船を集める担当部署は
令和五年広島サミットの開催地・広島の「宇品」
そこにあった「船舶輸送司令部」である
兵員の乗船地は
・内地
・朝鮮
・台湾
・中国の諸港
民間から徴用した船を集めその船を戦争用に改造
その『艤装』した船に 兵員たちの
・備品
・兵器や弾薬
・食糧を揃へ
上陸用の
・小発(六〇〇)
・大発(六〇〇)
・特大発(六〇)を詰め込む
これが船舶輸送部の仕事であった
大本営が要求して来た船は
当時の総船舶五〇〇万トン中の二〇〇万トン
大小合はせて四〇〇隻
しかし 船の兵装は 資材不足で間に合はず
甲板には高射砲一門も 積まれてゐない
これが実情であった
だから 船舶輸送部の戦争準備は
前年の十二月から始まった
つまり
昭和十五年
十二月から
裏方の戦争準備は進められてゐたのだ
昭和十六年十一月には
多くの船が 集合地となってゐた
海南島の「三亜港」に向けて 出港してゐた
大東亜戦争とは何か
盧溝橋事件に始まる日中戦争
だが日本は 中国を思ふ様に占領できなかった
そこで 海軍は
長距離爆撃機を掩護するため
航続距離の長い戦闘機を望んだ
地上戦の主役となる陸軍は
・細菌兵器や
・化学兵器や
・偽造紙幣を 望んだ
そんな中で
盧溝橋事件から約二年後の
昭和十九年九月一日に
ドイツがポーランドを侵攻
第二次世界大戦勃発
翌年の六月二十二日
ドイツがソ連に四〇〇万の兵力を持って侵攻
これを受けて 米・英は ただちにソ連支持を表明
この時 日本は…
松岡外相は『即時対ソ戦』を主張
しかし
海軍は絶対反対
陸軍も即時参戦・武力発動には 賛成しなかった
確かに ソ連を襲ふには好機だが
陸軍は 対米関係の悪化で 資源補給困難を予測
そのために 戦争前に
仏印と泰(タイ)を 手中に 収めて置きたかったのだ
七月二日
御前会議
そのまま南方作戦を進めるが
場合によっては対ソ戦をする
昭和十六年
七月七日
関東軍は「関東軍特別演習」と
呼ばれる軍事演習を幾度か実施
しかし
この時の「関特演」は 単なる軍事演習ではなく
対ソ連開戦を
完全に見据ゑてゐた「関東軍の戦力増強」策だった
外務省の資料が語る様に
場合によっては 対ソ戦をする
そんな思ひがあり
満州に 沢山の兵員
軍馬
戦争資材 が増強された
しかし
この大兵力の移動が ソ連に見抜かれると
ソ連は これを『対ソ開戦』と誤解する
そこで 日本は以下の工夫をした
・特別演習のための移動と宣伝
・日の丸の内地見送り一切禁止
・移動は夜間を利用
・輸送列車を初めは逆方向に走らす
こんな工夫をして ソ連の眼を反らした
八月二日
ソ満国境方面でのソ連の通信が 突然 途絶えた
これを大本営は
「ソ連が日本の兵力大規模移動に気づき
奇襲先制攻撃を日本に仕掛けるために
各隊の通信を禁止した」と考へた
そこで直ちに
ソ連と外交交渉を行ひ
ソ連の開戦意志を柔らげるべきだ
こんな意見も出た
しかし
関東軍司令官・梅津美治朗大将から
こんな電報が入った
「ソ連軍が来襲してきた時は
大本営に連絡はするが
好機を失ふと判断した時は
独断でソ連の空軍基地に
航空攻撃を仕掛けるので予め了承せられたい」
狼狽した参謀総長・杉山元は
「反撃は 国境内にとどめ
慎重な態度をとるべし」と返電
しかし
大本営陸軍本部は 反対する海軍の同意を得て
天皇に上奏の上 天皇より以下の命令を受けた
「ソ連空軍の攻撃を受けた折には
ソ連領内に
空軍を駆使して進攻してもよい」
事実上のソ連への開戦命令だった
しかし
大本営を震撼させた対ソ開戦を決意させた事件は
あっけない解決をみた
交信が途絶えたのは
デリンジャー現象が発生し
ソ連の通信が途絶えたものだった
八月九日
陸軍は
年内対ソ武力行使の企図を断念した
しかし 兵力増員は続けられ
満州の関東軍は七〇万人となった
『無敵関東軍』と呼ばれたのは この頃であった
補足解説 デリンジャー現象
太陽面の爆発で
地球の大気の上層にある電離層が変異
この変異によって
十分から数十分間に起こる短波通信障害
大東亜戦争とは
ハワイ・南方同時奇襲作戦
海軍真珠湾奇襲作戦
起案者 山本五十六
陸軍南方奇襲作戦
起案者 瀬島龍三(初期)
それぞれ開戦一年前から考案
南方と言っても東西広く
マレー半島
フィリピン
タイ
香港
シンガポール
ジャワ
スマトラ
ボルネオ
セレベス
ビスマルク諸島
チモール島
ビルマ
これが陸軍主体の占領予定地
一方海軍主体奇襲・占領予定地は
ハワイ真珠湾
マキン島・タラワ島
グアム島
ウェーク島

右図は 防衛庁戦史研究室の『マレー進攻作戦』を参照
研究室にある資料『南方作戦』は
東は ビスマルク諸島
西は ビルマ
南は 蘭領インド諸島に至る
広域要地を一気に攻略せんとするものであり
まことに史上まれにみる
大規模な渡洋急襲作戦である
と自画自賛するが やり過ぎだと思はれる
兵員の食糧は どうするのか?
現地調達といふ名の「略奪」
住処は どうするのか?
即席又は接収といふ名の「略奪」
服従しない者はどうするのか?
天に逆らふ罪深き者として 天刑を下す
「さらし首」である
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昭和十七年に軍属として三井物産の船舶部に入社して
陸軍船舶部・宇品に勤務
後に昭南(シンガポール)に派遣された田島昌克は
その時の話を かう語る
昭南の駅前に首の座があり
生首を 四・五個並べて
その下に
日本軍に反抗すると
この様になるぞと
英語 マレー語 支那語で 書いてある
この様なことをするから現地人の反抗を
受けることになるのだと思った
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東アジアの解放・白人からの独立を掲げて
南方に進出した日本!
しかし その実態は…
どうも 表向きの意気込みと実際の行動は 大分異なる様だ
さて その広域な『南方作戦』だが
正式には
昭和十六年
十一月六日 に決定された
南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)
任務は以下の侵攻の指揮
・マレー半島
・フィリピン
・オランダ領インドネシア
・ビルマ
戦闘司令部は『サイゴン』に置かれた
秘密の作戦のため現地名『照海部隊本部』
建物は 接収した「フランス銀行」
現在 ベトナム国家銀行ホーチミン支店
平成二十八年(二〇一六)に
国家級芸術建築遺跡に認定された
次は大本営直轄『南海支隊』
指揮 堀井富太郎少将
任務
・グアム占領 後に
・ラバウル占領
後に
・東チモール占領
後に
・ポートモレスビー占領(途中で中止)
そして
「海南島」の三亜港に 多くの船が集結し
マレー上陸作戦が敢行さる
昭和十六年(一九四一)十二月四日
広島宇品を出港
兵員・兵器・食糧等の輸送船
それを護衛する艦船 計約六十
この輸送船団は 先頭からどん尻まで約六・五㎞
文字通りの大船団が 米英の厳しい警戒の中
気づかれぬ様に マレー半島上陸地に着くのは
奇跡ともいへる程 困難なことであった
厳しさは それだけではない
択捉島の単冠湾(ヒトカップ)に終結した
機動部隊の真珠湾奇襲攻撃も同様
アメリカの偵察に気づかれたら
ハワイマレー同時奇襲攻撃が崩れ
日本は緒戦で大敗する危険があった
既に 米英は 日本が仕掛けて来ることは わかってをり
それが
・いつ
・どこに来るか
そこに視点が集中してゐた
だから
ハワイに向かふ「機動部隊」も
マレーに向かふ「輸送船団」も
発信は一切禁止の隠密航行
息を呑む様に 慎重に航行した
上陸後の戦闘準備も十分だった
たとへば マレー半島の上陸部隊
上陸地点からシンガポールまでおほよそ一〇〇〇㌔
昭和十四年二月に占領した海南島も一周一〇〇〇キロ
マレー上陸後シンガポールまでの一〇〇〇㌔とほぼ同じ
だから 緒戦のマレー半島の銀輪部隊は
海南島で 実地演習されてゐた
それはたんなる「上陸」ではなく
敵の銃弾が飛んでくる「敵前上陸」
念入りに練習しておく必要があった
練習はまだある
大本営は 昭和十六年(一九四一)の三月
南方地域上陸作戦を仮定した
陸海軍の大々的な合同演習を実施
三月二十七日 上海出発
輸送船団を 艦艇が護衛
その護衛船・輸送船団を 陸海軍の戦闘機が掩護
東シナ海を渡り 北九州に上陸
シンガポールに見立てた佐世保の攻略で演習終了
演習が終はったのは四月四日
さらに 大本営は
上陸演習を行った第五師団に
中国軍のゐる大陸沿岸を 幾つか敵前上陸させた
この実戦を通して
大本営も 南方作戦に自信を持ち 実戦の日を迎へた
少し時間は遡るが
蒋介石は 日本の「海南島」の占領を
香港
フィリピン
マレーシア
シンガポールへの南進に繋がると批判し
『太平洋の満州事変』とも言った
米英仏も 日本の「海南島」占領を批判
そこで 日本は『領土拡張の野心無し』を訴ふ
しかし
三月三十日
「海南島」の南の島々 つまり
今の 「南沙諸島」
当時の「新南群島」の領有を宣言した

マレー上陸作戦部隊は「海南島」の三亜港に集まり
十二月四日に 出港
開戦は「十二月八日午前零時」である
イギリス極東司令部は
十月には 上陸用舟艇が 日本の各地で大量に作られ
海南島では 密林内で戦闘訓練が行はれ
十一月には その上陸舟艇を積んだ船が
「三亜港」に 続々と集結してゐる
こんな情報をつかんでゐた
しかし 戦闘用意は他にもあった
たとへば(フィ=フィリピン)
①フィ・ダバオ占領任務の坂口支隊は
十一月十九日 門司港を出て パラオで待機
②フィ・レガスピー占領任務の 木村支隊は
十一月二十一日 名古屋港を出て
十一月三十日 パラオで待機
③フィ・ラモン湾占領任務の十六師団は
十一月二十二日 大阪港を出て 奄美大島へ
④ウェーク島とマキン・タラワ島は
第四艦隊が その任務にあたった
今までの歴史にない 広範囲に及ぶ同時奇襲作戦が
これから始まらうとしてゐた「ハナサク大作戦」
十二月四日
マレー奇襲攻撃のために
大輸送船団が三亜港を出港した
その二日前の
十二月二日
「広東」を六機の「直協機」が飛び立った
それは 十二月一日に
上海発広東着の中華航空機が
汕頭(スワトウ)上空通過の通信を最後に
交信不通となり 行方不明になったのだが
この中華航空機・上海号を探し出す命を帯びた
捜索機だった
その日は雲深く
捜索機は 探せぬままに
広東飛行場に帰って来た
十二月三日
電報班が中国軍の暗号文を受信 早速解読してみると
『日本軍の飛行機が墜落してゐる
当部隊は直ちに捜索に赴く』
これを受けて 直ぐに 直協機が広東を飛び立った
密雲立ちこめる山岳地帯だったが
遂に 午前十時 墜落機が発見された
南京・支那派遣軍総司令部は
『重要書類を処分するため
直ちに上海号を爆撃粉砕せよ』
上海号の乗客に杉坂少佐がゐた
少佐の任務は
マレー奇襲作戦の命令書を
広東の二十三軍司令官に直接手交することであった
その命令書は 以下
大陸第五百七十二号
香港攻略に関する命令
作戦開始は
マレー方面への上陸 又は 空襲確認直後
暗号名 ハナサクハナサク
この書類が敵側に渡ったら 直ぐに米・英が仕掛けて来る
さうしたら
「マレー大輸送船団」も
給油のタンカーを沢山抱へる「真珠湾機動部隊」も
大損害を受け 緒戦で 日本は敗退してしまふ
だから大本営は
その命令書が 燃えてなくなることを願ひ
『上海号』爆破粉砕命令を出した
その前日の二日午後二時に
大本営は 輸送部隊に
大陸命第五六九号(鷲)
ヒノデハ・ヤマガタを出してゐた
意味は
鷲 =対米英蘭への開戦決定
ヒノデハ=開戦日ハ
ヤマガタ=八日 であった
それだけに
大本営は 秘密書類の行方が 気になってゐた
緒戦・大敗北で終はるか
緒戦・大勝利で終はるか
それは 秘密書類滅却の可否に かかってゐた
十二月四日午前七時半
マレー輸送船団 三亜港を進発
しかし
作戦命令書の行方は未だ不明
大本営は 苛立ってゐた
この時 中国通信傍受 解読すると…
三日深夜 墜落機の搭乗者二名
しかし 両名抵抗の末逃亡 目下捜索中
作戦命令書を持つ杉坂少佐が
生きてゐる可能性が出て来た
しかし 同時に 杉坂少佐が即死してゐたら
中国の捜索隊がそれを見つけ
奇襲攻撃が 敵に知られ 日本は 緒戦で大敗北する
そこで
支那派遣軍司令部は 上海号不時着地点へ向けて
地上部隊・木村大隊を派遣した
それだけではない
広東は 香港に近いことから
情報員の活動がさかんだった
当時 日本は
宋子文の旧邸を「特殊情報班本部」としてゐた
宋子文…重慶政府財政部長
実の三姉妹は
孫文・孔祥熙・蒋介石と それぞれ結婚
陸軍中野学校出身者たちも
偽名を使って潜入し
人力車の車夫になったりして
市民の間に まぎれこんでゐた
その情報員たちには 以下の調査報告が命令された
・上海号の生存者の有無
・その数
・氏名
・拉致されたか 死亡したか
・それに付随した情報収集
密偵と言っても 日本人は敵地に潜入はしない
密偵は すべて現地の中国人だ
それは 日本人が潜入しても
広東語の訛・風俗・習慣から
直ぐに 日本人だとわかってしまふからだった
広東の場合
本部 宋子文旧邸
情報員 中野学校出身者
密偵 中国人
密偵への報酬 金銭
食塩・ローソク等物資
この密偵に支払はれる金銭
ここにも『偽札』が使はれた
当時 日本占領地域と中国では
『境界線』が設けられてゐた
密偵は 商人を装ひ
たやすく中国側には 入り込めた
しかし 日本軍の設けた『歩哨線』を
突破するのは 難しかった
そこで 密偵には 小さな許可証が用意されてゐた
また 密偵の仕事は 精神教育として
以下の様な噂を 弘めてゐた
孫文は 確かに中国の父だ
重慶政府の蒋介石も偉大だ
しかし アジア全土を植民地にしようとする
アメリカ・イギリスに煽動され
進むべき道を誤ってゐるのは 残念だ
そして 日本の情報員は
密偵一人一人には かう説いた
不幸な日中戦争を一日でも早く終了させ
アジアをアジア人の手に取り戻す
そんな意義深いことを
君たちは やってゐる
墜落機の生存者
十二月一日・墜落の日
乗客の一人・宮原中尉は 重症を負ひながらも生きてゐた
気がつくと 一人の将校が 書類を燃やしてゐた
書類に赤い色のものが混じってゐることから
宮原は 燃やしてゐるものが暗号書らしいことに気づいた
書類を燃やし終はると
将校は もう一人の男と立ち去った
杉坂少佐と久野軍曹であった
墜落機には まだ生存者がゐた
宮原は その三人と会話した
十二月二日・墜落の翌日
夜が明けた 雨は降ってゐた
下方三〇〇㍍地点に敵の陣地を 宮原はみつけた
早く逃げねば 敵がやって来る
あたりを見ると
夜には気づかなかったが 大きな軍用行李が破れて
重慶発行銀行の『法幣』が 大量に散乱してゐた
宮原は ポケットに 紙幣をたくさん詰め込んだ
その紙幣を使って 現地の住民を手なづけ
自軍の地へ戻らう さう決意した
宮原は 他の三人と別れ 一人 墜落機から離れた
ひっそり隠れる場所を探した
四〇㍍くらゐ離れた所に 灌木の腐った穴があったので
そこで 静かにしてゐると…
墜落事故機体の方から
もの凄い銃聲音と甲高い広東語
しばらくすると 喚声と笑ひ聲
生存者の三人がやられた
喚聲は 大量の「法幣」だらう
宮原は さう思った
十二月三日・墜落して二日目
宮原が 隠れ忍ぶ灌木の穴から
四〇㍍くらゐ離れた機体の地に
直協機による爆撃が繰り返された
宮原は
何故 事故機に爆弾を投下するのか 全くわからなかった
夜になった
十二月四日・墜落して三日
聞き慣れた機関銃音をならす部隊が近づいて来た
木村大隊である
銃撃戦がしばらく続いた
墜落機から見えた敵の陣地となってゐた台地に
日の丸が掲げられた
宮原は『オーイ』と聲を出し手を振った 助かったのだ
宮原は直ぐに
他三名の生存者の生死を聞いた
一人も生きてゐなかった
やはり敵にやられてしまってゐた
その後 医務室に連れて行かれ
宮原は 将校が 書類を燃やした後
もう一人の男と 山の斜面を下ったことを話した
話の内容から 軍司令部は
開戦命令を持った杉坂少佐が
生きてゐることを確信した
しかし その後の行方がわからず
秘密書類の消滅はわからなかった
十二月一日・墜落した日
飛行機は墜落したが 二人とも奇跡的に無傷で生きてゐた
一人は 総司令部の杉坂少佐
もう一人は 暗号電報を扱ふ電報員の久野軍曹
杉坂は 暗号文を扱ふ久野を知り
安心して 秘密を打ち明け
書類消滅を手伝って欲しいと久野に言ひ
墜落して直ぐに 作戦命令書は
二人で書類を細かく引き裂き 一片一片を靴で踏みつぶし
附近一体に埋められた
杉坂は直ぐに 久野にかう言った
どちらか一人が助かったら
総司令部に
書類は完全に処分したことを伝へるのだ
二人は 墜落機から 宮原の聲や 呻き聲が聞こえるも
その聲を無視して 山を下りた
道のない 山の急斜面を下る
それは 随分と難しかった
二人には 新しい任務があった
それは 作戦命令書の完全処理の報告であった
二人は 道なき山を下り 自軍の陣地へと急いだ
二日経った
十二月三日・墜落して二日
いつのまにか 山から平坦な道に辿り着いてゐた
路上を歩くのは危険だが
二人に山道を歩く気力はなかった
その時
塀に囲まれた兵舎の門に歩哨が二人 立って居た
見つかった…
慌てて逃げて草むらに飛び込んだ
二人かたまると危険なのでとっさに 十㍍離れて隠れた
三十分ほど経って 久野が 辺りを見まはすと
杉坂少佐が 見当たらない
どこかに 素早く退避した 久野は さう思った
久野の単独逃避行は 続く
十二月 四日 五日 六日
そして七日の夜
遂に自軍に辿り着く
兵舎の医務室に保護された久野は
杉坂少佐と共に
秘密文書を完全処理したことを伝へた
それは 十二月七日 午後九時
開戦三時間前だった
杉坂少佐は
久野と別れた後中国兵と交戦 戦死
その後 斬首され 捨て置かれた
なほ 上海号搭乗者の中に 一人
陸軍中野学校出身者がゐた
二期生の逸見達志=本名一色良
何故一色が 乗ってゐたのか
今もってつまびらかではない
しかし
・上海に偽札散布本部の「松機関」
・一色が「逸木機関」の長であった
・飛行機に「大量の偽札」があった
以上三点から 「大量の偽札」を使って
「一色」
何かを「広東」で やらうとしてゐた
これは明らかであるが
一体 何をやらうとしてゐたのか
それは 今もわからない
上海号事件は
搭乗者十八名中 生存者は二名
宮原中尉と久野軍曹であるが
吉村昭は 直接お二人と会ひ
そこで 事件の真相を知った
事件の真相が 本になって 世に知られたのは
戦争が終はって 二十三年後のことであった

