令和6年8月13日 大東亜戦争・全般 Watag eXtensible Markup Language
大東亜戦争・全般

史実淡々

和たぐ新聞
大東亜戦争・全般
 発行 私塾鶴羽實
 郵番 四三八ー〇〇八六
 住所 磐田市見付二七八六
 電話 〇五三八ー三三ー〇二七三
 FX 〇五三八ー三一ー五〇〇三
 電信 logosアmvbドbiglobeレneスjp
 編者 岩田修良
 カナ ア=@ ドレス=ドット
大東亜戦争とは何か

大東亜戦争が 余りに複雑
そこには
語り尽くせぬ悲劇が多く
語り尽くせぬ悪事も多かった
そのため 発生した事件を
細かく聞かされても そもそも
大東亜戦争が全くわからないので
その事件が よくわからない
つまり
・悲劇のドラマや
・暴虐のドラマを聞かされても
聞かされる方は 大東亜戦争
その戦争自体を知らないために
話が チンプンカンプンなのだ
これが 今の実情である
そこで 大東亜戦争とは何か…
その戦史を追ふことにした
細かな事件は それからだ

開戦の経緯

マレー・ハワイ同時奇襲作戦だが
フィリピン空襲も そこに含まる
よって あの戦争の開戦は
@マレー
Aハワイ
Bフィリピン 同時奇襲作戦

@マレー半島・奇襲
 コタバル上陸に 始まる
 マレー半島への奇襲は
 海南島・三亜港の出港が始まり
Aハワイ・奇襲
 ハワイには
 択捉島 ヒトカップ出港で始まる
Bフィリピン・奇襲
 台湾から飛び立った
 爆撃機と零戦による空襲に始まる

時系列的にも
@ABの順に発生したが
フィリピン空襲が大幅に遅れたのは
台湾を 飛立つ時の濃霧だった
しかし この遅れのために
攻撃目標のクラーク飛行場には
アメリカ空軍機が 偵察を終へ
補給するために 帰還してゐた
結果 米空軍に大打撃を与へた
連動作戦

昭和十六年(一九四一)
十二月八日・作戦開始の暗号名は
@ヒノデハヤマガタ (マレー)
Aニイタカヤマノボレ(ハワイ)

この作戦が成功した時の暗号名は
@ハナサクハナサク(マレー)
Aトラトラトラ  (ハワイ)

『ハナサクハナサク』を受けて
 ・香港占領開始

『トラトラトラ』を受けて
 ・グアム島     占領開始
 ・ウェーク島    占領開始
 ・マキン島タラワ島 占領開始

占領完了は以下
十二月十日
 グアム島占領→大宮島へ
 マキン・タラワ島占領
十二月二十日
 フィ・ミンダナオ島・ダバオ占領
十二月二十三日
 ウェーク島占領
十二月二十五日
 香港占領
※当時の中国紙幣
 重慶・蒋介石の紙幣 法弊
 南京・日本傀儡政権汪兆銘の紙幣
 北部・共産党の紙幣
 蒋介石の法弊が主力であった
 香港に その法弊の印刷機があり
 それを日本の登戸研究所に運んで
 これより『本物の偽札紙幣』が
 登戸で 大量に印刷された
昭和十七年(一九四二)
一月十一日
 マレー・クアラルンプール占領
一月二十三日
 ニューブリテン島・ラバウル占領

二月十四日
 スマトラ島・パレンバン占領
二月十五日
 シンガポール占領

三月五日
 ジャワ島・バタビア占領
三月十二日
 マッカーサー
 フィ・コレヒドール島から撤退

怒涛の攻撃占領成功の裏には
綿密な上陸・空襲作戦があった

グアムもマレーも 波が高い
そこで宮崎県の土々呂海岸で
上陸練習したり
マレーの自転車部隊は
事前に海南島で練習されてゐた

艦船から上陸する舟艇は
・小発
・大発
・特大発 が開発されてをり
艦船から海岸への上陸技術は
世界最高峰の位置にあった
アメリカ海軍情報部も
「日本は
 艦船からの海岸攻撃を
 完全に開発した最初の大国」
と評する通りである

拙論「大東亜戦争」に記した
海軍に  堀越二郎がゐた様に
陸軍には 市原健藏がゐた
・堀越ー零式戦闘機なら
・市原ー上陸舟艇である
戦車を載せる安定舟艇・特大発は
世界に先駆けて開発
開発の中心担当者が 市原健藏

台湾からフィリピンまで片道千`
爆撃機の往復は 当時常識だが
それを護衛する戦闘機の
往復二千`は 未だ無かった
だから アメリカは空襲を受けた時
零戦を載せた空母を探してゐた
当時 最高の零式戦闘機に
当時 最高の上陸舟艇があり
上陸予定地も 細かく調査してゐた
だから 緒戦は
勝利 勝利 大勝利に酔った
ターニング・ポイント

君たちの勝利は そこまで!
とばかりに 米国の
空母ホーネットから発艦した
中型爆撃機B二五が 日本を初空襲
昭和十七年四月十八日であった

当時の常識
 @空母発艦機は 空母に帰る
 A艦載機は飛行距離短い小型爆撃機

常識を破った指揮官ドー・リットル
 @空母に帰らず中国大陸着陸
 A飛行距離の長い中型爆撃機を艦載

空襲を許した海軍は 大恥をかいた
これに日本は どう呼応したのか
つまり
「やられたらやり返す」
これが「戦争の論理」だが
どんな報復作戦を展開したのか?

海軍の報復
 ・アリューシャン作戦
 ・フィジーサモア作戦
陸軍の報復
 ・セッカン作戦

海軍の作戦
 当時 未だ実施されてゐない
 ・東太平洋作戦と
 ・MO作戦があった
  東太平洋作戦とは
   ミッドウェー海戦のこと
  MO作戦とは
   ポートモレスビー占領作戦
※ポートモレスビーとは
 ニューギニア東部の南にある都市
 大本営は ここの占領に固執した

海軍の作戦
・MO作戦    (従来通り)
・ミッドウェー海戦(従来通り)
・アリューシャン作戦(報復)
・フィジーサモア作戦(報復)

陸軍の作戦
・セッカン作戦(報復)
日本初空襲したB二五は
麗水飛行場に着陸してゐた

セッカン作戦

 ○杭州
   /
    金華
     /  □麗水飛行場
      横峰
       /
        撫州
      \
    ○南昌
@開始
  東軍は抗州から横峰へ侵攻
  西軍は南昌から横峰へ侵攻
A合流
  両軍合流したら
  元の駐屯地に帰る
侵攻して行く途中にある飛行場を
破壊しながら進んだ
陸軍の進路に住む中国住民は
逃げるので 人のゐない町になる

合流後 陸軍は元の駐屯地に帰る
日本軍が去れば
逃げた中国住民は 戻って来る

その中国住民の帰宅を見越して
軍の撤退と同時に
関東防疫給水部の隊員が
・井戸に細菌を投げ込み
・民家の中に 感染ノミを撒き
・兵隊が忘れて行った様に見える
 細菌入りのビスケットを撒いた

作戦は大成功であった
地域一帯が 細菌感染され
飛行場は 使へなくなった

当時 日本軍は捕虜に厳しい
そんな批判を受けてゐたので
その批判をかはすために
捕虜を解放し
その捕虜に饅頭まで配給した
その映像を収録し 世界に宣伝
しかし その饅頭には
致死量に至らぬ程度の細菌が
混ぜられてゐた

合流した東西陸軍が
撤退して行くのが八月中旬
つまり
細菌を散布しながら
日本軍が撤退して行ったのが
八月中旬から下旬
その頃 ガダルカナルでは
日本軍の死闘が始まってゐた

中国大陸で細菌散布して
作戦成功を喜んでゐる頃
太平洋の孤島ガダルカナルでは
その細菌散布の天罰を受ける様に
日本軍の
餓死との闘ひが始まってゐた

MO作戦

昭和十七年(一九四二)
五月三日
 ガダルカナルの北にある
 小さな島ツラギを占領
五月七・八日
 空母同士の戦ひ珊瑚海海戦
 ラビからのモレスビー攻略中止
六月五日から七日
 ミッドウェー海戦
 クラーク飛行場の好運とは別の
 悪運とも言へる現象が起こる
 空母の艦載機の爆弾を
 地上から魚雷に換へ終はった
 ちゃうどその時
 アメリカ空軍が空母を襲ふ
 艦載機は飛べない
 爆撃は受ける
 面白い様に 爆発が爆発を招き
 空母四隻が たちまち撃沈され
 艦載機二八五機を失った
 失った空母は
 加賀・赤城・飛竜・蒼龍
 陸軍上陸部隊は 上陸も出来ぬ
 大敗北であった
 
 この敗北は できれば隠したい
上陸部隊は 海戦後
直ぐさま帰ることなく
グアムで待機させらた
帰国すれば
上陸も出来ぬ大敗北が
上陸部隊の隊員から国民に
わかってしまふからだ

海軍の対応と変更

六月八日
 アリューシャン列島作戦決行
 アッツ島・キスカ島 無血占領
 幕末の光太夫たちが漂着した
 アムチトカ島は
 キスカ島の隣の小さな島だった
ミッドウェー海戦で
大敗北したため作戦変更
フィジー・サモア作戦の中止
新作戦は
@ガダルカナルに空港建設
Aラビからのモレスビー占領から
 ブナからのモレスビー占領に
 切り換へられた
七月六日
 ガダルカナルのルンガに
 飛行場建設開始
八月五日
 ルンガ飛行場ほぼ完成

アメリカの反攻開始

昭和十七年八月七日
 @米・ツラギ占領
 A米・ルンガ飛行場占領
    ヘンダーソン飛行場に改名

 これ以後の戦ひは
 日本軍ほぼ全敗と言っていい
ブナからモレスビー攻略
七月二十一日
 横山先遣隊 ブナ上陸
八月十八日
 南海支隊  ブナ上陸
九月十六日
 イオリバイワ 占領
モレスビーの夜景が見えた
しかし
九月二十六日 撤退開始
 ガダルカナルの戦況厳しく
 南海支隊への補給困難のため
 ブナに戻ることになる
 食糧難に耐えながらも
十月四日
 順調に ココダに戻る
十一月十九日
 「クムシ河」
 河幅百b 豪雨で増水激流の中
 カヌーで渡るも転覆
 支隊長・堀井富太郎 溺死他界
ーーーーーーーーーーーーーーー
しかし その頃
つまり 南海支隊が
八月十六日出立地点の
ブナに戻らうとする頃
コレヒドールを
三月十二日に撤退した
マッカーサーが
十一月十六日
「ブナ」に反攻上陸してゐた

南海支隊は 生き延びるために
ラエ・サラモアに 撤退

かうして南方の拠点は
ガダルカナル島→ブーゲンビル島
ブナ     →ラエ・サラモア
に移って行った

大本営は これを
「転進」と言ったが
「敗走」が正しい様に思はる
しかし 敗走しながらも
何時か モレスビーを攻略!
さう 思ってゐれば「転進」だが
餓えと疲労とマラリアと
闘ひながらの「転進」に
果たして戦闘する意思と体力は
残ってゐただらうか
だから 大本営は
ラバウルからラエとサラモアに
大量の食糧と弾薬の物資と
兵員を送った

しかし その大輸送船団が
あっと言ふ間に撃沈されてしまった
昭和十八年三月三日のことだった
ダンピールの悲劇である

ガダルカナルの死闘

南方は
ガダルカナル島とニューギニア島
この二島を見ながら
史実を追ふ必要がある

ここでガダルカナルを追ふ
昭和十七年
七月六日
 ガダルカナル島
 ルンガ飛行場建設始まる
七月十一日
 フィジー・サモア占領作戦中止
 ブナからのモレスビー攻略命令
八月五日
 ルンガ飛行場ほぼ完成
八月七日
 アメリカ軍上陸
 ルンガ飛行場略奪さる
これから三回 飛行場奪還を狙ふ

 八月 一木支隊 全滅
 九月 川口支隊 失敗
 十月 丸山師団 失敗

ガダルカナル島は
餓島といふ異名を持つ様に
ここも ニューギニア同様
敵との闘ひと 同時に
兵員自身の
餓えと疲れとマラリアとの
苛酷な闘ひがあった
理由は 輸送船団が 悉くやられ
現地に食糧・物資が届かなかった
そこで ドラム缶の食糧配送など
色々と工夫をこらすも 届かず
兵員は 餓えに苦しんだ
そこで 遂に撤退命令が出た
昭和十七年十二月三十一日
ガダルカナル島を放棄
年が明けて
昭和十八年一月二日
 ブナの日本軍玉砕
補足
昭和十七年十一月十六日
 ガダルカナルで
 ルンガ飛行場奪還作戦が
 三度失敗した半月後
 マッカーサーが「ブナ」に上陸
 反攻を開始してゐた
 その反撃を一ヶ月半受けた
昭和十八年一月二日
 遂に「ブナ」が玉砕
南方・二つの拠点の消失だ
 @ガダルカナル島
 Aニューギニア島のブナ
そこで代はりに
新しい拠点が生まれた
 @→ブーゲンビル島
 A→ニューギニア島の
  ・ラエとサラモア
その後サラモアは占領され
ラエは 連合軍に包囲された
そこで用意された敗走コースが
サラワケット山越えである

このコースを敗走したのが
将兵三六四四人が溺死した
「ダンピールの悲劇」の
五十一師団の隊員であった

悲劇の中 なほ生き残った兵隊が
ラエで 連合軍と闘ってゐたのだ

五十一師団兵士の手記
       群馬県 温井一衛
昭和十七年十二月
 五十一師団は南方派遣となり
二十五日 宇品港出港
三十一日
 九州佐伯港で
 八隻の輸送船団で出港
 ラバウルに向ふ
昭和十八年
一月二十四日 ラバウル着
三月一日
 五十一師団七三〇〇人は
 ラバウルを出て ラエに向ふ
三月二日
 先頭の「旭盛丸」撃沈
 駆逐艦二隻が 約八〇〇人救ひ
 ラエに丸腰で上陸させる
三月三日
 ダンピール海峡を通過する時
 戦爆一二〇機の大空襲を受け
 輸送船七隻全部と駆逐艦三隻撃沈
 弾薬・糧秣(食糧)二五〇〇トン
 全て海の藻屑となる
 将兵三六四四人溺死 
 生存将兵二四二七人ラバウル帰還
三月二十八日
 いよいよ私たちの出港
 無事 三十日に上陸
 ラエではなく ラエの東の
 フィンシハーヘンでした
四月十二日
 守備隊の待つラエに出立
四月二十六日
 ラエに到着
 この頃は 輸送船による
 物資輸送が困難なため
 輸送は 全て潜水艦輸送となり
 仕事は その荷揚げでした
 生活物資は 日に日に減り
 一日あたり一人・米一合
六月十三日
 サラモアに援軍に行く前
 マラリアに罹り
 ラエの野戦病院に入院

 その後 病院を転々とし
 日本に帰国 そして終戦

 私がラエに入院した後
 五十一師団は 高さ四五〇〇bの
 サラワケット山越えを敢行
 二二〇〇人死没の悲劇に遭遇し
 終戦までの死亡率九八・六三l
 そのほとんどが餓死と聞く
悲劇の敗走

@MO作戦
 ラビからモレスビー攻略
A次の作戦
 ブナからモレスビー攻略
  南海支隊の悲劇
B次の一手
 ラエ・サラモアを拠点
  ダンピールの悲劇
Cラエ・サラモアから敗走
  サラワケット山越えの悲劇

昭和十七年一月二十三日
 開戦して約一月半
 ラバウル占領
 ここに来てみると
 妙にポートモレスビーが気になる
 そこで海軍は
 オーストラリア占領といふ
 新たな衝動に駆られ
 執拗にモレスビー攻略を狙ふ
 その夢を捨てきれず
 山本五十六は
 次の「い号作戦」を決行した
その前に
東部ニューギニア戦史

@ラビ→モレスビー攻略作戦
Aブナ→モレスビー攻略作戦
Bラエ・サラモア重点作戦
 五十一師団
 ・ラエ包囲され
 ・サラワケット山越え→キアリ
 ・Dガリ転進→ウエワク
Cフィンシュハーヘンの戦
 二十師団
 ・キアリに敗走
 ・Dガリ転進→ウエワク
Eウエワク集結
 五十一・四十一・二十師団集結
Fアイタペの戦
 大敗北
G終戦
 原住民との村落暮らし
注目する部隊
 ・南海支隊
 ・五十一師団
 ・二十師団
南海支隊
 @ラビーモレスビー攻略作戦
 Aブナーモレスビー攻略作戦
五十一師団
 Bラエ・サラモア重点作戦
  ・ダンピールの悲劇
  ・サラワケット山越え
  ・ガリ転進→ウエワクへ
二十師団
 Cフィンシュハーヘンの戦
 Dガリ転進→ウエワク
Eウエワク集結
Fアイタペの戦
G終戦
昭和十七年四月十八日
 空母ホーネットから 東京初空襲
和が国の報復
陸軍 セッカン作戦
海軍 MO作戦
   ミッドウェー作戦
   フィジーサモア作戦
   アリューシャン作戦

『南海支隊』
 五月三日 海軍・ツラギ占領
 五月七日 海軍・珊瑚海海戦
  史上初の空母同士の戦
  と言はるが 注目すべきは
  後の輸送船団にゐた南海支隊が
  「ラビ」に上陸できず
  モレスビー攻略できなかった事
 八月十八日
  モレスビー攻略をめざす
  南海支隊が『ブナ』に上陸
 九月十六日
  イオリバイワ占領
  しかし
  ガダルカナル戦況厳しく
 九月二十六日
  ブナへ撤退開始
  しかし この時
  もう食糧は絶えてゐた
 十一月十六日
  「ブナ」が
  マッカーサーに占領され
  帰る陣地が無くなってゐた
 ブナ帰還時の兵員数
 南海支隊
  上陸時 約八千名
  帰還時 約三百名
この時 餓えに苦しむ兵士は
人肉を食べた そんな話があるが
注目すべき点は 他にある
それは 大本営は どうして
米軍のブナ上陸を
トラック諸島にゐる
連合艦隊を出動させてでも
阻止しなかったのか…

南海支隊が 餓えで全滅
これを予め 予想してゐた
だから 全力で救出に行かなかった
ところが 三〇〇人も帰還した
この奇跡の帰還に 驚いたのは
大本営ではなかったか…
『五十一師団』
昭和十八年
 一月二日 ブナ玉砕(南海支隊)
 一月七日
  五十一師団・五千名 ラエに上陸
  上陸時 執拗な攻撃を受けるも
  大半が 上陸に成功
ラエサラモアを拠点にした
ニューギニア支配が始まる
 三月三日
  大量の輸送船が撃沈
  「ダンピールの悲劇」である
 三月十日
  フィンシュハーヘン占領
  フィンシュハーヘンが
  ラエ・サラモアへの物資輸送の
  兵站基地となる
しかし!
 九月四日
  ラエの東側 敵・上陸
 九月五日
  ラエの西側 敵・上陸

  五十一師団は
  東西の逃げ道を塞がれた!
  残るは
  オリンピックマラソン選手
  北本正路中尉が開拓した
  山越え転進しかなかった
 九月十五日
  二日分の食糧と
  「病に倒れりゃ 自決だよ
  歩けぬ身になりゃお先にどうぞ」
  こんな合言葉でキアリまでの
  サラワケット山越えが始まった
  
五十一師団の足跡
 ラエ→キアリ
囲み数字は亡骸の数
二ヶ月かけてキアリ到着
約二二〇〇名 他界
しかし 海岸線に出ても
連合軍が 道を塞ぐやうに
グンビ岬に上陸してゐた
ガリから 再び山道に入る
これを『ガリの転進』といふ
当時 戦闘司令部は
サラワケット山越えの兵隊と
苦戦する二十師団を援護するため
キアリに移ってゐた
よって 五十一師団の兵士たちは
ここキアリで休息を取り
再び『ガリ転進』を経て
マダンに到着した
三つの部隊とその試練

南海支隊
 ・オーエンスタンレー山越え
 ・豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア
  ブナ上陸時 約八〇〇〇名
  ブナ帰還時 約三〇〇名

五十師団
 ・サラワケット山越え二二〇〇 他界
 ・米豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア

二十師団
 ・ガリ転進山道迂回 三七〇〇 他界
 ・米豪軍との闘ひ
 ・餓えと疲れとマラリア
『二十一師団』
昭和十七年十二月三十一日
ガダルカナル 撤退決定
昭和十八年 年が明けた翌日
モレスビー攻略のため南海支隊が
上陸した「ブナ」玉砕

尾川正二の回想

昭和十八年(一九四三)一月六日
 完全武装して屯営の庭に整列
 ・遺書を書き
 ・頭髪と
 ・爪を添へた
 容易ならぬ戦場だとわかる
 龍山駅で貨物列車に積み込まれた
 終着駅は「釜山」だった
 小学校に収容された
一月八日
 輸送船『靖国丸』に乗船
 といっても 荷物室である
 行く先は わからない
 やがて ニューギニアだとわかる

一月二十一日 午後二時頃
 ニューギニアのウエワクに着く
 任務は 飛行場建設だった

三月十八日
 飛行場ができると
 今度はマダンまで三五〇`
 その道路工事と架橋建設
 ウエワクからマダンまで
 大小二百の橋を作った
 
 誰が名づけたか…
 アメリカ松
 ニューギニア杉があった

 現地語は ピジン・イングリッシュ

 ミー(我)と
 ユー(汝)が通じるだけでも
 ありがたかった
 ピジンは 約千三百語
 私たちの語彙はその半分位だった

 ニューギニア最大の大河
 セピック河も渡った

 村には
 シンシンといふ歌舞があり
 村落には
 シンシンのための広場もあった
 裸足で踏み固められた土は
 テニスコートの様に
 なめらかで 綺麗だった

 夜行軍のとき
 蛍木といふ大きな樹をみた
 高さ五〜六bの樹が
 何千といふ蛍の光を点滅させる
 ニューギニアに 三年ゐたが
 二度しか見たことがない

 鳥の聲に驚くことがある
 『ハラダ ハラダ』
 『ミヤハラ』と呼び掛けてくる
 『ホーラ ホラ ホラ』
 『オーハラクン』
 何千といふ鳥の大合唱である

五月五日
 ついにマダンに到着
 ここで家らしい家を造った
 任務は 飛行場建設と作戦路啓開

 この頃はまだ 戦争を忘れ
 現地の生活を楽しむ余裕があった

 山本五十六の死も
 アッツ島玉砕の報せも入った
 ちゃうど その頃
 マラリアで 一人他界
 水没者一名ゐたので 二人目だ

五月下旬
 ラエ・サラモアで
 五十一師団の死闘の報せが
 日々 入って来た

 ここマダンでも
 敵の空襲が 始まった
 椰子の葉っぱで簑の様な物を作り
 ゴム林を出る時は
 それを必ず 羽織った
 日に日に爆音が増え
 炊事は 夜だけになった
 昼の炊事は
 煙が立ち昇ってしまふからだ

五月三十一日
 神野大隊が
 五十一師団の指揮下に入り
 マダンを立ち
 ミンデリ・ガリ・キアリ・
 シオ・フィンシュハーヘンを経て
 ラエ・サラモアまで駆け抜けた

道路開拓は 中断となり
二十師団は
フィンシュハーヘンの援軍となる

九月四・五日
 ラエ東部 米軍上陸
 ラエ西部 豪軍落下傘部隊上陸
 東西を挟まれた「五十一師団」
九月十五日
 五十一師団の
 サラワケット山越えが始まる
九月二十二日
 二十師団の
 フィンシュハーヘンの戦始まる

南海支隊 から五十一師団
五十一師団から二十師団へと
闘ひの主力部隊が代はって行く

五五〇〇名の犠牲者を出した頃
十二月二十日
 二十師団に 転進命令下る

ここまでのまとめ

部隊着目
 @南海支隊
 A五十一師団
 B二十師団

拠点着目
 @ブナ
 Aラエ・サラモア
 Bウエワク・マダン

苛酷な山越え着目
 @オーエンスタンレー山脈
 Aサラワケット山
 Bガリ転進
南海支隊 一兵士の回想

語り部 和気道春
聞き手 NHK記者
昭和十六年
 十二月十日  グアム上陸
昭和十七年
 一月二十三日 ラバウル上陸
 五月七日   珊瑚海海戦
ーー以下よりモレスビー攻略ーー
 七月二十三日 パサブアに上陸
        (ブナ近くの)
 オーエンスタンレー山越え
 イオリバイワ占領
  歩いて四・五日の所に
  モレスビーが見えて
  皆で勝った 勝ったと喜ぶ
  しかし 撤退命令
 撤退時は
 後から豪軍 海から米軍艦砲射撃
 そして
十一月中頃
  クムシ河 筏で下る
  途中から陸路を一週間位歩く
  ブナ近くのギルワの日本陣地に
  辿り着くも そこで負傷

南海支隊のブナ帰還の実態は
さまざまで
兵士一人一人の足跡は
NHKの証言記録で追へる
ラエ・サラモアの陥落

ブナの陥落は
 昭和十七年(一九四二)十一月十六日
 マッカーサーの上陸に始まり

ラエ・サラモアの陥落は
 昭和十八年六月三十日
 サラモア南四十`・ナッソウ湾に
 連合軍が上陸したことに始まる
こんな時
陸軍中野学校出身の田中俊男らが
ラバウルから飛行機でウエワクに
やって来た 七月十二日である
七月十八日
 ウエワクからマダンに到着
 直ぐに猛頭山の
 第十八軍戦闘司令部に向かった
 聞けば…
  マダン・エリマの貨物廠は
  連日爆撃され
  日本からの補給船の入港も
  激減してをり 運搬役として
  はかりしれない働きをする
  高砂族義勇隊も遊休状態だった
 台湾原住民高砂族は
 純真で勇敢 闘争心も旺盛
 ジャングルでの行動は敏速
 そこで 軍司令部で
 義勇兵を募集した所
 我も我もと 全員が応募して来た
八月一日
 陸軍中野学校出身の
 特定将校と下士官と
 高砂族義勇兵の
 齋藤特別義勇隊ができた

マダン東方五十`ソウで結成
一ヶ月の
・破壊爆破訓練
・潜入訓練を受け
齋藤特別義勇隊は 直ぐに
カイアピット方面進攻に向ふ
中井支隊に配属された
二十師団の仕事
 ・ウエワクーマダン  の道路工事
 ・マダンーヨコピーラエの道路工事
  ヨコピまで完成したが
  ラエの戦況厳しく道路工事中止
  ラエに残された
  中野英光五十一師団の
  救援へと任務が代はった
ラエからマダンまでの脱出ルート
 @カイアピットー歓喜嶺ーマダン
 Aサラワケットーキアリーマダン
 当初は この二つの内
 @のカイアピットルートだった
六月三十日に 敵がナッソー湾に
上陸してから 戦況苦しい中
八月二十三日
 中野英光五十一師団長は
 サラモアで かう言った
 「この陣地を最後の一線として
  一歩も後退を許さず
  ここを確保できぬ場合は
  師団は 本陣地で玉砕する
  軍旗を奉焼し 傷病兵も決起
  全弾撃ち尽くすまで敵を倒し
  最期を飾る」
しかし
九月五日
敵軍 ナザブ高原に落下傘部隊降下

日本軍
 @カイアピットルートが危険
 故に 中野五十一師団は
 Aサラワケット山越えとなる
敵軍
 「カイアピット」から
 「マダン占領」を狙ふ

その進攻を食ひ止めたのが
二十戦完勝の「齋藤特別義勇隊」
齋藤特別義勇隊の初陣
 昭和十八年九月二十三日
  敵 ザカラガ部落に宿営中
義勇隊 潜入して宿営を悉く爆破

義勇隊の役割
 もし潜入爆破失敗したら
 敵陣に突入して自爆するのが任務
 文字通り「決死隊」であった

初陣の戦果は以下
    敵軍   義勇隊
 死者 六十以上 無
 負傷 八十以上 無

第二回目の戦闘

義勇隊 「魂の森」を拠点
敵軍  ダキサリアに宿営
戦果は以下
    敵軍   義勇隊
 殺傷 三百以上 無
三回目の戦闘は
敵軍  「魂の森」宿営
義勇隊 「魂の森」の奥

義勇兵八名の帰還が心配されたが
無事に帰って来た
戦果は 敵軍死傷二百名以上

兵站基地となってゐた 「マダン」や「エリマ」では
『潜入攻撃隊とかが
 暴れ回って 敵の進撃部隊を
 攪乱阻止してゐる』
こんな噂が 弘まってゐた
暗いニュースが多いニューギニア
高砂族義勇隊の活躍が
多くの日本兵を勇気づけてゐた

グンビ岬 敵軍上陸

昭和十九年一月二日
 敵軍
  ガリーマダンの退路を塞ぐ様に
  グンビ岬上陸
  すぐさま飛行場建設
 退路日本軍
  ガリから
  グンビ岬を迂回する様に
  フィニステル山系に入り
  再び海岸線に出る転進路に入る
  「ガリ転進」と言ふ
 救援日本軍
  疲弊した日本軍を救援
  その任務を負ったのも
  齋藤特別義勇隊であった
この時
数々の敵陣潜入爆破を成功させた
齋藤特別義勇隊はクワトウにゐた
命を受け 直ぐ 早朝に出発

ボガジンに向かひ
右折して海岸道に入り
ポングに向かった
ポングから山道に入り
ガリ転進部隊のために
・「道標」を置き
・「簡易糧秣集積所」を造り
・「道路補修」を行った
一月二十八日
 救援義勇隊 ヨガヨガ到着
一月二十九日
 転進部隊の堀江先遣隊が到着
 堀江から事情を聞くと
 五十一師団・二十師団の順に
 転進が進んてゐるといふ

 ボロボロになった軍衣のまま
 夢遊病者の様に杖をついて歩く
 疲弊した多数の兵士は
 友軍の領域に入った途端
 安心してか 歩行不能となり
 転進から落伍して そのまま残り
 土に還る者が 続出した

上陸した敵軍
 一月十九日 総攻撃を敢行
 歩兵・片山中隊長の堅陣も
 百機に及ぶ敵機の反復攻撃で
 遂に 玉砕
 敵軍 続けて「歓喜嶺」占領
 転戦部隊の救出に目途をつけた
 齋藤特別義勇隊は
 今度はマダンを守るために
 エリマからマダンに向かった

マダンは 以前の面影はなく
砲爆撃の跡だけが残ってゐた
ムギルに着くと
齋藤特別義勇隊は かう評された

高砂族のお蔭で
あれほど原住民が味方になって
「隠し道」まで教へてくれた
また カイアピットから
押し寄せて来る敵軍を
正規軍だけで封じ込めることは
不可能だった
「十八軍」が生き残れたのも
齋藤特別義勇隊の
敵陣潜入爆破のお蔭であるし
ガリ転進部隊の収容成功も
齋藤特別義勇隊の活躍あればこそ

高砂族を語る吉原矩

二十師団の参謀長吉原矩(かね)は
高砂族を かう語る

高砂族は
かつては蔑視されてゐたが
民族的にみて大和民族と極めて近い
見かけと言ひ 肌色と言ひ
全く同一で 習慣も
多くの共通点がある
僅か 数ヶ月の教育で
日本語を 完全に話し
性格は 極めて従順勤勉 特に
「我は日本人なり」との信念で
心が満ちあふれてゐた
極めて人なつっこく
愛すべき戦士だった
いつも ハイハイと従順に
自己の職責を全うした高砂兵
今なほ
呼び掛けてみたい気がしてならない
マダンからウエワク

二十師団が「ガリ転進」を終へ
マダン→ハンサ→ウエワクに敗走
この様子を元兵士が語る
昭和五十三年三月二十日
 聞き手 草賀類子
 語り部 小畑耕一
私の余命も もういくばくもない
今なら 何を話してもいいでせう
こんな前置きをして話し始めた

昭和十九年三月十日
 軍がマダンを放棄
 それから二ヶ月 ハンサは混乱
五月十日
 マダンが敵の手に落ちた

敵は ウエワクの先
アイタペ・ホルランジアに上陸
ハンサは 連日連夜爆撃された

爆撃のたびに
三百人から四百人の死者が出た
しかし 死体を埋めるための
穴を掘れる人間はゐなかった
片腕 片足のない兵隊
死にかかった兵士が 歩いてゐた
誰かが ミイラ部隊と呼んでゐた

ハンサは
後方「ウエワク」と
戦闘司令所のあった「マダン」と
丁度中間
物資輸送の拠点だった

北に見える「マナム富士」は
噴煙をあげてをり
風光明媚な場所で
将兵の郷愁を募らせたが
「ハンサ」は見る影もなく壊滅した
我々二十師団は
約三週間「ハンサ」にゐて
一部は「舟」で 大半は徒歩で
セピックの河口を通って
「ウエワク」へ敗退して行った

この辺の湿地帯は凄く(底無沼)
大木を倒して その上を歩くのだが
いったん足を取られると
からだが沈んでしまひ
軍帽だけが浮かんで来る

靴が なくなったら歩けない
そこで 半死半生の兵から靴を奪ふ
これは まだいい方で
よろけ歩く兵を 強い兵が倒して
靴を略奪することもあった
昭和二十年(一九四五)には
人肉を喰ったものは死刑にする
こんな命令を出さなければならぬ
事態にまでなってゐた

自分の隣の兵を殺して喰ふ
そんな状態にまで堕ちた
しかし 軍は これを秘した

将官が 部下に殺されて喰はれた
こんな例は ざらにあった
脱走兵が
ジャングルの中 待ち伏せして
歩く兵を襲って喰った

体の小さい同級生がゐた
彼は 塩を作ってゐた
ある日 彼を探しに行ったら
河に彼の首が浮いてゐる
わけを聞いてみると
仲間が彼の作った塩を奪ひ
殺して喰ったといふ
内地に帰って来た私には
彼の遺族に会って
そのことを報告する勇気はなかった

吉原矩(かね)中将が
戦闘司令所を作ったとき
憲兵が 一人の陸軍中尉を
人肉を喰った疑ひで連行
その中尉は 某大学医学部の教授
取り調べの時
どうせ死ぬ兵隊なんだ
さういふ奴らを喰って
敵が上がって来た時に闘ふのが
何故悪いと豪語した
結局彼は 死刑になった
人肉問題は
ニューギニア戦線の至る所であった
連合軍も
この問題を表向きにしたくなかった
名誉の戦死と報告してゐる遺族に
貴方の息子さんは敵に喰はれました
なんて言へますか?

しかし
終戦と同時に 現場に踏み込まれ
喰ひ散らかした死体が 発見され
豪軍の記者に証拠写真を撮られた
豪州の新聞には
人喰人種と報道されてしまった
ガリ転進年譜

昭和十九年(一九四四)
一月二日
 敵軍グンビ岬上陸
一月十九日
 敵軍総攻撃敢行
  一回目 十五機
  二回目 二十五機
  三回目 反復延百樹で猛爆
 片山真一中隊長 敵弾受 他界
 部下 必死に抵抗するも
 屏風山にて玉砕他界
一月二十二日
 ガリ転進部隊・ガリ出発
 堀江先遣隊を先頭に
 五十一師団 六〇〇〇名
 二十師団  六九〇〇名
 おほよそ  一三〇〇〇名
二月十八日 マダン着 他界約四千
ニューギニア戦史

ニューギニア占領拠点
 @ブナ        南海支隊
 Aラエ・サラモア   五十一師団
 Bフィンシュハーヘン 二十師団

撤退
 @ブナ    昭和十七年十一月下旬
 Aラエ    昭和十八年九月十五日
 Bフィンシュ 昭和十八年十二月二十日

難関撤退地と他界者数
 @オーエンスタンレー山脈
 @クムシ河 筏下り
   七七〇〇名
 Aサラワケット山越
   二二〇〇名
 Bガリ転進
   四〇〇〇名
 Cラム・セピック湿地帯
   五〇〇名

激戦地と戦死他界者
 フィンシュハーヘン 
  開戦 昭和十八年九月二十二日
  撤退 同年   十二月二十日
  他界 五五〇〇名
 アイタペ会戦
  開戦 昭和十九年七月十日
  撤退 同年   八月四日
  他界 一万三〇〇〇名

以下概略
ニューギニア戦史地図

@MO作戦
Aブナーポートモレスビー作戦
Bラエ・サラモア拠点
Cフィンシュハーヘン拠点
Dサラワケット山越え
Eフィンシュハーヘン撤退
Fガリ転進
Gウエワク集結
Hアイタペ会戦
I終戦
二十師団歩兵の記録

二十師団は
フィンシュハーヘン撤退後
シオを経てキアリに向ふ
キアリでは
五十一師団が
サラワケット山越えを経て
休息しながら二十師団の
キアリ到着を待ってゐた

二十師団は キアリで
休息する余裕もなく
マダンまでの転進路を歩く

昭和十九年(一九四四)一月二十二日
 ガリ転進始まる
 堀江先遣隊を先頭に
 五十一師団・二十師団が続く

この転進で
医学で説明できない経験をした
突然来る『冴え』を三度経験した
ローソクが燃え尽きるとき
一瞬明るくなるとか
死の直前に ふっと病状がよくなる
そんなことがあるといふ
たとへ さうであらうと
その『爽やかさ』が嬉しかった
どこにも体力らしいものが
残ってゐないのに
何かが湧き出て来る瞬間がある

布一枚で全身を覆ふ兵がゐた
全身に漂はせてゐる屍臭
その兵が 軍医の所に来た
軍医も 瞬間顔をそむけた
布を取って 軍医は唸った
どす黒い筋肉が カラカラになって
その骨に付着してゐる
その兵の左手は
完全に白骨となってゐた
かういふことが 有り得るか?
こんな状態で生きられるのか?
医学で説明がつかない

私は 奇妙な文明の利器を
創案してゐた
帯剣で穴を開けた飯盒の蓋
『大根おろし』である
木の芯 木の根
すりおろせば 何でも食べらる
日本人の知惠である
ニューギニア戦を 最もよく語る物
それは この『大根おろし』
それは
木の根は 地下に潜る
地下に潜れば
地下の生活が 作られて行く
何万人もの地下に潜る生活を
木の根は 良く知るから…

自分の力で
苦難の道を突破した
そんな思ひあがりはないが
連日 砲爆撃を受けながら
転進部隊を守り
敵を一兵も通さなかった片山中隊
大きな恩恵を受けてゐたことを
後で知った

三月十日
 待望久しい海岸に出た
 民家を天幕で囲った
 糧秣倉庫に着いた
 一人三合の米の配給
 三ヶ月ぶりの米に狂喜した

 海岸線は
 むちゃくちゃに叩かれてゐた

 ここもまた
 崩れた肉体と 狂った神経が
 置き去りにされてゐた
 ぶつぶつつぶやきながら
 あてもなく彷徨ふ者
 廃屋に住みついて
 異様に輝く眼を据ゑてゐる

 遂にハンサに着く
 ここから七十名の中隊と共に歩く
 ここでアイタペ作戦の噂を聞く

『十八軍は絶望である
 究極にはセピック河上流に
 自活籠城するしかない
 現地物質は限度がある
 兵員を養へる量はない
 今度の作戦は 口減らしである』

昭和十七年十一月より
 ガダルカナル 十七軍
 ニューギニア 十八軍
 十八軍司令官 安達二十三
はたざう

絶望的な作戦であれ 何であれ
兵士たちから
ぶつぶつ文句が出ることはなかった
この流言だけは異様な重さがあった
アイタペ会戦
 七月十日 戦闘開始
 八月四日 撤退
 戦死他界 一三〇〇〇
 弾薬・糧食全て尽き果て
 ブーツに撤退することになった
 七十名の中隊も 十数名になった

敗戦から このアイタペ会戦を
無意味とするのではない
兵隊が 事前に
作戦に懐疑的になってゐた
これが異常なのだ
命令に従順でなければ
戦争には勝てぬ
容赦ない攻撃に対しては
容赦ない覚悟が要求される
兵隊の感覚には
意外に確かなものがあり
流言の形で漂ってくるものにも
真実の一面をついてゐることが多い

アイタペ会戦後
二十師団七十九連隊の場合
 四三二〇名→約四〇名に激減
七〇名の中隊→十数名
 口減らし作戦の実証である

終戦までの山村暮らし

七〇名ゐた中隊は 今は十数名
地面が乾いてゐればゴロ寝もできる からりと乾いた土地はない
廃屋をあてにしても
宿れる身分でもない
どしゃぶりの中で 木を切り倒し
自然木を柱に 宿とする
苛立ちながら 慌ただしく動く
そんな毎日を繰り返してゐると
化石の様に無感動になるか
ある怒りに集中するしかない

山へ
進むべき方向だけが 示され
帰着すべき処は 何も示されない
そんな中 何かと行動を共にした
田中曹長とは 何かの因縁か
一緒に歩いてゐた

「ほっといて先行って下さい」
と座り込むと 黙って笑ってゐる
とうとう一人になった
さう思ってゐると
二人分の芋を煮て待ってくれてゐる
昭和十九年八月下旬
 開放してもらった二軒の民家に
 装具を解いてくつろいだ
 自活の道を求めて
 山に籠り 再起を待つことにした
 場所は ニブリハーヘン

 酋長は日本名をカトウと言ひ
 三十歳前後の男
 真っ赤な褌一本 ぴちぴちと動き
 テキパキ采配する

 カトウは
 ワンテム・ウォーク(一緒に働き)
 ワンテム・カイカイ(一緒に食べる)
 と言って歓迎してくれた
 中隊十数名はここで世話になった
翌日
 中隊主力をニブリハーヘンに置き
 田中曹長と二人で
 ヌンボクに向かった
 二人だけで新しい城を
 築かうといふわけだ
 
 ヌンボクに着くと
 太鼓の通信で 連絡済みで
 みんな広場に出て 迎へてくれた
 ここの酋長は日本名ヒンガシ
 五十くらゐの男である
 床の高い民家を用意してくれた
 ここが
 しばしの「わが家」となった

 しばらくすると 田中曹長が
 ぶらぶらしてゐるより
 何か教へよう といふことになり
 酋長ヒンガシにもちかけると
 ヒンガシも喜んだ
 
 二 三十人の子供が集まった
 地面に地図を描いて
 ニューギニア 日本を教へ
 東西南北を教へた
 子供たちは
 サンキュー・ベリーマシタと
 お礼の言葉を言ふ
 
 三ヶ月が過ぎてゐた

 日本に味方する原住民もゐれば
 敵軍に味方する原住民もゐる
 そんな敵に懐柔された遊撃隊に
 日本兵が 多数やられ始めた

当時の情勢
昭和十八年八月
 ナッソウ湾に 敵軍が上陸し
 ラエ・サラモアの五十一師団が
 敵軍に追ひつめられてゐた頃
 「絶対国防圏」が発せられた
 ・ラバウル
 ・東部ニューギニア
  の放棄である
 わかりやすく言ふと
 絶対国防圏以外の地域には
 食糧補給もしないし
 救援部隊も出動しない
 つまり 現地で闘ふ兵隊は
 現地に 置き去りにされた
昭和十九年四月以降
 第四航空軍と第九艦隊は
 西部ニューギニアに転用された
遊撃隊の日本兵殺戮が
頻繁に起こり始めた頃
酋長ヒンガシが私を呼び
かう言った
「スサメと一緒に寝てくれ」
スサメといふ青年も
屈託無く「一緒に寝よう」と言ふ

今 思ひ返してみると
遊撃隊の夜襲から守ってやらう
そんな友情だったことがわかる
この温かい友情は
終生の思ひ出となってゐる

昭和十九年十二月初旬
 移動命令が出た
  酋長ヒンガシも
  村落の青年たちも
  メリー(娘)たちも
  無邪気に見送ってくれた
 
 二週間歩いて
 パンケンブといふ村に落ち着く
 一個中隊全員が入れる
 大きな民家が提供された
 酋長は オルセンバン
 顔立ちのいい「ハムレット」
 「ハムレット」は
 椰子の木陰のハンモックで
 静かに ピジンイングリッシュで
 書かれた聖書を読んでゐた

 酋長のオルセンバンは
 この聖書を見せてくれた
 ピジンの学習に役立った

 二ヶ月が過ぎた
 生活を共にするにつれ
 相互理解も深まる
 ・オハヨウ
 ・クンバンワ
 ・ゴクロンサンなど
 ことばに人間の英知を感じた

昭和二十年一月下旬
 出動命令下る
 オルセンバンは
 途中まで送ってくれた

 特別挺身攻撃隊の編成があり
 中隊を離れ
 特別挺身攻撃隊に入り
 十国峠に向った
 戦闘開始は
三月二十三日頃
 敵は 潰滅状態にあった
 日本軍の猛烈な反撃に狼狽
 遺体の収容もできなかった
ある日
 誰それが死んだ 取りに行かう
 といふ怖ろしい言葉が交はされる
 「あの時 行かなくて良かった」
 といふ戦後の述懐は
 戦ひ 終はって聞いた切実な言葉

恐らく食肉としての
遺体を取りに行かう!
さういふ掛聲に
思ひとどまった経験を
良かったと言ってゐる
のではなからうか
 それは
 一人一人の内的な自由の聲である
 一切の常識がなくなり
 新しい自分を作って行く時

 「権威あるものは
  内なる良心のみである」

 続けて ウェーバーは言ふ

 「行動の正しさを求めるものは
  国家乃至英雄の様な被造物の
  命令ではない
  内なる良心の聲である」

 ニューギニア戦線
 生きようとして
 生きられるものでもなく
 死なうと思っても
 死ぬこともできぬ

 いよいよ絶望と思って
 椰子の木に背をもたせかけ
 拳銃を抜き
 自決を決意した将校がゐた
 銃口をこめかみに当て
 引き金を引いた 不発だった
 二発目も引いたが これも不発
 これは何だと思ひ 三発目は
 上空に向けて放ってみた
 今度は 実弾が飛び出した
 将校は この時 何物かの
 「生きよ」といふ意志を感じた
 
 ニューギニアの生還者は
 形は違ってゐても
 皆 そんな偶然によって
 生かされてゐたのではないか

昭和二十年五月
 出動命令下る
 田中曹長はヌンボクに残り
 私は カボエビスの陣地に移った
 体力は どこにも残ってゐない
 ここで 田中曹長の惨死を聞いた
 もし あの時 ヌンボクに
 田中曹長と一緒に
 残留してゐたら…

 カボエビスでは
 敵は 間断なく撃ち続けてくる
 しかし 威嚇射撃で
 ただ脅かすだけの撃ち方だった
 さうとわかれば気楽に対応できる
 「危険のあるところ
  救ひの力も育つのだ」
 と思ひ直し 空を仰いだ

 中隊に紛れ込んで来た兵士が
 こんな話をしてくれた
 翼を広げると七b位のコウモリ
 四b位の大豚もゐた
 カラマンボ湖では
 夜中の零時零分
 蓮の花が一斉に花開く
 開花の音は 機関銃の
 一斉射撃に似て居る
 体長二十bのワニや
 三b位のウナギもゐた
 蝶は 羽を広げると七十a
 途方もないスケールの動物たち
 こんな秘境の中に暮らしてゐた


終戦直前の部隊配置である
矢印は 敵の進撃路
徐々に追ひつめられた軌跡

私のゐた七十九連隊も
わづか五名となってゐた

八月十五日
 この頃 兵は約一万
 十八軍主力九三〇〇は
 ヌンボクを中心にして
 玉砕陣地と決めてゐた
 遠く南に離れたセピック河には
 二八〇〇の吉原中将の
 セピック兵団がゐた
 突然 敵陣地から
 バンザイの聲が聞こえた

 われわれは
 「海行かば」を歌ひながら
 七十九連隊旗を葬った

九月二十五日
 ボイキンの海岸で武装解除
 小銃・帯剣をドラム缶に放りこむ
 個人に帰った
 生き残った正確な人員
 一一〇九七名
 一七万余の南方最大勢力が
 今 ここに約一万
 ムッシュ島に送られた

 ムッシュ島では
 食糧も配給されたが
 毎日 十数名が他界
 結局 ムッシュ島の病没者は
 一一四八名に及んだ

引揚げ船
 鹿島  昭和二十年十一月末
 高栄丸 昭和二十一年一月九日
 鹿島  昭和二十一年一月十一日
 酒匂  昭和二十一年一月十一日
 氷川丸 昭和二十一年一月二十三日
 鳳翔  昭和二十一年一月二十四日
われわれ七十九連隊は
航空母艦・鳳翔で帰還
乗船すると 直ぐに
握り飯と干からびたタクアンが
支給された 涙があふれた
戦友たちも 皆 放心してゐる
「米の飯を喰って死にたい」
と言った亡き戦友の最期のことばが
皆の心に しみてゐるからだらう
しかし どこかで誰かが言ふ
「どうしても喰へんなぁ」
今 この贅沢が
涙となってあふれるのである

帰国するまで 三度停船した
祖国を前にしながら
亡くなった人の水葬である
毛布にくるまれた遺体が沈んで行く
瞑目し 頭を垂れる
無念の思ひが伝はってくる

昭和二十年七月二十五日
十八軍に全軍玉砕命令が出た時
一切の記録と書類は焼却された
以下の記録は 残務整理の時
個人の記憶を辿って作成されたもの
正確な数字は 到底わからぬ

部隊名   総兵員  生還者
七十八連隊 五七二五 一一二
七十九連隊 六一五一 九一
八十連隊  五二五八 九〇

七十九連隊の生還者九十一名
しかし 敗戦の時 連隊長は
生存者六十七名と言った

部隊名   総兵員   生還者
二十師団  二三三八五 七八五
四十一師団 一九九六〇 五九二
五十一師団 二八八八八 二七五三

酋長のその後

酋長 カトウ
酋長 ヒンガシ
酋長 オルセバン
三人の酋長に世話になった
そこには
大酋長・カラオの恩恵があった
カラオも 最後まで
日本軍のために献身してくれた
それが 何かの利欲になるとは
到底思へなかった
衰弱し 疲労したわれわれの姿に
ただ同情しての協力であった様に
思はれてならない

その後のカラオについて
全く知るところなく過ぎた

昭和四十七年(一九七二)
 九州朝日放送で カラオが
 悲惨な運命を辿ったことを知った
 日本軍に協力した罪で捕らへられ
 妻と息子二人が斬殺され
 カラオも三年投獄
 後 マラリアのため釈放
 現在 残された息子と二人で
 暮らしてゐると言ふ

 テレビ放送の後 数年を経ずして
 カラオの死亡を知った
 同時に 一般酋長で
 処刑された者もあるといふ
 片腕切断の酋長の写真も
 見せられた
 われわれのために
 死んだり 残酷な刑罰を受けた
 忘却しへないものがつきまとふ

 戦争は終はってゐない
 消えたと思っても
 どこかでまた 燃え上がる
 「知」だけが突っ走って
 人間的な特徴が見失はれたら
 暗闇の世となるだらう
 この「戦争の段階」を
 乗り越える力を
 人間は持ってゐると信じたい