薬王イベルメクチン
草取りをすると
何とも言へぬいい香りが漂って来る
土壌に棲む放線菌が 活き活きして
湧き上がる「好気」だと聞く
この「土の香り」に魅了され
やがて放線菌から産出される
ストレプトマイシンを発見し
これが 結核に苦しむ多くの人を救った
ノーベル賞を受賞したワックスマン博士の話
その五十年後
今度は大村博士が 伊東市川奈ゴルフ場から
新種の有機化合物を吐き出す放線菌を発見
エバーメクチンである これがやがて
薬剤イベルメクチンとなり 多くの人を救ふ
平成二十七年(二〇一五) ノーベル賞受賞
それから四年後
全世界は コロナ感染で荒れたが
イベルメクチンは そのコロナ鎮圧にも
特効薬として 世界各地で大活躍した
しかし この事実を知る人は少ない
ましてや イベルメクチンが
家庭の常備薬として重宝することも
ほとんど 知られてゐない
そこで 私塾鶴羽實は
本掲示板にて 個人の治験事例を拾ひ集め
薬王イベルメクチンの実情を世に知らせんと
イベルメクチン専門の掲示板を作った
貴重な治験事例をお持ちの方は
是非 その事実をお知らせ下さい
この件 宜しく!
草取りをすると
何とも言へぬいい香りが漂って来る
土壌に棲む放線菌が 活き活きして
湧き上がる「好気」だと聞く
この「土の香り」に魅了され
やがて放線菌から産出される
ストレプトマイシンを発見し
これが 結核に苦しむ多くの人を救った
ノーベル賞を受賞したワックスマン博士の話
その五十年後
今度は大村博士が 伊東市川奈ゴルフ場から
新種の有機化合物を吐き出す放線菌を発見
エバーメクチンである これがやがて
薬剤イベルメクチンとなり 多くの人を救ふ
平成二十七年(二〇一五) ノーベル賞受賞
それから四年後
全世界は コロナ感染で荒れたが
イベルメクチンは そのコロナ鎮圧にも
特効薬として 世界各地で大活躍した
しかし この事実を知る人は少ない
ましてや イベルメクチンが
家庭の常備薬として重宝することも
ほとんど 知られてゐない
そこで 私塾鶴羽實は
本掲示板にて 個人の治験事例を拾ひ集め
薬王イベルメクチンの実情を世に知らせんと
イベルメクチン専門の掲示板を作った
貴重な治験事例をお持ちの方は
是非 その事実をお知らせ下さい
この件 宜しく!
ほっこり
ののさま
原作者 KENTWEB原作名 JOYFULNOTE
縦書編集 私塾鶴羽實
編集者名 岩田修良
縦書改名 くぬぎの手紙
住 所 〒四三八ー〇〇八六
磐田市見付二七八六
電 話 〇五三八-三三ー〇二七三
FAX 〇五三八-三一ー五〇〇三
竹島問題
概略
①寛文七年(一六六七)
竹島(鬱陵島)を日本の西北限とする
↓ ↓
②元禄七年(一六九四)
朝鮮 鬱陵島は自領だと主張
↓ ↓
③元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側 日本の領土だと主張
ところが
③元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
調べてみると「竹島」は
朝鮮から四十里
日本から六十里
よって竹島は
「朝鮮と地続きであったこと疑無し」とし
朝鮮に「還す」と述べた後
この処置は「以前と同じではない」と
改めて 幕府の「認識の転換」を語り
いつまでも争ひが続くよりは
朝鮮・日本 お互ひに
争ひごとがないことに越したことはないと述べた
これより 竹島(鬱陵島)は
日本・朝鮮両国が 渡海禁止とし
両国の「言争」は無くなった
↓ ↓
安政五年(一八五八)
薩長革命政府の先導者・松蔭は
長年の慣行を破り
竹島の開拓占領を企画提案
↓ ↓
これより「竹島問題」再燃
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下 簡易年譜である
元和四年(一六二三)
幕府
伯耆(ほうき)国の米子の町人
村川市兵衛・大谷甚吉に
「竹島」への渡航を許可
元和九年(一六二三)
米子の大谷甚吉
越後より伯耆国米子に帰航の際「竹島」に寄る
全竹島開基は 大谷甚吉なり
経て「竹島」にて病死
島に石碑あり
本名 浄本と号す
後「竹島院」と号す
寛文七年(一六六七)
出雲藩士齋藤豊仙
藩命により『隱州視聴合記』をつくる
「竹島」を日本西北限とする
元禄五年(一六九二)
二月十一日(和暦)
村川市兵衛の船
因幡藩(鳥取県東部)の許可得て 米子出向
隠岐の福浦を経て
三月二十六日
伊賀島(小さな竹島か?)に到着
三月二十七日
鬱陵島に到着
朝鮮人が漁労してゐるのを確認
市兵衛が「日本領であることを告げる」と
朝鮮人は「漂着した」と言ふ
市兵衛は 昨秋小屋に残して来た
釣道具と漁船が無くなってゐるのことに気づく
そこで 朝鮮人に
「再びここに来ぬやう」伝へて帰った
その後
鬱陵島に市兵衛が渡航するも
朝鮮人の妨害でやむなく帰る
元禄六年(一六九三)
四月十七日
船頭黒兵衞 米子を出港
その日の内に鬱陵島に着くと
そこで朝鮮人四十二人が漁労をしてゐた
その内の安龍福と朴於屯の二人を
密漁の証人として捕まへて連れて帰る
四月二十八日
鳥取藩 江戸に処置を伺ふ
五月十三日
江戸から指示書が届く
「密猟者二人を長崎に送り
朝鮮に送還し 朝鮮に密漁を抗議せよ」
十二月
朝鮮から返事が届く
鬱陵島に赴いた朝鮮人二人の送還の礼と
彼らを厳重に処することが書かれ
最後に かう書いてあった
「朝鮮では 海禁を厳重にしてをり
鬱陵島への往来は許可してゐない」
領土確認交渉
元禄七年(一六九四)
三月
日本が言ふ「竹島」と
朝鮮が言ふ「鬱陵島」の領土問題で
幕府は 多田与左衛門を派遣
八月九日
結論でず
九月
朝鮮は「鬱陵島」は朝鮮領だと述べた
元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側の主張
鬱陵島で
日本漁民は 漁労してゐるが
その間 一度も朝鮮の役人を見てゐない
したがって
「実質日本領である」と主張した
「竹島」朝鮮に返還す
元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
邦人が竹島(=鬱陵島)に渡航して
漁業を行ふことを禁止する
竹島の地は
因幡に属せりといへども
我が人 居住すること無し
徳川秀忠の時
「米子の村人」から
その島での「漁労の願」を受け
これを許したことが始まりであった
今 その地理を計るに
因幡から六十里ばかり
朝鮮から四十里ばかり
これは かつて「竹島」が
朝鮮と陸続きであったこと疑無し
日本が 兵力を以て自領とすれば
何を求めてのことなのか 得る物無し
また その始まりをみると
そこは朝鮮との陸続きで
日本が 取ってはならぬ所であった
よって 今「竹島を還す」
そこに往き 漁労するを禁ずることを以て
敢へて「詞」にはしないが
朝鮮国は こちらの意を汲んで貰ひたい
この処置は 明らかに
以前の幕府の認識とは異なるが
争ひが絶えず起こるよりは
日本・朝鮮両国が お互ひ
争ひなく過ごすことに越したことはない
この件 宜しく
元禄十一年(一六九八)
三月二十五日
朝鮮から対馬藩宗義真(よしまさ)に 書が届く
そこには
渡航禁止の処置に謝意を表しながらも
その島は 日本名・竹島
朝鮮名・鬱陵島と一島二名であるが
朝鮮領であることは紛れもないことだが
今後は 日本・朝鮮共に
当地に往来しないやう取り締まりたい
と書いてあった
元禄十二年(一六九九)
一月
対馬の宗義真が 朝鮮国礼曹に
竹島の一件につき
日本・朝鮮共に入島しないことを謝し
その旨を幕府に伝ふ
宝永七年(一七一〇)
二月七日
新井白石
日本大君=天皇
日本国王=将軍とし
最高権威が「日本国王・将軍」だとし
朝鮮にも通達
天保七年(一八三六)
十二月二十三日
幕府
鬱陵島の密貿易に関しての判決を出す
異国の属島へ渡海いたし
立木等伐採して持ち帰る
これ不届なり 死罪を申し付く
天保八年(一八三七)
二月
幕府
元禄よりこの方
竹島への渡海停止の仰せが出さる
異国渡海の儀は 重大御制禁
竹島も同様に心得 渡海いたすまじく候
安政五年(一八五八)
七月
竹島開拓計画
吉田松陰の提案
桂小五郎・のちの大村益次郎(村田蔵六)に
密かに提案してゐた
元禄九年(一六九六)から百六十年近く続いた
日本名・竹島 朝鮮名鬱陵島への渡海禁止
その地を明らかに「異国」と認識し 渡海を禁止した幕府
ところが 異心革命煽動者・松蔭は
その「渡海禁止」の「異国の地」を『開拓せよ』と
同志を唆してゐた
唆す=(そそのか)す
何故か?
大東亜戦争の教書『混同秘策』佐藤信淵著に
「取りやすきところから取れ」との指示有ればこそ
松蔭の大陸出撃論は 前著より生まれたものであって
松蔭のアイデアではない
現在の「禍の火種」を
日本船の印とする旨を幕府に申し出た島津斉彬も
これまた大陸出撃論者であったが
これも佐藤の『混同秘策』の影響を受けた案とみていい
①寛文七年(一六六七)
竹島(鬱陵島)を日本の西北限とする
↓ ↓
②元禄七年(一六九四)
朝鮮 鬱陵島は自領だと主張
↓ ↓
③元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側 日本の領土だと主張
ところが
③元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
調べてみると「竹島」は
朝鮮から四十里
日本から六十里
よって竹島は
「朝鮮と地続きであったこと疑無し」とし
朝鮮に「還す」と述べた後
この処置は「以前と同じではない」と
改めて 幕府の「認識の転換」を語り
いつまでも争ひが続くよりは
朝鮮・日本 お互ひに
争ひごとがないことに越したことはないと述べた
これより 竹島(鬱陵島)は
日本・朝鮮両国が 渡海禁止とし
両国の「言争」は無くなった
↓ ↓
安政五年(一八五八)
薩長革命政府の先導者・松蔭は
長年の慣行を破り
竹島の開拓占領を企画提案
↓ ↓
これより「竹島問題」再燃
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下 簡易年譜である
元和四年(一六二三)
幕府
伯耆(ほうき)国の米子の町人
村川市兵衛・大谷甚吉に
「竹島」への渡航を許可
元和九年(一六二三)
米子の大谷甚吉
越後より伯耆国米子に帰航の際「竹島」に寄る
全竹島開基は 大谷甚吉なり
経て「竹島」にて病死
島に石碑あり
本名 浄本と号す
後「竹島院」と号す
寛文七年(一六六七)
出雲藩士齋藤豊仙
藩命により『隱州視聴合記』をつくる
「竹島」を日本西北限とする
元禄五年(一六九二)
二月十一日(和暦)
村川市兵衛の船
因幡藩(鳥取県東部)の許可得て 米子出向
隠岐の福浦を経て
三月二十六日
伊賀島(小さな竹島か?)に到着
三月二十七日
鬱陵島に到着
朝鮮人が漁労してゐるのを確認
市兵衛が「日本領であることを告げる」と
朝鮮人は「漂着した」と言ふ
市兵衛は 昨秋小屋に残して来た
釣道具と漁船が無くなってゐるのことに気づく
そこで 朝鮮人に
「再びここに来ぬやう」伝へて帰った
その後
鬱陵島に市兵衛が渡航するも
朝鮮人の妨害でやむなく帰る
元禄六年(一六九三)
四月十七日
船頭黒兵衞 米子を出港
その日の内に鬱陵島に着くと
そこで朝鮮人四十二人が漁労をしてゐた
その内の安龍福と朴於屯の二人を
密漁の証人として捕まへて連れて帰る
四月二十八日
鳥取藩 江戸に処置を伺ふ
五月十三日
江戸から指示書が届く
「密猟者二人を長崎に送り
朝鮮に送還し 朝鮮に密漁を抗議せよ」
十二月
朝鮮から返事が届く
鬱陵島に赴いた朝鮮人二人の送還の礼と
彼らを厳重に処することが書かれ
最後に かう書いてあった
「朝鮮では 海禁を厳重にしてをり
鬱陵島への往来は許可してゐない」
領土確認交渉
元禄七年(一六九四)
三月
日本が言ふ「竹島」と
朝鮮が言ふ「鬱陵島」の領土問題で
幕府は 多田与左衛門を派遣
八月九日
結論でず
九月
朝鮮は「鬱陵島」は朝鮮領だと述べた
元禄八年(一六九五)
六月十二日
日本側の主張
鬱陵島で
日本漁民は 漁労してゐるが
その間 一度も朝鮮の役人を見てゐない
したがって
「実質日本領である」と主張した
「竹島」朝鮮に返還す
元禄九年(一六九六)
一月二十八日
幕府
邦人が竹島(=鬱陵島)に渡航して
漁業を行ふことを禁止する
竹島の地は
因幡に属せりといへども
我が人 居住すること無し
徳川秀忠の時
「米子の村人」から
その島での「漁労の願」を受け
これを許したことが始まりであった
今 その地理を計るに
因幡から六十里ばかり
朝鮮から四十里ばかり
これは かつて「竹島」が
朝鮮と陸続きであったこと疑無し
日本が 兵力を以て自領とすれば
何を求めてのことなのか 得る物無し
また その始まりをみると
そこは朝鮮との陸続きで
日本が 取ってはならぬ所であった
よって 今「竹島を還す」
そこに往き 漁労するを禁ずることを以て
敢へて「詞」にはしないが
朝鮮国は こちらの意を汲んで貰ひたい
この処置は 明らかに
以前の幕府の認識とは異なるが
争ひが絶えず起こるよりは
日本・朝鮮両国が お互ひ
争ひなく過ごすことに越したことはない
この件 宜しく
元禄十一年(一六九八)
三月二十五日
朝鮮から対馬藩宗義真(よしまさ)に 書が届く
そこには
渡航禁止の処置に謝意を表しながらも
その島は 日本名・竹島
朝鮮名・鬱陵島と一島二名であるが
朝鮮領であることは紛れもないことだが
今後は 日本・朝鮮共に
当地に往来しないやう取り締まりたい
と書いてあった
元禄十二年(一六九九)
一月
対馬の宗義真が 朝鮮国礼曹に
竹島の一件につき
日本・朝鮮共に入島しないことを謝し
その旨を幕府に伝ふ
宝永七年(一七一〇)
二月七日
新井白石
日本大君=天皇
日本国王=将軍とし
最高権威が「日本国王・将軍」だとし
朝鮮にも通達
天保七年(一八三六)
十二月二十三日
幕府
鬱陵島の密貿易に関しての判決を出す
異国の属島へ渡海いたし
立木等伐採して持ち帰る
これ不届なり 死罪を申し付く
天保八年(一八三七)
二月
幕府
元禄よりこの方
竹島への渡海停止の仰せが出さる
異国渡海の儀は 重大御制禁
竹島も同様に心得 渡海いたすまじく候
安政五年(一八五八)
七月
竹島開拓計画
吉田松陰の提案
桂小五郎・のちの大村益次郎(村田蔵六)に
密かに提案してゐた
元禄九年(一六九六)から百六十年近く続いた
日本名・竹島 朝鮮名鬱陵島への渡海禁止
その地を明らかに「異国」と認識し 渡海を禁止した幕府
ところが 異心革命煽動者・松蔭は
その「渡海禁止」の「異国の地」を『開拓せよ』と
同志を唆してゐた
唆す=(そそのか)す
何故か?
大東亜戦争の教書『混同秘策』佐藤信淵著に
「取りやすきところから取れ」との指示有ればこそ
松蔭の大陸出撃論は 前著より生まれたものであって
松蔭のアイデアではない
現在の「禍の火種」を
日本船の印とする旨を幕府に申し出た島津斉彬も
これまた大陸出撃論者であったが
これも佐藤の『混同秘策』の影響を受けた案とみていい
返信一覧
投稿する時は…
岩田
2025/11/17(Mon) 08:35 No.3
予め 記事修正番号を入力して置くと便利
①たとへば
7777 こんな番号を入力て置くと…
②投稿後に
掲示板の最も下にある
記事番号=あなたの記事番号
暗証キー=7777
③こんな画面(末)が出て 投稿記事が修正できます
④画像差替や画像の追加も出来ます
①たとへば
7777 こんな番号を入力て置くと…
②投稿後に
掲示板の最も下にある
記事番号=あなたの記事番号
暗証キー=7777
③こんな画面(末)が出て 投稿記事が修正できます
④画像差替や画像の追加も出来ます
岩田
2025/11/17(Mon) 08:35 No.3
歴史認識の変革
岩田
2025/11/17(Mon) 15:48 No.4
今自身がお持ちの歴史認識を 変へる 或は
今自身がお持ちの歴史認識が 変はる
これは 大変勇気がゐる作業だ
歴史認識を変へるといふことは
おぼろげにも疑ったことない既存の知識に
疑ひを持つことだから 自己変革の始まりと云へる
たとへば
明治維新 =近代国家の始まり
↓ ↓ ↓ ↓
維新 =異心
近代国家の始まり=アジア・南方侵略の始まり
教書『混同秘策』
↓ ↓
釜山・草梁倭館略奪を皮切りに
アジア・南方侵略が始まった
今自身がお持ちの歴史認識が 変はる
これは 大変勇気がゐる作業だ
歴史認識を変へるといふことは
おぼろげにも疑ったことない既存の知識に
疑ひを持つことだから 自己変革の始まりと云へる
たとへば
明治維新 =近代国家の始まり
↓ ↓ ↓ ↓
維新 =異心
近代国家の始まり=アジア・南方侵略の始まり
教書『混同秘策』
↓ ↓
釜山・草梁倭館略奪を皮切りに
アジア・南方侵略が始まった
岩田
2025/11/17(Mon) 15:48 No.4
幕末の外交の基軸
岩田
2025/11/17(Mon) 16:48 No.5
ペリーが来航する前
オランダが開国の勧めを幕府に提言
この時幕府は
中国とオランダとは「商」の間柄だが
朝鮮と琉球とは「信(まこと)」の間からと明確に綴り
開国を拒絶してゐる
商の間柄=お金を仲立ちとした関係
信の間柄=真心を仲立ちとした関係
薩長政府が 革命政府と断言できるのは
①竹島(鬱陵島)を元禄時代に放棄した
この政策を受け継いでゐない
②外交の基軸を「朝鮮王朝」と「琉球王朝」に置き
その関係を「信」としてゐるが
薩長政府は 両王朝共に「占領・征服」して行った
そこに「信」はなく
あったの「酷さ」であった
つまり
和が国は 薩長政府で
全く別の「アジア・南方侵略」国家になってしまった
教書はもちろん佐藤信淵の「混同秘策」
オランダが開国の勧めを幕府に提言
この時幕府は
中国とオランダとは「商」の間柄だが
朝鮮と琉球とは「信(まこと)」の間からと明確に綴り
開国を拒絶してゐる
商の間柄=お金を仲立ちとした関係
信の間柄=真心を仲立ちとした関係
薩長政府が 革命政府と断言できるのは
①竹島(鬱陵島)を元禄時代に放棄した
この政策を受け継いでゐない
②外交の基軸を「朝鮮王朝」と「琉球王朝」に置き
その関係を「信」としてゐるが
薩長政府は 両王朝共に「占領・征服」して行った
そこに「信」はなく
あったの「酷さ」であった
つまり
和が国は 薩長政府で
全く別の「アジア・南方侵略」国家になってしまった
教書はもちろん佐藤信淵の「混同秘策」
岩田
2025/11/17(Mon) 16:48 No.5
朝鮮王朝と清国の領土問題
岩田
2025/11/17(Mon) 17:04 No.6
詳しくは どこかで綴るが
日本と朝鮮王朝の間に
「竹島問題」があったやうに
朝鮮王朝と清国には
数百年続いてゐた「間島地方問題」があった
わかりやすく云ふと
日本は 安東~奉天の鉄道のレール改良を望み
そのために 清国から
鉄道敷説権を手に入れる必要があった
そこで
日本は 朝鮮から外交権を奪ひ
清国と日本との間で
数百年続いた「間島地方」を
勝手に中国の領土にしてしまった
安重根は
親日家であった「安」は
これに激怒して 反日になり
伊藤博文暗殺の暴挙に走った
日本と朝鮮の間柄を「敵対関係」にみれば
とんでもないことだが
日本と朝鮮の間柄を「信」とすると
「安」の気持 独立義勇の義憤は了解できる
日本と朝鮮王朝の間に
「竹島問題」があったやうに
朝鮮王朝と清国には
数百年続いてゐた「間島地方問題」があった
わかりやすく云ふと
日本は 安東~奉天の鉄道のレール改良を望み
そのために 清国から
鉄道敷説権を手に入れる必要があった
そこで
日本は 朝鮮から外交権を奪ひ
清国と日本との間で
数百年続いた「間島地方」を
勝手に中国の領土にしてしまった
安重根は
親日家であった「安」は
これに激怒して 反日になり
伊藤博文暗殺の暴挙に走った
日本と朝鮮の間柄を「敵対関係」にみれば
とんでもないことだが
日本と朝鮮の間柄を「信」とすると
「安」の気持 独立義勇の義憤は了解できる
岩田
2025/11/17(Mon) 17:04 No.6
今なら何と言ふか…
岩田
2025/11/17(Mon) 17:18 No.7
当時の薩長政府は
西洋で云ふ暴力革命政府でした
だから幕府の政策を 引き継いではゐませんでした
竹島問題もさうです
元禄九年の一月二十八日に
幕府は 竹島を朝鮮王朝のものだと云ひ
これは詞には 残して置かないけれども
今までの認識とは異なると云ひました
よって 薩長政府が革命政府でなかったら
貴国とは従来通り「信」の間からを貫き
開国早々に起きた「草梁倭館」の略奪は
有り得ないことでした
したがって
日韓の「信」の有効関係は
十一万坪に及ぶ「草梁倭館」の返還にあります
これだけの敷地を確保するには
今になっては 困難でせうが
どこかに「草梁倭館」を 日本が無償で建立し
ここを日韓友好の拠点としたい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな内閣総理大臣が出て来ないと
韓国との「信」の友好関係は築けません
西洋で云ふ暴力革命政府でした
だから幕府の政策を 引き継いではゐませんでした
竹島問題もさうです
元禄九年の一月二十八日に
幕府は 竹島を朝鮮王朝のものだと云ひ
これは詞には 残して置かないけれども
今までの認識とは異なると云ひました
よって 薩長政府が革命政府でなかったら
貴国とは従来通り「信」の間からを貫き
開国早々に起きた「草梁倭館」の略奪は
有り得ないことでした
したがって
日韓の「信」の有効関係は
十一万坪に及ぶ「草梁倭館」の返還にあります
これだけの敷地を確保するには
今になっては 困難でせうが
どこかに「草梁倭館」を 日本が無償で建立し
ここを日韓友好の拠点としたい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな内閣総理大臣が出て来ないと
韓国との「信」の友好関係は築けません
岩田
2025/11/17(Mon) 17:18 No.7
岩田 