幕末から大東亜戦争まで
信を失った日本
一 ロシアとの出来事(鎖国維持)
①ラックスマン来日 寛政四年(一七九二)
②レザノフ来日 文化元年(一八〇四)
③露寇事件 文化三年・四年
④ゴローニン捕縛事件 文化八年(一八一一)
・高田屋嘉兵衛捕縛事件 文化九年(一八一二)
・ゴローニン解放 文化十年(一八一三)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
二 イギリスとの出来事(鎖国維持)
①フェートン号事件 文化五年(一八〇八)
②長崎出島事件 文化十年(一八一三)
③大津浜事件 文政七年(一八二四)
④トカラ列島 宝島事件 同年
無二念異国船打払令 文政八年(一八二五)
⑤モリソン号事件 天保八年(一八三七)
蛮社の獄(⑤に呼応) 天保十年(一八三九)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
①フランス極東艦隊のアルクメーヌ号 那覇入港
②オランダ国王の開国勧告
③アメリカからの手紙
④ペリー 浦賀来航 嘉永六年(一八五三)
⑤プチャーチン 長崎来航 同年
⑥スターリング 長崎来航 嘉永七年
⑦ハリス来日
⑧横浜開港←「開国開始」
四 内乱から薩長暴力革命政府誕生まで
①安政の大獄
②桜田門外の変
③王政復古
④鳥羽伏見の戦
⑤箱館戦争
五 薩長革命政府のアジア・南方侵略開始から終焉
①「草梁倭館」略奪 大東亜戦争開始
②「朝鮮侵略」
③「満州侵略」
④「南方進出」「中国侵略」(和たぐ新聞)
⑤「大東亜戦争」(和たぐ新聞)
右の一五〇年の「史実」を淡々と「縦書詩文」で綴る
一 ロシアとの関係
二 イギリスとの関係
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
四 「内乱」から「暴力革命政府誕生」まで
五 革命政府のアジア・南方拡張期から敗戦まで
敗戦するも
革命政府の国体維持して今日に至る
革命政府が 破壊したもの
①昔の日の丸 幕末
②和暦 明治
③国典喪失 明治
④縦書 戦後
⑤専業主婦 戦後
したがって 古き良き日本を取り戻すには
①昔の日の丸復古
②和暦復古
③国典復古
④縦書復古
⑤専業主婦復古
そのためには
薩長の革命に至るまでの歴史と
薩長の革命政府による世界制覇の夢の足跡を知る必要あり
つまり
革命政府がやった愚策を知り
その足跡を知れば
それを元に戻したくなるのが人情だ
さすれば 和が国は 和で豊かな暮を実感できる
革命政府は
『古事記』の「禍津日神」を国旗にしてしまった
今の日の丸は「禍の火種」である
だから 禍が多い
当たり前だ 「禍の火種」を国旗にすれば
禍が多いのは 当たり前だ
それは国宝『清水寺縁起』を見ればわかる
お近くの図書館に行かれ 確認されたし
何と 大和朝廷が 今の日の丸軍を退治してゐる
そして 日の丸軍の姿を見られよ
地獄に住むと言はれた餓鬼畜生の姿をしてゐる
「賤しい民」である
「賤しい民」とは何か どんな心の持ち主か…
「金くれ 物くれ 飯をくれ」
権力者に餌付けされ 手なづけられた人である
餌付けされて行くに内に 自尊心を失ってゐるのだ
平田篤胤の「日文」から生まれた「皇国」
その権力者たちに餌付けされた国民の姿
金くれ 物くれ 飯をくれ
この「皇国」が 世界制覇して 世界は安定する
佐藤信淵の世界平和論である
異心暴力革命政府は
この佐藤信淵の『宇内混同秘策』を教書とした
世界制覇の拠点を「東京」としたのも教書に拠る
そして アジア・南方侵略が始まった
それは 釜山の「草梁倭館」の略奪に始まる
確かに大東亜戦争は 昭和十六年十二月八日に始まった
それは 東南アジア・南方への拡大である
その始まりは 釜山「草梁倭館」の略奪に始まる
革命政府は
天保末期に完成した
弘化元年(一八四四)より採用された太陰太陽暦が
世界に誇る和暦である事に気づかず
勢ひ西暦を 国暦としてしまった
そのために 昔を暦で体感できず
過去との繋がりを無くした国民は
糸の切れた凧となり
浮き世の風のまにまに 暮らすやうになった
天保和暦は 地球の公転面が楕円であることに気づき
それを修正した世界最高水準の太陰太陽暦であった
革命政府は
国典「天地之詞」を抹殺するために
五十音図に着目させ 真字とカナを重んじ
かな文字を嫌った
しかし 貫之から香川桂樹まで
古人は「天地之詞」を教典とし
力をも入れずして天地を動かす詞を探った
人力で平和を構築出来ないことを知ってゐたからだ
香川の以下の歌を最後に「天地之詞」の研究は終はった
天地の
動く調べを
尋ぬれば
心の奥の
峰の松風
和が国の文化とは何か…
貫之が 仮名序に
ー力をも入れずして天地を動かすーと言ったやうに
力をも入れずして「天地を動かす詞」である
それが
・歌なのか
・文字なのか
・木と葉なのか
それは未だにわからない
だから「天地之詞」を研究する必要がある
ややこしいのは
この教典が密教の教典になってしまひ
秘匿されながら 語り継がれて来たことだ
たとへば 忠臣蔵の暗号文
山? 川! は「天地之詞」の三行詞である
これが和が国の教典である
だから今一度 知惠を絞って和訳する必要がある
何故か?
そこに力をも入れずして天地を動かす詞が
語られてゐると思はるからだ
探せば 必ず世界を平和にする詞に出会す筈だ
さすれば 自づと「十井文字」に辿りつける
したがって 国典の復古は 不可欠だ
革命政府は
横文字に注目するあまり
和が国の文字が 縦に真っ直ぐ歩くことを忘れ
すっかり横書文化にしてしまった
交番を「KOBAN」と書いて恥づることなく
国名を「JAPAN」と変へて恥づることなし
和文字を捨てて 横文字を使ふことをオシャレだと
信じて疑はぬ民族にまで 堕ちてしまった
革命政府は
家に帰ったらお母さんがゐる
家にお母さんがゐることが
子供が一番安定することを忘れ
西洋風の夫婦共働きを奨励
結果
不安定な子供
不安定な親たちが増え
親と子供の心は荒んで来た
専業主婦といふ仕事が
どれだけ価値があるのか
どれだけ子育てに有効なのか
そこに気づかず そして比較研究もせず
やたらお金をばらまき
専業主婦を減らすことに力を注ぐ
専業主婦が増えれば
保育所の数も減るし 政府の補助金も減る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな荒んだ世の中に誰がした?
「禍の火種」である
それに気づくことなく
気づいても知らんぷりし続けた私たち日本国民である
一日でも早く 昔の日の丸を取返さねばならぬ
このまま永遠に「禍天下」にして置く訳には行かぬ
昔の日の丸は
・ののさま 山山
・ほっこり 高天
・草取此炉 心眼
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
和たぐ新聞(只今 以下三つ)
ロシアとの関係
①ラックスマン
アジア・南方侵略
④南方進出・中国侵略
⑤大東亜戦争
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一 ロシアとの出来事
①寛政四年(一七九二)九月三日
ラックスマン
光太夫・磯吉・小市三人の漂流民と国書抱へて根室入港
幕府 国書受け取らず
代はりに長崎入港許可書を渡して ロシアに帰す
詳細は大黒屋光太夫
②文化元年(一八〇四)九月六日
レザノフ入港許可書と国書持って長崎入港
半年幽閉状態で待たされ 強行にロシアに帰さる
将軍へのご進物まで拒否されて退去
カムチャッカに戻り 日本の非礼を語る
日本の非礼に 部下の
フォストフ大尉怒り 仕返しを考ふ
③文化三年(一八〇六)九月十一日 樺太で略奪放火
③文化四年(一八〇七)四月二十九日 択捉島で略奪放火
後日解放された人質は 手紙を持ってゐた
そこには
「ロシアとの交易を断れば
来春は 日本全土を攻撃する」と書かれてゐた
極度にロシアを怖れる「恐露」は
この時に生まれ 今に残る
この事件を「露寇事件」といふ
④文化八年(一八一一)六月四日
松前藩 北方四島測量のゴローニン捕縛
幕府側の「露寇事件」の仕返しだ
ロシアも ならばこちらも…
文化九年(一八一二)八月十四日
ゴローニンの部下リコルドが
大阪商人・高田屋嘉兵衛を捕縛
ペトロバブロフスクに収監された
しかし 嘉兵衛は賢く
片言のロシア語を習得して ロシアにかう諭す
「日本全土を攻撃するといふのは
ロシア皇帝の意志ではなく
一軍人の吐いた言動であると語り
幕府に その旨を陳謝すれば
幕府は必ずわかって
ゴローニンを解放する」
これを聞いたリコルドは
文化十年(一八一三)五月六日
嘉兵衛を信じ
ロシアの陳謝文を嘉兵衛に持たせ
嘉兵衛を「国後島」で解放
蝦夷に戻った嘉兵衛は
松前奉行所とリコルドの仲立ちとなり奔走
同年八月二十六日
ゴローニンは 箱館で解放された
その時の様子をゴローニンがまとめた
『日本幽囚記』である
この書で 嘉兵衛は
日本の英雄として讃へられた
この書のオランダ語の和訳に取組んだのが
後にシーボルト事件で捕まり
後に獄死する高橋景保
二 イギリスとの出来事
①フェートン号事件
オランダ事情
そのころ ヨーロッパは
フランス革命に端を発した戦乱で
大きく揺れてゐた
フランスは
・オーストリア
・イギリス
・オランダに 宣戦布告
フランスのナポレオン・ボナパルトは
大軍を率いて イタリア オーストリアに進攻
そしてオランダも占領!
ウィリアム五世は追放
オランダの国王には
甥のルイ・ナポレオンが就いた
追放されたウィリアム五世は
イギリスと軍事同盟を結んだ
この時 ウィリアム五世は
オランダの海外植民地を
イギリス陸・海軍の管理下にすることに同意
イギリスは この同意にもとづいて
オランダの各地の植民地を掌中に治め
その勢ひは オランダ領東インドに及んだ
そこで イギリスは
東インド総督・ピーターに
「イギリスの管理下にある」ことを通告
しかし 総督・ピーターは その通告を拒否
そのため
イギリスの東インド艦隊が
オランダ領東インド艦隊を攻撃した
この戦ひで オランダ艦隊が
長崎の出島に逃げたと思って
文化五年(一八〇八)八月十五日
イギリス船が オランダ国旗を掲げて
長崎に入港して来た
ーー略ーー
入港して来た船の確認に
出島の商館員のホゼマンとスヒンメルが向かふも
その場で イギリス艦隊に捕縛された
夕方になって人質の一人ホゼマンが解放された
ホゼマンが言ふには
フェートン号は 二隻の「オランダ船」が
インドネシアのバタビアを出港して
長崎に向かったといふ情報を得て
その「船」を追ったが 船影を確認できず
既に長崎に入港してゐると推定し
オランダ国旗を掲げて入港したといふ
ホゼマンは
フェートン号艦長ペリューの書簡を持って居た
ペリューの書簡は
フェートン号に乗ってゐたオランダ人の水兵が
オランダ語にしたものだった
これを大通詞中山作三郎が即座に和訳した
・本日中に ホゼマンに
飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
・要求に応じぬ場は
スヒンメルを殺害し 港内の船を全て焼き払ふ
これを聞いた長崎奉行松平康英は
「法外之横文字」と激怒した
商館長のドーフは
艦内に残されたスヒンメルが忍びない とし
松平に 艦内に飲料水と食糧を送ることを嘆願した
これを受けて松平は飲料水と食糧を持たせて
ホゼマンを帰艦させた
ドーフは
松平の許しを得て 牛二頭・豚等を送った
一方 松平は 合戦に備へ
フェートン号が出られぬやうに 港口に小舟を多数沈め
おほよそ百艘の小舟に葦と藁を満載して
フェートン号を囲んだ
火を放ってフェートン号を炎上させるつもりだった
この合戦は 長崎市中にも伝へられ
旅人は争って長崎を離れ
多くの奉公人が 田舎へ逃げ帰った
商品は売れず 売れたものは ローソクと草鞋だった
入港して来たその翌日の午後二時頃(八つ)
不意に フェートン号の舳先が港外に向けられ
港外に動き出した
奉行松平は 拳をふり地団駄を踏んで口惜しがった
午後五時過ぎには 水平線下に消えてゐた
松平は 家来をねぎらひ 夜 酒宴を開いたが
深夜 庭の生垣のそばに毛氈(もうせん)を敷き
腹を切り 咽喉を鍔元(つばもと)まで突き刺して
自刃してゐるのが発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには
事件の経過が記され
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたこと申し訳なく切腹する
と 記されてゐた
文化三年と文化四年に起きた「露寇事件」
その翌年の文化五年に起きた「フェートン号事件」
ロシアに続くイギリスの暴挙として
幕末 多くの日本人に この事件は記憶された
文政七年(一八二四)五月二十八日
イギリス人が 茨城大津浜に上陸
大津浜事件である
水戸藩では ロシアの襲撃と誤認して 抜刀隊が出動
しかし どうも様子がをかしい
上陸して来たイギリス人は
攻撃的ではなく友好的だった
ここにオランダ商館長から英語をならった通詞が来た
通詞たちの習った英語は 全く通じなかった
その理由が 通詞たちにはわからなかったが
後日 商館長ドーフの英語が
オランダ訛であることがわかった
結局 身振り手振りで意思疎通を図ると
上陸した目的は 長い船旅で起こる
ビタミンC不足の壊血病だった
そこで 水戸藩は 大量の野菜や酒を提供した
同年(一八二四)七月八日
イギリス人が トカラ列島の宝島に上陸
宝島事件である
前述とは別のイギリス人で
今度は食用の牛を求めて来た
薩摩の出先の役人が断るも 執拗に求めて
イギリス人は 遂に牛三頭を強奪
それを見た役人吉村九郎が 脅しで銃を撃つと
たまたま 一人に命中して射殺
これで イギリス人が 慌てて逃げた
この大津浜事件と宝島事件をきっかけに
幕府は 当時の天文方筆頭の高橋景保に
幕府の好ましい対応を訊いた
高橋景保は 当時の世界情勢に通じてゐたため
多くの捕鯨船が
日本近海に集まってゐることを知ってゐた
だから 空砲を鳴らして捕鯨船を脅かし追ひ払へばいい
それでも上陸しようとするものには
薪と水を提供し 静かに退去させる
こんな案を出した
これを聞いた幕府の役人遠山景晋(かげみち)は
空砲では生ぬるいとし
撃つか撃たぬか迷ふことなく撃て!といふ意味を込め
文政八年(一八二五)二月十八日
幕府 無二念打払令を発令
タカ派とハト派の対立はここに始まる
今からちゃうど二百年前になる
したがって
平和路線(高橋景保)を歩くべきか
軍拡路線(遠山景晋)をとるべきかの議論は
今に始まるものではなく
二百年前から続く対立であって
未だに その決着は出てゐない
天保八年(一八三七)六月二十八日
漂流民の送還と通商を求めるアメリカ船・モリソン号が
マカオを出て浦賀に入るも 日本は砲撃
船は翌月 鹿児島湾に碇泊するも
再び砲撃を受け 船は漂流民を乗せたままマカオに退去
ーモリソン号事件ーである
天保九年(一八三八)
幕府は オランダ商館長のグラッディソンから
来航の目的を聞いた
そこで幕府は 再び入港した場合 どうするか審議した
結果は 同じ
漂流民は受け取らず 異国船は打ち払ふべし
同年(一八三八)十月
この頃 遠藤勝助が主宰する
洋学研究集団「尚歯会」があった
そこに幕府の評定所の記録方・芳賀市三郎がゐた
芳賀は うっかりそこで幕府の秘密を漏らした
芳賀は 前年と同様にモリソン号が来航したら
容赦なく砲撃を浴びせる意志を
幕府が固めたことを伝へた
尚歯会の者たちは動揺した
何故なら
イギリスは世界の強国で
火力に恵まれた軍船も多い
それに比べて日本の武力は貧弱
このやうな状況で 発砲すれば
イギリスは 大規模な武力行動を起こし
それは 日本の滅亡に繋がると考へたからだった
崋山は 当時の世界情勢に通じてをり
イギリスが東洋の植民地政策を
積極的に進めてゐることを知ってゐた
だから渡辺崋山は
もし こちらから砲撃すれば
それを口実に多くの軍船を出動させて
日本を占領し 植民地にすることが予想される
異国船打払令は
日本の存亡に係はる危険なものとして
強くその法令に反対した
さらに
外国との交流を避けてゐるのは日本だけで
鎖国政策を続けることは無理だと断じ
幕府を非難した
『慎機論』である
高野長英も『夢物語』を書き かう説いた
こちらから砲撃すれば
相手は礼儀知らずと考へ
後に大きな禍ひを起こすおそれがある
だから モリソン号が再び来航したら
漂流民を受け取り
鎖国政策のため交易は出来ぬことをさとし
おだやかに退去させるべきだ と
幕府の異国船打払を批判
ーーーここまでがモリソン号事件ーーー
以下が これを受けて一気に
洋学研究集団「尚歯会」の潰滅を狙って起きた事件が
「蛮社の獄」である
だから広辞苑は「蛮社の獄」を かう語る
江戸幕府が
渡辺崋山と高野長英らの
「尚歯会」に加へた言論弾圧
この二人の幕府批判が
洋学嫌ひの鳥居耀蔵の目にとまった
当時の「尚歯会」には
崋山や長英の他に 後に活躍する
江川英龍や川路聖謨 高島秋帆もゐた
この三人の失脚も 鳥居は狙って事件を作った
令和七年一月一〇日
ー続くー
一 ロシアとの出来事(鎖国維持)
①ラックスマン来日 寛政四年(一七九二)
②レザノフ来日 文化元年(一八〇四)
③露寇事件 文化三年・四年
④ゴローニン捕縛事件 文化八年(一八一一)
・高田屋嘉兵衛捕縛事件 文化九年(一八一二)
・ゴローニン解放 文化十年(一八一三)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
二 イギリスとの出来事(鎖国維持)
①フェートン号事件 文化五年(一八〇八)
②長崎出島事件 文化十年(一八一三)
③大津浜事件 文政七年(一八二四)
④トカラ列島 宝島事件 同年
無二念異国船打払令 文政八年(一八二五)
⑤モリソン号事件 天保八年(一八三七)
蛮社の獄(⑤に呼応) 天保十年(一八三九)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
①フランス極東艦隊のアルクメーヌ号 那覇入港
②オランダ国王の開国勧告
③アメリカからの手紙
④ペリー 浦賀来航 嘉永六年(一八五三)
⑤プチャーチン 長崎来航 同年
⑥スターリング 長崎来航 嘉永七年
⑦ハリス来日
⑧横浜開港←「開国開始」
四 内乱から薩長暴力革命政府誕生まで
①安政の大獄
②桜田門外の変
③王政復古
④鳥羽伏見の戦
⑤箱館戦争
五 薩長革命政府のアジア・南方侵略開始から終焉
①「草梁倭館」略奪 大東亜戦争開始
②「朝鮮侵略」
③「満州侵略」
④「南方進出」「中国侵略」(和たぐ新聞)
⑤「大東亜戦争」(和たぐ新聞)
右の一五〇年の「史実」を淡々と「縦書詩文」で綴る
一 ロシアとの関係
二 イギリスとの関係
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
四 「内乱」から「暴力革命政府誕生」まで
五 革命政府のアジア・南方拡張期から敗戦まで
敗戦するも
革命政府の国体維持して今日に至る
革命政府が 破壊したもの
①昔の日の丸 幕末
②和暦 明治
③国典喪失 明治
④縦書 戦後
⑤専業主婦 戦後
したがって 古き良き日本を取り戻すには
①昔の日の丸復古
②和暦復古
③国典復古
④縦書復古
⑤専業主婦復古
そのためには
薩長の革命に至るまでの歴史と
薩長の革命政府による世界制覇の夢の足跡を知る必要あり
つまり
革命政府がやった愚策を知り
その足跡を知れば
それを元に戻したくなるのが人情だ
さすれば 和が国は 和で豊かな暮を実感できる
革命政府は
『古事記』の「禍津日神」を国旗にしてしまった
今の日の丸は「禍の火種」である
だから 禍が多い
当たり前だ 「禍の火種」を国旗にすれば
禍が多いのは 当たり前だ
それは国宝『清水寺縁起』を見ればわかる
お近くの図書館に行かれ 確認されたし
何と 大和朝廷が 今の日の丸軍を退治してゐる
そして 日の丸軍の姿を見られよ
地獄に住むと言はれた餓鬼畜生の姿をしてゐる
「賤しい民」である
「賤しい民」とは何か どんな心の持ち主か…
「金くれ 物くれ 飯をくれ」
権力者に餌付けされ 手なづけられた人である
餌付けされて行くに内に 自尊心を失ってゐるのだ
平田篤胤の「日文」から生まれた「皇国」
その権力者たちに餌付けされた国民の姿
金くれ 物くれ 飯をくれ
この「皇国」が 世界制覇して 世界は安定する
佐藤信淵の世界平和論である
異心暴力革命政府は
この佐藤信淵の『宇内混同秘策』を教書とした
世界制覇の拠点を「東京」としたのも教書に拠る
そして アジア・南方侵略が始まった
それは 釜山の「草梁倭館」の略奪に始まる
確かに大東亜戦争は 昭和十六年十二月八日に始まった
それは 東南アジア・南方への拡大である
その始まりは 釜山「草梁倭館」の略奪に始まる
革命政府は
天保末期に完成した
弘化元年(一八四四)より採用された太陰太陽暦が
世界に誇る和暦である事に気づかず
勢ひ西暦を 国暦としてしまった
そのために 昔を暦で体感できず
過去との繋がりを無くした国民は
糸の切れた凧となり
浮き世の風のまにまに 暮らすやうになった
天保和暦は 地球の公転面が楕円であることに気づき
それを修正した世界最高水準の太陰太陽暦であった
革命政府は
国典「天地之詞」を抹殺するために
五十音図に着目させ 真字とカナを重んじ
かな文字を嫌った
しかし 貫之から香川桂樹まで
古人は「天地之詞」を教典とし
力をも入れずして天地を動かす詞を探った
人力で平和を構築出来ないことを知ってゐたからだ
香川の以下の歌を最後に「天地之詞」の研究は終はった
天地の
動く調べを
尋ぬれば
心の奥の
峰の松風
和が国の文化とは何か…
貫之が 仮名序に
ー力をも入れずして天地を動かすーと言ったやうに
力をも入れずして「天地を動かす詞」である
それが
・歌なのか
・文字なのか
・木と葉なのか
それは未だにわからない
だから「天地之詞」を研究する必要がある
ややこしいのは
この教典が密教の教典になってしまひ
秘匿されながら 語り継がれて来たことだ
たとへば 忠臣蔵の暗号文
山? 川! は「天地之詞」の三行詞である
これが和が国の教典である
だから今一度 知惠を絞って和訳する必要がある
何故か?
そこに力をも入れずして天地を動かす詞が
語られてゐると思はるからだ
探せば 必ず世界を平和にする詞に出会す筈だ
さすれば 自づと「十井文字」に辿りつける
したがって 国典の復古は 不可欠だ
革命政府は
横文字に注目するあまり
和が国の文字が 縦に真っ直ぐ歩くことを忘れ
すっかり横書文化にしてしまった
交番を「KOBAN」と書いて恥づることなく
国名を「JAPAN」と変へて恥づることなし
和文字を捨てて 横文字を使ふことをオシャレだと
信じて疑はぬ民族にまで 堕ちてしまった
革命政府は
家に帰ったらお母さんがゐる
家にお母さんがゐることが
子供が一番安定することを忘れ
西洋風の夫婦共働きを奨励
結果
不安定な子供
不安定な親たちが増え
親と子供の心は荒んで来た
専業主婦といふ仕事が
どれだけ価値があるのか
どれだけ子育てに有効なのか
そこに気づかず そして比較研究もせず
やたらお金をばらまき
専業主婦を減らすことに力を注ぐ
専業主婦が増えれば
保育所の数も減るし 政府の補助金も減る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな荒んだ世の中に誰がした?
「禍の火種」である
それに気づくことなく
気づいても知らんぷりし続けた私たち日本国民である
一日でも早く 昔の日の丸を取返さねばならぬ
このまま永遠に「禍天下」にして置く訳には行かぬ
昔の日の丸は
・ののさま 山山
・ほっこり 高天
・草取此炉 心眼
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
和たぐ新聞(只今 以下三つ)
ロシアとの関係
①ラックスマン
アジア・南方侵略
④南方進出・中国侵略
⑤大東亜戦争
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一 ロシアとの出来事
①寛政四年(一七九二)九月三日
ラックスマン
光太夫・磯吉・小市三人の漂流民と国書抱へて根室入港
幕府 国書受け取らず
代はりに長崎入港許可書を渡して ロシアに帰す
詳細は大黒屋光太夫
②文化元年(一八〇四)九月六日
レザノフ入港許可書と国書持って長崎入港
半年幽閉状態で待たされ 強行にロシアに帰さる
将軍へのご進物まで拒否されて退去
カムチャッカに戻り 日本の非礼を語る
日本の非礼に 部下の
フォストフ大尉怒り 仕返しを考ふ
③文化三年(一八〇六)九月十一日 樺太で略奪放火
③文化四年(一八〇七)四月二十九日 択捉島で略奪放火
後日解放された人質は 手紙を持ってゐた
そこには
「ロシアとの交易を断れば
来春は 日本全土を攻撃する」と書かれてゐた
極度にロシアを怖れる「恐露」は
この時に生まれ 今に残る
この事件を「露寇事件」といふ
④文化八年(一八一一)六月四日
松前藩 北方四島測量のゴローニン捕縛
幕府側の「露寇事件」の仕返しだ
ロシアも ならばこちらも…
文化九年(一八一二)八月十四日
ゴローニンの部下リコルドが
大阪商人・高田屋嘉兵衛を捕縛
ペトロバブロフスクに収監された
しかし 嘉兵衛は賢く
片言のロシア語を習得して ロシアにかう諭す
「日本全土を攻撃するといふのは
ロシア皇帝の意志ではなく
一軍人の吐いた言動であると語り
幕府に その旨を陳謝すれば
幕府は必ずわかって
ゴローニンを解放する」
これを聞いたリコルドは
文化十年(一八一三)五月六日
嘉兵衛を信じ
ロシアの陳謝文を嘉兵衛に持たせ
嘉兵衛を「国後島」で解放
蝦夷に戻った嘉兵衛は
松前奉行所とリコルドの仲立ちとなり奔走
同年八月二十六日
ゴローニンは 箱館で解放された
その時の様子をゴローニンがまとめた
『日本幽囚記』である
この書で 嘉兵衛は
日本の英雄として讃へられた
この書のオランダ語の和訳に取組んだのが
後にシーボルト事件で捕まり
後に獄死する高橋景保
二 イギリスとの出来事
①フェートン号事件
オランダ事情
そのころ ヨーロッパは
フランス革命に端を発した戦乱で
大きく揺れてゐた
フランスは
・オーストリア
・イギリス
・オランダに 宣戦布告
フランスのナポレオン・ボナパルトは
大軍を率いて イタリア オーストリアに進攻
そしてオランダも占領!
ウィリアム五世は追放
オランダの国王には
甥のルイ・ナポレオンが就いた
追放されたウィリアム五世は
イギリスと軍事同盟を結んだ
この時 ウィリアム五世は
オランダの海外植民地を
イギリス陸・海軍の管理下にすることに同意
イギリスは この同意にもとづいて
オランダの各地の植民地を掌中に治め
その勢ひは オランダ領東インドに及んだ
そこで イギリスは
東インド総督・ピーターに
「イギリスの管理下にある」ことを通告
しかし 総督・ピーターは その通告を拒否
そのため
イギリスの東インド艦隊が
オランダ領東インド艦隊を攻撃した
この戦ひで オランダ艦隊が
長崎の出島に逃げたと思って
文化五年(一八〇八)八月十五日
イギリス船が オランダ国旗を掲げて
長崎に入港して来た
ーー略ーー
入港して来た船の確認に
出島の商館員のホゼマンとスヒンメルが向かふも
その場で イギリス艦隊に捕縛された
夕方になって人質の一人ホゼマンが解放された
ホゼマンが言ふには
フェートン号は 二隻の「オランダ船」が
インドネシアのバタビアを出港して
長崎に向かったといふ情報を得て
その「船」を追ったが 船影を確認できず
既に長崎に入港してゐると推定し
オランダ国旗を掲げて入港したといふ
ホゼマンは
フェートン号艦長ペリューの書簡を持って居た
ペリューの書簡は
フェートン号に乗ってゐたオランダ人の水兵が
オランダ語にしたものだった
これを大通詞中山作三郎が即座に和訳した
・本日中に ホゼマンに
飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
・要求に応じぬ場は
スヒンメルを殺害し 港内の船を全て焼き払ふ
これを聞いた長崎奉行松平康英は
「法外之横文字」と激怒した
商館長のドーフは
艦内に残されたスヒンメルが忍びない とし
松平に 艦内に飲料水と食糧を送ることを嘆願した
これを受けて松平は飲料水と食糧を持たせて
ホゼマンを帰艦させた
ドーフは
松平の許しを得て 牛二頭・豚等を送った
一方 松平は 合戦に備へ
フェートン号が出られぬやうに 港口に小舟を多数沈め
おほよそ百艘の小舟に葦と藁を満載して
フェートン号を囲んだ
火を放ってフェートン号を炎上させるつもりだった
この合戦は 長崎市中にも伝へられ
旅人は争って長崎を離れ
多くの奉公人が 田舎へ逃げ帰った
商品は売れず 売れたものは ローソクと草鞋だった
入港して来たその翌日の午後二時頃(八つ)
不意に フェートン号の舳先が港外に向けられ
港外に動き出した
奉行松平は 拳をふり地団駄を踏んで口惜しがった
午後五時過ぎには 水平線下に消えてゐた
松平は 家来をねぎらひ 夜 酒宴を開いたが
深夜 庭の生垣のそばに毛氈(もうせん)を敷き
腹を切り 咽喉を鍔元(つばもと)まで突き刺して
自刃してゐるのが発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには
事件の経過が記され
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたこと申し訳なく切腹する
と 記されてゐた
文化三年と文化四年に起きた「露寇事件」
その翌年の文化五年に起きた「フェートン号事件」
ロシアに続くイギリスの暴挙として
幕末 多くの日本人に この事件は記憶された
文政七年(一八二四)五月二十八日
イギリス人が 茨城大津浜に上陸
大津浜事件である
水戸藩では ロシアの襲撃と誤認して 抜刀隊が出動
しかし どうも様子がをかしい
上陸して来たイギリス人は
攻撃的ではなく友好的だった
ここにオランダ商館長から英語をならった通詞が来た
通詞たちの習った英語は 全く通じなかった
その理由が 通詞たちにはわからなかったが
後日 商館長ドーフの英語が
オランダ訛であることがわかった
結局 身振り手振りで意思疎通を図ると
上陸した目的は 長い船旅で起こる
ビタミンC不足の壊血病だった
そこで 水戸藩は 大量の野菜や酒を提供した
同年(一八二四)七月八日
イギリス人が トカラ列島の宝島に上陸
宝島事件である
前述とは別のイギリス人で
今度は食用の牛を求めて来た
薩摩の出先の役人が断るも 執拗に求めて
イギリス人は 遂に牛三頭を強奪
それを見た役人吉村九郎が 脅しで銃を撃つと
たまたま 一人に命中して射殺
これで イギリス人が 慌てて逃げた
この大津浜事件と宝島事件をきっかけに
幕府は 当時の天文方筆頭の高橋景保に
幕府の好ましい対応を訊いた
高橋景保は 当時の世界情勢に通じてゐたため
多くの捕鯨船が
日本近海に集まってゐることを知ってゐた
だから 空砲を鳴らして捕鯨船を脅かし追ひ払へばいい
それでも上陸しようとするものには
薪と水を提供し 静かに退去させる
こんな案を出した
これを聞いた幕府の役人遠山景晋(かげみち)は
空砲では生ぬるいとし
撃つか撃たぬか迷ふことなく撃て!といふ意味を込め
文政八年(一八二五)二月十八日
幕府 無二念打払令を発令
タカ派とハト派の対立はここに始まる
今からちゃうど二百年前になる
したがって
平和路線(高橋景保)を歩くべきか
軍拡路線(遠山景晋)をとるべきかの議論は
今に始まるものではなく
二百年前から続く対立であって
未だに その決着は出てゐない
天保八年(一八三七)六月二十八日
漂流民の送還と通商を求めるアメリカ船・モリソン号が
マカオを出て浦賀に入るも 日本は砲撃
船は翌月 鹿児島湾に碇泊するも
再び砲撃を受け 船は漂流民を乗せたままマカオに退去
ーモリソン号事件ーである
天保九年(一八三八)
幕府は オランダ商館長のグラッディソンから
来航の目的を聞いた
そこで幕府は 再び入港した場合 どうするか審議した
結果は 同じ
漂流民は受け取らず 異国船は打ち払ふべし
同年(一八三八)十月
この頃 遠藤勝助が主宰する
洋学研究集団「尚歯会」があった
そこに幕府の評定所の記録方・芳賀市三郎がゐた
芳賀は うっかりそこで幕府の秘密を漏らした
芳賀は 前年と同様にモリソン号が来航したら
容赦なく砲撃を浴びせる意志を
幕府が固めたことを伝へた
尚歯会の者たちは動揺した
何故なら
イギリスは世界の強国で
火力に恵まれた軍船も多い
それに比べて日本の武力は貧弱
このやうな状況で 発砲すれば
イギリスは 大規模な武力行動を起こし
それは 日本の滅亡に繋がると考へたからだった
崋山は 当時の世界情勢に通じてをり
イギリスが東洋の植民地政策を
積極的に進めてゐることを知ってゐた
だから渡辺崋山は
もし こちらから砲撃すれば
それを口実に多くの軍船を出動させて
日本を占領し 植民地にすることが予想される
異国船打払令は
日本の存亡に係はる危険なものとして
強くその法令に反対した
さらに
外国との交流を避けてゐるのは日本だけで
鎖国政策を続けることは無理だと断じ
幕府を非難した
『慎機論』である
高野長英も『夢物語』を書き かう説いた
こちらから砲撃すれば
相手は礼儀知らずと考へ
後に大きな禍ひを起こすおそれがある
だから モリソン号が再び来航したら
漂流民を受け取り
鎖国政策のため交易は出来ぬことをさとし
おだやかに退去させるべきだ と
幕府の異国船打払を批判
ーーーここまでがモリソン号事件ーーー
以下が これを受けて一気に
洋学研究集団「尚歯会」の潰滅を狙って起きた事件が
「蛮社の獄」である
だから広辞苑は「蛮社の獄」を かう語る
江戸幕府が
渡辺崋山と高野長英らの
「尚歯会」に加へた言論弾圧
この二人の幕府批判が
洋学嫌ひの鳥居耀蔵の目にとまった
当時の「尚歯会」には
崋山や長英の他に 後に活躍する
江川英龍や川路聖謨 高島秋帆もゐた
この三人の失脚も 鳥居は狙って事件を作った
令和七年一月一〇日
ー続くー
『長英逃亡』吉村昭
天保十五年(一八四四)六月
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英

