○大東亜戦争
大東亜戦争とは何か
大きく分けて以下三つ
一…緒戦大暴れ 大成功
二…四ヶ月後 ターニングポイント
三…大暴れして占領した地域を
悉くアメリカに奪はれ「敗戦」
一…トラトラトラ

真珠湾奇襲成功の暗号文「トラトラトラ」を受けて
連動した奇襲攻撃島々①②③
①グァム成功
②ウェーク成功
③マキン・タラワ成功
一…その後「順調」に占領した地域

世界史に類例のない広大な地域を占領
三…ターニングポイント後

開戦から約四ヶ月後(ターニングポイント)
昭和一七年(一九四二)四月十八日
空母ホーネットより発艦した
中型爆撃機B二五による本土初空襲受ける
以後
①ミッドウェー海戦 ・惨敗
↓ ↓ ↓
②フィジー・サモア占領計画・全面中止
↓ ↓ ↓
③ガダルカナル占領計画 ・惨敗そして撤退
↓ ↓ ↓
占領した地域の撤退・撤退・撤退…そして「敗戦」
この大きな流れも
全く語り継がれてゐない状況下で
あの戦争の細かな武勇伝や悲劇を話されても
話に なかなか入れないのは当たり前
映画の大きな流れを知らずに
細かなシーンを語られても
内容が深まらないのと同じである
よって本論は
大東亜戦争の「あらまし」を綴ることに視点をあてた
開戦の経緯
マレー・ハワイ同時奇襲作戦だが
フィリピン空襲もそこに含まる
よって あの戦争の開戦の実体は
①マレー
②ハワイ
③フィリピン 同時奇襲作戦
①マレー半島・奇襲
コタバル上陸に 始まる
マレー半島への奇襲は 海南島・三亜港の出港が始まり
②ハワイ・奇襲
ハワイ奇襲は 択捉島 ヒトカップ出港で始まる
③フィリピン・奇襲
台湾から飛び立った爆撃機と零戦による空襲に始まる
時系列的にも
①②③の順に発生したが
フィリピン空襲が大幅に遅れた理由は以下
台湾を 飛立つ時の濃霧だった
しかし この遅れのために
攻撃目標のクラーク飛行場には
アメリカ空軍機が
偵察を終へ 補給するために 帰還してゐた
結果 米空軍に大打撃を与へることができた
連動作戦
昭和十六年(一九四一)
十二月八日に作戦開始の暗号名は
①ヒノデハヤマガタ (マレー)
②ニイタカヤマノボレ(ハワイ)
「この作戦が成功」した時の暗号名は
①ハナサクハナサク(マレー)
②トラトラトラ (ハワイ)
『ハナサクハナサク』を受けて→香港占領開始
『トラトラトラ』を受けて
グアム島 占領開始
ウェーク島 占領開始
マキン島タラワ島 占領開始
占領完了は以下
十二月十日
グアム島占領→大宮島へ
マキン・タラワ島占領
十二月二十日(フィ=フィリピン)
(フィ)ミンダナオ島・ダバオ占領
十二月二十三日
ウェーク島占領
十二月二十五日
香港占領
※当時の中国紙幣の状況
重慶・蒋介石の紙幣(法弊)
南京・日本傀儡政権汪兆銘の紙幣
北部・共産党の紙幣
蒋介石の「法弊」が主力であった
香港に その「法弊」の印刷機あり
その印刷機を香港占領時に略奪し
日本の「登戸研究所」に移送
これより『本物の偽札紙幣』が
登戸で 大量に印刷された
開戦の翌年
昭和十七年(一九四二)
一月十一日
マレー・クアラルンプール占領
一月二十三日
ニューブリテン島・ラバウル占領
二月十四日
スマトラ島・パレンバン占領
二月十五日
シンガポール占領
三月五日
ジャワ島・バタビア占領
三月十二日
マッカーサー
フィ・コレヒドール島から撤退

怒涛の攻撃占領成功の裏には
綿密な上陸・空襲作戦があった
グアムもマレーも 波が高い
そこで宮崎県の土々呂海岸で上陸練習
マレーの自転車部隊は 事前に海南島で練習
艦船から上陸する舟艇は
・小発
・大発
・特大発 が開発されてをり
艦船から海岸への上陸技術は世界最高峰の位置にあった
だから アメリカ海軍情報部も
「日本は艦船からの海岸攻撃を
完全に開発した最初の大国」と讃へた
海軍に 堀越二郎がゐた様に
陸軍には 市原健藏がゐた
・堀越ー零式戦闘機なら
・市原ー上陸舟艇である
戦車を載せる安定舟艇・特大発は 世界に先駆けて開発
開発の中心担当者が 市原健藏
台湾からフィリピンまで片道千㌔
爆撃機の往復は 当時では常識の距離だが
それを護衛する戦闘機の往復二千㌔は 未だ無かった
だから アメリカは
フィリピンのクラーク飛行場で受けた空襲は
空母から発艦されたものと思ひ込み
日本の空母を探してゐた
当時の日本には
世界最高の「零式戦闘機」と
世界最高の「上陸舟艇」とがあった
上陸予定地も 細かく調査してゐた
だから緒戦は 勝利 勝利 大勝利
軍部も 国民もその戦勝に酔った
ターニング・ポイント
昭和十七年
四月十八日
「君たちの勝利は そこまで!」と ばかりに
米国の空母ホーネットから発艦した
中型爆撃機B二五が 日本を初空襲
当時の常識
①空母発艦機は 空母に帰る
②艦載機は飛行距離短い小型爆撃機
その当時の常識を破った指揮官ドー・リットル
①空母に帰らず 日本を飛越え中国大陸着陸
②飛行距離の長い中型爆撃機を艦載
空襲を許した海軍は 大恥をかいた
これに日本は どう呼応したのか
つまり
「やられたらやり返す」これが「戦争の論理」だが
どんな報復作戦を展開したのか?
海軍の報復の当初は
「フィジーサモア占領」
陸軍の報復は
「セッカン作戦」(中国大陸)
海軍の作戦には もともと
当時 未だ実施されてゐない
「東太平洋作戦」と「MO作戦」があった
「東太平洋作戦」とは
ミッドウェー占領作戦
「MO作戦」とは
ポートモレスビー占領作戦
※ポートモレスビーとは
ニューギニア東部の南にある都市
大本営は ここの占領に固執した

海軍の報復作戦は 当初
「フィジーサモア作戦」だけだった
しかし実情は以下
初め海軍は
米国の本土空襲再来を防ぐには
警戒領域の拡大するしかないと考へ
「フィジー・サモア占領」計画を主張

ならばついでに
本来抱へてゐた「東太平洋作戦」もといふことになり
従来より考へてゐたミッドウェー占領が追加された
陸軍は猛烈に反発したが 山本五十六が押し通した
すると 今度は ならばついでに
アリューシャン列島のキスカ島もアッツ島も となり
そこに本来 抱へてゐたポートモレスビー占領が入る
したがって海軍の占領計画は 以下
①ポートモレスビー(ニューギニア)占領
②ミッドウェー島占領
③キスカ島・アッツ島占領
④フィジー島 サモア島占領
作戦名にすると
①MO作戦
②MI作戦
②AL作戦
③FS作戦
戦史の名前にすると
①珊瑚海海戦
②ミッドウェー海戦
③キスカ・アッツ無血占領
④全面中止
時系列にすると
昭和一七年(開戦の翌年)
①五月七~八日(MO作戦)
②六月五~七日(MI作戦)
③六月八日 (AL作戦)
④七月十一日 (FS作戦)
その実情を簡単に書くと…
①ポートモレスビー占領実行部隊の
南海支隊は ニューギニアに上陸できず
作戦実行不可
②大敗北
③作戦成功・無血占領
④作戦中止
作戦は「ガダルカナル占領」に代はる
よって海軍は
ガダルカナルに上陸し 飛行場の建設を急いだ
陸軍の作戦
「セッカン作戦」(報復)
日本初空襲したB二五は「麗水飛行場」に着陸してゐた
よって この地域の飛行場を使へないやうにする
それが「セッカン作戦」の本質
しかし 単なる空爆では直ぐに修復可能だ
使へないやうにするには どうしたらいいか?
防疫給水部の出番である
セッカン作戦
○杭州
/
金華
/ □麗水飛行場
横峰
/
撫州
\
○南昌
①開始
東軍は「抗州」から「横峰」へ侵攻
西軍は「南昌」から「横峰」へ侵攻
②合流したら…
両軍合流したら元の駐屯地に帰る
両軍共に
侵攻して行く途中にある飛行場を破壊しながら進んだ
陸軍の進路に住む中国住民は逃げるので
そこは 人のゐない町になる
合流後 両軍は元の駐屯地に帰る
日本軍が去れば 逃げた中国住民は 戻って来る
その中国住民の帰宅を見越して
軍の撤退と同時に「関東防疫給水部」の隊員が
・井戸に細菌を投げ込み
・民家の中に 感染ノミを撒き
・兵隊が忘れて行った様に見える
細菌入りの「ビスケット」を撒いた
作戦は大成功であった
地域一帯が 細菌感染され 飛行場は 使へなくなった
さらにこんなこともあった
当時 日本軍は捕虜に厳しい
そんな批判を受けてゐたので
その批判をかはすために捕虜を解放した
そこで その捕虜に「饅頭」まで配給し
その映像を収録し 世界に宣伝
しかし その「饅頭」には
致死量に至らぬ程度の細菌が混ぜられてゐた
合流した東西陸軍が撤退して行くのが八月中旬
つまり細菌を散布しながら日本軍が撤退して行ったのが
八月中旬から下旬
その頃 ガダルカナルでは…
日本軍の死闘が始まってゐた
中国大陸で細菌散布して作戦成功を喜んでゐる頃
太平洋の孤島ガダルカナルでは
その細菌散布の天罰を受けるかのやうに
日本軍の餓死との闘ひが始まってゐた
MO作戦の実情
昭和十七年(一九四二)
五月三日
ガダルカナルの北にある小さな島「ツラギ」を占領
五月七・八日
空母同士の戦ひ珊瑚海海戦
勝利できなかったため
モレスビーの攻略部隊の南海支隊は上陸できず
「ラビ」からのモレスビー攻略は中止となる

六月五日から七日
ミッドウェー海戦始まる
クラーク飛行場の好運とは
別の悪運とも言へる現象が起こる
空母の艦載機の爆弾を地上から魚雷に換へ終はった
ちゃうど その時
アメリカ空軍が空母を襲ふ
艦載機は飛べない
爆撃は受ける
だから面白い様に 爆発が爆発を招き
空母四隻が たちまち撃沈され
艦載機二八五機を失った
失った空母は
加賀・赤城・飛竜・蒼龍
陸軍上陸部隊は
ミッドウェー島に上陸も出来ぬ 大敗北であった
この敗北は できれば隠したい
陸軍の上陸部隊は 海戦後
直ぐさま帰されることなく グアムで待機させらた
帰国すれば 上陸も出来ぬ大敗北が
上陸部隊の隊員から 国民にわかってしまふからだ
海軍の対応と変更
六月八日
アリューシャン列島作戦決行
アッツ島・キスカ島 無血占領
幕末の光太夫たちが漂着した
アムチトカ島は キスカ島の隣の小さな島だった
ミッドウェー海戦で大敗北したため作戦変更
フィジー・サモア作戦の中止である
新作戦は 以下
①ガダルカナルに「空港建設」
②「ラビ」からのモレスビー占領から
「ブナ」からのモレスビー占領に切り換へられた

七月六日
ガダルカナルの「ルンガ」に飛行場建設開始
八月五日
ルンガ飛行場完成をじっと待ったアメリカの
反攻開始
昭和十七年八月七日
①米・ツラギ占領
②米・日本の「ルンガ飛行場」占領
「ヘンダーソン飛行場」に改名
これ以後の戦ひは 日本軍ほぼ全敗
MO作戦
「ブナ」からモレスビー攻略
七月二十一日
横山先遣隊 ブナ上陸
八月十八日
南海支隊 ブナ上陸
九月十六日
イオリバイワ 占領
モレスビーの夜景が見えた

しかし
九月二十六日 撤退開始 理由は以下
「ガダルカナル」の戦況厳しく
南海支隊への「補給困難」のため
南海支隊は「ブナ」に戻ることになる
しかし こちらも食糧難であった
十月四日
支隊は 順調に「ココダ」に戻る
十一月十九日
「クムシ河」
河幅百㍍ 豪雨で増水激流の中
カヌーで渡るも転覆
支隊長・堀井富太郎 溺死他界
ーーーーーーーーーーーーーーー
しかし その頃
つまり 南海支隊が
八月十六日出立地点の「ブナ」に戻らうとする頃
フィリピンの「コレヒドール」を
三月十二日に撤退したマッカーサーが
十一月十六日「ブナ」に反攻上陸してゐた

そこで南海支隊は 「ラエ」・「サラモア」に 撤退
かうして南方の拠点は
「ガダルカナル島」から「ブーゲンビル島」
「ブナ」 から「ラエ・サラモア」
に移って行った
大本営は これを「転進」と言ったが
正しくは「敗走」が正しい様に思はる
しかし 敗走しながらも 何時か モレスビーを攻略!
さう 思ってゐれば「転進」だが
餓えと疲労とマラリアと闘ひながらの「転進」に
果たして戦闘する意思と体力は 残ってゐただらうか
だから 大本営は
「ラバウル」から「ラエとサラモア」に
大量の「食糧」と「弾薬の物資」と「兵員」を送った
しかし
昭和十八年
三月三日
その大輸送船団が
あっと言ふ間に撃沈されてしまった
「ダンピールの悲劇」である

ガダルカナルの死闘
南方は「ガダルカナル島」と「ニューギニア島」
この二島を見ながら史実を追ふ必要がある
ここからは「ガダルカナル」を追ふ
昭和十七年
七月六日
ガダルカナル島 ルンガ飛行場建設始まる
七月十一日
①「フィジー・サモア占領作戦」中止
②「ブナ」からのモレスビー攻略命令
八月五日
ルンガ飛行場ほぼ完成
八月七日
アメリカ軍上陸ルンガ飛行場略奪さる
これから日本軍は三度 飛行場奪還を狙ふ
八月 一木支隊 全滅
九月 川口支隊 失敗
十月 丸山師団 失敗
「ガダルカナル島」は「餓島」といふ異名を持つ様に
ここも ニューギニア同様
敵との闘ひ と同時に
兵員自身の餓えと疲れとマラリアとの苛酷な闘ひがあった
飢ゑの理由は
輸送船団が 悉くやられ現地に食糧・物資が届かなかった
そこで
食糧を入れたドラム缶を海に投げ込むなど
色々と工夫をこらすも 食糧は届かず
兵員は 餓えに苦しんだ
昭和十七年
十二月三十一日
遂に撤退命令が出た
ガダルカナル島の放棄である
年が明けて
昭和十八年
一月二日
「ブナ」では 日本軍が玉砕してゐた
ーー補足ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和十七年十一月十六日
ガダルカナルでルンガ飛行場奪還作戦が
三度失敗した半月後
マッカーサーが「ブナ」に上陸し反攻を開始してゐた
その反撃を一ヶ月半受けた
昭和十八年一月二日
遂に「ブナ」が玉砕
南方・二つの拠点の消失だ
①ガダルカナル島
②ニューギニア島の「ブナ」
そこで代はりに生まれた新しい拠点が
①ブーゲンビル島
②ニューギニア島の「ラエ」と「サラモア」
その後「サラモア」も 占領され
「ラエ」は 連合軍に包囲された
そこで用意された敗走コースがサラワケット山越えである

このコースを敗走したのが将兵三六四四人が溺死した
「ダンピールの悲劇」の五十一師団の隊員であった
「悲劇」の中 なほ生き残った兵隊が
「ラエ」で 連合軍と闘ってゐたのだ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
五十一師団兵士の手記
群馬県 温井一衛
昭和十七年
十二月
五十一師団は南方派遣となり
二十五日
宇品港出港
三十一日
九州佐伯港 八隻の輸送船団で出港
ラバウルに向ふ
昭和十八年
一月二十四日
ラバウル着
三月一日
五十一師団七三〇〇人は
「ラバウル」を出て ラエ」に向ふ
三月二日
先頭の「旭盛丸」撃沈
駆逐艦二隻が 約八〇〇人救ひ
「ラエ」に丸腰で上陸させる
三月三日
ダンピール海峡を通過する時
戦爆一二〇機の大空襲を受け
輸送船七隻全部と駆逐艦三隻撃沈
弾薬・糧秣(食糧)二五〇〇トン
全て海の藻屑となる
将兵三六四四人溺死
生存将兵二四二七人がラバウル帰還
三月二十八日
いよいよ私たちの出港
無事 三十日に上陸
ラエではなく ラエの東の「フィンシハーヘン」でした
四月十二日
守備隊の待つ「ラエ」に出立
四月二十六日
「ラエ」に到着
この頃は 輸送船による物資輸送が困難なため
輸送は 全て潜水艦輸送となり
仕事は その荷揚げでした
生活物資は 日に日に減り 一日あたり一人・米一合
六月十三日
「サラモア」に援軍に行く前
マラリアに罹り 「ラエ」の野戦病院に入院
その後 病院を転々とし 日本に帰国 そして終戦
私が「ラエ」に入院した後
五十一師団は
高さ四五〇〇㍍のサラワケット山越えを敢行
二二〇〇人死没の悲劇に遭遇
終戦までの「死亡率九八・六三㌫」
そのほとんどが餓死と聞く
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日本軍の敗走の足跡
珊瑚海海戦
「ラビ」からモレスビー攻略
しかし 南海支隊上陸できず失敗
南海支隊の占領作戦も
「ブナ」からモレスビー攻略
途中「イオリバイワ」から撤退
ラエ・サラモアに拠点を移すも
ダンピールの悲劇
ラエ・サラモアから敗走
サラワケット山越えの悲劇

着目すべき部隊
・南海支隊
・五十一師団
・二十師団
南海支隊
①ラビーモレスビー攻略作戦
上陸できず
②ブナーモレスビー攻略作戦
イオリバイワで撤退
上陸時 約八千名
帰還時 約三百名
この時 餓えに苦しむ兵士は人肉を食べた
そんな話があるが
注目すべき点は 他にある
疑問点
大本営は どうして米軍のブナ上陸を
トラック諸島にゐる連合艦隊を出動させてでも
阻止しなかったのか…
推測
南海支隊は「餓えで全滅」
これを予め 大本営は 予想してゐた
だから 全力で救出に行かなかった
ところが 三〇〇人も帰還した
この奇跡の帰還に 驚いたのは 大本営ではなかったか…
五十一師団
③「ラエ」「サラモア」重点作戦
・ダンピールの悲劇
・サラワケット山越え
・ガリ転進→ウエワクへ
二十師団
④フィンシュハーヘンの戦
⑤ガリ転進→ウエワク
⑥ウエワク集結
⑦アイタペの戦
⑧終戦

『五十一師団』
昭和十八年
一月二日 ブナ玉砕(南海支隊)
一月七日
五十一師団・五千名 ラエに上陸
上陸時 執拗な攻撃を受けるも
大半が 上陸に成功ラエ・サラモアを拠点にした
ニューギニア支配が始まる
三月三日
大量の輸送船が撃沈
「ダンピールの悲劇」である
三月十日
フィンシュハーヘン占領
フィンシュハーヘンが
ラエ・サラモアへの物資輸送の「兵站基地」となる
しかし!
九月四日
ラエの東側 敵・上陸
九月五日
ラエの西側 敵・上陸
五十一師団は 東西の逃げ道を塞がれた!
残るは
オリンピックマラソン選手・北本正路中尉が開拓した
サラワケット山越えの「転進」しかなかった
九月十五日
二日分の「食糧」と
「病に倒れりゃ 自決だよ
歩けぬ身になりゃお先にどうぞ」
こんな合言葉で
「キアリ」までの「サラワケット山越え」が始まった

ラエ→キアリ(囲み数字は亡骸の数)
二ヶ月かけて「キアリ」到着
途中約二二〇〇名 他界
しかし 海岸線に出ても 連合軍が 道を塞ぐやうに
「グンビ岬」に上陸してゐた
そこで「ガリ」から 再び山道に入る
これを『ガリ転進』といふ
当時 戦闘司令部は
サラワケット山越えの兵隊と
苦戦する二十師団を援護するため「キアリ」に移ってゐた
よって
五十一師団の兵士たちは
サラワケット山越の後は「キアリ」で休息を取り
再び『ガリ転進』を経て「マダン」に到着した

三つの部隊とその試練
南海支隊
・オーエンスタンレー山越え
・豪軍との闘ひ
・餓えと疲れとマラリア
ブナ上陸時 約八〇〇〇名
ブナ帰還時 約三〇〇名
五十師団
・サラワケット山越え二二〇〇 他界
・米豪軍との闘ひ
・餓えと疲れとマラリア
二十師団
・ガリ転進山道迂回 三七〇〇 他界
・米豪軍との闘ひ
・餓えと疲れとマラリア
『二十師団』
尾川正二の回想
昭和十八年(一九四三)
一月六日
完全武装して屯営の庭に整列
・遺書を書き
・頭髪と
・爪を添へた
容易ならぬ戦場だとわかる
龍山駅で貨物列車に積み込まれた
終着駅は「釜山」だった
小学校に収容された
一月八日
輸送船『靖国丸』に乗船
といっても 荷物室である
行く先は わからない
やがて ニューギニアだとわかる
一月二十一日 午後二時頃
ニューギニアの「ウエワク」に着く
任務は「飛行場建設」だった

三月十八日
飛行場ができると
今度は「マダン」まで三五〇㌔
その「道路工事」と「架橋建設」
「ウエワク」から「マダン」まで 大小二百の橋を作った
誰が名づけたか…
「アメリカ松」
「ニューギニア杉」があった
現地語は ピジン・イングリッシュ
ミー(我)と
ユー(汝)が通じるだけでも ありがたかった
ピジンは 約千三百語
私たちの語彙はその半分位だった
ニューギニア最大の大河セピック河も渡った
村には「シンシン」といふ歌舞があり
村落には「シンシン」のための広場もあった
裸足で踏み固められた土は
テニスコートの様に なめらかで 綺麗だった
夜行軍のとき 蛍木といふ大きな樹をみた
高さ五~六㍍の樹が 何千といふ蛍の光を点滅させる
ニューギニアに 三年ゐたが 二度しか見たことがない
鳥の聲に驚くこともあった
『ハラダ ハラダ』
『ミヤハラ』と呼び掛けてくる
『ホーラ ホラ ホラ』
『オーハラクン』
何千といふ鳥の大合唱である
五月五日
ついに「マダン」に到着
ここで家らしい家を造った
任務は 「飛行場建設」と「作戦路啓開」
この頃はまだ 戦争を忘れ
現地の生活を楽しむ余裕があった
山本五十六の死も アッツ島玉砕の報せも入った
ちゃうど その頃
マラリアで 一人他界
水没者一名ゐたので 二人目だ
五月下旬
ラエ・サラモアで
五十一師団の死闘の報せが 日々 入って来た
ここ「マダン」でも 敵の空襲が 始まった
椰子の葉っぱで簑の様な物を作り
ゴム林を出る時は それを必ず 羽織った
日に日に爆音が増え 炊事は 夜だけになった
昼の炊事は 煙が立ち昇ってしまふからだ
五月三十一日
「神野大隊」が五十一師団の指揮下に入り
マダンを立ち
ミンデリ・ガリ・キアリ・
シオ・フィンシュハーヘンを経て
ラエ・サラモアまで駆け抜けた
道路開拓は 中断となり
二十師団は「フィンシュハーヘン」の援軍となる
九月四・五日
ラエ東部=米軍上陸
ラエ西部=豪軍落下傘部隊上陸
東西を挟まれた「五十一師団」

九月十五日
五十一師団の「サラワケット山越え」が始まる
九月二十二日
二十師団の「フィンシュハーヘンの戦」始まる
ニューギニアの主力部隊は
「南海支隊」から「五十一師団」
「五十一師団」から「二十師団」へと代はって行く
フィンシュハーフェンで五五〇〇名の犠牲者を出した頃
十二月二十日
「二十師団」にも 転進命令が下る
部隊着目
①南海支隊
②五十一師団
③二十師団
拠点着目
①ブナ (南海部隊)
②ラエ・サラモア (五十一師団)
③ウエワク・マダン(二十師団)
苛酷な山越え着目
①オーエンスタンレー山脈 (南海支隊)
②サラワケット山・ガリ転進(五十一師団)
③ガリ転進 (二十師団)
南海支隊 一兵士の回想
語り部 和気道春(南海支隊)
聞き手 NHK記者
昭和十六年
十二月十日 グアム上陸
昭和十七年
一月二十三日 ラバウル上陸
五月七日 珊瑚海海戦
ーー以下よりモレスビー攻略ーー
七月二十三日 パサブアに上陸
(ブナ近くの)
オーエンスタンレー山越え

イオリバイワ占領
歩いて四・五日の所に
モレスビーが見えて
皆で勝った 勝ったと喜ぶ
しかし 撤退命令
撤退時は
後から豪軍 海から米軍艦砲射撃
そして
十一月中頃
「クムシ河」 筏で下る
途中から陸路を一週間位歩く
「ブナ」近くの「ギルワ」の日本陣地に辿り着くも
そこで負傷
ーーーーーー「回想」ここまでーーーーー
ブナの陥落は
昭和十七年(一九四二)
十一月十六日
「マッカーサー」の上陸に始まり
ラエ・サラモアの陥落は
昭和十八年
六月三十日
サラモア南四十㌔・ナッソウ湾に
「連合軍」が上陸したことに始まる
七月十二日
陸軍中野学校出身の田中俊男らが
「ラバウル」から飛行機で
「ウエワク」に やって来た
ーーここからは 高砂族の活躍ーー
七月十八日
「ウエワク」から「マダン」に到着
直ぐに「猛頭山」の第十八軍戦闘司令部に向かった
聞けば…
マダン・エリマの貨物廠は
連日爆撃され
日本からの補給船の入港も激減してをり
運搬役として はかりしれない働きをする
「高砂族義勇隊」も遊休状態だった
「台湾原住民高砂族」は
純真で勇敢 闘争心も旺盛
ジャングルでの行動は敏速
そこで 軍司令部で 義勇兵を募集した所
我も我もと 全員が応募して来た
八月一日
陸軍中野学校出身の
特定将校と下士官と高砂族義勇兵の
「齋藤特別義勇隊」ができた
「マダン」東方五十㌔「ソウ」で結成
一ヶ月の
・破壊爆破訓練
・潜入訓練を受け
「齋藤特別義勇隊」は 直ぐに
「カイアピット方面」進攻に向ふ中井支隊に配属された

二十師団の仕事
①ウエワクーマダン の道路工事
②マダンーヨコピーラエの道路工事
「マダン」から「ヨコピ」まで完成したが
「ラエ」の戦況厳しく道路工事中止
任務は「ラエ」に残された
中野英光五十一師団の救援へと代はった
「ラエ」から「マダン」までの脱出ルート
①カイアピットー歓喜嶺ーマダン
②サラワケットーキアリーマダン
当初は この二つの内①のカイアピットルートだった
六月三十日
敵が「ナッソー湾」に上陸してから 戦況悪化
八月二十三日
中野英光五十一師団長 サラモアで かう言った
「この陣地を最後の一線として
一歩も後退を許さずここを確保できぬ場合は
師団は 本陣地で玉砕する
軍旗を奉焼し 傷病兵も決起
全弾撃ち尽くすまで敵を倒し 最期を飾る」
しかし
九月五日
敵軍 ナザブ高原に落下傘部隊降下
日本軍
①カイアピットルートが危険
よって 中野五十一師団は
②サラワケット山越えの脱出ルート選択
敵軍
「カイアピット」から「マダン占領」を狙ふ
その敵軍の進攻を食ひ止めたのが
二十戦完勝の「齋藤特別義勇隊」であった
齋藤特別義勇隊
昭和十八年
九月二十三日
敵 ザカラガ部落に宿営中
義勇隊 潜入して宿営を悉く爆破
義勇隊の役割
もし潜入爆破失敗したら
敵陣に突入して自爆するのが任務
文字通り「決死隊」であった
初陣の戦果は以下
敵軍 死者 六十以上
負傷 八十以上
義勇隊 死者 無
負傷 無
二回目の戦闘
義勇隊 「魂の森」を拠点
敵軍 ダキサリアに宿営
戦果は 以下
敵軍 殺傷 三百以上
義勇隊 殺傷 無
三回目の戦闘は
敵軍 「魂の森」宿営
義勇隊 「魂の森」の奥
義勇兵八名の帰還が心配されたが 無事に帰って来た
戦果は 敵軍死傷二百名以上
兵站基地となってゐた「マダン」や「エリマ」では
『潜入攻撃隊とかが暴れ回って
敵の進撃部隊を攪乱阻止してゐる』
こんな噂が 弘まってゐた
暗いニュースが多いニューギニア
「高砂族義勇隊」の活躍が
多くの日本兵を勇気づけてゐた
グンビ岬 敵軍上陸
昭和十九年一月二日
敵軍
日本軍の「ガリ」ー「マダン」の退路を塞ぐ様に
「グンビ岬」上陸
すぐさま「飛行場建設」

退路日本軍
「ガリ」から「グンビ岬」を迂回する様に
「フィニステル山系」に入り
再び海岸線に出る「転進路」に入る
これを「ガリ転進」と言ふ
救援日本軍
疲弊した日本軍を救援
その任務を負ったのも「齋藤特別義勇隊」であった
この時
数々の敵陣潜入爆破を成功させた
齋藤特別義勇隊は「クワトウ」にゐた
命を受けた義勇隊は 直ぐ 早朝に出発
「ボガジン」に向かひ 右折して海岸道に入り
「ポング」に向かった
「ポング」から山道に入り ガリ転進部隊のために
・「道標」を置き
・「簡易糧秣集積所」を造り
・「道路補修」を行った
一月二十八日
救援義勇隊ヨガヨガ到着
一月二十九日
転進部隊の「堀江先遣隊」が到着
堀江から事情を聞くと
五十一師団・二十師団の順に 転進が進んてゐるといふ
ボロボロになった軍衣のまま
夢遊病者の様に杖をついて歩く疲弊した多数の兵士は
友軍の領域に入った途端
安心してか
歩行不能となり
転進から落伍して そのまま残り
土に還る者が 続出した
※堀江氏のご長男に
この時の感動の出会を
お父さんからお聞きしてゐないか お尋ねしたが
残念ながら お聞きしてゐなかった
上陸した敵軍
昭和十九年
一月十九日
総攻撃を敢行
歩兵・片山中隊長の堅陣も
百機に及ぶ敵機の反復攻撃で 遂に 玉砕
敵軍 続けて「歓喜嶺」占領
転戦部隊の救出に目途をつけた「齋藤特別義勇隊」は
今度は「マダン」を守るために
「エリマ」から「マダン」に向かった
「マダン」は 以前の面影はなく
砲爆撃の跡だけが残ってゐた
「ムギル」に着くと
「齋藤特別義勇隊」は かう評された
高砂族のお蔭で
ニューギニアの原住民が味方になって
「隠し道」まで教へてくれた
また「カイアピット」から押し寄せて来る敵軍を
正規軍だけで封じ込めることは 不可能だった
「十八軍」が生き残れたのも
「齋藤特別義勇隊」の敵陣潜入爆破のお蔭であるし
ガリ転進部隊の収容成功も
「齋藤特別義勇隊」の活躍あればこそ
その高砂族を
二十師団の参謀長吉原矩(かね)は かう語る
高砂族は
かつては蔑視されてゐたが
民族的にみて大和民族と極めて近い
見かけと言ひ 肌色と言ひ
全く同一で 習慣も 多くの共通点がある
僅か 数ヶ月の教育で日本語を 完全に話し
性格は 極めて従順勤勉
特に「我は日本人なり」との信念で
心が満ちあふれてゐた
また 極めて人なつっこく 愛すべき戦士だった
いつも ハイハイと従順に
自己の職責を全うした高砂兵
今なほ
呼び掛けてみたい気がしてならない
マダンからウエワク
二十師団が「ガリ転進」を終へ
「マダン」→「ハンサ」→「ウエワク」に敗走
この様子を元兵士が語る
昭和五十三年(一九七八)
三月二十日
聞き手 草賀類子
語り部 小畑耕一
私の余命も もういくばくもない
今なら 何を話してもいいでせう
こんな前置きをして話し始めた
昭和十九年(一九四四)
三月十日
軍が「マダン」を放棄
それから二ヶ月「ハンサ」は混乱
五月十日
マダンが敵の手に落ちた
敵は ウエワクの先アイタペ・ホルランジアに上陸
「ハンサ」は 連日連夜爆撃された
爆撃のたびに
三百人から四百人の死者が出た
しかし 死体を埋めるための
穴を掘れる人間はゐなかった
片腕 片足のない兵隊
死にかかった兵士が 歩いてゐた
誰かが ミイラ部隊と呼んでゐた
「ハンサ」は後方「ウエワク」と
戦闘司令所のあった「マダン」と丁度中間
物資輸送の拠点だった
北に見える「マナム富士」は
噴煙をあげてをり 風光明媚な場所で
将兵の郷愁を募らせたが
「ハンサ」は見る影もなく壊滅した
我々二十師団は
約三週間「ハンサ」にゐて
一部は「舟」で
大半は徒歩でセピックの河口を通って
「ウエワク」へ敗退して行った
この辺の湿地帯は凄く(底無沼)
大木を倒して その上を歩くのだが
いったん足を取られると からだが沈んでしまひ
軍帽だけが浮かんで来る
靴が なくなったら歩けない
そこで 半死半生の兵から「靴」を奪ふ
これは まだいい方で
よろけ歩く兵を 強い兵が倒して
靴を略奪することもあった
昭和二十年(一九四五)には
「人肉を喰ったものは死刑にする」
こんな命令を出さなければならぬ
事態にまでなってゐた
自分の隣の兵を殺して喰ふ
そんな状態にまで堕ちた
しかし 軍は これを秘した
将官が 部下に殺されて喰はれた
こんな例は ざらにあった
脱走兵がジャングルの中 待ち伏せして
歩く兵を襲って喰った
体の小さい同級生がゐた
彼は 塩を作ってゐた
ある日 彼を探しに行ったら
河に彼の首が浮いてゐる
わけを聞いてみると
仲間が彼の作った塩を奪ひ 殺して喰ったといふ
内地に帰って来た私には
彼の遺族に会って
そのことを報告する勇気はなかった
吉原矩(かね)中将が
戦闘司令所を作ったとき
憲兵が
一人の陸軍中尉を人肉を喰った疑ひで連行
その中尉は 某大学医学部の教授
取り調べの時
どうせ死ぬ兵隊なんだ
さういふ奴らを喰って
敵が上がって来た時に闘ふのが
何故悪いと豪語した
結局彼は 死刑になった
人肉問題は
ニューギニア戦線の至る所であった
連合軍も
この問題を表向きにしたくなかった
名誉の戦死と報告してゐる遺族に
貴方の息子さんは敵に喰はれました
なんて言へますか?
しかし
終戦と同時に 現場に踏み込まれ
喰ひ散らかした死体が 発見され
豪軍の記者に証拠写真を撮られた
豪州の新聞には
人喰人種と報道されてしまった
ガリ転進年譜
昭和十九年(一九四四)
一月二日
敵軍グンビ岬上陸
一月十九日
敵軍総攻撃敢行
一回目 十五機
二回目 二十五機
三回目 反復延百樹で猛爆
片山真一中隊長 敵弾受 他界
部下 必死に抵抗するも屏風山にて玉砕他界
一月二十二日
ガリ転進部隊・ガリ出発
堀江先遣隊を先頭に
五十一師団 六〇〇〇名
二十師団 六九〇〇名
おほよそ 一三〇〇〇名
二月十八日 マダン着 他界約四千
ニューギニア戦史
ニューギニア占領拠点
①ブナ 南海支隊
②ラエ・サラモア 五十一師団
③フィンシュハーヘン 二十師団
撤退
①ブナ 昭和十七年十一月下旬
②ラエ 昭和十八年九月十五日
③フィンシュ 昭和十八年十二月二十日
難関撤退地と他界者数
①オーエンスタンレー山脈・クムシ河 筏下り
他界七七〇〇名
②サラワケット山越
他界二二〇〇名
③ガリ転進
他界四〇〇〇名
④ラム・セピック湿地帯
他界五〇〇名
激戦地と戦死他界者
フィンシュハーヘン
開戦 昭和十八年九月二十二日
撤退 同年 十二月二十日
他界 五五〇〇名
アイタペ会戦
開戦 昭和十九年七月十日
撤退 同年 八月四日
他界 一万三〇〇〇名
以下概略
ニューギニア戦史地図

①MO作戦
②ブナーポートモレスビー作戦
③ラエ・サラモア拠点
④フィンシュハーヘン拠点
⑤サラワケット山越え
⑥フィンシュハーヘン撤退
⑦ガリ転進
⑧ウエワク集結
⑨アイタペ会戦
⑩終戦
二十師団歩兵の記録
二十師団は「フィンシュハーヘン」撤退後
「シオ」を経て「キアリ」に向ふ
「キアリ」では 五十一師団が
サラワケット山越えを経て休息しながら
二十師団の「キアリ」到着を待ってゐた
二十師団は「キアリ」で休息する余裕もなく
「マダン」までの転進路を歩く
昭和十九年(一九四四)
一月二十二日
ガリ転進始まる
堀江先遣隊を先頭に
五十一師団・二十師団が続く
この転進で 医学で説明できない経験をした
突然来る『冴え』を三度経験した
ローソクが燃え尽きるとき
一瞬明るくなるとか
死の直前に ふっと病状がよくなる
そんなことがあるといふ
たとへ さうであらうと
その『爽やかさ』が嬉しかった
どこにも体力らしいものが 残ってゐないのに
何かが湧き出て来る瞬間がある
布一枚で全身を覆ふ兵がゐた
全身に漂はせてゐる屍臭
その兵が 軍医の所に来た
軍医も 瞬間顔をそむけた
布を取って 軍医は唸った
どす黒い筋肉が カラカラになって
その骨に付着してゐる
その兵の左手は 完全に白骨となってゐた
かういふことが 有り得るか?
こんな状態で生きられるのか?
医学で説明がつかない
私は 奇妙な文明の利器を創案してゐた
帯剣で穴を開けた飯盒の蓋『大根おろし』である
木の芯 木の根
すりおろせば 何でも食べらる
日本人の知惠である
ニューギニア戦を 最もよく語る物
それは この『大根おろし』
それは 木の根は 地下に潜る
地下に潜れば地下の生活が 作られて行く
何万人もの地下に潜る生活を
木の根は 良く知るから…
自分の力で苦難の道を突破した
そんな思ひあがりはないが
連日 砲爆撃を受けながら
転進部隊を守り
敵を一兵も通さなかった「片山中隊」
大きな恩恵を受けてゐたことを
後で知った
三月十日
待望久しい海岸に出た
民家を天幕で囲った
糧秣倉庫に着いた
一人三合の米の配給
三ヶ月ぶりの米に狂喜した
海岸線は むちゃくちゃに叩かれてゐた
ここもまた 崩れた肉体と 狂った神経が
置き去りにされてゐた
ぶつぶつつぶやきながら あてもなく彷徨ふ者
廃屋に住みついて 異様に輝く眼を据ゑてゐる
遂に「ハンサ」に着く
ここから七十名の中隊と共に歩く
ここでアイタペ作戦の噂を聞く
『十八軍は絶望である
究極にはセピック河上流に
自活籠城するしかない
現地物質は限度がある
兵員を養へる量はない
今度の作戦は 口減らしである』
昭和十七年
十一月より
ガダルカナル 十七軍
ニューギニア 十八軍
十八軍司令官「安達二十三」は
絶望的な作戦であれ 何であれ
兵士たちから
ぶつぶつ文句が出ることはなかったが
この流言だけは異様な重さがあった
アイタペ会戦
七月十日 戦闘開始
八月四日 撤退
戦死他界 一三〇〇〇
弾薬・糧食全て尽き果て
「ブーツ」に撤退することになった
七十名の中隊も 十数名になった

敗戦から このアイタペ会戦を
無意味とするのではない
兵隊が 事前に作戦に懐疑的になってゐた
これが異常なのだ
命令に従順でなければ 戦争には勝てぬ
容赦ない攻撃に対しては 容赦ない覚悟が要求される
兵隊の感覚には
意外に確かなものがあり
流言の形で漂ってくるものにも
真実の一面をついてゐることが多い
アイタペ会戦後
二十師団七十九連隊の場合
四三二〇名 →約四〇名に激減
七〇名の中隊→十数名
口減らし作戦の実証である
終戦までの山村暮らし
七〇名ゐた中隊は 今は十数名
地面が乾いてゐればゴロ寝もできる
からりと乾いた土地はない
廃屋をあてにしても 宿れる身分でもない
どしゃぶりの中で 木を切り倒し
自然木を柱に 宿とする
苛立ちながら 慌ただしく動く
そんな毎日を繰り返してゐると
化石の様に無感動になるか
ある怒りに集中するしかない
山へ進むべき方向だけが 示され
帰着すべき処は 何も示されない
そんな中 何かと行動を共にした
田中曹長とは 何かの因縁か 一緒に歩いてゐた
「ほっといて先行って下さい」と座り込むと
黙って笑ってゐる
とうとう一人になった
さう思ってゐると
二人分の芋を煮て待ってくれてゐる
昭和十九年八月下旬
開放してもらった二軒の民家に
装具を解いてくつろいだ
自活の道を求めて
山に籠り 再起を待つことにした
場所は ニブリハーヘン
酋長は日本名を「カトウ」と言ひ
三十歳前後の男
真っ赤な褌一本 ぴちぴちと動き
テキパキ采配する
「カトウ」は
ワンテム・ウォーク(一緒に働き)
ワンテム・カイカイ(一緒に食べる)
と言って歓迎してくれた
中隊十数名はここで世話になった
翌日
中隊主力をニブリハーヘンに置き
田中曹長と二人で「ヌンボク」に向かった
二人だけで新しい城を築かうといふわけだ
ヌンボクに着くと
太鼓の通信で 連絡済みで
みんな広場に出て 迎へてくれた
ここの酋長は日本名「ヒンガシ」
五十くらゐの男である
床の高い民家を用意してくれた
ここが
しばしの「わが家」となった
しばらくすると 田中曹長が
ぶらぶらしてゐるより
「何か教へよう」といふことになり
酋長「ヒンガシ」にもちかけると
「ヒンガシ」も喜んだ
二 三十人の子供が集まった
地面に地図を描いて
ニューギニア 日本を教へ
東西南北を教へた
子供たちは
サンキュー・ベリーマシタとお礼の言葉を言ふ
三ヶ月が過ぎてゐた
日本に味方する原住民もゐれば
敵軍に味方する原住民もゐる
そんな敵に懐柔された遊撃隊に
日本兵が 多数やられ始めた
戦史を振り返ると…
昭和十八年八月
ナッソウ湾に 敵軍が上陸し
ラエ・サラモアの五十一師団が
敵軍に追ひつめられてゐた頃
「絶対国防圏」が発せられた
・ラバウル
・東部ニューギニアの放棄である
わかりやすく言ふと
「絶対国防圏以外の地域には
食糧補給もしないし 救援部隊も出動しない」
つまり 現地で闘ふ兵隊は 現地に置き去りにされた
昭和十九年
四月以降
第四航空軍と第九艦隊は
西部ニューギニアに転用された
遊撃隊の日本兵殺戮が 頻繁に起こり始めた頃
酋長「ヒンガシ」が私を呼び かう言った
「スサメと一緒に寝てくれ」
スサメといふ青年も
屈託無く「一緒に寝よう」と言ふ
今 思ひ返してみると
遊撃隊の夜襲から守ってやらう
そんな友情だったことがわかる
この温かい友情は 終生の思ひ出となってゐる
昭和十九年
十二月初旬
移動命令が出た
酋長「ヒンガシ」も
村落の青年たちも
メリー(娘)たちも
無邪気に見送ってくれた
二週間歩いて
パンケンブといふ村に落ち着く
一個中隊全員が入れる大きな民家が提供された
酋長は「オルセンバン」
顔立ちのいい「ハムレット」がゐた
「ハムレット」は 椰子の木陰のハンモックで
静かに
ピジンイングリッシュで書かれた聖書を読んでゐた
酋長の「オルセンバン」は この聖書を見せてくれた
それは ピジンの学習に役立った
二ヶ月が過ぎた
生活を共にするにつれ 相互理解も深まる
・オハヨウ
・クンバンワ
・ゴクロンサンなど
ことばに人間の英知を感じた
昭和二十年
一月下旬
出動命令下る
「オルセンバン」は 途中まで送ってくれた
「特別挺身攻撃隊」の編成があり
中隊を離れ「特別挺身攻撃隊」に入り
十国峠に向った
戦闘開始は三月二十三日頃
敵は 潰滅状態にあった
日本軍の猛烈な反撃に狼狽
遺体の収容もできなかった
ある日
誰それが死んだ 取りに行かう
といふ怖ろしい言葉が交はされる
「あの時 行かなくて良かった」といふ戦後の述懐は
戦ひ 終はって聞いた切実な言葉
恐らく食肉としての遺体を取りに行かう!
さういふ掛聲に 思ひとどまった経験を
良かったと言ってゐるのではなからうか
それは
一人一人の内的な自由の聲である
一切の常識がなくなり
新しい自分を作って行く時
「権威あるものは 内なる良心のみである」
続けて ウェーバーは言ふ
「行動の正しさを求めるものは
国家乃至英雄の様な被造物の命令ではない
内なる良心の聲である」
ニューギニア戦線
生きようとして生きられるものでもなく
死なうと思っても死ぬこともできぬ
いよいよ絶望と思って椰子の木に背をもたせかけ
拳銃を抜き自決を決意した将校がゐた
銃口をこめかみに当て引き金を引いた
不発だった
二発目も引いたが これも不発
これは何だと思ひ
三発目は上空に向けて放ってみた
今度は 実弾が飛び出した
将校は
この時 何物かの「生きよ」といふ意志を感じた
ニューギニアの生還者は形は違ってゐても
皆 そんな偶然によって生かされてゐたのではないか
昭和二十年
五月
出動命令下る
田中曹長は「ヌンボク」に残り
私は「カボエビス」の陣地に移った
体力は どこにも残ってゐない
ここで 田中曹長の惨死を聞いた
もし あの時 ヌンボクに
田中曹長と一緒に残留してゐたら…
「カボエビス」では
敵は 間断なく撃ち続けてくる
しかし 威嚇射撃で
ただ脅かすだけの撃ち方だった
さう とわかれば気楽に対応できる
「危険のあるところ救ひの力も育つのだ」と思ひ直し
空を仰いだ
中隊に紛れ込んで来た兵士が こんな話をしてくれた
翼を広げると七㍍位のコウモリ
四㍍位の大豚もゐた
カラマンボ湖では 夜中の零時零分
蓮の花が一斉に花開く
開花の音は 機関銃の一斉射撃に似て居る
体長二十㍍のワニや三㍍位のウナギもゐた
蝶は 羽を広げると七十㌢
途方もないスケールの動物たち
こんな秘境の中に暮らしてゐた

終戦直前の部隊配置である
矢印は 敵の進撃路
徐々に追ひつめられた軌跡
私のゐた七十九連隊も わづか五名となってゐた
八月十五日
この頃 兵は約一万
十八軍主力九三〇〇は「ヌンボク」を中心にして
玉砕陣地と決めてゐた
遠く南に離れたセピック河には
二八〇〇の吉原中将のセピック兵団がゐた
突然 敵陣地から「バンザイ」の聲が聞こえた
われわれは「海行かば」を歌ひながら
七十九連隊旗を葬った
九月二十五日
ボイキンの海岸で武装解除
小銃・帯剣をドラム缶に放りこむ
個人に帰った
生き残った正確な人員 一一〇九七名
一七万余の南方最大勢力が 今 ここに約一万
ムッシュ島に送られた
ムッシュ島では 食糧も配給されたが
毎日 十数名が他界
結局 ムッシュ島の病没者は 一一四八名に及んだ
引揚げ船
鹿島 昭和二十年十一月末
高栄丸 昭和二十一年一月九日
鹿島 昭和二十一年一月十一日
酒匂 昭和二十一年一月十一日
氷川丸 昭和二十一年一月二十三日
鳳翔 昭和二十一年一月二十四日
われわれ七十九連隊は
航空母艦・鳳翔で帰還
乗船すると 直ぐに
握り飯と干からびたタクアンが支給された
涙があふれた
戦友たちも 皆 放心してゐる
「米の飯を喰って死にたい」と言った
亡き戦友の最期のことばが
皆の心に しみてゐるからだらう
しかし どこかで誰かが言ふ
「どうしても喰へんなぁ」
今 この贅沢が 涙となってあふれるのである
帰国するまで 三度停船した
祖国を前にしながら亡くなった人の水葬である
毛布にくるまれた遺体が沈んで行く
瞑目し 頭を垂れる
無念の思ひが伝はってくる
昭和二十年
七月二十五日
十八軍に全軍玉砕命令が出た時
一切の記録と書類は焼却された
以下の記録は 残務整理の時
個人の記憶を辿って作成されたもの
正確な数字は 到底わからぬ
部隊名 総兵員 生還者
七十八連隊 五七二五 一一二
七十九連隊 六一五一 九一
八十連隊 五二五八 九〇
七十九連隊の生還者九十一名
しかし 敗戦の時
連隊長は 生存者六十七名と言った
師団名 総兵員 生還者
二十師団 二三三八五→七八五
四十一師団 一九九六〇→五九二
五十一師団 二八八八八→二七五三
酋長のその後
酋長 カトウ
酋長 ヒンガシ
酋長 オルセバン
三人の酋長に世話になった
そこには
大酋長「カラオ」の恩恵があった
カラオも 最後まで 日本軍のために献身してくれた
それが 何かの利欲になるとは 到底思へなかった
衰弱し 疲労したわれわれの姿に
ただ同情しての協力であった様に 思はれてならない
その後のカ「カラオ」について
全く知るところなく過ぎた
昭和四十七年(一九七二)
九州朝日放送で「カラオ」が
悲惨な運命を辿ったことを知った
「日本軍に協力した罪」で捕らへられ
妻と息子二人が斬殺され
カラオも三年投獄
後 マラリアのため釈放
現在 残された息子と二人で暮らしてゐると言ふ
テレビ放送の後 数年を経ずして
カラオの死亡を知った
同時に
一般酋長で「処刑」された者もあるといふ
「片腕切断」の酋長の写真も見せられた
われわれのために
死んだり 残酷な刑罰を受けた
忘却しへないものがつきまとふ
戦争は終はってゐない
消えたと思っても どこかでまた 燃え上がる
「知」だけが 突っ走って
人間的な特徴が見失はれたら 暗闇の世となるだらう
この「戦争の段階」を乗り越える力を
人間は持ってゐると信じたい
幕末近代の萌芽
寛政四年(一七九二)
ラクスマンが国書を持って
日本との交易を求めて根室に来た
しかし
幕府は 丁寧に断り ロシアに帰す
この時 幕府は
入港許可書と誤認する『信牌』を
ラクスマンに渡してゐた
それから十数年後の文化元年(一八〇四)
二度目の使節・レザノフが
長崎に来航
交易を求める国書を持って来た
もちろん『信牌』も一緒に
しかし
幕府は 入港を認めなかった
レザノフ使節団は
六ヶ月待たされた挙げ句
居丈高な態度で帰された
ペテロパブロフスクに帰った
レザノフが
この経緯を部下のフォストフに語ると
フォストフは怒り
その報復として
・択捉島
・利尻島
・樺太の大泊 で暴れた
「略奪」と「放火」そして「拉致」であった
これを『露寇事件』といふ
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月であった
フォストフは 人質を返す時
ロシア語とフランス語で書かれた
『一通の手紙』を 解放した人質に持たせた
しかし 当地では 和訳できる者がをらず
手紙は 長崎・出島に送られ
オランダ商館長ドウフが和訳した
こんなことが書かれてゐた
「ロシアとの交易を断れば
来春大軍で 日本全土を攻撃する」
これで 多くの日本人が「恐露病」にかかってしまった
文化八年(一八一一)
今度は 幕府が その報復として
北方四島の土地調査に来てゐたゴローニンを
国後島で 拉致・捕獲した
しかし ゴローニンは 賢者で牢屋暮らしであったが
現実は 松前藩の人にロシア語を教へ 客人扱となってゐた
文化九年(一八一二)
そのゴローニンの部下リコルドは その報復として
日本人五人を捕虜として 捕虜の交換を試みた
その捕虜の一人に
当時の有名商人高田屋嘉兵衛がゐた
嘉兵衛は ペトロパブロフスクに連行された
嘉兵衛も賢く
リコルドの日本人捕縛の意図を汲み取り
「フォストフが大暴れした後
人質解放に持たせた手紙は 一軍人のもので
ロシアの国家意思ではないと その旨を書き
その事件を陳謝すれば 幕府も 理解し
人質交換に応ずる」と説いた
リコルドは 嘉兵衛を信頼し
嘉兵衛の説く様に動き
文化十年(一八一三)無事 人質交換が成功した
その後 ゴローニンは 当時の様子をまとめて本にした
『日本幽囚記』である
文化十三年(一八一六)であった
この本で 高田屋嘉兵衛は 日本の英雄として
描かれてゐたが その理由は 前述の通りである
樺太事情
樺太は 当時 島ではなく 陸続きと考へられてゐたが
大陸と離れてゐることがわかった
間宮海峡の発見であり
それは 文化五年(一八〇八)
それから おほよそ四十年後
樺太北部の対岸 つまりアムール川の河口に
ロシアは
嘉永三年(一八五〇)に
「ニコライエフスク」といふ町を作り
嘉永六年(一八五三)八月には
樺太の「大泊」に軍事砦を作ってゐた
嘉永六年と言へば その頃は
六月に ペリーが浦賀来航
七月に プチャーチン長崎来航
そんな時であった
フェートン号事件
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月に「露寇事件」
北方で ロシアが暴れ
人質まで取られ
解放された時には
開国拒否したら「日本全土攻撃」
こんな脅しを受けてゐた
文化五年(一八〇八)八月十五日
フェートン号事件発生
当時西欧は フランス革命で 大きく揺れ動いてゐた
フランスは
オーストリア・英・オランダに 宣戦布告
オランダは 占領され
オランダ国王ウイレム五世も追放され
オランダ国王の座には ナポレオンの甥である
ルイ・ナポレオンが就いてゐた
追放されたウイレム五世は イギリスと軍事同盟を結び オランダの海外植民地を
イギリスの管理下に置くことに同意
そこで イギリスは
オランダ領・東インドに イギリス艦隊を派遣
ところが
現地のオランダ艦隊は イギリス艦隊の指示に従はぬ
そこで イギリスとオランダが戦闘状態になった
そのため
長崎へのオランダ船の入港は 中断となってゐた
そこにオランダ国旗を掲げた船が長崎に入港して来た
オランダ商館長のドウフは
その船を 怪しんだが
そこは 長崎奉行には伏せてゐた
オランダが今 フランスに支配されてゐることが
幕府に知れると 幕府はオランダ以外の国と貿易をする
それはオランダに不利益だった
幕府の小舟が 近づき
国旗の「旗合せ」をするが 不一致
そこで イギリス軍艦は
慌てて
小舟に乗船してゐた オランダ商館の蘭人二人を拉致
小舟にゐた日本の二人の通詞は 海に飛込み逃げ帰った
イギリス側は オランダ船が 長崎に逃げ込んだと
拉致したオランダ人に 厳しく問ひつめたが
二人は「オランダ船の入港はない」と答へ続けた
そこで イギリス軍艦は
ボートを出して 海岸近辺を探す
この行為が
日本人には 上陸地点を探す行為に見えた
そこで幕府の長崎奉行の松平は 守備役の武士を集め
小舟でイギリス軍艦を囲み 松明を投げ込む戦闘を考へた
ところが 拉致された一人のオランダ人が
手紙を持って解放された
手紙には かう書かれてゐた
「解放したオランダ人に
飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
要求に応じぬ時は
もう一人の捕虜を殺害し
日本船・唐船を全て焼き払ふ」
この手紙を読んだ奉行松平は
「法外之横文字」と激怒
フェートン号の焼討実行に入る
今では 学校も 役所も そして交番の看板も
そして警察官の背中も 平気で横文字で書くが
当時は 横文字を
「邪悪な文字」と見る風習があった
『以呂波問瓣』著者體認(たいにん)は かう語る
オランダなどは
皆悉く横文字の国なり
梵字漢字 一向に通用せず
儒道も知らず 仏道も神道も無し
仁義も因果もなく 畜生の如くなる国なり
こんな自国の文字への自負心が あったためだらう
奉行・松平は「法外之横文字」に 侮蔑されたと憤り
先頭に立って 焼き討ちを進めた
この奉行の憤りを見て
ドウフは このままでは部下が殺されてしまふとみて
奉行・松平に
「飲料水」と「食糧」を イギリス艦に送ることを懇願
奉行も ドウフの気持ちを汲んで
解放されたオランダ人に
「食糧」と「飲料水」を持たせて帰艦させた
この時ドウフは 奉行の許可を得て
牛二頭・豚などを艦に送った
夜になって 帰艦したオランダ人と
艦に残されたオランダ人の二人が解放された
翌一七日
役人が フェートン号に赴くと
イギリス側は
「要求した水・食糧が足りない!
一品でも足りぬ場合は 港を出ぬ」
さう 威嚇して来た
この態度に 奉行松平が再び憤り
小舟で軍艦を囲んで松明を投げ込む軍艦の焼討ちを急いだ
しかし 午後になって風が吹くと
フェートン号は 動き出し 湾外の外に出て
水平線下に姿を消した
奉行松平は 地団駄を踏んで口惜しがったが
憤りを秘めて家来をねぎらひ
その夜に 酒宴を開いた
すると 深夜 生垣の近くで
腹を切り 喉元深く突き刺して
自刃してゐる松平が発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには かう書いてあった
事件の経過が書かれ
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたことを申し訳なく切腹する
幕府の対応
「北方」と「長崎」の警備の増強
通詞たちには
「ロシア語」と「英語」の習得を急がせた
英語の教授は
オランダ商館長・次席ブロムホフが担当
習った通詞たちは
文化七年十二月(一八一〇)
『諳厄利亜語和解』一冊
「あんげりあごわげ」
文化八年二月(一八一一)
『諳厄利亜語和解』二冊・三冊
同年九月(一八一一)
『諳厄利亜興学』十冊
文化十一年(一八一四)六月
『諳厄利亜語林大成』日本初の英和辞書が出来た
日本初の英語辞書の概要
品詞分類は 以下
江戸時代 現代
静詞 名詞
冠詞 同
代名詞 同虚静詞 形容詞
動詞 同形動詞 副詞
接続詞 同所在詞 前置詞嘆息詞 感動詞
・単語は六千語
・ABC順に並べられ
・発音と和訳が記されてゐた
時代は 十数年前に遡る
ラクスマン来日
寛政四年(一七九二)
来日目的
①漂流民の返還
②日本との交易
漂流民は
天明二年(一七八二)十二月
紀州白子浜(鈴鹿市)を出て
遠州灘で大風に遭ひ漂流した
「紳昌丸」の乗組員十七名
帰還時 生存者五名
・光太夫(船頭)
・磯吉
・小市 の三名が帰還
生存者残り二名は ロシアで改宗して
ロシア・イルクーツク残留
・庄蔵と新藏であった
庄蔵は 途中 凍傷で片足切断
病院に入院中
帰国の夢を抱へ続けることは
有り得ぬことを夢見る妄想と悟って 改宗・現地残留
新藏は
仲間の埋葬を引き受けるも 改宗者以外は 野ざらしで
棺桶も売ってくれないことから
仲間の埋葬をきっかけに改宗
漂流の足跡は以下
・白子浜出港 遠州灘漂流始
七ヶ月漂流
漂流中 幾八 他界 一
アリューシャン列島・アムチトカ島
原住民とロシアの孤島支配者と共に 四年暮らす
この間に
磯吉の父三五郎 他界 二
次郎兵衛 他界 三
安五郎 他界 四
作次郎 他界 五
清七 他界 六
長次郞 他界 七
この頃
エト・チョワ=「これ 何?」を覚え
ロシア語を 皆で 覚え始めた
スパシーボ =「ありがたう」
ヤッポンスカヤ=「日本」
ダー =「はい」
藤助 他界 八
光太夫は 七つの木標を立てた
お墓である
カムチャッカ東岸に到着
アムチトカ島に
孤島勤務交代の船来るも座礁沈没
そこで ロシア人・日本人協力して 船をこしらへ 出港
めざすは「カムチャッカ半島」まで
おほよそ一月の船旅だった
上陸すると 役人が来て 宿泊所が 用意されてゐた
着いて半年後
与惣松 他界 九
勘太郎 他界 十
藤藏 他界 十一
日露の混血児
藤藏の埋葬を終へ 宿に帰ると…
「日本人 おいでか」
明らかに 日本語である
尋ねてみると…
『父は 下北半島の南部生まれで多賀丸の船乗りでしたが
漂流して 千島の孤島に漂着
そこで ロシア人に保護され カムチャッカに来ました
父は 帰ることができず 私の母と夫婦になり
子供三人 つまり私と妹の二人が さうです
父は もし自分が死んだ後に 日本の漂流民が来たら
言葉が通じなければ 話せない
その時のために お前たちに 日本語を教へておく
さう 言って 毎日 日本語を教へてくれました
父は昨年の春 亡くなりました』
その妹エレナと磯吉が恋仲となる
光太夫は
磯吉が 恋心に負けて「カムチャッカに留まる」
さう 言ひ出すことを心配した
カムチャッカの役人・カピタンは
漂流民をオホーツクまで連れて行く様に言はれてをり
光太夫は
その出発の準備を 促されてゐた
光太夫は 生き残った新藏や庄蔵
そして 磯吉 小市 九右衛門に
集合場所を伝へて 出発を待った
磯吉が心配だったが
磯吉は 集合場所に来た
どうしても 日本に帰りたい
その気持ちが勝ったのだらう
オホーツクまでは
カムチャッカ半島北部を
東から西に横断して「チギリ」へ行く
そこから船で 海を渡って
オホーツクの港町に着く
船には
カピタン一行 十五名
漂流民 六名
乗客 約八十名
オホーツクは
カムチャッカ・チギリとは
全く異なる町だった
港には 大小多くの船があり
人家も二百戸ほどあり
家も がっしりとしてゐた
上陸すると役人がやってきて
「ヤクーツクへ行く」と言ひ
光太夫に 銀三十枚
船乗りに 銀二十五枚を渡し
旅館で体を休め 旅装を整へるやうに指示された
ヤクーツクまでは馬車の旅だった
そこは 恐るべき寒さだった
ロシアで最も寒い地で
耳や鼻が壊死して落ち 頬なども腐って脱落するといふ
ここでも到着すると 役人が来て
直ぐに 宿に案内してくれたが
「イルクーツクに行って下さい」と言はれた
出発は 一ヶ月後の十二月だった
イルクーツクに行くには
キビツカといふ名の幌馬車の「幌」が必要で
「キビツカが無ければ凍え死ぬ」と言はれ
百枚の銀貨が渡された
光太夫たちは「キビツカ」に乗込み
イルクーツクへ 向った
イルクーツクに到着する前
庄蔵が凍傷になった
オリョクマといふ町で 医者に診てもらひ 応急処置
三日休んで 出立
庄蔵の足の痛みが激しくなり
キリギといふ町で休息
光太夫は 庄蔵に
「ここで春まで静養し
治ったら イルクーツクまで来い
今のままでは 一緒の旅は無理だ」と諭すも
庄蔵は泣いて拒んだ
光太夫が 何度も何度も諭したが
庄蔵は それでも一緒に行くと言ひ張り
結局 庄蔵も 皆と一緒に イルクーツクに出立
イルクーツクは
人家三千戸もある大きな町だった
同行してゐる役人が 役所に入り
出て来ると イルクーツクの生活費として
一日 銅貨五枚
一ヶ月 百五十枚 を月の初めに渡すと 言った
この後 光太夫は 役所に行き
庄蔵の治療を頼んだ
役所は 病院を紹介してくれた
そこは治療費を払へぬ貧しい病人を
皇帝に任命された官医が 一般の患者同様に
治療を受けられる施設だった
光太夫は 直ぐに
江戸の小石川の薬園中に設けられた養生所と同じだと思った
吉宗時代に 小川笙船(しょうせん)といふ医家の
建言を取入れて 建てられたもので
費用一切は 幕府が負担してゐた
庄藏は この病院で足を切断
療養に 長い時間を要したが
最後は 義足で歩ける様にまで回復してゐた
ある日
カムチャッカからオホーツクまで同行してくれた
役人カピタンが 訪れた
「イルクーツクまで仕事に来た」と言ふと
光太夫は「日本に帰りたい」と言った
カピタンは そのためには
政府高官に働きかける必要がある
それには
その方面に知人の多い「キリロ」が相応しい といふことで
イルクーツクの有識者「キリロ」を紹介してくれた
後に
光太夫たちを日本に送還したアダム・ラクスマンの父である
このキリロ・ラクスマンの助力で
光太夫たちは 日本に帰ることができた
以後は 帰国許可の経緯である
帰国願書
願書作成手順
光太夫が 漂流の経緯を語る
キリロが それを記述して
帰国願書を書き上げる
それを光太夫が自筆した
提出先
初めはイルクーツク省・長官
キリロは 必ず上手く行く
光太夫を さう励ました
返事を待ってゐる時
日本語を話すロシア人三人が訪れた
三人の素性は
父 宮古町の久助 ①
父 南部の三之助 ②
父 南部の長松 ③
三人のロシア名は それぞれ
①トラペズニコフ
②タタリーナフ
③セメノフ
日本語のレベル
①日本語上手
②③ 片言の日本語
トラペズニコフの話
四十五年前の延享元年(一七四四)
船 ・多賀丸 乗船員十八名
漂流場所不明
漂着・オンネコタン島
漂流中 七名 他界
上陸後 船頭 他界
生存者 十名
カムチャッカに連れて行かれ
イルクーツクに移送され 落ち着く
イルクーツクには「航海学校」があり
その中に「日本語学校」があり
その十人は
皆 日本語学校の教師になるも
やがて 次々と他界
その教師の中の日本人三人が
この地で結婚 子供に恵まれました
私たち三人です
今日 お伺ひしたのは
(久助の妻 つまり)
私・トラペスニゴフの母が
どうしても 父の仲間に会ひたい
会って ご馳走したい
こんな話を持ちかけて来た
光太夫たちは喜んで その招待を受けた
トラペスニゴフの母は かう言った
「久助は 優しく
私と子供たちを愛してくれた
酒を呑むと よく日本の歌を歌ってゐた」
楽しい 食事会だった
数日後 光太夫は 考へた
何故 久助は 日本に帰らなかったのだらうか
それは 帰国願書を 出さなかったから だらうか…
光太夫は この質問をぶつけてみた
トラペズニコフは かう言った
「確かに 父は帰りたがってゐました
しかし その願ひが 果たせなかったは
父だけではありません
九十年前初めて来た人は『伝兵衛』
彼も日本語を教へ 改宗し
ガブリエルの名を戴きました
次は 三右衛門
彼も洗礼を受け イバンと名乗り
伝兵衛の助手として働きました
やがて 二人とも 他界
日本語の教師がゐなくなった時
今度は ソーザとゴンザといふ二人の漂流民が来ました
享保十三年(一七二八)
若潮丸は 大阪へ向けて薩摩を出港
その後漂流し カムチャッカ半島に漂着
ソーザは 宗藏 三十五歳
ゴンザは 権蔵 十一歳
ヤクーツクを経て 首都・ペテロブルグに送られ
女帝アンナと 会ふ
その後 神学校に入れられ ロシア語を本格的に学び
二人は 日本語学校の教師に…
その年に 宗藏 他界
教師は権蔵一人となりましたが
ロシア語に 熟達し 校長ボグダノフと共に
世界初の『露日辞典』を作成
その権蔵も 二十一歳で他界
その後 日本語学校は 教師不在のまま
校長ボグダノフの尽力で存続
六年後「多賀丸」の漂流民が
日本語教師となりました 私の父・久助です」
光太夫は 怖ろしくなった
ロシアに漂流した者は
全て改宗させられ 帰国の望みを断たされ
日本語教師にさせられ この地で 生を終へる
光太夫は 心の中で叫んだ
「違ふ!」
彼らは帰国願書を提出せず
ロシアの言ひなりに暮らしたのだ
私たちには キリロがゐる
キリロが帰国願書を 皇帝に届けてくれる
さう 思ひを強くした頃
キリロと光太夫が
イルクーツク省・長官に呼ばれた
帰国嘆願書の返書は以下
帰国のことは思ひとどまり
オロシア国にて仕官すべし
生活は十分に配慮する
光太夫が
「断じて承知できません」と言ふと
長官は すかさず
「改めて帰国願を出しますか」
キリロは
「その様にして下さい」
かう 返答した
再度の帰国願作成手順は以下
①光太夫が強い帰国の願を述ぶ
②それをキリロが書く
③長官とキリロが清書し
④光太夫が 最後に署名する
かうして 二度目の帰国願が出来た
しかし 一回目の帰国願が
却下されたことを 聞いた庄蔵は
帰国の望みを抱いてイライラ暮らすより
平穏無事に その日その日を暮らす
それだけでいい
さう 言って改宗を覚悟したその頃
二度目の帰国願の返書が来た
今度は
キリロだけが長官に呼ばれ
光太夫は キリロから以下の話を聞いた
仕官を承知するなら 初めは下役人だが
カピタンまで優先昇進させる
仕官する意思がないのなら 商人になればいい
必要な資金は提供するし 税金も免除する
光太夫は キリロに
「ありがたうござゐます」と言ひ
直ぐに 続けて かう言った
「私たちは 仕官にも商人にも なる気はありません
たとへ どのやうな高官にとりたてられ
豊かな商人にならうとも
故国へ戻ることの方が 幸せなのです」
これを聞いたキリロは
黙って 書面を書き出した
三度目の帰国願である
キリロが 光太夫に見せた
そこには
どのやうな高官 または富裕の身にして下さるより
自分にとっては
帰国を許してくれることが最大の恩恵だ
光太夫の思ひが そのまま綴られてゐた
光太夫は その帰国願に 直ぐに署名した
直ぐに ロシア政府の報復があった
いつもの様に 毎月の生活補助金を
役所に 磯吉が受け取りに行くと
「生活補助金の支給停止」と言はれた
役人に 詳細を問ひただすと
光太夫たちが 政府の回答を拒否した時
「生活補助金の支給を停止せよ」
こんな通達が来て居たと言ふ
慌てた光太夫が キリロを訪ぬと
キリロは
「心配 要りません
私が 生活費を保障します
負けてはいけません
必ず良い報せがある
その日を あなたたちと共に 私は 待ちます」と言った
しかし 三度目の返書は来ない
十一ヶ月経っても 返事が来ない
役人が 自分の手許に置いて
皇帝の眼に届いてゐないのでは…
キリロは さう思った
「皇帝に直訴しよう」
キリロは 光太夫に さう言った
光太夫が 直訴を決意した頃
六十歳の九右衛門が 病に倒れた
直訴出立の二日前だった
そこで 光太夫は 葬儀の手配を 新藏に任せ 都へ急いだ
ペテルブルグ
一月十五日 イルクーツク出立
二月十九日 ペテルブルグ着
キリロは 知り合ひの外務大臣代行・陸軍元帥に
四度目の「帰国願書」を手渡した
しかし 返書は来ない
さうかうしてゐるうちに
皇帝は 避暑のため
「ペテルブルグ」から「セロ」に移り
九月にならぬと帰って来ないと聞く
光太夫は
「イルクーツクに戻りたい」とキリロに伝へた
キリロは
「避暑地のセロに行かう」 さう 励ました
光太夫は「もういいです」
キリロは「諦めてはいけない」
キリロは 光太夫を諭した
二人は 避暑地「セロ」に出立
五月八日であった
セロに着いて 直ぐに
キリロの知人ブシと会ふ
ブシは 皇帝から厚く信頼された花園の管理人だった
キリロは 直ぐにブシに 事情を説明した
成り行きを理解したブシは
「皇帝に 光太夫からの願書を
採り上げでもらふ様に働きかける」
さう約束した
六月になった
願書の返事は 未だない
光太夫は イルクーツクに戻りたい
さう思ってゐた
帰国願望も 弱くなってゐた
六月二十八日
ペテルブルグで
四度目の願書を受け取った外務大臣代行・陸軍元帥が
避暑地「セロ」に来て
経過を女帝エカテリーナに報告
女帝は「直ちに参内させよ」
さう 言った
ブシの家に戻ったキリロと光太夫は
女帝との拝謁(はいえつ)の作法を練習した
数日後
ブシの家から 避暑地の宮殿に馬車で向った
馬車を降りて 宮殿の中に入ると
願書を届けてくれた外務大臣代行と商務大臣の二人が
迎へてくれた
二人に先導される様にして
その後を 光太夫とキリロが歩いた
大きな階段の両側には
四百人ほどの男たちが立ってゐた
光太夫は 一人で階段を昇り
教へられた通りの作法の後 後ずさりして階段を降りた
女帝
「この書は誰が書いた? 定めしキリロであらう」
キリロは 頭を下げ
「仰せの通り 私でござゐます
こちらの光太夫の申すままを書きました」
秘書官が近づき
光太夫に事情の説明を促した
光太夫は ゆっくりと かう言った
「白子浜を出て 暴風雨に遭ひ漂流
七ヶ月の漂流中一名他界
そして ロシア領のアムチトカ島に漂着
孤島に出張してゐたロシア商人に
保護されましたが
風土と食物になじめず 七名他界
後に カムチャッカに移送されましたが
そこでも三名が他界
半島横断後
チギリからオホーツク
そして ヤクーツク・イルクーツクに移送
この途中 仲間の一人が凍傷になり
イルクーツクの病院で 片足を切断
私こと光太夫が キリロと二人で
ペテルブルグに向ふ直前
そこでまた仲間の一人が 他界しました
日本を出ました時は十七人でしたが
今は 五人となりました」
女帝は「オホ・ジャウコ」と言った
可哀相に といふ意味である
光太夫が 後で知り得たことだが
「帰国願」は
元老院の政務次官のもとに止められ
皇帝には届かなかった
願書を止め置いた政務次官は
七日の謹慎処分を受けてゐた
女帝エカテリーナは
「イルクーツクで旅の準備を整へ
港はオホーツクにせよ」と
イルクーツクの省・長官に指令した
後日 商務大臣は
女帝から餞別の下賜の命を受け
光太夫を屋敷に招いた
下賜一覧
光太夫には…
金メダル
このメダルは ロシアで
格別の勲功があった者にしか下賜されぬ名誉あるもの
過去に二人 賜った者がゐる
一人は 花火師
もう一人は 九年かけてアメリカ一周をした航海士
このメダルを首にかけた者は
ロシア本国では 最高の栄誉を以て迎へられる
自鳴鐘(時計)
金貨 百五十枚
小市と磯吉には…
銀メダル
小市・磯吉・新藏・庄蔵に…
各々金貨五十枚
帰国までの生活費として
光太夫 銀貨 ・九百枚
他四名 各々銀貨・三百枚
さらに
光太夫に 帰国三人分として
馬車等帰国費用 銀貨・三百枚
帰国食事代 銀貨・二百枚
光太夫は
女帝の温情の深さに感動した
故国への旅
問題は 庄蔵と新藏だった
改宗したために 帰国不可
しかし 黙って帰ることもできない
新藏は 冷静冷淡な所があるので
恐らく 話しても大丈夫
問題は 庄蔵だった
庄蔵の改宗は
本来は帰りたいが 帰れない
どうせ帰れないなら ロシアで気楽に過ごせばいい
こんな選択からの改宗だった
だから 磯吉も小市も
庄蔵に 自分達の帰国決定は 言へなかった
そこで 光太夫が
帰国出立直前に 庄蔵に伝へることになった
その日が来た 光太夫は
「いとまごひに来た
私(光太夫)と磯吉と小市は
今日出立する
お前と新藏は改宗したので 連れて行くわけにはいかん
お前が気の毒で 私も辛い
いつまでも達者に居てくれ
ここで別れたら二度と会へない
互ひに 顔を良く見ておかう
お前の顔を決して忘れない
達者でな」と言って
逃げる様に 庄蔵の借家を出た
背後に 庄蔵の気配を感じた
突然 野獣の様な叫び聲が聞こえた
光太夫は 走りながら振り返った
路上に出て来た庄蔵が
片足で跳ねる様に追ひながら
「連れて行ってくれ おれも帰る」
子供の様に 大きな聲をあげて
泣き叫んでゐる
庄蔵は 倒れては起き上がり
泣きわめいて追って来る
庄蔵が哀れで
光太夫の 眼から涙があふれ出た
頬に流れる涙もぬぐうことなく
光太夫は 走り続けた
庄蔵の聲が 耳について離れなかった
光太夫は 嗚咽(おえつ)した
新藏との別れ
新藏には 出立の日を
予め小市が 帰国を手紙で伝へてゐた
予想通り
新藏は 動揺することなく 冷静であった
出立の日
小市と磯吉が荷馬車で走ってゐると
後から新藏が 馬でついて来た
いつまでも ついて来るので
「もう 戻った方がいい」と磯吉と小市が言ふも
新藏は
「もう少し…」と言ってついて来る
仕方がないので 二人は馬を止め
「ここで別れよう」と言ふと
新藏も 馬から降りて
「ここから引き返す」と言った
その時 突然 新藏から
うっ といふ呻き聲が漏れ
はじける様な泣き聲をあげ
磯吉に しがみついて来た
激しい泣き方で 幼児の様に 磯吉の体をゆする
磯吉は 黙って新藏の背中をさする
磯吉も小市も 涙が止まらなかった
「体に気をつけてな」
「冬の寒さに負けるなよ」
互ひに手を振りながら別れた
約束の地点で 光太夫と合流し
三人で オホーツクまで急いだ
ロシア使節団
オホーツクに着くと
キリロの次男「アダム・ラクスマン」が
三ヶ月も前から この地に来て
旅仕度を整へ 待ってゐた
船名 エカテリーナ号
形 商船
通訳 トラペズニコフ
多賀丸・久助の長男
トゴルコフ
トラペズニコフの本語学校の教へ子
団長 アダム・ラクスマン
二十六歳 陸軍中尉
水先案内人
シャリバン
交易準備
ロシアの商人一団
(総員四十二名であった)
寛政四年(一七九二)
八月九日
オホーツク出港
九月三日
根室近辺到着
九月四日
松前藩主張役所・根室上陸
十一月五日
船上寒さ厳しく
許可得て 陸に仮小屋建築
寛政五年(一七九三)
三月十二日
ロシア船員一人 他界
三月二十三日
松前藩 鈴木熊藏 他界
熊蔵は
ロシア人から 温かい人柄で好かれてゐた
四月一日
ロシアとの交渉の幕吏到着
その夜 小市意識混濁状態
四月二日
夜明け近く 小市 他界
根室に
「伊勢国白子浦水主小市」と書かれた木標を立てる
四月四日
幕府…ここで漂流民受取り
即刻 使節団ロシア帰港を希望
アダム・ラクスマン…
女帝の命にて 漂流民返還
よって
軽い身分の者に漂流民を渡せないと主張
結局
「松前藩」にて漂流民受取決定
五月三日
エカテリーナ号先導役の幕府の船が到着
六月九日
二船・箱館入港
六月十一日
箱館から陸路で松前に向ふ
おびただしい数の警備がつき
大名行列の様な総勢四二〇名の大行列となった
六月二十一日
松前藩浜屋敷にて第一回会談
ラクスマンの主張
漂流民を届けた際に
日本との友好協約締結を希望
幕府…終始無言
六月二十四日 第二回会談
日本との通商を求むなら
長崎に赴くように告げ
長崎に入港する「許可証」を与へる用意がある
と言った
六月二十七日 第三回会談
幕吏 石川将監・村上大学
ロシア アダム・ラクスマン
幕府側
漂流民二人受取証書と
入港許可書『信牌(しんぱい)』を渡す
ロシア側
大鏡二個
ピストル二挺
寒暖計二個 を幕府に進呈
七月十六日
ロシア使節団 箱館出港
ーーー当時の様子ーーー
安永七年(一七七八)
ロシア船 根室に来航
交易求むも 幕府拒否
ロシア船には
日本語学校の日本人教師から
日本語を習ったロシア人通訳もゐた
ロシア船は そのまま去った
安永八年(一七七九)
根室と釧路の間 やや釧路よりの
厚岸(あっけし)に来航
交易を求むも 幕府は再び拒絶
ーーー ーーーー
こんな時に ロシア事情に通じ
ロシア語も身につけた二人光太夫と磯吉が帰国
対露交渉に欠かせぬ重要人物だった
だから 幕府は
江戸までの道中 役人が毒味までして二人を守った
寛政五年 江戸へ
七月十六日
光太夫一行 津軽海峡渡る
八月十七日
江戸の入口 千住宿に着く
奉行所の取調べが終はると
雉子橋外の長屋に運ばれた
十畳の座敷に 別々に入れられた
窓は全て板が打ち付けられ
同心が昼夜警護にあたってゐた
九月十八日
江戸城内・吹上御物見所の
白州に導かれ 問答を受けた
質問者は
・桂川甫周(ほしゅう)
・高井清寅(きよとら)
その後 桂川甫周が たびたび
光太夫を訪ねては 質問をつづけ
それが 厖大な記録となり
後に『北槎聞略』としてまとめられた
今は岩波文庫で読める
寛政六年(一七九四)七月一日
二人は 奉行所に出頭
今後の処置の申渡し書が
読み上げられた
「光太夫四十四歳 磯吉二十九歳は
オロシアに渡って
長年苦難に遭ひながら
帰国したことは『奇特成志』(きとくなるし)
その苦労に対し
光太夫に 金三十枚
磯吉に 金二十枚 を下賜する」
つづけて
一 漂流民は帰還すると 故郷へ戻すのが習ひだが
二人は江戸に留まる様にせよ
宿所は 番町の薬園内にある住居とする
月々の生活費は
光太夫に金三両 磯吉に二両とする
二 両人とも思ひのままに妻帯し
安楽に暮らすが良い 薬園に住むとはいへ
植物の世話は 一切しなくてよい
三 赤人の国(ロシア)の様子を
みだりに人に話してはならぬ
二人は 右の申渡しを受け
その日の内に 六畳三間の薬園の住居に移った
念願の帰国を果たすも
根室で 他界した小市にも
同等の扱ひをすべきとの聲多く
小市の妻「けん」には 銀十枚が下賜された
蘭学者の桂川甫周は 「北槎聞略」をまとめた後も
光太夫のもとを訪れた
ある日 甫周は 光太夫に
「大槻玄沢の蘭学者たちの
芝蘭堂(しらんど)新元会と称する会に
正賓として出て欲しい」と言った
開催日は
寛政六年(一七九四)閏(うるう)十一月十一日
西洋暦では一七九五年一月一日
会場は 大槻玄沢の家塾・芝蘭堂
ナイフとフォークが用意され 酒も 葡萄酒が出された
寛政七年(一七九五)
光太夫四十五歳 磯吉三十歳
この年 周囲の勧めもあって
光太夫は 十八歳の娘「まき」を嫁として迎へ入れた
翌年 磯吉も 嫁をもらった
寛政九年(一七九六)
「まき」が 男子を産む
光太夫は 名を亀二郎と名づけた
寛政十年(一七九八)十一月二十八日
故郷若松村の亀山藩が帰郷許可
しかし 滞在期間は三十日
磯吉は 故郷「若松村」に出立
七十五歳の母は
磯吉にしがみついて泣く
磯吉は そこで父三五郎の死を詳しく語る
妹たち 知人親類も 駆けつけ
その日の酒宴は 夜まで続いた
一方 光太夫のもとには
ロシア語習得を願ふものが よく 訪れてゐた
ロシア地図の作成にあたってゐた幕府天文方の間重富も
その一人であった
文化二年(一八〇五)
ロシアから帰国した漂流民が
江戸に入り 市中の話題となった
前年の文化元年(一八〇四)に
来日したロシア使節レザノフの
乗る船で帰国した四人だった
寛政五年(一七九三)十一月二十七日
船 若宮丸
出港 陸奥国石巻
船乗 十六名
漂流 五ヶ月
漂着 アリューシャン列島
寛政七年(一七九五)
ロシア人の保護を受け
オホーツクからイルクーツクに移送
聞き取り役は
光太夫たちは 桂川甫周だったが
若宮丸船員は 大槻玄沢だった
しかし 帰還した船乗りたちは
光太夫たちの様に「ロシア語」に精通してゐなかった
そのため
彼らの漂流生活は詳しくわからなかった
そこで大槻は 厖大な聞書の校閲を 光太夫に頼んだ
光太夫は 快く引き受けた
大槻と二人で記録の細部にわたって 一つ一つ検討した
庄蔵と新藏
イルクーツクの生活記録に
日本語通訳のトゴルコフの家で世話になった とあった
トゴルコフは
漂流民久助の長男トラペズニコフの日本語学校の教へ子で
一緒に 根室に来た通訳だった
光太夫は驚き 記録を読みすすめた
記録によれば
トゴルコフの勧めで
漂流民二人が 改宗
これを不快に思った儀兵衛は
二人と別れ 庄蔵の家に移った
庄蔵は 病身で 儀兵衛と同居した年の夏に他界
儀兵衛が看取ったといふ
新藏の名も出て来た
新蔵は「日本語学校の教師」になってゐた
若宮丸の漂流民は
新藏について「怜悧」と表現
冷たい人柄と感じてゐたのだらう
光太夫の活躍
文化元年(一八〇四)
幕府は
ラクスマンに渡した入港許可書「信牌」を手にした
ロシア使節レザノフの入港拒否
これによって ロシアとの関係は悪化
これより 光太夫のもとに 語学の才に長けた者が
以前より頻繁に訪れる様になった
通詞・馬場佐十郞もその一人だった
彼は 幕府の命を受けてロシア語を習ひに来てゐた
馬場は
「ロシア語短文集」をまとめた
そこには一四〇〇の単語があった
洋学者・足立左内も習ひに来てゐた
○露寇事件
文化元年(一八〇四)
若宮丸の漂流民が返還された
その二年後
文化三年(一八〇六)九月と
文化四年(一八〇七)四月に
ロシアは
樺太・択捉・利尻島を襲った
これは 明らかに 幕府の
・入港拒否
・通商拒否 の報復だった
人質解放時には
「通商拒否すれば日本全土攻撃」
こんな脅しの手紙も送られて来た
文化八年(一八一一)
北方海域調査に来たゴローニンが
国後島にて 薪・水補給を求む
幕府はこの時 ゴローニンら捕縛拘留
文化九年(一八一二)
部下の「リコルド」が
国後島に来て ゴローニン返還要求するも
幕府 拒否
リコルド 報復として 高田屋嘉兵衛ら拿捕
文化十年(一八一三)五月
高田屋嘉兵衛を釈放し ゴローニンの釈放を要求
幕府 露寇事件の謝罪と略奪品の返還を要求
「リコルド」了承して退去
同年九月
人質解放交渉のため「リコルド」箱館入港
通訳 馬場佐十郞
足立左内
通訳の二人は 前述した様に
光太夫の宿所に訪れ ロシア語を習ひに来た二人だった
日露交渉は 順調に進み
ゴローニンは 解放された
文政十一年(一八二八)
四月十五日 光太夫 他界
七十八歳 本郷の興安寺に眠る
天保九年(一八三八)
十一月十五日 磯吉 他界
遺言により
磯吉 本郷の興安寺に埋葬
七十三歳であった
嘉永四年(一八五一)
五月二十二日 亀二郎 他界
光太夫の息子・亀二郎は 学識を備へた学者となり
姓を大黒とし 号を梅陰とした
同じく 興安寺に眠る 五十五歳であった
原作 吉村昭『大黒屋光太夫』
詩文 岩田修良
打語 天地之詞(和式入力)
日付 令和六年八月九日
幕末から大東亜戦争まで
信を失った日本
一 ロシアとの出来事(鎖国維持)
①ラックスマン来日 寛政四年(一七九二)
②レザノフ来日 文化元年(一八〇四)
③露寇事件 文化三年・四年
④ゴローニン捕縛事件 文化八年(一八一一)
・高田屋嘉兵衛捕縛事件 文化九年(一八一二)
・ゴローニン解放 文化十年(一八一三)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
二 イギリスとの出来事(鎖国維持)
①フェートン号事件 文化五年(一八〇八)
②長崎出島事件 文化十年(一八一三)
③大津浜事件 文政七年(一八二四)
④トカラ列島 宝島事件 同年
無二念異国船打払令 文政八年(一八二五)
⑤モリソン号事件 天保八年(一八三七)
蛮社の獄(⑤に呼応) 天保十年(一八三九)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
①フランス極東艦隊のアルクメーヌ号 那覇入港
②オランダ国王の開国勧告
③アメリカからの手紙
④ペリー 浦賀来航 嘉永六年(一八五三)
⑤プチャーチン 長崎来航 同年
⑥スターリング 長崎来航 嘉永七年
⑦ハリス来日
⑧横浜開港←「開国開始」
四 内乱から薩長暴力革命政府誕生まで
①安政の大獄
②桜田門外の変
③王政復古
④鳥羽伏見の戦
⑤箱館戦争
五 薩長革命政府のアジア・南方侵略開始から終焉
①「草梁倭館」略奪 大東亜戦争開始
②「朝鮮侵略」
③「満州侵略」
④「南方進出」「中国侵略」(和たぐ新聞)
⑤「大東亜戦争」(和たぐ新聞)
右の一五〇年の「史実」を淡々と「縦書詩文」で綴る
一 ロシアとの関係
二 イギリスとの関係
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
四 「内乱」から「暴力革命政府誕生」まで
五 革命政府のアジア・南方拡張期から敗戦まで
敗戦するも
革命政府の国体維持して今日に至る
革命政府が 破壊したもの
①昔の日の丸 幕末
②和暦 明治
③国典喪失 明治
④縦書 戦後
⑤専業主婦 戦後
したがって 古き良き日本を取り戻すには
①昔の日の丸復古
②和暦復古
③国典復古
④縦書復古
⑤専業主婦復古
そのためには
薩長の革命に至るまでの歴史と
薩長の革命政府による世界制覇の夢の足跡を知る必要あり
つまり
革命政府がやった愚策を知り
その足跡を知れば
それを元に戻したくなるのが人情だ
さすれば 和が国は 和で豊かな暮を実感できる
革命政府は
『古事記』の「禍津日神」を国旗にしてしまった
今の日の丸は「禍の火種」である
だから 禍が多い
当たり前だ 「禍の火種」を国旗にすれば
禍が多いのは 当たり前だ
それは国宝『清水寺縁起』を見ればわかる
お近くの図書館に行かれ 確認されたし
何と 大和朝廷が 今の日の丸軍を退治してゐる
そして 日の丸軍の姿を見られよ
地獄に住むと言はれた餓鬼畜生の姿をしてゐる
「賤しい民」である
「賤しい民」とは何か どんな心の持ち主か…
「金くれ 物くれ 飯をくれ」
権力者に餌付けされ 手なづけられた人である
餌付けされて行くに内に 自尊心を失ってゐるのだ
平田篤胤の「日文」から生まれた「皇国」
その権力者たちに餌付けされた国民の姿
金くれ 物くれ 飯をくれ
この「皇国」が 世界制覇して 世界は安定する
佐藤信淵の世界平和論である
異心暴力革命政府は
この佐藤信淵の『宇内混同秘策』を教書とした
世界制覇の拠点を「東京」としたのも教書に拠る
そして アジア・南方侵略が始まった
それは 釜山の「草梁倭館」の略奪に始まる
確かに大東亜戦争は 昭和十六年十二月八日に始まった
それは 東南アジア・南方への拡大である
その始まりは 釜山「草梁倭館」の略奪に始まる
革命政府は
天保末期に完成した
弘化元年(一八四四)より採用された太陰太陽暦が
世界に誇る和暦である事に気づかず
勢ひ西暦を 国暦としてしまった
そのために 昔を暦で体感できず
過去との繋がりを無くした国民は
糸の切れた凧となり
浮き世の風のまにまに 暮らすやうになった
天保和暦は 地球の公転面が楕円であることに気づき
それを修正した世界最高水準の太陰太陽暦であった
革命政府は
国典「天地之詞」を抹殺するために
五十音図に着目させ 真字とカナを重んじ
かな文字を嫌った
しかし 貫之から香川桂樹まで
古人は「天地之詞」を教典とし
力をも入れずして天地を動かす詞を探った
人力で平和を構築出来ないことを知ってゐたからだ
香川の以下の歌を最後に「天地之詞」の研究は終はった
天地の
動く調べを
尋ぬれば
心の奥の
峰の松風
和が国の文化とは何か…
貫之が 仮名序に
ー力をも入れずして天地を動かすーと言ったやうに
力をも入れずして「天地を動かす詞」である
それが
・歌なのか
・文字なのか
・木と葉なのか
それは未だにわからない
だから「天地之詞」を研究する必要がある
ややこしいのは
この教典が密教の教典になってしまひ
秘匿されながら 語り継がれて来たことだ
たとへば 忠臣蔵の暗号文
山? 川! は「天地之詞」の三行詞である
これが和が国の教典である
だから今一度 知惠を絞って和訳する必要がある
何故か?
そこに力をも入れずして天地を動かす詞が
語られてゐると思はるからだ
探せば 必ず世界を平和にする詞に出会す筈だ
さすれば 自づと「十井文字」に辿りつける
したがって 国典の復古は 不可欠だ
革命政府は
横文字に注目するあまり
和が国の文字が 縦に真っ直ぐ歩くことを忘れ
すっかり横書文化にしてしまった
交番を「KOBAN」と書いて恥づることなく
国名を「JAPAN」と変へて恥づることなし
和文字を捨てて 横文字を使ふことをオシャレだと
信じて疑はぬ民族にまで 堕ちてしまった
革命政府は
家に帰ったらお母さんがゐる
家にお母さんがゐることが
子供が一番安定することを忘れ
西洋風の夫婦共働きを奨励
結果
不安定な子供
不安定な親たちが増え
親と子供の心は荒んで来た
専業主婦といふ仕事が
どれだけ価値があるのか
どれだけ子育てに有効なのか
そこに気づかず そして比較研究もせず
やたらお金をばらまき
専業主婦を減らすことに力を注ぐ
専業主婦が増えれば
保育所の数も減るし 政府の補助金も減る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな荒んだ世の中に誰がした?
「禍の火種」である
それに気づくことなく
気づいても知らんぷりし続けた私たち日本国民である
一日でも早く 昔の日の丸を取返さねばならぬ
このまま永遠に「禍天下」にして置く訳には行かぬ
昔の日の丸は
・ののさま 山山
・ほっこり 高天
・草取此炉 心眼
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
和たぐ新聞(只今 以下三つ)
ロシアとの関係
①ラックスマン
アジア・南方侵略
④南方進出・中国侵略
⑤大東亜戦争
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一 ロシアとの出来事
①寛政四年(一七九二)九月三日
ラックスマン
光太夫・磯吉・小市三人の漂流民と国書抱へて根室入港
幕府 国書受け取らず
代はりに長崎入港許可書を渡して ロシアに帰す
詳細は大黒屋光太夫
②文化元年(一八〇四)九月六日
レザノフ入港許可書と国書持って長崎入港
半年幽閉状態で待たされ 強行にロシアに帰さる
将軍へのご進物まで拒否されて退去
カムチャッカに戻り 日本の非礼を語る
日本の非礼に 部下の
フォストフ大尉怒り 仕返しを考ふ
③文化三年(一八〇六)九月十一日 樺太で略奪放火
③文化四年(一八〇七)四月二十九日 択捉島で略奪放火
後日解放された人質は 手紙を持ってゐた
そこには
「ロシアとの交易を断れば
来春は 日本全土を攻撃する」と書かれてゐた
極度にロシアを怖れる「恐露」は
この時に生まれ 今に残る
この事件を「露寇事件」といふ
④文化八年(一八一一)六月四日
松前藩 北方四島測量のゴローニン捕縛
幕府側の「露寇事件」の仕返しだ
ロシアも ならばこちらも…
文化九年(一八一二)八月十四日
ゴローニンの部下リコルドが
大阪商人・高田屋嘉兵衛を捕縛
ペトロバブロフスクに収監された
しかし 嘉兵衛は賢く
片言のロシア語を習得して ロシアにかう諭す
「日本全土を攻撃するといふのは
ロシア皇帝の意志ではなく
一軍人の吐いた言動であると語り
幕府に その旨を陳謝すれば
幕府は必ずわかって
ゴローニンを解放する」
これを聞いたリコルドは
文化十年(一八一三)五月六日
嘉兵衛を信じ
ロシアの陳謝文を嘉兵衛に持たせ
嘉兵衛を「国後島」で解放
蝦夷に戻った嘉兵衛は
松前奉行所とリコルドの仲立ちとなり奔走
同年八月二十六日
ゴローニンは 箱館で解放された
その時の様子をゴローニンがまとめた
『日本幽囚記』である
この書で 嘉兵衛は
日本の英雄として讃へられた
この書のオランダ語の和訳に取組んだのが
後にシーボルト事件で捕まり
後に獄死する高橋景保
二 イギリスとの出来事
①フェートン号事件
オランダ事情
そのころ ヨーロッパは
フランス革命に端を発した戦乱で
大きく揺れてゐた
フランスは
・オーストリア
・イギリス
・オランダに 宣戦布告
フランスのナポレオン・ボナパルトは
大軍を率いて イタリア オーストリアに進攻
そしてオランダも占領!
ウィリアム五世は追放
オランダの国王には
甥のルイ・ナポレオンが就いた
追放されたウィリアム五世は
イギリスと軍事同盟を結んだ
この時 ウィリアム五世は
オランダの海外植民地を
イギリス陸・海軍の管理下にすることに同意
イギリスは この同意にもとづいて
オランダの各地の植民地を掌中に治め
その勢ひは オランダ領東インドに及んだ
そこで イギリスは
東インド総督・ピーターに
「イギリスの管理下にある」ことを通告
しかし 総督・ピーターは その通告を拒否
そのため
イギリスの東インド艦隊が
オランダ領東インド艦隊を攻撃した
この戦ひで オランダ艦隊が
長崎の出島に逃げたと思って
文化五年(一八〇八)八月十五日
イギリス船が オランダ国旗を掲げて
長崎に入港して来た
ーー略ーー
入港して来た船の確認に
出島の商館員のホゼマンとスヒンメルが向かふも
その場で イギリス艦隊に捕縛された
夕方になって人質の一人ホゼマンが解放された
ホゼマンが言ふには
フェートン号は 二隻の「オランダ船」が
インドネシアのバタビアを出港して
長崎に向かったといふ情報を得て
その「船」を追ったが 船影を確認できず
既に長崎に入港してゐると推定し
オランダ国旗を掲げて入港したといふ
ホゼマンは
フェートン号艦長ペリューの書簡を持って居た
ペリューの書簡は
フェートン号に乗ってゐたオランダ人の水兵が
オランダ語にしたものだった
これを大通詞中山作三郎が即座に和訳した
・本日中に ホゼマンに
飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
・要求に応じぬ場は
スヒンメルを殺害し 港内の船を全て焼き払ふ
これを聞いた長崎奉行松平康英は
「法外之横文字」と激怒した
商館長のドーフは
艦内に残されたスヒンメルが忍びない とし
松平に 艦内に飲料水と食糧を送ることを嘆願した
これを受けて松平は飲料水と食糧を持たせて
ホゼマンを帰艦させた
ドーフは
松平の許しを得て 牛二頭・豚等を送った
一方 松平は 合戦に備へ
フェートン号が出られぬやうに 港口に小舟を多数沈め
おほよそ百艘の小舟に葦と藁を満載して
フェートン号を囲んだ
火を放ってフェートン号を炎上させるつもりだった
この合戦は 長崎市中にも伝へられ
旅人は争って長崎を離れ
多くの奉公人が 田舎へ逃げ帰った
商品は売れず 売れたものは ローソクと草鞋だった
入港して来たその翌日の午後二時頃(八つ)
不意に フェートン号の舳先が港外に向けられ
港外に動き出した
奉行松平は 拳をふり地団駄を踏んで口惜しがった
午後五時過ぎには 水平線下に消えてゐた
松平は 家来をねぎらひ 夜 酒宴を開いたが
深夜 庭の生垣のそばに毛氈(もうせん)を敷き
腹を切り 咽喉を鍔元(つばもと)まで突き刺して
自刃してゐるのが発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには
事件の経過が記され
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたこと申し訳なく切腹する
と 記されてゐた
文化三年と文化四年に起きた「露寇事件」
その翌年の文化五年に起きた「フェートン号事件」
ロシアに続くイギリスの暴挙として
幕末 多くの日本人に この事件は記憶された
文政七年(一八二四)五月二十八日
イギリス人が 茨城大津浜に上陸
大津浜事件である
水戸藩では ロシアの襲撃と誤認して 抜刀隊が出動
しかし どうも様子がをかしい
上陸して来たイギリス人は
攻撃的ではなく友好的だった
ここにオランダ商館長から英語をならった通詞が来た
通詞たちの習った英語は 全く通じなかった
その理由が 通詞たちにはわからなかったが
後日 商館長ドーフの英語が
オランダ訛であることがわかった
結局 身振り手振りで意思疎通を図ると
上陸した目的は 長い船旅で起こる
ビタミンC不足の壊血病だった
そこで 水戸藩は 大量の野菜や酒を提供した
同年(一八二四)七月八日
イギリス人が トカラ列島の宝島に上陸
宝島事件である
前述とは別のイギリス人で
今度は食用の牛を求めて来た
薩摩の出先の役人が断るも 執拗に求めて
イギリス人は 遂に牛三頭を強奪
それを見た役人吉村九郎が 脅しで銃を撃つと
たまたま 一人に命中して射殺
これで イギリス人が 慌てて逃げた
この大津浜事件と宝島事件をきっかけに
幕府は 当時の天文方筆頭の高橋景保に
幕府の好ましい対応を訊いた
高橋景保は 当時の世界情勢に通じてゐたため
多くの捕鯨船が
日本近海に集まってゐることを知ってゐた
だから 空砲を鳴らして捕鯨船を脅かし追ひ払へばいい
それでも上陸しようとするものには
薪と水を提供し 静かに退去させる
こんな案を出した
これを聞いた幕府の役人遠山景晋(かげみち)は
空砲では生ぬるいとし
撃つか撃たぬか迷ふことなく撃て!といふ意味を込め
文政八年(一八二五)二月十八日
幕府 無二念打払令を発令
タカ派とハト派の対立はここに始まる
今からちゃうど二百年前になる
したがって
平和路線(高橋景保)を歩くべきか
軍拡路線(遠山景晋)をとるべきかの議論は
今に始まるものではなく
二百年前から続く対立であって
未だに その決着は出てゐない
天保八年(一八三七)六月二十八日
漂流民の送還と通商を求めるアメリカ船・モリソン号が
マカオを出て浦賀に入るも 日本は砲撃
船は翌月 鹿児島湾に碇泊するも
再び砲撃を受け 船は漂流民を乗せたままマカオに退去
ーモリソン号事件ーである
天保九年(一八三八)
幕府は オランダ商館長のグラッディソンから
来航の目的を聞いた
そこで幕府は 再び入港した場合 どうするか審議した
結果は 同じ
漂流民は受け取らず 異国船は打ち払ふべし
同年(一八三八)十月
この頃 遠藤勝助が主宰する
洋学研究集団「尚歯会」があった
そこに幕府の評定所の記録方・芳賀市三郎がゐた
芳賀は うっかりそこで幕府の秘密を漏らした
芳賀は 前年と同様にモリソン号が来航したら
容赦なく砲撃を浴びせる意志を
幕府が固めたことを伝へた
尚歯会の者たちは動揺した
何故なら
イギリスは世界の強国で
火力に恵まれた軍船も多い
それに比べて日本の武力は貧弱
このやうな状況で 発砲すれば
イギリスは 大規模な武力行動を起こし
それは 日本の滅亡に繋がると考へたからだった
崋山は 当時の世界情勢に通じてをり
イギリスが東洋の植民地政策を
積極的に進めてゐることを知ってゐた
だから渡辺崋山は
もし こちらから砲撃すれば
それを口実に多くの軍船を出動させて
日本を占領し 植民地にすることが予想される
異国船打払令は
日本の存亡に係はる危険なものとして
強くその法令に反対した
さらに
外国との交流を避けてゐるのは日本だけで
鎖国政策を続けることは無理だと断じ
幕府を非難した
『慎機論』である
高野長英も『夢物語』を書き かう説いた
こちらから砲撃すれば
相手は礼儀知らずと考へ
後に大きな禍ひを起こすおそれがある
だから モリソン号が再び来航したら
漂流民を受け取り
鎖国政策のため交易は出来ぬことをさとし
おだやかに退去させるべきだ と
幕府の異国船打払を批判
ーーーここまでがモリソン号事件ーーー
以下が これを受けて一気に
洋学研究集団「尚歯会」の潰滅を狙って起きた事件が
「蛮社の獄」である
だから広辞苑は「蛮社の獄」を かう語る
江戸幕府が
渡辺崋山と高野長英らの
「尚歯会」に加へた言論弾圧
この二人の幕府批判が
洋学嫌ひの鳥居耀蔵の目にとまった
当時の「尚歯会」には
崋山や長英の他に 後に活躍する
江川英龍や川路聖謨 高島秋帆もゐた
この三人の失脚も 鳥居は狙って事件を作った
令和七年一月一〇日
ー続くー
一 ロシアとの出来事(鎖国維持)
①ラックスマン来日 寛政四年(一七九二)
②レザノフ来日 文化元年(一八〇四)
③露寇事件 文化三年・四年
④ゴローニン捕縛事件 文化八年(一八一一)
・高田屋嘉兵衛捕縛事件 文化九年(一八一二)
・ゴローニン解放 文化十年(一八一三)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
二 イギリスとの出来事(鎖国維持)
①フェートン号事件 文化五年(一八〇八)
②長崎出島事件 文化十年(一八一三)
③大津浜事件 文政七年(一八二四)
④トカラ列島 宝島事件 同年
無二念異国船打払令 文政八年(一八二五)
⑤モリソン号事件 天保八年(一八三七)
蛮社の獄(⑤に呼応) 天保十年(一八三九)
事件あるも結局「鎖国維持」できた
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
①フランス極東艦隊のアルクメーヌ号 那覇入港
②オランダ国王の開国勧告
③アメリカからの手紙
④ペリー 浦賀来航 嘉永六年(一八五三)
⑤プチャーチン 長崎来航 同年
⑥スターリング 長崎来航 嘉永七年
⑦ハリス来日
⑧横浜開港←「開国開始」
四 内乱から薩長暴力革命政府誕生まで
①安政の大獄
②桜田門外の変
③王政復古
④鳥羽伏見の戦
⑤箱館戦争
五 薩長革命政府のアジア・南方侵略開始から終焉
①「草梁倭館」略奪 大東亜戦争開始
②「朝鮮侵略」
③「満州侵略」
④「南方進出」「中国侵略」(和たぐ新聞)
⑤「大東亜戦争」(和たぐ新聞)
右の一五〇年の「史実」を淡々と「縦書詩文」で綴る
一 ロシアとの関係
二 イギリスとの関係
三 「不完全鎖国」から「開国」まで
四 「内乱」から「暴力革命政府誕生」まで
五 革命政府のアジア・南方拡張期から敗戦まで
敗戦するも
革命政府の国体維持して今日に至る
革命政府が 破壊したもの
①昔の日の丸 幕末
②和暦 明治
③国典喪失 明治
④縦書 戦後
⑤専業主婦 戦後
したがって 古き良き日本を取り戻すには
①昔の日の丸復古
②和暦復古
③国典復古
④縦書復古
⑤専業主婦復古
そのためには
薩長の革命に至るまでの歴史と
薩長の革命政府による世界制覇の夢の足跡を知る必要あり
つまり
革命政府がやった愚策を知り
その足跡を知れば
それを元に戻したくなるのが人情だ
さすれば 和が国は 和で豊かな暮を実感できる
革命政府は
『古事記』の「禍津日神」を国旗にしてしまった
今の日の丸は「禍の火種」である
だから 禍が多い
当たり前だ 「禍の火種」を国旗にすれば
禍が多いのは 当たり前だ
それは国宝『清水寺縁起』を見ればわかる
お近くの図書館に行かれ 確認されたし
何と 大和朝廷が 今の日の丸軍を退治してゐる
そして 日の丸軍の姿を見られよ
地獄に住むと言はれた餓鬼畜生の姿をしてゐる
「賤しい民」である
「賤しい民」とは何か どんな心の持ち主か…
「金くれ 物くれ 飯をくれ」
権力者に餌付けされ 手なづけられた人である
餌付けされて行くに内に 自尊心を失ってゐるのだ
平田篤胤の「日文」から生まれた「皇国」
その権力者たちに餌付けされた国民の姿
金くれ 物くれ 飯をくれ
この「皇国」が 世界制覇して 世界は安定する
佐藤信淵の世界平和論である
異心暴力革命政府は
この佐藤信淵の『宇内混同秘策』を教書とした
世界制覇の拠点を「東京」としたのも教書に拠る
そして アジア・南方侵略が始まった
それは 釜山の「草梁倭館」の略奪に始まる
確かに大東亜戦争は 昭和十六年十二月八日に始まった
それは 東南アジア・南方への拡大である
その始まりは 釜山「草梁倭館」の略奪に始まる
革命政府は
天保末期に完成した
弘化元年(一八四四)より採用された太陰太陽暦が
世界に誇る和暦である事に気づかず
勢ひ西暦を 国暦としてしまった
そのために 昔を暦で体感できず
過去との繋がりを無くした国民は
糸の切れた凧となり
浮き世の風のまにまに 暮らすやうになった
天保和暦は 地球の公転面が楕円であることに気づき
それを修正した世界最高水準の太陰太陽暦であった
革命政府は
国典「天地之詞」を抹殺するために
五十音図に着目させ 真字とカナを重んじ
かな文字を嫌った
しかし 貫之から香川桂樹まで
古人は「天地之詞」を教典とし
力をも入れずして天地を動かす詞を探った
人力で平和を構築出来ないことを知ってゐたからだ
香川の以下の歌を最後に「天地之詞」の研究は終はった
天地の
動く調べを
尋ぬれば
心の奥の
峰の松風
和が国の文化とは何か…
貫之が 仮名序に
ー力をも入れずして天地を動かすーと言ったやうに
力をも入れずして「天地を動かす詞」である
それが
・歌なのか
・文字なのか
・木と葉なのか
それは未だにわからない
だから「天地之詞」を研究する必要がある
ややこしいのは
この教典が密教の教典になってしまひ
秘匿されながら 語り継がれて来たことだ
たとへば 忠臣蔵の暗号文
山? 川! は「天地之詞」の三行詞である
これが和が国の教典である
だから今一度 知惠を絞って和訳する必要がある
何故か?
そこに力をも入れずして天地を動かす詞が
語られてゐると思はるからだ
探せば 必ず世界を平和にする詞に出会す筈だ
さすれば 自づと「十井文字」に辿りつける
したがって 国典の復古は 不可欠だ
革命政府は
横文字に注目するあまり
和が国の文字が 縦に真っ直ぐ歩くことを忘れ
すっかり横書文化にしてしまった
交番を「KOBAN」と書いて恥づることなく
国名を「JAPAN」と変へて恥づることなし
和文字を捨てて 横文字を使ふことをオシャレだと
信じて疑はぬ民族にまで 堕ちてしまった
革命政府は
家に帰ったらお母さんがゐる
家にお母さんがゐることが
子供が一番安定することを忘れ
西洋風の夫婦共働きを奨励
結果
不安定な子供
不安定な親たちが増え
親と子供の心は荒んで来た
専業主婦といふ仕事が
どれだけ価値があるのか
どれだけ子育てに有効なのか
そこに気づかず そして比較研究もせず
やたらお金をばらまき
専業主婦を減らすことに力を注ぐ
専業主婦が増えれば
保育所の数も減るし 政府の補助金も減る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんな荒んだ世の中に誰がした?
「禍の火種」である
それに気づくことなく
気づいても知らんぷりし続けた私たち日本国民である
一日でも早く 昔の日の丸を取返さねばならぬ
このまま永遠に「禍天下」にして置く訳には行かぬ
昔の日の丸は
・ののさま 山山
・ほっこり 高天
・草取此炉 心眼
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
和たぐ新聞(只今 以下三つ)
ロシアとの関係
①ラックスマン
アジア・南方侵略
④南方進出・中国侵略
⑤大東亜戦争
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一 ロシアとの出来事
①寛政四年(一七九二)九月三日
ラックスマン
光太夫・磯吉・小市三人の漂流民と国書抱へて根室入港
幕府 国書受け取らず
代はりに長崎入港許可書を渡して ロシアに帰す
詳細は大黒屋光太夫
②文化元年(一八〇四)九月六日
レザノフ入港許可書と国書持って長崎入港
半年幽閉状態で待たされ 強行にロシアに帰さる
将軍へのご進物まで拒否されて退去
カムチャッカに戻り 日本の非礼を語る
日本の非礼に 部下の
フォストフ大尉怒り 仕返しを考ふ
③文化三年(一八〇六)九月十一日 樺太で略奪放火
③文化四年(一八〇七)四月二十九日 択捉島で略奪放火
後日解放された人質は 手紙を持ってゐた
そこには
「ロシアとの交易を断れば
来春は 日本全土を攻撃する」と書かれてゐた
極度にロシアを怖れる「恐露」は
この時に生まれ 今に残る
この事件を「露寇事件」といふ
④文化八年(一八一一)六月四日
松前藩 北方四島測量のゴローニン捕縛
幕府側の「露寇事件」の仕返しだ
ロシアも ならばこちらも…
文化九年(一八一二)八月十四日
ゴローニンの部下リコルドが
大阪商人・高田屋嘉兵衛を捕縛
ペトロバブロフスクに収監された
しかし 嘉兵衛は賢く
片言のロシア語を習得して ロシアにかう諭す
「日本全土を攻撃するといふのは
ロシア皇帝の意志ではなく
一軍人の吐いた言動であると語り
幕府に その旨を陳謝すれば
幕府は必ずわかって
ゴローニンを解放する」
これを聞いたリコルドは
文化十年(一八一三)五月六日
嘉兵衛を信じ
ロシアの陳謝文を嘉兵衛に持たせ
嘉兵衛を「国後島」で解放
蝦夷に戻った嘉兵衛は
松前奉行所とリコルドの仲立ちとなり奔走
同年八月二十六日
ゴローニンは 箱館で解放された
その時の様子をゴローニンがまとめた
『日本幽囚記』である
この書で 嘉兵衛は
日本の英雄として讃へられた
この書のオランダ語の和訳に取組んだのが
後にシーボルト事件で捕まり
後に獄死する高橋景保
二 イギリスとの出来事
①フェートン号事件
オランダ事情
そのころ ヨーロッパは
フランス革命に端を発した戦乱で
大きく揺れてゐた
フランスは
・オーストリア
・イギリス
・オランダに 宣戦布告
フランスのナポレオン・ボナパルトは
大軍を率いて イタリア オーストリアに進攻
そしてオランダも占領!
ウィリアム五世は追放
オランダの国王には
甥のルイ・ナポレオンが就いた
追放されたウィリアム五世は
イギリスと軍事同盟を結んだ
この時 ウィリアム五世は
オランダの海外植民地を
イギリス陸・海軍の管理下にすることに同意
イギリスは この同意にもとづいて
オランダの各地の植民地を掌中に治め
その勢ひは オランダ領東インドに及んだ
そこで イギリスは
東インド総督・ピーターに
「イギリスの管理下にある」ことを通告
しかし 総督・ピーターは その通告を拒否
そのため
イギリスの東インド艦隊が
オランダ領東インド艦隊を攻撃した
この戦ひで オランダ艦隊が
長崎の出島に逃げたと思って
文化五年(一八〇八)八月十五日
イギリス船が オランダ国旗を掲げて
長崎に入港して来た
ーー略ーー
入港して来た船の確認に
出島の商館員のホゼマンとスヒンメルが向かふも
その場で イギリス艦隊に捕縛された
夕方になって人質の一人ホゼマンが解放された
ホゼマンが言ふには
フェートン号は 二隻の「オランダ船」が
インドネシアのバタビアを出港して
長崎に向かったといふ情報を得て
その「船」を追ったが 船影を確認できず
既に長崎に入港してゐると推定し
オランダ国旗を掲げて入港したといふ
ホゼマンは
フェートン号艦長ペリューの書簡を持って居た
ペリューの書簡は
フェートン号に乗ってゐたオランダ人の水兵が
オランダ語にしたものだった
これを大通詞中山作三郎が即座に和訳した
・本日中に ホゼマンに
飲料水と食糧を持たせて帰艦させよ
・要求に応じぬ場は
スヒンメルを殺害し 港内の船を全て焼き払ふ
これを聞いた長崎奉行松平康英は
「法外之横文字」と激怒した
商館長のドーフは
艦内に残されたスヒンメルが忍びない とし
松平に 艦内に飲料水と食糧を送ることを嘆願した
これを受けて松平は飲料水と食糧を持たせて
ホゼマンを帰艦させた
ドーフは
松平の許しを得て 牛二頭・豚等を送った
一方 松平は 合戦に備へ
フェートン号が出られぬやうに 港口に小舟を多数沈め
おほよそ百艘の小舟に葦と藁を満載して
フェートン号を囲んだ
火を放ってフェートン号を炎上させるつもりだった
この合戦は 長崎市中にも伝へられ
旅人は争って長崎を離れ
多くの奉公人が 田舎へ逃げ帰った
商品は売れず 売れたものは ローソクと草鞋だった
入港して来たその翌日の午後二時頃(八つ)
不意に フェートン号の舳先が港外に向けられ
港外に動き出した
奉行松平は 拳をふり地団駄を踏んで口惜しがった
午後五時過ぎには 水平線下に消えてゐた
松平は 家来をねぎらひ 夜 酒宴を開いたが
深夜 庭の生垣のそばに毛氈(もうせん)を敷き
腹を切り 咽喉を鍔元(つばもと)まで突き刺して
自刃してゐるのが発見された
幕府あての書状が残されてゐた
そこには
事件の経過が記され
奉行としての役目が果たせなかったことを詫び
恥辱を異国にさらしたこと申し訳なく切腹する
と 記されてゐた
文化三年と文化四年に起きた「露寇事件」
その翌年の文化五年に起きた「フェートン号事件」
ロシアに続くイギリスの暴挙として
幕末 多くの日本人に この事件は記憶された
文政七年(一八二四)五月二十八日
イギリス人が 茨城大津浜に上陸
大津浜事件である
水戸藩では ロシアの襲撃と誤認して 抜刀隊が出動
しかし どうも様子がをかしい
上陸して来たイギリス人は
攻撃的ではなく友好的だった
ここにオランダ商館長から英語をならった通詞が来た
通詞たちの習った英語は 全く通じなかった
その理由が 通詞たちにはわからなかったが
後日 商館長ドーフの英語が
オランダ訛であることがわかった
結局 身振り手振りで意思疎通を図ると
上陸した目的は 長い船旅で起こる
ビタミンC不足の壊血病だった
そこで 水戸藩は 大量の野菜や酒を提供した
同年(一八二四)七月八日
イギリス人が トカラ列島の宝島に上陸
宝島事件である
前述とは別のイギリス人で
今度は食用の牛を求めて来た
薩摩の出先の役人が断るも 執拗に求めて
イギリス人は 遂に牛三頭を強奪
それを見た役人吉村九郎が 脅しで銃を撃つと
たまたま 一人に命中して射殺
これで イギリス人が 慌てて逃げた
この大津浜事件と宝島事件をきっかけに
幕府は 当時の天文方筆頭の高橋景保に
幕府の好ましい対応を訊いた
高橋景保は 当時の世界情勢に通じてゐたため
多くの捕鯨船が
日本近海に集まってゐることを知ってゐた
だから 空砲を鳴らして捕鯨船を脅かし追ひ払へばいい
それでも上陸しようとするものには
薪と水を提供し 静かに退去させる
こんな案を出した
これを聞いた幕府の役人遠山景晋(かげみち)は
空砲では生ぬるいとし
撃つか撃たぬか迷ふことなく撃て!といふ意味を込め
文政八年(一八二五)二月十八日
幕府 無二念打払令を発令
タカ派とハト派の対立はここに始まる
今からちゃうど二百年前になる
したがって
平和路線(高橋景保)を歩くべきか
軍拡路線(遠山景晋)をとるべきかの議論は
今に始まるものではなく
二百年前から続く対立であって
未だに その決着は出てゐない
天保八年(一八三七)六月二十八日
漂流民の送還と通商を求めるアメリカ船・モリソン号が
マカオを出て浦賀に入るも 日本は砲撃
船は翌月 鹿児島湾に碇泊するも
再び砲撃を受け 船は漂流民を乗せたままマカオに退去
ーモリソン号事件ーである
天保九年(一八三八)
幕府は オランダ商館長のグラッディソンから
来航の目的を聞いた
そこで幕府は 再び入港した場合 どうするか審議した
結果は 同じ
漂流民は受け取らず 異国船は打ち払ふべし
同年(一八三八)十月
この頃 遠藤勝助が主宰する
洋学研究集団「尚歯会」があった
そこに幕府の評定所の記録方・芳賀市三郎がゐた
芳賀は うっかりそこで幕府の秘密を漏らした
芳賀は 前年と同様にモリソン号が来航したら
容赦なく砲撃を浴びせる意志を
幕府が固めたことを伝へた
尚歯会の者たちは動揺した
何故なら
イギリスは世界の強国で
火力に恵まれた軍船も多い
それに比べて日本の武力は貧弱
このやうな状況で 発砲すれば
イギリスは 大規模な武力行動を起こし
それは 日本の滅亡に繋がると考へたからだった
崋山は 当時の世界情勢に通じてをり
イギリスが東洋の植民地政策を
積極的に進めてゐることを知ってゐた
だから渡辺崋山は
もし こちらから砲撃すれば
それを口実に多くの軍船を出動させて
日本を占領し 植民地にすることが予想される
異国船打払令は
日本の存亡に係はる危険なものとして
強くその法令に反対した
さらに
外国との交流を避けてゐるのは日本だけで
鎖国政策を続けることは無理だと断じ
幕府を非難した
『慎機論』である
高野長英も『夢物語』を書き かう説いた
こちらから砲撃すれば
相手は礼儀知らずと考へ
後に大きな禍ひを起こすおそれがある
だから モリソン号が再び来航したら
漂流民を受け取り
鎖国政策のため交易は出来ぬことをさとし
おだやかに退去させるべきだ と
幕府の異国船打払を批判
ーーーここまでがモリソン号事件ーーー
以下が これを受けて一気に
洋学研究集団「尚歯会」の潰滅を狙って起きた事件が
「蛮社の獄」である
だから広辞苑は「蛮社の獄」を かう語る
江戸幕府が
渡辺崋山と高野長英らの
「尚歯会」に加へた言論弾圧
この二人の幕府批判が
洋学嫌ひの鳥居耀蔵の目にとまった
当時の「尚歯会」には
崋山や長英の他に 後に活躍する
江川英龍や川路聖謨 高島秋帆もゐた
この三人の失脚も 鳥居は狙って事件を作った
令和七年一月一〇日
ー続くー
『長英逃亡』吉村昭
天保十五年(一八四四)六月
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英
一月 緒方洪庵が 移転した過書町(大阪市東区)で
適塾の講義を開始
二月 間宮林蔵他界(二十六日)
樺太が島であることを発見
シーボルトは その樺太地図を見て
樺太島と大陸の海峡を「間宮の瀬戸」と名づけて
ヨーロッパに紹介した これが今の間宮海峡
三月 フランス極東艦隊アルクメーネ号 琉球那覇に入港
アヘン戦争が終はり 英・仏は
極東日本への進出の拠点として琉球を選んだ
本土開国開始が 米国ペリーなら
琉球開国開始は 仏国デュプランと言っていい
フランスが 琉球に 交易を求めて来た
五月 水戸藩主徳川斉昭
藩政改革の行き過ぎを問はれ 隠居謹慎処分浮く
その六月 江戸の伝馬町では…
唐丸籠が 雨の中を走り 牢獄を囲む堀沿ひを進み
高い表門に近づいて行く
小伝馬町の牢は 三〇六三坪=一〇一〇七・九㎡
=約一辺百㍍正方形
大きな牢獄だ
武家・僧・神官は 揚がり屋 揚がり座敷牢だが
連行された男は町人だったから「大牢」に入れられる
牢内は 正式に認められた囚人の自治組織があり
統率者 牢名主(以下役職上位順)
・添役
・隅役
・二番役
・三番役
・四番役
・五番役 計十二名の役人がゐる
新入りの囚人は 同心ではなく
この囚人たちの役人が対応する慣習があった
牢内で同心・役人含め
全ての者が 賄賂を受け取ることができた
牢屋奉行に賄賂をおくると
待遇の良い揚がり屋に 回されることもあった
牢内での役人による制裁は 公然と許され
役人に嫌はれた新入りは 殺害されてしまふこともあった
大牢は 東牢・西牢と二つあり
どちらに入れるかは 同心ではなく
牢名主が決めた
その若い新入りの囚人は 東牢に入れられた
それは 東牢の方が
・穏やかで
・一人あたりの空間も広く
・制裁で新入りを殺害させることがなかったからだ
また 牢名主は 役付き囚人に
酷く扱はぬやう注意するのが常だった
牢名主は 品格のある顔立ちで 言葉使ひも丁寧だった
五年前 つまり天保十年(一八三九)五月十九日
牢に入った証文には かう書かれてゐた
生国 陸奥
年齢 三十六歳
町医師 高野長英

