ののさまほっこり和かな暮
史実淡々
原作者 KENTWEB
原作名 JOYFULNOTE
縦書編集 私塾鶴羽實
編集者名 岩田修良
縦書改名 常世の手紙
住 所 〒四三八ー〇〇八六
磐田市見付二七八六
電 話 〇五三八-三三ー〇二七三
FAX 〇五三八-三一ー五〇〇三
原作名 JOYFULNOTE
縦書編集 私塾鶴羽實
編集者名 岩田修良
縦書改名 常世の手紙
住 所 〒四三八ー〇〇八六
磐田市見付二七八六
電 話 〇五三八-三三ー〇二七三
FAX 〇五三八-三一ー五〇〇三
四ドル即十二ドル 横浜の混乱
元禄元年(一六八八)九月三十日~十七年(一七〇四)三月十三日
この元禄時代に 萩原重秀なる勘定奉行をり
この人 金銀の質を落とし
質を落とした分だけ 幕府が金銀を儲ける
こんな貨幣の改鋳を行った
粗悪な銅銭を批判された萩原は かう言った
たとへ瓦礫の如きの姿になりしも
官府の捺印を施し
それが民間に流通すれば これ貨幣なり
紙も然り
つまり 瓦礫だらうが 紙だらうが
官府(政府)の印を押せば通貨になる
かういふ意味だ
これを「官府の印理論」と 佐藤雅美は名づけた
明和元年(一七六四)六月二日~八年(一七七一)十一月十五日
明和時代の勘定奉行川井久敬は
これは「一両小判」であると称して
「銀貨二枚」を「小判」とする明南鐐二朱銀を発行した
金不足の時に考へ出した策であった
天保元年(一八三〇)十二月十日~十五年(一八四四)十二月一日
天保時代は さらに銀の質を落とし
「銀貨四枚」を「一両小判」とする
そんな時代になってゐた
これが開港当時の「イチブ銀」で
市中に出回ってゐた通貨は この「イチブ銀」であった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり当時の銀貨は
銀貨といふより 銀を紙に少量含んだ「紙幣」に等しく
「一両小判」の「代用貨幣」と言へるものであった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弘化元年(一八四四)十二月二日~五年(一八四八)二月二十七日
そして
嘉永元年(一八四八)二月二十八日~七年(一八五四)十一月二十六日
嘉永時代にも
イチブ銀四枚=小判一枚の国内通貨は続いた
ペリーが来航したのは 嘉永六年六月三日だから
こんな貨幣時代に やって来た
ペリーと結んだ条約は
確かに通商条約ではない和親条約であったが
入港するアメリカ船に 薪・水・食糧を提供することになった
さうすると アメリカは その代金を支払ふことになる
そこで
アメリカの市中出回り通貨(一ドル)と
日本の市中出回り通貨(イチブ銀)との
交換比率を決めることになった
交渉場所は 下田の了仙寺
度重なる交渉の末
嘉永七年(一八五四)五月二十二日
一ドル=イチブ銀と決められた
当時の国際為替と国内事情
一ドル銀貨四枚=一両小判(国際市場)①
イチブ銀貨四枚=一両小判(国内市場)② だから
一ドル銀貨一枚=イチブ銀一枚 ③ 幕府主張
しかし 米国は
一ドル銀貨に イチブ銀の三倍の銀含有を根拠に
一ドル銀貨=イチブ銀三枚を主張
この時 幕府側に 以下の様な主張をできるものがゐなかった
幕府は かう主張すべきだった
日本の銀貨は 小判の「代用貨幣」であって
金=銀の重さを基準にした交換比率には適合しない
だから銀貨ではなく「紙幣」だと思ってもらひたい
幕府の「官印を持つ紙幣」は
幕府が紙幣四枚で小判一枚と定めれば
それが 紙きれでも四枚集まれば 小判一両となります
これを「官府の印理論」と言ひます
この場合の「銀貨」は 確かに銀貨ではありますが
それは 小判の「代用貨幣」であります
貴国米国では
金銀の交換比率を保った貨幣が常識なやうですが
それは「代用貨幣」ではありません
一ドル銀貨そのものが 「金」の子供であって
日本の様な「代用貨幣」ではありません
こんな違ひがあります
したがって
貴国の一ドル銀貨と 日本のイチブ銀を
その貨幣が持つ銀の重さだけで比較しますと
一ドル銀貨には イチブ銀の三倍の銀があるので
一ドル銀貨=イチブ銀三枚の交換になります
しかしそれは「銀」の重さの交換であって
決して「貨幣」の交換ではありません
だから 日本側は お互ひの貨幣価値を考へ
一ドル=イチブ銀の交換が 正しい為替と考へます
こんな主張で 日本の貨幣事情を
説明できるものがゐなかったため
ペリーらは 日本では 物価が三倍になると考へ
日本側が インチキをしてゐると推測してゐた
そこで アメリカにとって不当と思はれる
ドル・銀交換比率を 直すために送られて来たのが
ハリスであった
だから ハリスは 上陸して直ぐに
ドル・銀の交換比率を 代用貨幣の価値を全く無視し
銀の重さだけに 視点をあて
一ドル=イチブ銀三枚を主張した
ハリスが下田に上陸したのは
安政三年(一八五六)七月二十一日
ペリーが下田の了仙寺で 一ドル=イチブ銀と決めた
嘉永七年(一八五四)五月二十二日から一年二ヶ月経ってゐた
結果 どうなったか
外人・四ドル即十二ドル
四ドル =イチブ銀十二枚(横浜)
↓ ↓
=小判三枚 (横浜)
小判を上海に持って ドル交換
小判三枚 =ドル十二枚 (上海)
四ドルが十二ドルになった
当然 外人は横浜で「小判」を漁った
横浜港の混乱は 当時の「かわら版」に残るし
外国の「新聞」にも残る
今 それらは「横浜開港資料館」に残る
しかし この史実は 未だ余り知られてゐない
史実を丁寧に拾ひ集める
そんな作業が 国民に 行はれてゐないからだ
史心を育む教育が行はれてゐないからだ
教育無償
その前に やるべきことがある
一体 大人達は 子供達に何を教へるのか
その教へる立場の人間が 史実無頓着 動画三昧
こんな状況で教育普及しても 子供は育たない
詳しくは 佐藤雅美『大君の通貨』講談社
この元禄時代に 萩原重秀なる勘定奉行をり
この人 金銀の質を落とし
質を落とした分だけ 幕府が金銀を儲ける
こんな貨幣の改鋳を行った
粗悪な銅銭を批判された萩原は かう言った
たとへ瓦礫の如きの姿になりしも
官府の捺印を施し
それが民間に流通すれば これ貨幣なり
紙も然り
つまり 瓦礫だらうが 紙だらうが
官府(政府)の印を押せば通貨になる
かういふ意味だ
これを「官府の印理論」と 佐藤雅美は名づけた
明和元年(一七六四)六月二日~八年(一七七一)十一月十五日
明和時代の勘定奉行川井久敬は
これは「一両小判」であると称して
「銀貨二枚」を「小判」とする明南鐐二朱銀を発行した
金不足の時に考へ出した策であった
天保元年(一八三〇)十二月十日~十五年(一八四四)十二月一日
天保時代は さらに銀の質を落とし
「銀貨四枚」を「一両小判」とする
そんな時代になってゐた
これが開港当時の「イチブ銀」で
市中に出回ってゐた通貨は この「イチブ銀」であった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり当時の銀貨は
銀貨といふより 銀を紙に少量含んだ「紙幣」に等しく
「一両小判」の「代用貨幣」と言へるものであった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弘化元年(一八四四)十二月二日~五年(一八四八)二月二十七日
そして
嘉永元年(一八四八)二月二十八日~七年(一八五四)十一月二十六日
嘉永時代にも
イチブ銀四枚=小判一枚の国内通貨は続いた
ペリーが来航したのは 嘉永六年六月三日だから
こんな貨幣時代に やって来た
ペリーと結んだ条約は
確かに通商条約ではない和親条約であったが
入港するアメリカ船に 薪・水・食糧を提供することになった
さうすると アメリカは その代金を支払ふことになる
そこで
アメリカの市中出回り通貨(一ドル)と
日本の市中出回り通貨(イチブ銀)との
交換比率を決めることになった
交渉場所は 下田の了仙寺
度重なる交渉の末
嘉永七年(一八五四)五月二十二日
一ドル=イチブ銀と決められた
当時の国際為替と国内事情
一ドル銀貨四枚=一両小判(国際市場)①
イチブ銀貨四枚=一両小判(国内市場)② だから
一ドル銀貨一枚=イチブ銀一枚 ③ 幕府主張
しかし 米国は
一ドル銀貨に イチブ銀の三倍の銀含有を根拠に
一ドル銀貨=イチブ銀三枚を主張
この時 幕府側に 以下の様な主張をできるものがゐなかった
幕府は かう主張すべきだった
日本の銀貨は 小判の「代用貨幣」であって
金=銀の重さを基準にした交換比率には適合しない
だから銀貨ではなく「紙幣」だと思ってもらひたい
幕府の「官印を持つ紙幣」は
幕府が紙幣四枚で小判一枚と定めれば
それが 紙きれでも四枚集まれば 小判一両となります
これを「官府の印理論」と言ひます
この場合の「銀貨」は 確かに銀貨ではありますが
それは 小判の「代用貨幣」であります
貴国米国では
金銀の交換比率を保った貨幣が常識なやうですが
それは「代用貨幣」ではありません
一ドル銀貨そのものが 「金」の子供であって
日本の様な「代用貨幣」ではありません
こんな違ひがあります
したがって
貴国の一ドル銀貨と 日本のイチブ銀を
その貨幣が持つ銀の重さだけで比較しますと
一ドル銀貨には イチブ銀の三倍の銀があるので
一ドル銀貨=イチブ銀三枚の交換になります
しかしそれは「銀」の重さの交換であって
決して「貨幣」の交換ではありません
だから 日本側は お互ひの貨幣価値を考へ
一ドル=イチブ銀の交換が 正しい為替と考へます
こんな主張で 日本の貨幣事情を
説明できるものがゐなかったため
ペリーらは 日本では 物価が三倍になると考へ
日本側が インチキをしてゐると推測してゐた
そこで アメリカにとって不当と思はれる
ドル・銀交換比率を 直すために送られて来たのが
ハリスであった
だから ハリスは 上陸して直ぐに
ドル・銀の交換比率を 代用貨幣の価値を全く無視し
銀の重さだけに 視点をあて
一ドル=イチブ銀三枚を主張した
ハリスが下田に上陸したのは
安政三年(一八五六)七月二十一日
ペリーが下田の了仙寺で 一ドル=イチブ銀と決めた
嘉永七年(一八五四)五月二十二日から一年二ヶ月経ってゐた
結果 どうなったか
外人・四ドル即十二ドル
四ドル =イチブ銀十二枚(横浜)
↓ ↓
=小判三枚 (横浜)
小判を上海に持って ドル交換
小判三枚 =ドル十二枚 (上海)
四ドルが十二ドルになった
当然 外人は横浜で「小判」を漁った
横浜港の混乱は 当時の「かわら版」に残るし
外国の「新聞」にも残る
今 それらは「横浜開港資料館」に残る
しかし この史実は 未だ余り知られてゐない
史実を丁寧に拾ひ集める
そんな作業が 国民に 行はれてゐないからだ
史心を育む教育が行はれてゐないからだ
教育無償
その前に やるべきことがある
一体 大人達は 子供達に何を教へるのか
その教へる立場の人間が 史実無頓着 動画三昧
こんな状況で教育普及しても 子供は育たない
詳しくは 佐藤雅美『大君の通貨』講談社
岩田修良 2024/12/20(Fri) 16:41 No.153
[返信]
返信一覧
オール・コック
後日 オールコックは イギリス本国から
日本側の一ドル=イチブ銀の交換が正しいと指摘され
やうやく ハリスと共に主張した
一ドル=イチブ銀三枚は間違ひだと知る
これはどうして起きたか…
日本側に 欧米=文明先進国
日本=文明後進国
この根の深い誤認により
自分達の主張より 何事に於いても 欧米が正しい
そんな先入観から生まれたと言っていい
この誤解を 今のネット文化に当てはめてみよう
天地を動かす詞など 存在する筈がないから
岩田の主張する以下の天地之詞は 間違ひだ
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
よって
ローマ字で 入力しようが
スマホ入力しようが
JIS入力しようが どれも同じであって
その文字に 優劣はない
さうだらうか
へのへのもへじは
ヘノヘノモヘジでも
henohenomohejiでもなく
へのへのもへじである
ローマ字入力
a =あ
me =め
tu =つ
chi=ち
確かに見た目は かな文字だ
しかし その実体は ローマ字である
知識人と言はれる多くの人は
ローマ字入力である
したがって ローマ字に違和感はなく
むしろ ローマ字に親しみをもってゐる
だから 背中にPOLICEと書かれても
違和感なく受け入れ むしろ格好良いと思ふ
しかし
かなカナ真字を自国の文字と認識する者には
その意識が 極めて植民地的根性に見える
私たちには
天地を動かす『詞』がある
そこに気づき
そして その『詞』を大切にする
この視点がないと ローマ字に支配されてしまふ
日本側の一ドル=イチブ銀の交換が正しいと指摘され
やうやく ハリスと共に主張した
一ドル=イチブ銀三枚は間違ひだと知る
これはどうして起きたか…
日本側に 欧米=文明先進国
日本=文明後進国
この根の深い誤認により
自分達の主張より 何事に於いても 欧米が正しい
そんな先入観から生まれたと言っていい
この誤解を 今のネット文化に当てはめてみよう
天地を動かす詞など 存在する筈がないから
岩田の主張する以下の天地之詞は 間違ひだ
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
よって
ローマ字で 入力しようが
スマホ入力しようが
JIS入力しようが どれも同じであって
その文字に 優劣はない
さうだらうか
へのへのもへじは
ヘノヘノモヘジでも
henohenomohejiでもなく
へのへのもへじである
ローマ字入力
a =あ
me =め
tu =つ
chi=ち
確かに見た目は かな文字だ
しかし その実体は ローマ字である
知識人と言はれる多くの人は
ローマ字入力である
したがって ローマ字に違和感はなく
むしろ ローマ字に親しみをもってゐる
だから 背中にPOLICEと書かれても
違和感なく受け入れ むしろ格好良いと思ふ
しかし
かなカナ真字を自国の文字と認識する者には
その意識が 極めて植民地的根性に見える
私たちには
天地を動かす『詞』がある
そこに気づき
そして その『詞』を大切にする
この視点がないと ローマ字に支配されてしまふ
岩田修良 2024/12/22(Sun) 10:52 No.155
嘉永六年(一八五三)
○二月
二日 関東地方大地震 小田原被害多し
○四月
十九日 ペリー東インド艦隊
サスケハナ・ミシシッピイ・プリマス・サラトガ軍艦四隻
琉球那覇に来航
二十八日 幕府
井戸弘道 浦賀奉行に
水野忠篤(忠徳) 長崎奉行に 任命
三十日 ペリー艦隊 随員・護衛・楽員
総勢二百十名 大砲三門率いて首里城入る
○五月
三日 ペリー
サスケハナ・サラトガ二隻で小笠原に向ふ
八日 ペリー
小笠原父島の二見港に入り上陸
先住米国人ナザニエル・サボリより貯炭用地買収
二十三日 ロシア プチャーチン艦隊の輸送船
メンシコフ号 小笠原父島・二見港入港
翌月二十一日 プチャーチン艦隊のボストーク号入港
二十六日 同艦隊オリブーツァ号入港
二十六日 ペリー艦隊那覇出港 浦賀に向ふ
二十九日 薩摩藩 西洋型帆船軍艦起工
安政二年三月 江戸に廻航
八月 幕府に献納
○六月
三日 ペリー艦隊四隻浦賀鴨居沖来航
浦賀奉行与力中島三郎助ら長崎に廻航するやう勧告
四日 ペリー
長崎に行かず国書受領を求める
六日 幕府
国書受取りを決定
九日 ペリー
久里浜に上陸 大統領フィルモア親書手渡し
来春回答を求めることを告げる
十三日 ペリー艦隊 那覇港に向ふ
二十日 ペリー艦隊那覇港 入港
二十一日 ペリー 中山府に
①那覇・天久寺の貸与
②貯炭所の建造
③物資の売渡・商品陳列
④上陸時の尾行廃止 を要求
二十三日 ペリー 那覇公館で
総理・尚弘勲と会談
要求を拒否すれば王城占拠を告げる
二十四日 中山府 受諾する
二十七日 ペリー 上海に向ふ
これよりペリー上海に滞在
二十二日 将軍家慶(いえよし)六十一歳 他界
七月二十二日まで伏せる
○七月
一日 首席老中 阿部正弘
諸大名に米国国書の要求に関し意見を求む
同日 アメリカ運送船一隻 那覇に来航
「泊海岸」に 石炭陸揚の基地築造開始
三日 老中阿部政弘
前水戸藩主徳川斉昭を「海防参与」に
藤田東湖を「海防掛」に任命
八日 海防参与の徳川斉昭 幕府に
「海防十か条」を建言
十八日 プチャーチン艦隊四隻 長崎来航
宰相ネッセルローデの国書受領を求む
八月七日
国書受領をロシア側に告知
八月十九日
長崎奉行 大沢安宅 国書受領
九月十五日
ロシア国書が
オランダ語に訳され 和訳され
老中阿部正弘に届く
国書の内容
・国境画定
・公益開始
十月二十三日
再来の時に回答得られぬ時は 直ちに江戸に赴く
艦隊四隻を率いて上海に向かふ
○八月
二日 幕府 江川英龍・川路聖謨らに
江戸湾 砲台築造を命ず
六日 江川英龍 幕府に 願ひ申請
追放中の高島秋帆釈放し 江川の配下とす
二十八日 江川英龍・高島秋帆の指揮で
江戸品川台場六基築造開始
翌年 七月二十二日 完成
三十日 ロシア船一艘 樺太クシュンコタンに来航
十六人上陸
九月一日
ロシア人・四十人上陸
ムラビヨフ砦を構築 六十人越冬
翌年三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)
クシュンコタンに赴き ロシア人と交渉開始
同年四月三日
ロシア船一艘クシュンコタンに来航「
同年五月十八日
ロシア兵 砦を撤去して出港
※ロシアのクシュンコタン軍事占領期間
嘉永六年九月一日から
嘉永七年五月十八日
○十月
八日
幕府 プチャーチンとの交渉に
川路聖謨(としあきら)
筒井政憲(まさのり)
荒尾茂允(しげまさ)
古賀謹一郎 四人を長崎に派遣
三十日
四人が長崎に向ふ
二十三日 徳川家定 十二代将軍となる
前家慶将軍の四男
これより安政五年七月四日まで
※安政五年四月二十三日
幕府彦根藩主井伊直弼を大老とする
※同 年九月五日
信濃の志士近藤茂左衛門
水戸藩の使者として活躍
大津で逮捕され 京都六角獄に投獄
安政の大獄の始まり
※同 年九月七日
梅田雲浜(うんぴん) 京都で逮捕
この後尊王攘夷派 江戸・京都で逮捕しきり
○十一月
一日 幕府 徳川斉昭の主張を受け入れ
「海防」の大号令を発す
○十二月
五日 プチャーチン艦隊四隻
上海から長崎に来航
二十日~ プチャーチンとの交渉開始
二十八日 合計五回の交渉
最後は プチャーチンが
樺太アニワ湾で国境画定会談再開を提案
※翌年一月四日
主催 プチャーチン
場所 パルラダ号
内容 送別の宴
同年一月八日
プチャーチン艦隊
琉球王国経由マニラに向かふ
二日 関東地方大地震 小田原被害多し
○四月
十九日 ペリー東インド艦隊
サスケハナ・ミシシッピイ・プリマス・サラトガ軍艦四隻
琉球那覇に来航
二十八日 幕府
井戸弘道 浦賀奉行に
水野忠篤(忠徳) 長崎奉行に 任命
三十日 ペリー艦隊 随員・護衛・楽員
総勢二百十名 大砲三門率いて首里城入る
○五月
三日 ペリー
サスケハナ・サラトガ二隻で小笠原に向ふ
八日 ペリー
小笠原父島の二見港に入り上陸
先住米国人ナザニエル・サボリより貯炭用地買収
二十三日 ロシア プチャーチン艦隊の輸送船
メンシコフ号 小笠原父島・二見港入港
翌月二十一日 プチャーチン艦隊のボストーク号入港
二十六日 同艦隊オリブーツァ号入港
二十六日 ペリー艦隊那覇出港 浦賀に向ふ
二十九日 薩摩藩 西洋型帆船軍艦起工
安政二年三月 江戸に廻航
八月 幕府に献納
○六月
三日 ペリー艦隊四隻浦賀鴨居沖来航
浦賀奉行与力中島三郎助ら長崎に廻航するやう勧告
四日 ペリー
長崎に行かず国書受領を求める
六日 幕府
国書受取りを決定
九日 ペリー
久里浜に上陸 大統領フィルモア親書手渡し
来春回答を求めることを告げる
十三日 ペリー艦隊 那覇港に向ふ
二十日 ペリー艦隊那覇港 入港
二十一日 ペリー 中山府に
①那覇・天久寺の貸与
②貯炭所の建造
③物資の売渡・商品陳列
④上陸時の尾行廃止 を要求
二十三日 ペリー 那覇公館で
総理・尚弘勲と会談
要求を拒否すれば王城占拠を告げる
二十四日 中山府 受諾する
二十七日 ペリー 上海に向ふ
これよりペリー上海に滞在
二十二日 将軍家慶(いえよし)六十一歳 他界
七月二十二日まで伏せる
○七月
一日 首席老中 阿部正弘
諸大名に米国国書の要求に関し意見を求む
同日 アメリカ運送船一隻 那覇に来航
「泊海岸」に 石炭陸揚の基地築造開始
三日 老中阿部政弘
前水戸藩主徳川斉昭を「海防参与」に
藤田東湖を「海防掛」に任命
八日 海防参与の徳川斉昭 幕府に
「海防十か条」を建言
十八日 プチャーチン艦隊四隻 長崎来航
宰相ネッセルローデの国書受領を求む
八月七日
国書受領をロシア側に告知
八月十九日
長崎奉行 大沢安宅 国書受領
九月十五日
ロシア国書が
オランダ語に訳され 和訳され
老中阿部正弘に届く
国書の内容
・国境画定
・公益開始
十月二十三日
再来の時に回答得られぬ時は 直ちに江戸に赴く
艦隊四隻を率いて上海に向かふ
○八月
二日 幕府 江川英龍・川路聖謨らに
江戸湾 砲台築造を命ず
六日 江川英龍 幕府に 願ひ申請
追放中の高島秋帆釈放し 江川の配下とす
二十八日 江川英龍・高島秋帆の指揮で
江戸品川台場六基築造開始
翌年 七月二十二日 完成
三十日 ロシア船一艘 樺太クシュンコタンに来航
十六人上陸
九月一日
ロシア人・四十人上陸
ムラビヨフ砦を構築 六十人越冬
翌年三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)
クシュンコタンに赴き ロシア人と交渉開始
同年四月三日
ロシア船一艘クシュンコタンに来航「
同年五月十八日
ロシア兵 砦を撤去して出港
※ロシアのクシュンコタン軍事占領期間
嘉永六年九月一日から
嘉永七年五月十八日
○十月
八日
幕府 プチャーチンとの交渉に
川路聖謨(としあきら)
筒井政憲(まさのり)
荒尾茂允(しげまさ)
古賀謹一郎 四人を長崎に派遣
三十日
四人が長崎に向ふ
二十三日 徳川家定 十二代将軍となる
前家慶将軍の四男
これより安政五年七月四日まで
※安政五年四月二十三日
幕府彦根藩主井伊直弼を大老とする
※同 年九月五日
信濃の志士近藤茂左衛門
水戸藩の使者として活躍
大津で逮捕され 京都六角獄に投獄
安政の大獄の始まり
※同 年九月七日
梅田雲浜(うんぴん) 京都で逮捕
この後尊王攘夷派 江戸・京都で逮捕しきり
○十一月
一日 幕府 徳川斉昭の主張を受け入れ
「海防」の大号令を発す
○十二月
五日 プチャーチン艦隊四隻
上海から長崎に来航
二十日~ プチャーチンとの交渉開始
二十八日 合計五回の交渉
最後は プチャーチンが
樺太アニワ湾で国境画定会談再開を提案
※翌年一月四日
主催 プチャーチン
場所 パルラダ号
内容 送別の宴
同年一月八日
プチャーチン艦隊
琉球王国経由マニラに向かふ
岩田修良 2024/12/13(Fri) 19:36 No.134
[返信]
返信一覧
阿部正弘の英断
嘉永六年 九月一日
ロシアが
クシュンコタンに「ムラビヨフ砦」を築造
同 年 十月十五日
老中阿部正弘が 宰相ネッセルローデに
国境画定・和親交易の交渉拒絶の返書を出す
嘉永七年 三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)が
クシュンコタンに赴き ロシアと交渉
同 年 五月十八日
ロシア
クシュンコタンの砦を撤去
大国ロシア相手に
無法の進攻を許さぬ阿部の決断
また その無法を認めて砦を撤去したロシア
ここに 阿部とネッセルローデの
法を守る信頼を土台とした人と人との信厚をみた
外交は人なり
只今 この経緯を調査中
ロシアが
クシュンコタンに「ムラビヨフ砦」を築造
同 年 十月十五日
老中阿部正弘が 宰相ネッセルローデに
国境画定・和親交易の交渉拒絶の返書を出す
嘉永七年 三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)が
クシュンコタンに赴き ロシアと交渉
同 年 五月十八日
ロシア
クシュンコタンの砦を撤去
大国ロシア相手に
無法の進攻を許さぬ阿部の決断
また その無法を認めて砦を撤去したロシア
ここに 阿部とネッセルローデの
法を守る信頼を土台とした人と人との信厚をみた
外交は人なり
只今 この経緯を調査中
岩田修良 2024/12/14(Sat) 09:46 No.136
ムラビヨフ砦の撤去
ムラビヨフ砦の撤去
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の「長崎交渉」で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるも 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は ロシア側も 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦・仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の「長崎交渉」で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるも 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は ロシア側も 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦・仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった
岩田修良 2024/12/19(Thu) 18:37 No.152
日記
本日より
幕末の年表 書き始めるつもりでゐたが
佐藤雅美著『大君通貨』を見つけたため
急遽 読み始めてしまった
吉村昭の本に慣れてしまったためか
慣れぬ文体は 非常に難しく感じた
もう少し正確に言ふと
吉村の本は 実に詳しいのでわかりやすい
もう一度読み直して
佐藤雅美の文体に慣れれば
読解できるやうになるかもしれない
明日辺りから 幕末年表を書いて行きたいが
まだてこずる可能性もある
幕末の年表 書き始めるつもりでゐたが
佐藤雅美著『大君通貨』を見つけたため
急遽 読み始めてしまった
吉村昭の本に慣れてしまったためか
慣れぬ文体は 非常に難しく感じた
もう少し正確に言ふと
吉村の本は 実に詳しいのでわかりやすい
もう一度読み直して
佐藤雅美の文体に慣れれば
読解できるやうになるかもしれない
明日辺りから 幕末年表を書いて行きたいが
まだてこずる可能性もある
岩田修良 2024/12/12(Thu) 19:17 No.128
[返信]
返信一覧
十二月十三日
やうやく年表作りが始まった
今日は 嘉永六年(一八五三)
ペリーが浦賀にやって来た年だ
肉付けの話は 少しづつ返信欄に付けるとして
明日は 嘉永七年(一八五四)を書く
嘉永七年は 十一月二十六日まで
安政元年は 十一月二十七日からだが
ほとんどの教科書から
嘉永七年は消え
安政元年は 架空の一月一日から始まる
史実に存在しない暦が あったかのやうに綴られても
何の疑義も出ない をかしい
だから教科書は 二度目のペリー来航を
安政元年一月十六日と記す インチキだ
嘉永七年一月十六日と記すが 正しい
私たちの史心は 教科書で破壊されてゐる
史心が育つわけがない
子供たち諸君!
これから語る「史実淡々」で
幕末から大東亜戦争までを 大いに勉強してもらひたい
今日は 嘉永六年(一八五三)
ペリーが浦賀にやって来た年だ
肉付けの話は 少しづつ返信欄に付けるとして
明日は 嘉永七年(一八五四)を書く
嘉永七年は 十一月二十六日まで
安政元年は 十一月二十七日からだが
ほとんどの教科書から
嘉永七年は消え
安政元年は 架空の一月一日から始まる
史実に存在しない暦が あったかのやうに綴られても
何の疑義も出ない をかしい
だから教科書は 二度目のペリー来航を
安政元年一月十六日と記す インチキだ
嘉永七年一月十六日と記すが 正しい
私たちの史心は 教科書で破壊されてゐる
史心が育つわけがない
子供たち諸君!
これから語る「史実淡々」で
幕末から大東亜戦争までを 大いに勉強してもらひたい
岩田修良 2024/12/13(Fri) 19:50 No.135
十二月十四日
嘉永七年の年表作りの前に
どうしても気になった幕末のドルとイチブ銀の交換比率
佐藤雅美の『大君の通貨』の解読に時間をかけた
わかったこと
イギリスが 対清外交で無法であったことの
良心の呵責から
これからお付き会ひする日本とは
良心的に付き合はうとしてゐたこと
幕末=世界各国弱肉強食は 作られたもので
現実は 一部では さうではない部分もあったこと
二度目のペリー来航時
嘉永七年三月三日に 和親条約を結ぶわけだが
その後 下田でドル・銀の交換比率の話題になり
ドル=イチブ銀一枚 と決定されるが
この決定が 金本位制の国には イカサマに見え
日本も 西洋に遅れた国だとの劣等感も重なり
自国の「イチブ銀」が
世界に先駆けた「代用貨幣」であることに気づかず
阿部老中無き後の堀田が
ドル=イチブ銀三枚とするハリスの主張を
ごもっともとして そのまま受け入れてしまったために
日本経済が 大混乱したこと
重大な史実だけに わかりやすく この史実を語り継ぎたい
どうしても気になった幕末のドルとイチブ銀の交換比率
佐藤雅美の『大君の通貨』の解読に時間をかけた
わかったこと
イギリスが 対清外交で無法であったことの
良心の呵責から
これからお付き会ひする日本とは
良心的に付き合はうとしてゐたこと
幕末=世界各国弱肉強食は 作られたもので
現実は 一部では さうではない部分もあったこと
二度目のペリー来航時
嘉永七年三月三日に 和親条約を結ぶわけだが
その後 下田でドル・銀の交換比率の話題になり
ドル=イチブ銀一枚 と決定されるが
この決定が 金本位制の国には イカサマに見え
日本も 西洋に遅れた国だとの劣等感も重なり
自国の「イチブ銀」が
世界に先駆けた「代用貨幣」であることに気づかず
阿部老中無き後の堀田が
ドル=イチブ銀三枚とするハリスの主張を
ごもっともとして そのまま受け入れてしまったために
日本経済が 大混乱したこと
重大な史実だけに わかりやすく この史実を語り継ぎたい
岩田修良 2024/12/14(Sat) 19:01 No.138
十二月十七日
和暦西暦一発変換の原本修正
たとへば
①昭和元年 CTRL+W
昭和元年(一九二六)十二月二十五日(前日十五十五年)
②嘉永七年 CTRL+W
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日(翌日安政元年)
③1989 CTRL+E
平成元年(一九八九)一月八日(前日昭和六十四年)
二十年以上も前に作った QXエヂタの和暦西暦返還マクロ
天明元年から 改元日付に対応した
史実を綴るに 不可欠なマクロである
部分対応だが 幕末から現代までは 対応した
史学科の教授は マクロ言語を使って
どんどん色々なマクロを作るべきだと思ふ
その内の一つの作品が
和暦西暦マクロである(改元に対応した)
たとへば
①昭和元年 CTRL+W
昭和元年(一九二六)十二月二十五日(前日十五十五年)
②嘉永七年 CTRL+W
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日(翌日安政元年)
③1989 CTRL+E
平成元年(一九八九)一月八日(前日昭和六十四年)
二十年以上も前に作った QXエヂタの和暦西暦返還マクロ
天明元年から 改元日付に対応した
史実を綴るに 不可欠なマクロである
部分対応だが 幕末から現代までは 対応した
史学科の教授は マクロ言語を使って
どんどん色々なマクロを作るべきだと思ふ
その内の一つの作品が
和暦西暦マクロである(改元に対応した)
岩田修良 2024/12/17(Tue) 18:25 No.148
主題一覧
主題一覧の記事が見えなかったの障害を
見えるやうに直した
見え方に もう少し工夫が必要なので
少し 時間をかけて直したい
見えるやうに直した
見え方に もう少し工夫が必要なので
少し 時間をかけて直したい
岩田修良 2024/12/18(Wed) 17:42 No.149
十二月十九日
ムラビヨフ砦の撤去
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の交渉で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるの 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦 仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった
こんな経過の中
ロシアが
嘉永六年九月一日に作った
クシュンコタンの「ムラビヨフ砦」は 撤収された
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の交渉で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるの 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦 仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった
こんな経過の中
ロシアが
嘉永六年九月一日に作った
クシュンコタンの「ムラビヨフ砦」は 撤収された
岩田修良 2024/12/19(Thu) 18:30 No.151
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・和たぐ新聞
近代の萌芽 大黒屋光太夫
大東亜戦争 開戦前夜
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岩田修良 2024/12/18(Wed) 17:49 No.150
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返信一覧
阿部正弘
弘化二年ー弘化五年 1845-1848
嘉永元年ー嘉永七年 1848-1854
安政元年ー安政二年 1854-1855
弘化二年(一八四五)二月二十二日
老中首座(二十七歳)ーーーーー
七月一日 ↑
海防掛 主宰 ↑
弘化五年(一八四八)二月二十七日 ↑
嘉永元年(一八四八)二月二十八日 ↑
嘉永七年(一八五四)十一月四日 大地震 十年間
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日 ↓
安政元年(一八五四)十一月二十七日 ↓
安政二年(一八五五)十月二日 安政の大地震 ↓
安政二年(一八五五)十月九日 ↓
堀田正睦に首座を譲る ーーーーー
安政四年(一八五七)六月十七日
阿部正弘他界(三十九歳)
弘化・嘉永・安政二年まで
西暦で覚えると 当時の緊迫感が湧いて来ない
嘉永元年は 英語の救世主となったマクドナルドが本土上陸
嘉永六年は ペリー・プチャーチン来航 続けて来航
嘉永七年は 日米和親条約 三月三日
安政元年は 日露和親条約 十二月二十一日
択捉島ーウルップ島 国境と決まる
樺太は両国雑居地
安政二年は 大地震
二十七歳で 首席老中
三十七歳で 堀田正睦に首席を譲る
この若さで 和が国を十年間差配
嘉永元年ー嘉永七年 1848-1854
安政元年ー安政二年 1854-1855
弘化二年(一八四五)二月二十二日
老中首座(二十七歳)ーーーーー
七月一日 ↑
海防掛 主宰 ↑
弘化五年(一八四八)二月二十七日 ↑
嘉永元年(一八四八)二月二十八日 ↑
嘉永七年(一八五四)十一月四日 大地震 十年間
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日 ↓
安政元年(一八五四)十一月二十七日 ↓
安政二年(一八五五)十月二日 安政の大地震 ↓
安政二年(一八五五)十月九日 ↓
堀田正睦に首座を譲る ーーーーー
安政四年(一八五七)六月十七日
阿部正弘他界(三十九歳)
弘化・嘉永・安政二年まで
西暦で覚えると 当時の緊迫感が湧いて来ない
嘉永元年は 英語の救世主となったマクドナルドが本土上陸
嘉永六年は ペリー・プチャーチン来航 続けて来航
嘉永七年は 日米和親条約 三月三日
安政元年は 日露和親条約 十二月二十一日
択捉島ーウルップ島 国境と決まる
樺太は両国雑居地
安政二年は 大地震
二十七歳で 首席老中
三十七歳で 堀田正睦に首席を譲る
この若さで 和が国を十年間差配
岩田修良 2024/12/17(Tue) 18:04 No.147
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