密教の 大日如来 ではなく
天地之詞の 大日のらい である
今まで 古代新興宗教の用語を使用せずに
和が国の万物の祖を考へて来たが
ついに 大日のらい を使用することにした
この和訳でないと どうしても 道理が合はず使用した
これで カルト教と批判を受けることになる
しかし 仕方がない
さう解釈しないと 道理が合はない
色んな批判をされることになるが
批判をする人は 万物の根源
さういふ 奥深いところを探ったことがあるのだらうか
何にも考へない人から
「史実淡々」の史実を批判され
何にも考へない人から
「へのへのもへじ」が語る「万物の祖」が批判される
寂しい現実である
ボタン「大日のらい」で読めます
是非 ご一読下さい


世の始語始=女ヽしロ
女ヽ師ワ
女ヽ師は
『以呂波字考録』 僧全長著
母…いろは かな文字=女文字
父…かぞ 真字 =男文字
始=女 の師は
=いろはの師は
=かな の師は(かなの師=へのへのもへじ)
=へのへのもへじは
始語=へのへのもへじは・語
=へのへのもへじは・五ロ言
・五話言
のの 一話・山山
さま 二話・紺空
ほっこり 三話・山道
大日 四話・白輪
のらい 五話・日輪笑詞
世の始語=世の死語 とすると
死語=タノし一・五ロ言
=楽しい ・五話言
のの 一話
さま 二話
ほっこり 三話
大日 四話
のらい 五話
万物始語に帰る
和が国の死生観は こんな死生観になる
そして その始語は
のの
さま
ほっこり
大日
のらい
岩田修良
2024/12/29(Sun) 12:31 No.160
ののさま辞書によれば 神仏の幼児語とある
天地之詞では 以下
のの=山山
さま=紺の空
わかりやすく考ふと…
のの=里山
さま=里山の空
したがって
のの 里山
さま 里山の空
ほっこり 里山の道
大日 里山のお日さま
のらい 里山の日輪笑詞
常世の国があるとすると…
その風景が 山山
紺空
山道
お日さま
日輪笑詞
その音色が 山山 のの
紺空 さま
山道 ほっこり
お日さま 大日
日輪笑詞 のらい
岩田修良
2024/12/29(Sun) 12:53 No.161
「新・和かな暮」を書きました
目次ボタン「新・和かな暮」で読めます
内容
①万物の祖
東和の家二話
・史実淡々
・和かな暮
②世の始者の聲と世の人々の聲
世の始者の聲
史実淡々
世の人々の聲
和かな暮 二個庭鶴の色葉二詩
庭鶴の葉 和かな
隣鶴の葉 暮
③平和の歌
和かな暮
④医王の詩
和かな暮
⑤天皇
和かな暮
⑥世界に誇る文化
天地を動かす詞
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
詞の音色=和かな
紺色の字=暮
したがって この手紙の文字の音色は
「和かな暮」
⑦スポーツで豊になる 実証された
動画で豊になる 実証された
「和かな暮」の音色を持った
「和たぐ新聞」や「くぬぎの手紙」で豊になる
これは 仮説であって 実証されてゐない
私塾鶴羽實は
この仮説を実証すべく
只今 和たぐ新聞 と くぬぎの手紙に専念
和が国 固有の文化で 飯は喰って行ける
そんな仮説を実証したい
スポーツや動画で豊になる
それよりも
世界に誇る「天地之詞」を利用した文化で豊になる
そんな新しい豊になる道を 只今開拓中
是非「新・和かな暮」をお読み下さい
ボタン「新・和かな暮」で読めます


返信: 新・和かな暮人々の願望
和かな暮
そんな暮らしをしたいが
お金がないと できない
だから まづは金だ
さう考ふ
さうかうしてゐる内に
金がないと何もできないと考へ
金だけの人生にはまって抜けられない
さうだらうか
金が 先だらうか…
金が 最優先だらうか
和かな暮の後に 豊かな暮が続く
そんな道理は 成立しないのだらうか…
さうしないと
物事の始は「金」だ といふ意見に反論できない
いや 違ふ
物事の始は「和かな暮」だ! と言ひ返せない
それは国防論にまで繋がる
力で平和を守る だから力が不可欠
いや違ふ 力の平和は 報復の論理
すなはち やられたらやり返す
ところが 物事の始を「和かな暮」とすると
報復の論理は 成立しない
和かな暮の中に
やられたらやり返す そんな道理はない
あるのは ひたすら「和かな暮」
それには四種あった
一つ 人聲 …和かな暮
二つ 二個庭鶴の葉聲…和かな・暮
三つ 和たぐ新聞 …和かな・暮
四つ くぬぎの手紙 …和かな・暮
四つの「和かな暮」で 国を守る
力で平和は守れない
何故なら そこには やられたらやり返す
戦争の論理だけが成り立つから
やがて やられたらやり返す 戦争の常識に突入する
だから平和の論理=ひたすら平和
平和=十ハノ・一十ハ・ロ
=東和の・一ロハ・二二
=東和の・いろは・こへ
=東和の・いろは・聲
=和かな暮(『新・和かな暮』)
平和は ひたすら『平和』
ひたすら『和かな暮』
金稼ぎは 金稼ぎから始まるのではなく
ひたすら『和かな暮』に始まる
理由はある
金=十ハノ二し
=東和の二詩
東和
史実淡々 東和・一詩
和かな暮 東和・二詩
金=「和かな暮」の詩聲
もう一つの解析がある
金=十 二 しノハ
=十 十 鶴の葉
=二二二二鶴の葉
=二こ二ハ鶴の葉
=二個庭 鶴の葉
・庭鶴の葉
・隣鶴の葉
金=庭鶴の葉と隣鶴の葉
豊差=二個庭鶴の葉数
これを「豊差鶴鳴(かくめい)」と言ふ
葉は鶴の木の葉であるからだ
西洋には「革命」は あっても 「鶴鳴」はない
だから 東洋の「鶴鳴」は 今まで起きなかった
西洋ばかりに眼を向けては
永遠に 東洋の「鶴鳴」は起きない
東洋を侮ることなかれ岩田修良
2024/12/26(Thu) 09:08 No.157
平和の剣平和の剣
剣の力で 平和を守る
よって 西洋の剣 日本の剣が発達した
しかし
剣=つるぎ
=鶴木 よって
平和の剣=平和の鶴木
鶴=鶴羽實 (の略字)
=つるはみ(和字)
=くぬぎ(=和名・つるはみ)
ところが くぬぎに二種有り
・西に自生するくぬぎ(椢・棈)
・東に自生するくぬぎ(檪)
ところが
椢=ロ ヽ王木 棈=日ハヽ王木
=二二ヽ王木 =庭 ヽ王木
=ニハヽ王木
=庭 ヽ王木
故に
・西に自生するくぬぎ(椢・棈)を庭に植う
その葉っぱの聲が 推定・和かな
やがて 隣の庭を得る奇縁が来る
そこに 東の鶴木を植う
二つヽ葉っぱの音色が
・和かな=庭鶴の葉
・暮 =隣鶴の葉
今
平和の剣 は
平和の鶴木に移らうとしてゐる
この時代の移り変はりに気づけぬ諸氏が
聲を荒げて 和が国の危機を叫び
平和の剣の力を求めて 軍事力拡張
古い!
平和の剣 は
平和の鶴木に代はったのだ
新しい平和の時代に 突入した
さう 言ひ切っていいと思はる
岩田修良
2024/12/26(Thu) 09:44 No.158
元禄元年(一六八八)九月三十日~十七年(一七〇四)三月十三日
この元禄時代に 萩原重秀なる勘定奉行をり
この人 金銀の質を落とし
質を落とした分だけ 幕府が金銀を儲ける
こんな貨幣の改鋳を行った
粗悪な銅銭を批判された萩原は かう言った
たとへ瓦礫の如きの姿になりしも
官府の捺印を施し
それが民間に流通すれば これ貨幣なり
紙も然り
つまり 瓦礫だらうが 紙だらうが
官府(政府)の印を押せば通貨になる
かういふ意味だ
これを「官府の印理論」と 佐藤雅美は名づけた
明和元年(一七六四)六月二日~八年(一七七一)十一月十五日
明和時代の勘定奉行川井久敬は
これは「一両小判」であると称して
「銀貨二枚」を「小判」とする明南鐐二朱銀を発行した
金不足の時に考へ出した策であった
天保元年(一八三〇)十二月十日~十五年(一八四四)十二月一日
天保時代は さらに銀の質を落とし
「銀貨四枚」を「一両小判」とする
そんな時代になってゐた
これが開港当時の「イチブ銀」で
市中に出回ってゐた通貨は この「イチブ銀」であった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり当時の銀貨は
銀貨といふより 銀を紙に少量含んだ「紙幣」に等しく
「一両小判」の「代用貨幣」と言へるものであった
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弘化元年(一八四四)十二月二日~五年(一八四八)二月二十七日
そして
嘉永元年(一八四八)二月二十八日~七年(一八五四)十一月二十六日
嘉永時代にも
イチブ銀四枚=小判一枚の国内通貨は続いた
ペリーが来航したのは 嘉永六年六月三日だから
こんな貨幣時代に やって来た
ペリーと結んだ条約は
確かに通商条約ではない和親条約であったが
入港するアメリカ船に 薪・水・食糧を提供することになった
さうすると アメリカは その代金を支払ふことになる
そこで
アメリカの市中出回り通貨(一ドル)と
日本の市中出回り通貨(イチブ銀)との
交換比率を決めることになった
交渉場所は 下田の了仙寺
度重なる交渉の末
嘉永七年(一八五四)五月二十二日
一ドル=イチブ銀と決められた
当時の国際為替と国内事情
一ドル銀貨四枚=一両小判(国際市場)①
イチブ銀貨四枚=一両小判(国内市場)② だから
一ドル銀貨一枚=イチブ銀一枚 ③ 幕府主張
しかし 米国は
一ドル銀貨に イチブ銀の三倍の銀含有を根拠に
一ドル銀貨=イチブ銀三枚を主張
この時 幕府側に 以下の様な主張をできるものがゐなかった
幕府は かう主張すべきだった
日本の銀貨は 小判の「代用貨幣」であって
金=銀の重さを基準にした交換比率には適合しない
だから銀貨ではなく「紙幣」だと思ってもらひたい
幕府の「官印を持つ紙幣」は
幕府が紙幣四枚で小判一枚と定めれば
それが 紙きれでも四枚集まれば 小判一両となります
これを「官府の印理論」と言ひます
この場合の「銀貨」は 確かに銀貨ではありますが
それは 小判の「代用貨幣」であります
貴国米国では
金銀の交換比率を保った貨幣が常識なやうですが
それは「代用貨幣」ではありません
一ドル銀貨そのものが 「金」の子供であって
日本の様な「代用貨幣」ではありません
こんな違ひがあります
したがって
貴国の一ドル銀貨と 日本のイチブ銀を
その貨幣が持つ銀の重さだけで比較しますと
一ドル銀貨には イチブ銀の三倍の銀があるので
一ドル銀貨=イチブ銀三枚の交換になります
しかしそれは「銀」の重さの交換であって
決して「貨幣」の交換ではありません
だから 日本側は お互ひの貨幣価値を考へ
一ドル=イチブ銀の交換が 正しい為替と考へます
こんな主張で 日本の貨幣事情を
説明できるものがゐなかったため
ペリーらは 日本では 物価が三倍になると考へ
日本側が インチキをしてゐると推測してゐた
そこで アメリカにとって不当と思はれる
ドル・銀交換比率を 直すために送られて来たのが
ハリスであった
だから ハリスは 上陸して直ぐに
ドル・銀の交換比率を 代用貨幣の価値を全く無視し
銀の重さだけに 視点をあて
一ドル=イチブ銀三枚を主張した
ハリスが下田に上陸したのは
安政三年(一八五六)七月二十一日
ペリーが下田の了仙寺で 一ドル=イチブ銀と決めた
嘉永七年(一八五四)五月二十二日から一年二ヶ月経ってゐた
結果 どうなったか
外人・四ドル即十二ドル
四ドル =イチブ銀十二枚(横浜)
↓ ↓
=小判三枚 (横浜)
小判を上海に持って ドル交換
小判三枚 =ドル十二枚 (上海)
四ドルが十二ドルになった
当然 外人は横浜で「小判」を漁った
横浜港の混乱は 当時の「かわら版」に残るし
外国の「新聞」にも残る
今 それらは「横浜開港資料館」に残る
しかし この史実は 未だ余り知られてゐない
史実を丁寧に拾ひ集める
そんな作業が 国民に 行はれてゐないからだ
史心を育む教育が行はれてゐないからだ
教育無償
その前に やるべきことがある
一体 大人達は 子供達に何を教へるのか
その教へる立場の人間が 史実無頓着 動画三昧
こんな状況で教育普及しても 子供は育たない
詳しくは 佐藤雅美『大君の通貨』講談社


オール・コック後日 オールコックは イギリス本国から
日本側の一ドル=イチブ銀の交換が正しいと指摘され
やうやく ハリスと共に主張した
一ドル=イチブ銀三枚は間違ひだと知る
これはどうして起きたか…
日本側に 欧米=文明先進国
日本=文明後進国
この根の深い誤認により
自分達の主張より 何事に於いても 欧米が正しい
そんな先入観から生まれたと言っていい
この誤解を 今のネット文化に当てはめてみよう
天地を動かす詞など 存在する筈がないから
岩田の主張する以下の天地之詞は 間違ひだ
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
よって
ローマ字で 入力しようが
スマホ入力しようが
JIS入力しようが どれも同じであって
その文字に 優劣はない
さうだらうか
へのへのもへじは
ヘノヘノモヘジでも
henohenomohejiでもなく
へのへのもへじである
ローマ字入力
a =あ
me =め
tu =つ
chi=ち
確かに見た目は かな文字だ
しかし その実体は ローマ字である
知識人と言はれる多くの人は
ローマ字入力である
したがって ローマ字に違和感はなく
むしろ ローマ字に親しみをもってゐる
だから 背中にPOLICEと書かれても
違和感なく受け入れ むしろ格好良いと思ふ
しかし
かなカナ真字を自国の文字と認識する者には
その意識が 極めて植民地的根性に見える
私たちには
天地を動かす『詞』がある
そこに気づき
そして その『詞』を大切にする
この視点がないと ローマ字に支配されてしまふ岩田修良
2024/12/22(Sun) 10:52 No.155
○二月
二日 関東地方大地震 小田原被害多し
○四月
十九日 ペリー東インド艦隊
サスケハナ・ミシシッピイ・プリマス・サラトガ軍艦四隻
琉球那覇に来航
二十八日 幕府
井戸弘道 浦賀奉行に
水野忠篤(忠徳) 長崎奉行に 任命
三十日 ペリー艦隊 随員・護衛・楽員
総勢二百十名 大砲三門率いて首里城入る
○五月
三日 ペリー
サスケハナ・サラトガ二隻で小笠原に向ふ
八日 ペリー
小笠原父島の二見港に入り上陸
先住米国人ナザニエル・サボリより貯炭用地買収
二十三日 ロシア プチャーチン艦隊の輸送船
メンシコフ号 小笠原父島・二見港入港
翌月二十一日 プチャーチン艦隊のボストーク号入港
二十六日 同艦隊オリブーツァ号入港
二十六日 ペリー艦隊那覇出港 浦賀に向ふ
二十九日 薩摩藩 西洋型帆船軍艦起工
安政二年三月 江戸に廻航
八月 幕府に献納
○六月
三日 ペリー艦隊四隻浦賀鴨居沖来航
浦賀奉行与力中島三郎助ら長崎に廻航するやう勧告
四日 ペリー
長崎に行かず国書受領を求める
六日 幕府
国書受取りを決定
九日 ペリー
久里浜に上陸 大統領フィルモア親書手渡し
来春回答を求めることを告げる
十三日 ペリー艦隊 那覇港に向ふ
二十日 ペリー艦隊那覇港 入港
二十一日 ペリー 中山府に
①那覇・天久寺の貸与
②貯炭所の建造
③物資の売渡・商品陳列
④上陸時の尾行廃止 を要求
二十三日 ペリー 那覇公館で
総理・尚弘勲と会談
要求を拒否すれば王城占拠を告げる
二十四日 中山府 受諾する
二十七日 ペリー 上海に向ふ
これよりペリー上海に滞在
二十二日 将軍家慶(いえよし)六十一歳 他界
七月二十二日まで伏せる
○七月
一日 首席老中 阿部正弘
諸大名に米国国書の要求に関し意見を求む
同日 アメリカ運送船一隻 那覇に来航
「泊海岸」に 石炭陸揚の基地築造開始
三日 老中阿部政弘
前水戸藩主徳川斉昭を「海防参与」に
藤田東湖を「海防掛」に任命
八日 海防参与の徳川斉昭 幕府に
「海防十か条」を建言
十八日 プチャーチン艦隊四隻 長崎来航
宰相ネッセルローデの国書受領を求む
八月七日
国書受領をロシア側に告知
八月十九日
長崎奉行 大沢安宅 国書受領
九月十五日
ロシア国書が
オランダ語に訳され 和訳され
老中阿部正弘に届く
国書の内容
・国境画定
・公益開始
十月二十三日
再来の時に回答得られぬ時は 直ちに江戸に赴く
艦隊四隻を率いて上海に向かふ
○八月
二日 幕府 江川英龍・川路聖謨らに
江戸湾 砲台築造を命ず
六日 江川英龍 幕府に 願ひ申請
追放中の高島秋帆釈放し 江川の配下とす
二十八日 江川英龍・高島秋帆の指揮で
江戸品川台場六基築造開始
翌年 七月二十二日 完成
三十日 ロシア船一艘 樺太クシュンコタンに来航
十六人上陸
九月一日
ロシア人・四十人上陸
ムラビヨフ砦を構築 六十人越冬
翌年三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)
クシュンコタンに赴き ロシア人と交渉開始
同年四月三日
ロシア船一艘クシュンコタンに来航「
同年五月十八日
ロシア兵 砦を撤去して出港
※ロシアのクシュンコタン軍事占領期間
嘉永六年九月一日から
嘉永七年五月十八日
○十月
八日
幕府 プチャーチンとの交渉に
川路聖謨(としあきら)
筒井政憲(まさのり)
荒尾茂允(しげまさ)
古賀謹一郎 四人を長崎に派遣
三十日
四人が長崎に向ふ
二十三日 徳川家定 十二代将軍となる
前家慶将軍の四男
これより安政五年七月四日まで
※安政五年四月二十三日
幕府彦根藩主井伊直弼を大老とする
※同 年九月五日
信濃の志士近藤茂左衛門
水戸藩の使者として活躍
大津で逮捕され 京都六角獄に投獄
安政の大獄の始まり
※同 年九月七日
梅田雲浜(うんぴん) 京都で逮捕
この後尊王攘夷派 江戸・京都で逮捕しきり
○十一月
一日 幕府 徳川斉昭の主張を受け入れ
「海防」の大号令を発す
○十二月
五日 プチャーチン艦隊四隻
上海から長崎に来航
二十日~ プチャーチンとの交渉開始
二十八日 合計五回の交渉
最後は プチャーチンが
樺太アニワ湾で国境画定会談再開を提案
※翌年一月四日
主催 プチャーチン
場所 パルラダ号
内容 送別の宴
同年一月八日
プチャーチン艦隊
琉球王国経由マニラに向かふ


阿部正弘の英断嘉永六年 九月一日
ロシアが
クシュンコタンに「ムラビヨフ砦」を築造
同 年 十月十五日
老中阿部正弘が 宰相ネッセルローデに
国境画定・和親交易の交渉拒絶の返書を出す
嘉永七年 三月十六日
松前藩士三輪信庸(のぶつね)が
クシュンコタンに赴き ロシアと交渉
同 年 五月十八日
ロシア
クシュンコタンの砦を撤去
大国ロシア相手に
無法の進攻を許さぬ阿部の決断
また その無法を認めて砦を撤去したロシア
ここに 阿部とネッセルローデの
法を守る信頼を土台とした人と人との信厚をみた
外交は人なり
只今 この経緯を調査中岩田修良
2024/12/14(Sat) 09:46 No.136
ムラビヨフ砦の撤去ムラビヨフ砦の撤去
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の「長崎交渉」で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるも 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は ロシア側も 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦・仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった岩田修良
2024/12/19(Thu) 18:37 No.152
本日より
幕末の年表 書き始めるつもりでゐたが
佐藤雅美著『大君通貨』を見つけたため
急遽 読み始めてしまった
吉村昭の本に慣れてしまったためか
慣れぬ文体は 非常に難しく感じた
もう少し正確に言ふと
吉村の本は 実に詳しいのでわかりやすい
もう一度読み直して
佐藤雅美の文体に慣れれば
読解できるやうになるかもしれない
明日辺りから 幕末年表を書いて行きたいが
まだてこずる可能性もある


十二月十三日やうやく年表作りが始まった
今日は 嘉永六年(一八五三)
ペリーが浦賀にやって来た年だ
肉付けの話は 少しづつ返信欄に付けるとして
明日は 嘉永七年(一八五四)を書く
嘉永七年は 十一月二十六日まで
安政元年は 十一月二十七日からだが
ほとんどの教科書から
嘉永七年は消え
安政元年は 架空の一月一日から始まる
史実に存在しない暦が あったかのやうに綴られても
何の疑義も出ない をかしい
だから教科書は 二度目のペリー来航を
安政元年一月十六日と記す インチキだ
嘉永七年一月十六日と記すが 正しい
私たちの史心は 教科書で破壊されてゐる
史心が育つわけがない
子供たち諸君!
これから語る「史実淡々」で
幕末から大東亜戦争までを 大いに勉強してもらひたい岩田修良
2024/12/13(Fri) 19:50 No.135
十二月十四日嘉永七年の年表作りの前に
どうしても気になった幕末のドルとイチブ銀の交換比率
佐藤雅美の『大君の通貨』の解読に時間をかけた
わかったこと
イギリスが 対清外交で無法であったことの
良心の呵責から
これからお付き会ひする日本とは
良心的に付き合はうとしてゐたこと
幕末=世界各国弱肉強食は 作られたもので
現実は 一部では さうではない部分もあったこと
二度目のペリー来航時
嘉永七年三月三日に 和親条約を結ぶわけだが
その後 下田でドル・銀の交換比率の話題になり
ドル=イチブ銀一枚 と決定されるが
この決定が 金本位制の国には イカサマに見え
日本も 西洋に遅れた国だとの劣等感も重なり
自国の「イチブ銀」が
世界に先駆けた「代用貨幣」であることに気づかず
阿部老中無き後の堀田が
ドル=イチブ銀三枚とするハリスの主張を
ごもっともとして そのまま受け入れてしまったために
日本経済が 大混乱したこと
重大な史実だけに わかりやすく この史実を語り継ぎたい岩田修良
2024/12/14(Sat) 19:01 No.138
十二月十七日和暦西暦一発変換の原本修正
たとへば
①昭和元年 CTRL+W
昭和元年(一九二六)十二月二十五日(前日十五十五年)
②嘉永七年 CTRL+W
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日(翌日安政元年)
③1989 CTRL+E
平成元年(一九八九)一月八日(前日昭和六十四年)
二十年以上も前に作った QXエヂタの和暦西暦返還マクロ
天明元年から 改元日付に対応した
史実を綴るに 不可欠なマクロである
部分対応だが 幕末から現代までは 対応した
史学科の教授は マクロ言語を使って
どんどん色々なマクロを作るべきだと思ふ
その内の一つの作品が
和暦西暦マクロである(改元に対応した)
岩田修良
2024/12/17(Tue) 18:25 No.148
主題一覧主題一覧の記事が見えなかったの障害を
見えるやうに直した
見え方に もう少し工夫が必要なので
少し 時間をかけて直したい岩田修良
2024/12/18(Wed) 17:42 No.149
十二月十九日ムラビヨフ砦の撤去
①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
②プチャーチンと川路の交渉で
川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
ペテロパブロフスク港
英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
英 艦長プライス自決
その後も 海兵隊を上陸させるの 英仏軍大敗
ここでロシア 考ふ
これ以上の戦闘は 不可能と考へ
・ペテロパブロフスク港を撤退
・これに合はせて クシュンコタンの
ムラビヨフ砦も撤退
その後 英九艦 仏五艦の 英仏連合艦隊が
ペテロパブロフスク港に入港
ロシア兵は 皆無
英仏艦隊は アラスカへと向かった
こんな経過の中
ロシアが
嘉永六年九月一日に作った
クシュンコタンの「ムラビヨフ砦」は 撤収された岩田修良
2024/12/19(Thu) 18:30 No.151
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弘化二年ー弘化五年 1845-1848
嘉永元年ー嘉永七年 1848-1854
安政元年ー安政二年 1854-1855
弘化二年(一八四五)二月二十二日
老中首座(二十七歳)ーーーーー
七月一日 ↑
海防掛 主宰 ↑
弘化五年(一八四八)二月二十七日 ↑
嘉永元年(一八四八)二月二十八日 ↑
嘉永七年(一八五四)十一月四日 大地震 十年間
嘉永七年(一八五四)十一月二十六日 ↓
安政元年(一八五四)十一月二十七日 ↓
安政二年(一八五五)十月二日 安政の大地震 ↓
安政二年(一八五五)十月九日 ↓
堀田正睦に首座を譲る ーーーーー
安政四年(一八五七)六月十七日
阿部正弘他界(三十九歳)
弘化・嘉永・安政二年まで
西暦で覚えると 当時の緊迫感が湧いて来ない
嘉永元年は 英語の救世主となったマクドナルドが本土上陸
嘉永六年は ペリー・プチャーチン来航 続けて来航
嘉永七年は 日米和親条約 三月三日
安政元年は 日露和親条約 十二月二十一日
択捉島ーウルップ島 国境と決まる
樺太は両国雑居地
安政二年は 大地震
二十七歳で 首席老中
三十七歳で 堀田正睦に首席を譲る
この若さで 和が国を十年間差配


韓国との外交交渉は 以下二点を
担当者が 以下の史実を自分の頭で
事前に整理して置くことが肝要
①釜山の草梁倭館の接収といふ名の略奪
幕府と朝鮮は
「草梁倭館」を基点に良好であった
朝鮮政府は 十萬坪もある「草梁倭館」を
対馬藩に無償貸与
幕府は そのお返しとして
将軍の代かはりに 通信使を無料ご招待
その規模 三百から五百人
大名行列に近い賑はひで 大いに文化の交流があった
その後 幕府の経済的圧迫から
朝鮮通信使の交流が衰へたが
幕府時代 朝鮮とは 互ひを思ふ気持ちがあった
新政府になり 新政府が親書を渡すと
朝鮮政府は 頑なにその親書の受け取りを拒否した
その動機は 未だ明らかにされてゐないが
幕末当時国内に流行った 佐藤信淵の『混同秘策』が
誰かによって朝鮮訳され そのあらましが
多少 わかってゐたのではないかと思はれます
その書は 今では
私たちの国でもあまり知られてゐませんが
『国史辞典』に
平田篤胤の国学を受けて
日本は世界万国の根本であり
やがて 世界を支配すべき国
とある様に
日本が世界をどう侵略し どう支配すべきか
さういふことが書かれてをります
つまり
世界支配の方法を具体的に示す本であり
世界侵略の拠点は『東京』にせよと指示され
世界侵略は 取り易き所から取れと指示され
幕末の志士と今でも仰がれる吉田松陰は
鬱陵島を兵站基地にすることも勧めてゐます
こんな書物の内容が 幾分か貴国に流れ
これを根拠に 新政府の侵略意図を読み取り
国書を受け取らなかったのではないか
また取易き所は 満州であると書かれてゐます
その満州への侵攻の足がかりを何処にするか
新政府 ここでは当時の様子から見まして
当時の政府を 暴力革命政府と呼びますが
革命政府は 釜山ー安東ー満州を想定
その足がかりとして釜山の『草梁倭館』を選び
遂に 軍艦を持ち出し
力づくで 草梁倭館を接収した
それが貴国に取っては略奪に見えた
この時の外交官で高野と申す者がをりましたが
高野は 朝鮮政府は 怖がってゐるから
その点を考慮して外交を進むべき
そんな朝鮮思ひの人のゐましたが
政府に押し切られ 草梁倭館を
革命政府は 接収してしまひました
私たち石破新政府は
この史実をしかと受け止めます
だから 韓国政府の親交は釜山に始まると考へます
釜山に日韓親交の拠点を作りませんか?
②安重根氏の怒りについて
先程申し上げましたやうに
革命政府のアジア侵略は規定路線でした
当時 鉄道は
釜山ー鴨緑江河口の安東まで延び
安東から奉天まで延びてゐました
ところが
安東から奉天の区間は 軽便線と言って
線路の幅が 一般より狭いものでした
したがって 列車は 奉天までは行けるが
その先の満州鉄道に 入れません
だから 革命政府は
朝鮮と清国で 長年もめてゐた
鴨緑江北部の間島地方に眼をつけました
当時の清国は 鴨緑江以北が清の領土
朝鮮側は もともと そこは朝鮮人が住む
よって鴨緑江より北の間島地方は朝鮮の領土
このやうな主張で おほよそ二百年位
清と朝鮮で国境問題がありました
日本の朝鮮支配によって
貴国の独立義勇兵は この間島地方に逃れ
そこで 韓国朝鮮の独立を夢見てゐました
そこに安重根氏がゐました
それまで 安の父親と重根氏は親日派でした
しかし 日本が韓国の外交権を奪ひ
韓国の外国権を所有した日本は
清国と日本で話合ひ
安東ー奉天線の線路変更工事の承認を得
清国は
日本から間島地方清国領土の承認を得て
長年の火種であった間島地方が
清国領土となりました
これに怒ったのが安重根氏でありました
しかし 監獄での毅然とした態度に
一人の看守が この人は
立派な方であると安重根氏を敬ひます
ここに人と人との厚い信頼が生まれます
不幸にして史実に疎くなった私たち
いや貴国も さうかもしれません
このやうな不幸の現実を再現させぬためにも
お互ひの史実をお互ひが知る
そんな時機に来てをります
その意味で
釜山に『史実淡々・草梁倭館』を作り
平和大使を育成し そこに配置
両国一人一人の二人がペアを組み
来館者に 互ひの歴史を語り合ふ
そんな交流を始めませんか
私ども石破新政府は
貴国とのそんなお付き合ひが
親交の始まりと考へます
①②のことを自分の頭で
自分の言葉で語れる様に
韓国との外交交渉担当者は
用意しておくべきではないか


安重根の人柄と東洋平和論明治四十二年(一九〇九)
十月二十六日午前九時
ハルピン駅にて 伊藤博文に発砲 暗殺
十一月 三日 旅順監獄に収監
この時の監獄の看守が千葉十七である
千葉は 初め「安」を極悪人と決めつけてゐたが
「安」の礼節ある態度
言葉の端々から出る人柄に触れ
「安」を尊敬するやうになってゐた
明治四十三年(一九一〇)
正月元旦 千葉は 犯行の動機を聞いた
「安」は言ふ
大韓国の歴史は 日本より古い
古来東洋の各民族は 自国を大切にし
他国を侵略したといふことはなかった
ところが ここ数百年欧州列強は
武力を以て他を侵略することを常とし
近事 それを東洋に及ぼした
特に ロシアはその最たるものだった
日露戦争では開戦にあたり 日本は
「東洋平和」を維持し 韓国独立を鞏固する
との勅語を発したので
韓国人民は 日本を応援した
日本は予想に反し 勝利を得ることができたが
ロシアに勝ってからは 韓国・清国を裏切り
むしろ侵略する政策を展開した
自分は この自国の危機を座視できず 立ち上がった
自分たちは 韓国の独立のみならず
日本も 清国も含めた東洋の平和を念願してゐる
自分の行為が
あとに続く憂国の同志の決起を促し
韓国永遠の歴史に 一個の捨て石になれば満足である
明治四十三年(一九一〇)
二月二十四日 死刑判決を受ける
その死刑判決を受けた三日後
二月二十七日
平石氏人(ひらいしうじんど)の聴取書が残ってゐる
それを「天地之詞」で打直し 縦書詩文に改めた
日韓清は 兄弟の国
親密に過ごして来たが
今は まるで兄弟仲が悪く
ある人が 他の人を助けない
こんな状態だから 世界に向かって
不和であることを公表してゐるやうなものだ
日本が 今すべき政策は
日本が「旅順」を開放して
そこを日・韓・清の共同軍港とし
三国から平和の有志を募って「旅順」に集め
「平和会」といふやうなものを組織し
それを世界に公表することだ
日本に領土的な野心がないことを 世界に示すのです
だから
日本は いったん「旅順」を清国に還して
その「旅順」を平和の根拠地とするのが
最も賢明な策となると信じます
「旅順」を清国に還すことは
日本にとっては 苦痛かもしれません
しかし 還すことによって
かへって利益を生むことになるのです
世界諸国は
日本の「旅順」返還の英断を讃へ
日本を称賛し 清国と韓国を加へ
日・清・韓は
永久に平和と幸福を得ることになるでせう
ー以下略ー
その「東洋平和論」の聴取が終はって
三月二十六日 死刑執行され「安」は 他界岩田修良
2024/12/16(Mon) 18:49 No.146
①五十音図
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
│ ○ │
井に○を置いた
ヒントは五十音図の『十言郷』
ワヰウヱヲ である
真字にすると…
和井○惠遠
ところで 片字(かたな)のワ字の語源は
ワ=和・輪(○)
これをヒントに 意味が通る様に
ワヰウヱヲ を 真字にすると
○井植ゑ遠
これをヒントにできた五十音図が
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
│ ○ │
これだけならば
今のスマホ入力も 五十音図に近い
②何を植ゑるのか
遠を植ゑる
明らかに 五十音図は さう指示する
ここで『遠』を解析する
遠=十一之イロハ
=東夷の色は
ここで『東夷の色は』を探す
元文元年(一七三六)
僧全長『以呂波字考録』を著す
そこに 和が国の『いろは文字』の俗称を幾つか挙げる
とりわけ 目立つ俗称は
いろは文字=東夷文字
=夷文字
東夷は 大和朝廷に忌み嫌はれた蛮族である
東夷のいろは文字
今では『いろは歌』が思ひ浮かぶが
赤穂の討ち入りで使用された
山? 川 の『天地之詞』がある
あめつち
ほしそら
やまかわ
みねたに
雲霧
室苔
人犬
上末
由王さる
遠不世与
江乃○於
奈禮居天
私説が苦しいのは
東大の国語学者の橋本博士が残す以下の文言
天地
星空
山川
峰谷
雲霧
室苔
人犬
上末
硫黄猿
生ふせよ
榎の枝を
馴れ居て
従って 辞書には全て この文言が載る
これを誤りと定めて直した『天地之詞』が
前述の『天地之詞』である
あめつち
ほしそら
やまかわ
みねたに
雲霧
室苔
人犬
上末
由王さる
遠不世与
江乃○於
奈禮居天
③東夷の色はを『五十音図』に植ゑる
あめつち=あ行(詳解後述)
ほ =は行
しそ =さ行
ら=ら行
や =や行
ま =ま行
かわ=か行・わ行
みね =三音(三打法)
た =た行
に=な行
④出来上がった『五十音図』が以下
は┃さ┃ら
━┃━┃━
な┃あ┃や
━┃━┃━
た┃か┃ま
わ
⑤さらに
阿=今は省略結論先行 井のロ
伊=今は省略結論先行 イ・左
宇=今は省略結論先行 ウ・右
江=今は省略結論先行 イの上
於=今は省略結論先行 アの上の字
⑥出来上がった五十音図
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
⑦みね=三音=三打法
あ=あ+阿+は
め=ま+江+は
つ=た+宇+は
ち=た+伊+は
⑧ネット時代の『天地之詞』
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
造語法(三音)
あ=あ+阿+は
め=ま+江+は
つ=た+宇+は
ち=た+伊+は
この詞が
天地を動かす
つまり 動画に煽られて動くのは
人の浮ついた心であって
その言動で 天地は動かない
天地を動かすのは
人の言葉ではなく
五十音図に語られた『十言郷』
すなはち『天地之詞』である
結論
この力をも入れずして
天地を動かす詞を放置して
西洋の「ローマ字」で 造語したり
根拠のない「JIS配置」で 造語したり
「スマホ入力」で 造語するから
この世が荒れる
石破首相は直ちに 私案を受け入れ
デジタル庁に「天地之詞」の普及を指示
これを受け 平将明氏は
関係機関に
・テンキー入力
・キーボード入力
・スマホ入力 を可能にする環境を作ることを指示
この場合 混乱が起きぬやうに
従来の入力は 全て残し
政府は 自然放置で『天地之詞』の普及を待つこと
追伸
筆者はATOKのスタディプロを
キーボードにカスタマイズして 入力可能にしたが
現在の新しいATOKでは そのカスタマイズ不可
よって
和が国の貴重な『天地之詞』は
絶滅の危機の中にある
こころある人 これを受け
「天地之詞」の普及に動かれたし


遠の解析
遠=十一之イロハ
=東夷の色は
あめつち
ほしそら
やまかわ
みねたに
天地之詞を持たぬ民族の方々は
どうしても 持たぬゆゑに
宇宙は『数』で出来てゐる
さう早合点したがるが
それは『天地之詞』を持たぬ宿命の帰結である
『天地之詞』を持つ民族は
持たぬ国とは当然 宇宙の起源が異なる
私たちは 宇宙は『数』ではなく
宇宙は『詞』で出来て居る
かう 西洋と思想の違ひを堂々と語れる人物がゐない
この場合『詞』とは何か…
詞=言・司
言=ロ三ヽ
=井ヽ三
司=ロシ
=ワジ
=和字
詞=井ヽ三和字
あ=あ+阿+は
め=ま+江+は
つ=た+宇+は
ち=た+伊+は
今 筆者が言ふ『天地之詞』
昔 高天が原
これは 以下の解析でわかる
高天が原=たかまがはら
=手鎌が原
手(た)鎌で
言草刈り取る原っぱ
そんな意味だらう
太陽と青空のなほ高い所に存する
だから『高天が原』
それは主題の下段の住所覧の絵詞の世界
私たちは 大事な大事な『絵』と『詞』を失ってゐた
その間に 色々な悲劇が生まれた
しかし 天地之詞が 現れた今
そんな世の中は 終はって行くのではないか…岩田修良
2024/12/16(Mon) 12:13 No.144
あ字観
平安時代の『あ』字
『安』の草書体
よくよく見ると
安=あめつち の合成語に見える
といふか そのやうに見えるやうに
当時の人々は書いてゐる
和が国は 空海の『阿字』ではなく
安心 あめつちの『あ』字
つまり『天地之詞』に帰れ!
さういふ意味を込めて
あ=あめつち と読める字を書いてゐたのだらう
この『あ』字を つまり
この『安心』を
井字の中の土真ん中に納める
どういふ意味か…
『天地之詞』の中に潜む『安心』は
井土のどまんなかにある
さう言ふ意味だと考へたい
詞の『安心』
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ あ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
│ ○ │
ところが『スマホ』の『あ』
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
○ │ ○ │ ○
ーーー│ーーーー│ーーー
あ │ ○ │ ○
│ ○ │
どういふことか…
本来の位置に『安心』ありとすると…
スマホの『あ』は『不安』となる
大人は 耐性がある
子供は 耐性が弱い
だから 『不安』の煽りを受けやすい
子音の配置だけでも
『天地之詞』に したがってもらひたい
は │ さ宇 │ ら
ーーー│ーーーー│ーーー
な於│ あ阿 │ や
ーーー│ーーーー│ーーー
た江│ か伊 │ ま
│ わ │
どこに配置したって同じだ
さう思ふ人もゐるだらう
しかし
慣れ親しんだ
アイウエオが
アエイウオとか
アオエウイに 突然変はったら
建物が傾くやうに
文字も傾いてゐる様に感じる筈だ
井の『あ』は ど真ん中に納めたい
子音配置は 五十音図ではなく
天地之詞に したがってもらひたい岩田修良
2024/12/16(Mon) 16:29 No.145
天保八年(一八三七)二月
幕府 竹島などへの渡航を厳禁すると共に
海上での異国船交渉・遠洋航海禁止
右島(竹島)
往古(おうこ)は
伯州米子(はくしゅうよなご)の者ども
渡海・魚類等いたし候へといへども
元禄の度(とき)
朝鮮国へお渡し 相なり
以来渡海禁止仰せ出された場所にこれあり
全て異国渡海の儀は ご禁制
右の島々も 同様に相心得
渡海いたすまじく候
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
往古=おうこ
=昔
伯州=山陰地方の古名
米子=鳥取
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
元禄年間を追ったら
度々 竹島は日本の領土だから
朝鮮人が ここで釣りをするは違法である
こんな申し立てが三度くらゐ出て来たので
明らかに 元禄初期は 竹島を日本の領土とみてゐた
しかし 最後に
地形的にみると 朝鮮の方が近い
これから推測すると 昔は地続きではなかったかと推測し
朝鮮の地とするが道理である と
説いた文を朝鮮に出してゐた
これ以後 日本は竹島への渡航を禁止してゐる
幕府が 竹島を異国の地とみてゐたからだらう
この後に 赤穂の討ち入りがあった
忠臣蔵の前の話かと思ふと
随分前から 朝鮮と竹島の領土問題があり
それなりに決着をつけてゐたのだな と しみじみ思った

