私塾鶴羽實 苔むす詞
岩田修良 令和二年十一月三十日(月)十二時四分 五百九十通[左頁(返信)]
慶応四年(一八六八)一月五日
一…『錦旗』東寺を出る
 仁和寺宮が『錦旗』を翻し東寺の本営を出て 本戦近くに出たのは午前八時 下鳥羽から横大路まで進んだ 激しい戦闘が 前方「富ノ森」で進行中で 銃砲聲がさかんであった(一三八) 
二…富ノ森(この日の初めの戦場)
 戦況は 午前七時から始めて 正午になっても発展しない(一四〇)(正午過ぎ)「富ノ森」は 薩軍の手に落ちた
三…千両松(二番目の戦場)
 敵(幕軍)は陣地を放棄して退却(一四一) 「千両松」の幕府の砲二門に苦しんだが 砲を奪って前進すると 幕府軍も 橋を渡って退却

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一月五日 午後三時過ぎ
一…戦況
 「淀の城」が対岸に見えた (さて)幕府軍は 四日の夜 城を確保するために 淀藩に申し入れたが (淀藩が)断って(来たため) 城門を閉ざして(幕軍を)入れようとしない 敗走して来た幕府軍は 淀藩の裏切りを罵りながら 城下を通過して 午後三時頃 木津川の大橋を渡って 対岸(川向かうの)「八幡」と「橋本」に陣地を築いた 淀小橋 木津川大橋共に 撤退と共に焼き落とし 敵の追撃を抑へた(一四二)
二…錦旗の位置
 「淀小橋」まで出た
三…新政府と幕軍の陣地の位置
 幕軍…「八幡」
 新政府…淀川を隔てた「山崎」

岩田修良 令和二年十一月三十日(月)十二時三十一分 五百九十二通
岩田修良 令和二年十一月三十日(月)十時七分 五百八十七通[左頁(返信)]
慶応四年(一八六八)一月四日
錦旗で討幕開始

 (仁和寺宮嘉彰)親王は 征討大将軍に補せられ 錦旗・節刀を賜り 兵を率いて進発した 
 (印象操作で人心掌握といふ)大久保の発想が そのまま実現された 「錦旗」は 岩倉・中山から「討幕の密勅」が出た際に 岩倉のもとに出入りしてゐた(平田学派)の古学者玉松操が考案 (それを)大久保から 長藩の品川弥二郎に 「密勅」と共に(「錦旗」の考案を)渡し 品川が帰国して山口で作製し ひそかに「京」へ届けてあったのが たちまち今度の役に立った (討幕の)準備(昨年十月十四日)があったのだ (『天皇の世紀八』一三六)

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「討幕の密勅」作成の背景
 
 岩倉具視を中心として 中御門経之(なかみかどつねゆき) 中山忠能(ただよし)は 討幕を薩長二藩に求めて 錦の御旗を作ることまで 命令してゐるのである 討幕の勅を下すことは 正統な手続きを踏んでは 実現不可能なことであつた (岩倉は)中山忠能が 天皇の生母の父である地位を利用 勅語の草案は玉松操に書かせた 徳川慶喜を討つの詔書 松平容保 松平定敬(さだあき)を誅戮する宣旨(せんじ)を授けた まだ実物が 出来てゐない錦旗を目録のまま下賜したのも 十月十四日のことで その日(は)慶喜が 正式に大政奉還をした(日であった)(『天皇の世紀八』三六八・九)  

岩田修良 令和二年十一月三十日(月)十時十三分 五百八十八通
岩田修良 令和二年十一月三十日(月)九時五十九分 五百八十四通[左頁(返信)]
慶応四年(一八六八)一月三日 午前九時
鳥羽の開戦の様子
 
 薩五番隊が 上鳥羽の中央(東寺間近)まで来て 幕軍の先発見廻隊の一隊と遭遇 談判の結果 幕軍退く 幕府側の兵は 以前京の市中取締りをしてゐた見廻組の者で 後方で指揮を取ってゐたのは 坂本龍馬 中岡慎太郎の暗殺を行った者として嫌疑を受けた佐々木唯三郎であった 見廻組は剣客揃ひだが 鉄砲を持ってゐないので 銃を構へた薩摩の兵士に抵抗出来ず後退(『天皇の世紀八』一一五)(討薩の上奏文を持った大目付)瀧川播磨守も 前進不可能との報を得て 淀(の宿営)まで引き返した(が) 再び見廻組を引連れ北上 赤池に達し 縦隊のまま路上に停止してゐた(『天皇の世紀八』一一六)

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慶応四年(一八六八)一月三日 午後五時
鳥羽開戦の様子

 (瀧川播磨守は)夜になるから強行して通ると宣言 縦隊が動き出すと 薩軍は合図の喇叭(ラッパ)を吹き 街道上の大砲が轟然と火を吹き (幕軍に)一度に銃撃をあびせた(『天皇の世紀八』一一六)
 幕府側では (京の)途中での戦闘は 全く予期してをらなかった 従って戦闘隊形は勿論 開進もしてをらず 路上に長く行軍縦隊のまま停止してゐたのみか 銃に装填もしてゐなかった ただ僅かに三門の砲が 路上に砲列を布いてゐただけである(『天皇の世紀八』一一七)

岩田修良 令和二年十一月三十日(月)十時三分 五百八十六通
岩田修良 令和二年十一月二十八日(土)十一時五十分 五百八十通[左頁(返信)]
慶応四年(一八六八)一月三日
幕府 各国大使へ要求
 
 署名者は 松平豊前守 板倉伊賀守 酒井雅楽頭であるが 書簡の内容は 武器 軍艦を日本政府(幕府)以外には売らないことや 開港場以外に 列国の艦船を 寄港せしめぬ様に 求めてあった
 これは 戦争になる場合を予期して 外国船が薩長に 武器を売渡すのを防ぐ為にとった手段であった 

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当時の様子『天皇の世紀八』(頁)
 幕府は 正月三日の日付で 各国大使に 「日本政府」として これから起こる戦争に 列国が干渉せぬように要求した(一九三) 大政奉還しても 外交の大権は まだ大君(将軍慶喜)に属すると 幕府の有司は信じてゐた 慶喜が十二月中旬(十六日)に 六国公使を引見した際 同じ意見を表明したのである(一九四)外交の権利と責任が自分に在ることを慶喜は公然と言ひ 和が国の政体が やがて全国の衆議を以て定められるべきことを表明した 京都の政体を 大胆に否定した影が明らかである(六八)英国軍艦が慶喜の(江戸東帰の)乗船を威嚇 イギリスは 薩摩を押して慶喜の日本政府を没落させようとしてゐるのだ(一九四) 

岩田修良 令和二年十一月二十八日(土)十一時五十二分 五百八十一通
岩田修良 令和二年十一月二十七日(金)十九時二十三分 五百七十八通[左頁(返信)]
慶応四年(一八六八)一月一日
討薩の上奏文
 去る十二月九日の王政復古の大号令以来 薩摩藩の振舞は 朝廷のご真意とは考へれず 悪党島津家の家臣どもの陰謀である事 天下周知のことで御座居ます 思ひまするに 薩摩藩が 浪人どもを集め 江戸で押込み強盗を働くことも 島津家の家来が引き起こしたもの 是は 天も 人も共に憎むところで御座居ますれば ここに 悪党どもの引渡しを要求致しまする 万が一 朝廷から その御沙汰無き折は 止むを得ず 天に代はって誅戮致しますること ご理解いただきたく存じます(現代語訳岩田)

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当時の様子『天皇の世紀八』(頁)
 しかし (慶喜)は戦闘は考へてゐない 薩摩一藩を敵に取るとしても (幕府)の権威と勢力で 問題なく征圧できると信じたからだらう 松平豊前守(大河内正質)などは 令を出して大坂を徘徊せる薩人一人を斬る毎に 十五金を与へようなどど 無謀の動議だして さすが慶喜もこれを退けた 薩摩を憎悪しつつも 戦争の相手に値するとは考へてゐなかった(百二十)天璋院は 将軍家定の三度目の夫人 島津斉彬の養女(四七十)

岩田修良 令和二年十一月二十八日(土)九時二分 五百七十九通
岩田修良 令和二年十一月二十七日(金)十八時二十三分 五百七十六通[左頁(返信)]
慶応三年(一八六七)十二月九日
王政復古

 神武創業の始めに基づき
 当たり前の事だが 庶民がわかる議論を興し
 一人一人が勉学に励み
 驕りや怠けの悪しき慣習を捨て
 天皇に 忠義を尽くして
 国に報いる誠を以て 奉公致します
            (現代語訳岩田)

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当時の様子『天皇の世紀八』(頁)
 十二月二十三日の明け方江戸城二の丸 出火炎上  原因が放火 二の丸は天璋院の住まい 大奥の女中が薩藩士と通じて火を放ったものと言ひ 噂通り 薩藩の者が 天璋院を奪ひ去らうとしたとも称された(百)薩摩屋敷に集まってゐた浪士軍は 指揮者の一人落合直亮に依ると 名前を登録した者二二四人 その他の者を加へて五〇〇人 尋常の警察力では 鎮撫困難であった 二十三日夜 庄内藩(江戸市中取締役)の屯所に鉄砲を撃ち込んだ暴徒多数が 田町の(薩摩藩)屋敷へ隠れたのを見て 幕府の有司が 薩州邸攻撃の断を下した 小栗上野介が 強力に討伐を主張したせいだと言はれてゐる 二十五日明け方 幕府は二千余人を以て 発砲した犯人の引き渡しを要求 薩藩はかくまってゐないと強弁 遂に庄内藩兵が 藩邸を焼払った(百二)

岩田修良 令和二年十一月二十七日(金)十八時三十分 五百七十七通
岩田修良 令和二年十一月二十七日(金)十六時五十六分 五百七十四通[左頁(返信)]
慶応三年(一八六七)十月十四日
大政奉還

 従来の旧習を改め
 政権を朝廷にお帰しし
 広く天下の公議を尽し
 常に天皇のご聖断を仰ぎ
 同心協力致し 
 朝廷と共に皇国を 保護致します
          (現代語訳岩田)

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当時の様子『天皇の世紀八』(頁)
 慶喜不在 軍隊は 京と大坂 江戸の治安を揺さぶって 江戸の人心の不安ならしめる陰謀は 古くから薩藩の急進派は思ひついてゐた(九五)西郷と大久保は 何時ともまだ先の遠い企画を作成した 益満休之助と伊牟田尚平は 慶応二年の秋に江戸に下って 関東 信越の志士たちを糾合して 京都に事が起こった場合 関東に兵を起こして 幕府の膝下を攪乱させる任務についた 職分は無く 悠々と遊んで暮らして この秘密の任務についた(九六)浪士たちは少人数で 大手を振って市中を闊歩した 江戸の外にでると警戒など無いものと同じであった(九七)粗暴なものは 手段を選ばず暴威をしめして 殺傷に出る様なことをした 江戸で幕府方を怒らせて 戦端を開かせぬと 現在の様に政局が滞って動かぬのでは 薩藩としては 手の下し様がない 治安妨害は任務だと説明された(九九)

岩田修良 令和二年十一月二十七日(金)十七時二十六分 五百七十五通
岩田修良 令和二年十一月二十六日(木)十八時二十八分 五百七十二通[左頁(返信)]
二月十二日
 初めに集まった十七名 
 その日は何があったのか 慶喜が朝廷に恭順の意志を示すために 東叡山寛永寺に入った日である 東叡山とは 東の比叡山延暦寺と言ふ意味である その寛永寺は 寛永二年(一六二五)に出来てゐるから 時の元号から命名されたのだらう  

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