過去ログ:
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嘉永六年(一八五三)

○二月
 二日   関東地方大地震 小田原被害多し
○四月
 十九日  ペリー東インド艦隊
      サスケハナ・ミシシッピイ・プリマス・サラトガ軍艦四隻
      琉球那覇に来航
 二十八日 幕府
      井戸弘道     浦賀奉行に
      水野忠篤(忠徳) 長崎奉行に 任命
        
 三十日  ペリー艦隊 随員・護衛・楽員
      総勢二百十名 大砲三門率いて首里城入る
○五月
 三日   ペリー
      サスケハナ・サラトガ二隻で小笠原に向ふ
 八日   ペリー
      小笠原父島の二見港に入り上陸
      先住米国人ナザニエル・サボリより貯炭用地買収
 二十三日 ロシア プチャーチン艦隊の輸送船
      メンシコフ号 小笠原父島・二見港入港
      翌月二十一日 プチャーチン艦隊のボストーク号入港
        二十六日 同艦隊オリブーツァ号入港
 二十六日 ペリー艦隊那覇出港 浦賀に向ふ
 二十九日 薩摩藩 西洋型帆船軍艦起工
      安政二年三月 江戸に廻航
          八月 幕府に献納
○六月
 三日   ペリー艦隊四隻浦賀鴨居沖来航
      浦賀奉行与力中島三郎助ら長崎に廻航するやう勧告
 四日   ペリー
      長崎に行かず国書受領を求める
 六日   幕府
      国書受取りを決定
 九日   ペリー
      久里浜に上陸 大統領フィルモア親書手渡し
      来春回答を求めることを告げる
 十三日  ペリー艦隊 那覇港に向ふ
 二十日  ペリー艦隊那覇港 入港
 二十一日 ペリー 中山府に
      ①那覇・天久寺の貸与
      ②貯炭所の建造
      ③物資の売渡・商品陳列
      ④上陸時の尾行廃止 を要求
      二十三日 ペリー 那覇公館で
           総理・尚弘勲と会談
           要求を拒否すれば王城占拠を告げる
      二十四日 中山府 受諾する
      二十七日 ペリー 上海に向ふ
           これよりペリー上海に滞在
 二十二日 将軍家慶(いえよし)六十一歳 他界
      七月二十二日まで伏せる
○七月
 一日   首席老中 阿部正弘
      諸大名に米国国書の要求に関し意見を求む
 同日   アメリカ運送船一隻 那覇に来航
      「泊海岸」に 石炭陸揚の基地築造開始
 三日   老中阿部政弘
      前水戸藩主徳川斉昭を「海防参与」に
      藤田東湖を「海防掛」に任命
 八日   海防参与の徳川斉昭 幕府に
      「海防十か条」を建言
 十八日  プチャーチン艦隊四隻 長崎来航
      宰相ネッセルローデの国書受領を求む
      八月七日
       国書受領をロシア側に告知
      八月十九日
       長崎奉行 大沢安宅 国書受領
      九月十五日
       ロシア国書が
       オランダ語に訳され 和訳され
       老中阿部正弘に届く
       国書の内容
        ・国境画定
        ・公益開始
      十月二十三日
       再来の時に回答得られぬ時は 直ちに江戸に赴く  
       艦隊四隻を率いて上海に向かふ
○八月
 二日   幕府 江川英龍・川路聖謨らに
      江戸湾 砲台築造を命ず
 六日   江川英龍 幕府に 願ひ申請
      追放中の高島秋帆釈放し 江川の配下とす
 二十八日 江川英龍・高島秋帆の指揮で
      江戸品川台場六基築造開始
      翌年 七月二十二日 完成
 三十日  ロシア船一艘 樺太クシュンコタンに来航
      十六人上陸
      九月一日
       ロシア人・四十人上陸
       ムラビヨフ砦を構築 六十人越冬
      翌年三月十六日
       松前藩士三輪信庸(のぶつね)
       クシュンコタンに赴き ロシア人と交渉開始
      同年四月三日
       ロシア船一艘クシュンコタンに来航「
      同年五月十八日
       ロシア兵 砦を撤去して出港
      ※ロシアのクシュンコタン軍事占領期間
       嘉永六年九月一日から
       嘉永七年五月十八日
○十月
 八日
      幕府 プチャーチンとの交渉に
      川路聖謨(としあきら)
      筒井政憲(まさのり)
      荒尾茂允(しげまさ)
      古賀謹一郎 四人を長崎に派遣
      三十日
       四人が長崎に向ふ
 二十三日 徳川家定 十二代将軍となる
      前家慶将軍の四男
      これより安政五年七月四日まで
      ※安政五年四月二十三日
       幕府彦根藩主井伊直弼を大老とする
      ※同  年九月五日
       信濃の志士近藤茂左衛門
       水戸藩の使者として活躍
       大津で逮捕され 京都六角獄に投獄
       安政の大獄の始まり
      ※同  年九月七日
       梅田雲浜(うんぴん) 京都で逮捕
       この後尊王攘夷派 江戸・京都で逮捕しきり
○十一月
 一日    幕府 徳川斉昭の主張を受け入れ
       「海防」の大号令を発す
○十二月
 五日    プチャーチン艦隊四隻
       上海から長崎に来航
 二十日~  プチャーチンとの交渉開始
 二十八日  合計五回の交渉
       最後は プチャーチンが
       樺太アニワ湾で国境画定会談再開を提案
       ※翌年一月四日
        主催 プチャーチン
        場所 パルラダ号
        内容 送別の宴
        同年一月八日
         プチャーチン艦隊
         琉球王国経由マニラに向かふ

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/13(Fri) 19:36 No.134
阿部正弘の英断
嘉永六年 九月一日
 ロシアが
 クシュンコタンに「ムラビヨフ砦」を築造
同  年 十月十五日
 老中阿部正弘が 宰相ネッセルローデに
 国境画定・和親交易の交渉拒絶の返書を出す
嘉永七年 三月十六日
 松前藩士三輪信庸(のぶつね)が
 クシュンコタンに赴き ロシアと交渉
同  年 五月十八日
 ロシア
 クシュンコタンの砦を撤去

大国ロシア相手に
無法の進攻を許さぬ阿部の決断
また その無法を認めて砦を撤去したロシア
ここに 阿部とネッセルローデの
法を守る信頼を土台とした人と人との信厚をみた
外交は人なり

只今 この経緯を調査中
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/14(Sat) 09:46 No.136
ムラビヨフ砦の撤去
ムラビヨフ砦の撤去 
 ①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
 ②プチャーチンと川路の「長崎交渉」で
  川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
  砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
 ③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
  ペテロパブロフスク港 
  英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
  英 艦長プライス自決
  その後も 海兵隊を上陸させるも 英仏軍大敗

 ここでロシア 考ふ

  これ以上の戦闘は ロシア側も 不可能と考へ
   ・ペテロパブロフスク港を撤退
   ・これに合はせて クシュンコタンの
    ムラビヨフ砦も撤退

 その後 英九艦・仏五艦の 英仏連合艦隊が
 ペテロパブロフスク港に入港
 ロシア兵は 皆無
 英仏艦隊は アラスカへと向かった 
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/19(Thu) 18:37 No.152
日記

本日より
幕末の年表 書き始めるつもりでゐたが
佐藤雅美著『大君通貨』を見つけたため
急遽 読み始めてしまった
吉村昭の本に慣れてしまったためか
慣れぬ文体は 非常に難しく感じた
もう少し正確に言ふと
吉村の本は 実に詳しいのでわかりやすい
もう一度読み直して
佐藤雅美の文体に慣れれば
読解できるやうになるかもしれない

明日辺りから 幕末年表を書いて行きたいが
まだてこずる可能性もある 

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/12(Thu) 19:17 No.128
十二月十三日
やうやく年表作りが始まった
今日は 嘉永六年(一八五三)
 ペリーが浦賀にやって来た年だ
 肉付けの話は 少しづつ返信欄に付けるとして
明日は 嘉永七年(一八五四)を書く
 嘉永七年は 十一月二十六日まで
 安政元年は 十一月二十七日からだが
ほとんどの教科書から
 嘉永七年は消え
 安政元年は 架空の一月一日から始まる
 史実に存在しない暦が あったかのやうに綴られても
 何の疑義も出ない をかしい
 だから教科書は 二度目のペリー来航を
 安政元年一月十六日と記す インチキだ
 嘉永七年一月十六日と記すが 正しい
 私たちの史心は 教科書で破壊されてゐる
 史心が育つわけがない
子供たち諸君!
 これから語る「史実淡々」で
 幕末から大東亜戦争までを 大いに勉強してもらひたい
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/13(Fri) 19:50 No.135
十二月十四日
嘉永七年の年表作りの前に
どうしても気になった幕末のドルとイチブ銀の交換比率
佐藤雅美の『大君の通貨』の解読に時間をかけた
わかったこと
 イギリスが 対清外交で無法であったことの
 良心の呵責から
 これからお付き会ひする日本とは
 良心的に付き合はうとしてゐたこと
 幕末=世界各国弱肉強食は 作られたもので
 現実は 一部では さうではない部分もあったこと
 
 二度目のペリー来航時
 嘉永七年三月三日に 和親条約を結ぶわけだが
 その後 下田でドル・銀の交換比率の話題になり
 ドル=イチブ銀一枚 と決定されるが
 この決定が 金本位制の国には イカサマに見え
 日本も 西洋に遅れた国だとの劣等感も重なり
 自国の「イチブ銀」が
 世界に先駆けた「代用貨幣」であることに気づかず
 阿部老中無き後の堀田が
 ドル=イチブ銀三枚とするハリスの主張を
 ごもっともとして そのまま受け入れてしまったために
 日本経済が 大混乱したこと
 重大な史実だけに わかりやすく この史実を語り継ぎたい
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/14(Sat) 19:01 No.138
十二月十七日
和暦西暦一発変換の原本修正

 たとへば
  ①昭和元年 CTRL+W
   昭和元年(一九二六)十二月二十五日(前日十五十五年)

  ②嘉永七年 CTRL+W
   嘉永七年(一八五四)十一月二十六日(翌日安政元年)

  ③1989   CTRL+E
   平成元年(一九八九)一月八日(前日昭和六十四年)

  二十年以上も前に作った QXエヂタの和暦西暦返還マクロ
  天明元年から 改元日付に対応した
  史実を綴るに 不可欠なマクロである
  部分対応だが 幕末から現代までは 対応した
  史学科の教授は マクロ言語を使って
  どんどん色々なマクロを作るべきだと思ふ
  その内の一つの作品が
  和暦西暦マクロである(改元に対応した)   



  
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/17(Tue) 18:25 No.148
主題一覧
主題一覧の記事が見えなかったの障害を
見えるやうに直した
見え方に もう少し工夫が必要なので
少し 時間をかけて直したい
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/18(Wed) 17:42 No.149
十二月十九日
ムラビヨフ砦の撤去 
 ①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
 ②プチャーチンと川路の交渉で
  川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
  砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
 ③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
  ペテロパブロフスク港 
  英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
  英 艦長プライス自決
  その後も 海兵隊を上陸させるの 英仏軍大敗

 ここでロシア 考ふ

  これ以上の戦闘は 不可能と考へ
   ・ペテロパブロフスク港を撤退
   ・これに合はせて クシュンコタンの
    ムラビヨフ砦も撤退

 その後 英九艦 仏五艦の 英仏連合艦隊が
 ペテロパブロフスク港に入港
 ロシア兵は 皆無
 英仏艦隊は アラスカへと向かった 
 
 こんな経過の中 
 ロシアが
 嘉永六年九月一日に作った 
 クシュンコタンの「ムラビヨフ砦」は 撤収された
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/19(Thu) 18:30 No.151
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user.png 岩田修良 time.png 2024/12/18(Wed) 17:49 No.150
阿部正弘

 弘化二年ー弘化五年 1845-1848
 嘉永元年ー嘉永七年 1848-1854
 安政元年ー安政二年 1854-1855

 弘化二年(一八四五)二月二十二日
           老中首座(二十七歳)ーーーーー
           七月一日        ↑
           海防掛 主宰      ↑
 弘化五年(一八四八)二月二十七日      ↑
 嘉永元年(一八四八)二月二十八日      ↑
 嘉永七年(一八五四)十一月四日 大地震  十年間
 嘉永七年(一八五四)十一月二十六日     ↓
 安政元年(一八五四)十一月二十七日     ↓
 安政二年(一八五五)十月二日 安政の大地震 ↓
 安政二年(一八五五)十月九日        ↓
          堀田正睦に首座を譲る ーーーーー
 安政四年(一八五七)六月十七日
          阿部正弘他界(三十九歳)

 弘化・嘉永・安政二年まで
 西暦で覚えると 当時の緊迫感が湧いて来ない
 嘉永元年は 英語の救世主となったマクドナルドが本土上陸
 嘉永六年は ペリー・プチャーチン来航 続けて来航
 嘉永七年は 日米和親条約 三月三日
 安政元年は 日露和親条約 十二月二十一日
       択捉島ーウルップ島 国境と決まる
       樺太は両国雑居地
 安政二年は 大地震
 
 二十七歳で 首席老中
 三十七歳で 堀田正睦に首席を譲る
 この若さで 和が国を十年間差配

  

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/17(Tue) 18:04 No.147
韓国との外交交渉

韓国との外交交渉は 以下二点を
担当者が 以下の史実を自分の頭で
事前に整理して置くことが肝要

①釜山の草梁倭館の接収といふ名の略奪
 幕府と朝鮮は
 「草梁倭館」を基点に良好であった
 朝鮮政府は 十萬坪もある「草梁倭館」を
 対馬藩に無償貸与
 幕府は そのお返しとして
 将軍の代かはりに 通信使を無料ご招待
 その規模 三百から五百人
 大名行列に近い賑はひで 大いに文化の交流があった
 その後 幕府の経済的圧迫から
 朝鮮通信使の交流が衰へたが
 幕府時代 朝鮮とは 互ひを思ふ気持ちがあった
 新政府になり 新政府が親書を渡すと
 朝鮮政府は 頑なにその親書の受け取りを拒否した
 その動機は 未だ明らかにされてゐないが
 幕末当時国内に流行った 佐藤信淵の『混同秘策』が
 誰かによって朝鮮訳され そのあらましが
 多少 わかってゐたのではないかと思はれます
 その書は 今では
 私たちの国でもあまり知られてゐませんが
 『国史辞典』に
  平田篤胤の国学を受けて
  日本は世界万国の根本であり
  やがて 世界を支配すべき国 
  
  とある様に
  日本が世界をどう侵略し どう支配すべきか
  さういふことが書かれてをります     
  つまり
  世界支配の方法を具体的に示す本であり
  世界侵略の拠点は『東京』にせよと指示され
  世界侵略は 取り易き所から取れと指示され
  幕末の志士と今でも仰がれる吉田松陰は
  鬱陵島を兵站基地にすることも勧めてゐます
  こんな書物の内容が 幾分か貴国に流れ
  これを根拠に 新政府の侵略意図を読み取り
  国書を受け取らなかったのではないか
  また取易き所は 満州であると書かれてゐます
  その満州への侵攻の足がかりを何処にするか
  新政府 ここでは当時の様子から見まして
  当時の政府を 暴力革命政府と呼びますが
  革命政府は 釜山ー安東ー満州を想定
  その足がかりとして釜山の『草梁倭館』を選び
  遂に 軍艦を持ち出し
  力づくで 草梁倭館を接収した
  それが貴国に取っては略奪に見えた
  この時の外交官で高野と申す者がをりましたが
  高野は 朝鮮政府は 怖がってゐるから
  その点を考慮して外交を進むべき
  そんな朝鮮思ひの人のゐましたが
  政府に押し切られ 草梁倭館を
  革命政府は 接収してしまひました
  私たち石破新政府は
  この史実をしかと受け止めます
  だから 韓国政府の親交は釜山に始まると考へます
  釜山に日韓親交の拠点を作りませんか?

 ②安重根氏の怒りについて
  先程申し上げましたやうに
  革命政府のアジア侵略は規定路線でした
  当時 鉄道は
  釜山ー鴨緑江河口の安東まで延び 
  安東から奉天まで延びてゐました
  ところが
  安東から奉天の区間は 軽便線と言って
  線路の幅が 一般より狭いものでした
  したがって 列車は 奉天までは行けるが
  その先の満州鉄道に 入れません
  だから 革命政府は
  朝鮮と清国で 長年もめてゐた
  鴨緑江北部の間島地方に眼をつけました
  当時の清国は 鴨緑江以北が清の領土
  朝鮮側は もともと そこは朝鮮人が住む
  よって鴨緑江より北の間島地方は朝鮮の領土
  このやうな主張で おほよそ二百年位
  清と朝鮮で国境問題がありました
  日本の朝鮮支配によって
  貴国の独立義勇兵は この間島地方に逃れ
  そこで 韓国朝鮮の独立を夢見てゐました
  そこに安重根氏がゐました
  それまで 安の父親と重根氏は親日派でした
  しかし 日本が韓国の外交権を奪ひ
  韓国の外国権を所有した日本は
  清国と日本で話合ひ
  安東ー奉天線の線路変更工事の承認を得
  清国は 
  日本から間島地方清国領土の承認を得て
  長年の火種であった間島地方が
  清国領土となりました
  これに怒ったのが安重根氏でありました
  しかし 監獄での毅然とした態度に
  一人の看守が この人は
  立派な方であると安重根氏を敬ひます
  ここに人と人との厚い信頼が生まれます
  不幸にして史実に疎くなった私たち
  いや貴国も さうかもしれません
  このやうな不幸の現実を再現させぬためにも
  お互ひの史実をお互ひが知る
  そんな時機に来てをります
  その意味で
  釜山に『史実淡々・草梁倭館』を作り
  平和大使を育成し そこに配置
  両国一人一人の二人がペアを組み 
  来館者に 互ひの歴史を語り合ふ
  そんな交流を始めませんか 
  私ども石破新政府は
  貴国とのそんなお付き合ひが
  親交の始まりと考へます
 
①②のことを自分の頭で
  自分の言葉で語れる様に
  韓国との外交交渉担当者は
  用意しておくべきではないか

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/16(Mon) 11:18 No.143
安重根の人柄と東洋平和論
明治四十二年(一九〇九)
 十月二十六日午前九時
  ハルピン駅にて 伊藤博文に発砲 暗殺
 十一月 三日 旅順監獄に収監
        この時の監獄の看守が千葉十七である
        千葉は 初め「安」を極悪人と決めつけてゐたが
        「安」の礼節ある態度
        言葉の端々から出る人柄に触れ
        「安」を尊敬するやうになってゐた
        
明治四十三年(一九一〇)
 正月元旦   千葉は 犯行の動機を聞いた
「安」は言ふ
 大韓国の歴史は 日本より古い
 古来東洋の各民族は 自国を大切にし
 他国を侵略したといふことはなかった
 ところが ここ数百年欧州列強は
 武力を以て他を侵略することを常とし
 近事 それを東洋に及ぼした
 特に ロシアはその最たるものだった
 日露戦争では開戦にあたり 日本は
 「東洋平和」を維持し 韓国独立を鞏固する 
 との勅語を発したので
 韓国人民は 日本を応援した
 日本は予想に反し 勝利を得ることができたが
 ロシアに勝ってからは 韓国・清国を裏切り
 むしろ侵略する政策を展開した
 自分は この自国の危機を座視できず 立ち上がった
 自分たちは 韓国の独立のみならず
 日本も 清国も含めた東洋の平和を念願してゐる
 自分の行為が
 あとに続く憂国の同志の決起を促し
 韓国永遠の歴史に 一個の捨て石になれば満足である

明治四十三年(一九一〇)
 二月二十四日 死刑判決を受ける
  その死刑判決を受けた三日後
 二月二十七日
 平石氏人(ひらいしうじんど)の聴取書が残ってゐる
 それを「天地之詞」で打直し 縦書詩文に改めた

日韓清は 兄弟の国
親密に過ごして来たが
今は まるで兄弟仲が悪く
ある人が 他の人を助けない
こんな状態だから 世界に向かって
不和であることを公表してゐるやうなものだ

日本が 今すべき政策は
日本が「旅順」を開放して
そこを日・韓・清の共同軍港とし
三国から平和の有志を募って「旅順」に集め
「平和会」といふやうなものを組織し
それを世界に公表することだ

日本に領土的な野心がないことを 世界に示すのです
だから 
日本は いったん「旅順」を清国に還して
その「旅順」を平和の根拠地とするのが
最も賢明な策となると信じます

「旅順」を清国に還すことは
日本にとっては 苦痛かもしれません
しかし 還すことによって
かへって利益を生むことになるのです

世界諸国は
日本の「旅順」返還の英断を讃へ
日本を称賛し 清国と韓国を加へ
日・清・韓は 
永久に平和と幸福を得ることになるでせう
ー以下略ー

その「東洋平和論」の聴取が終はって
 三月二十六日 死刑執行され「安」は 他界
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/16(Mon) 18:49 No.146
天地之詞

①五十音図

 ○ │ ○  │ ○  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 ○ │ ○  │ ○  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 ○ │ ○  │ ○  
   │ ○  │

 井に○を置いた
 ヒントは五十音図の『十言郷』
 ワヰウヱヲ である
 真字にすると…
 和井○惠遠

 ところで 片字(かたな)のワ字の語源は
 ワ=和・輪(○)
 これをヒントに 意味が通る様に
 ワヰウヱヲ を 真字にすると
 ○井植ゑ遠
 これをヒントにできた五十音図が

 ○ │ ○  │ ○  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 ○ │ ○  │ ○  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 ○ │ ○  │ ○  
   │ ○  │

 これだけならば
 今のスマホ入力も 五十音図に近い

②何を植ゑるのか
 遠を植ゑる
 明らかに 五十音図は さう指示する
 ここで『遠』を解析する

 遠=十一之イロハ
  =東夷の色は

 ここで『東夷の色は』を探す
  元文元年(一七三六)
  僧全長『以呂波字考録』を著す
  そこに 和が国の『いろは文字』の俗称を幾つか挙げる
  とりわけ 目立つ俗称は
  いろは文字=東夷文字
       =夷文字
  東夷は 大和朝廷に忌み嫌はれた蛮族である

 東夷のいろは文字
 今では『いろは歌』が思ひ浮かぶが
 赤穂の討ち入りで使用された
 山? 川 の『天地之詞』がある

 あめつち
 ほしそら
 やまかわ
 みねたに
 雲霧
 室苔
 人犬
 上末
 由王さる
 遠不世与
 江乃○於
 奈禮居天 

 私説が苦しいのは
 東大の国語学者の橋本博士が残す以下の文言

 天地
 星空
 山川
 峰谷
 雲霧
 室苔
 人犬
 上末
 硫黄猿
 生ふせよ
 榎の枝を
 馴れ居て

 従って 辞書には全て この文言が載る
 これを誤りと定めて直した『天地之詞』が
 前述の『天地之詞』である

 あめつち
 ほしそら
 やまかわ
 みねたに
 雲霧
 室苔
 人犬
 上末
 由王さる
 遠不世与
 江乃○於
 奈禮居天

③東夷の色はを『五十音図』に植ゑる

 あめつち=あ行(詳解後述)
 ほ   =は行
  しそ =さ行
    ら=ら行
 や   =や行
  ま  =ま行
   かわ=か行・わ行
 みね  =三音(三打法)
   た =た行
    に=な行

④出来上がった『五十音図』が以下

は┃さ┃ら
━┃━┃━
な┃あ┃や
━┃━┃━
た┃か┃ま
  わ   
  
⑤さらに 
 阿=今は省略結論先行 井のロ
 伊=今は省略結論先行 イ・左 
 宇=今は省略結論先行 ウ・右
 江=今は省略結論先行 イの上
 於=今は省略結論先行 アの上の字

⑥出来上がった五十音図

 は │ さ宇 │ ら  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 な於│ あ阿 │ や  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 た江│ か伊 │ ま  
   │ わ  │    

⑦みね=三音=三打法

 あ=あ+阿+は
 め=ま+江+は
 つ=た+宇+は
 ち=た+伊+は

⑧ネット時代の『天地之詞』

 は │ さ宇 │ ら  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 な於│ あ阿 │ や  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 た江│ か伊 │ ま  
   │ わ  │  
造語法(三音)
 あ=あ+阿+は
 め=ま+江+は
 つ=た+宇+は
 ち=た+伊+は 

 この詞が
 天地を動かす
 つまり 動画に煽られて動くのは
 人の浮ついた心であって
 その言動で 天地は動かない
 天地を動かすのは
 人の言葉ではなく
 五十音図に語られた『十言郷』
 すなはち『天地之詞』である

結論
 この力をも入れずして
 天地を動かす詞を放置して
 西洋の「ローマ字」で 造語したり
 根拠のない「JIS配置」で 造語したり
 「スマホ入力」で 造語するから
 この世が荒れる
 石破首相は直ちに 私案を受け入れ
 デジタル庁に「天地之詞」の普及を指示
 これを受け 平将明氏は 
 関係機関に 
 ・テンキー入力
 ・キーボード入力
 ・スマホ入力 を可能にする環境を作ることを指示
  この場合 混乱が起きぬやうに
  従来の入力は 全て残し
  政府は 自然放置で『天地之詞』の普及を待つこと

追伸
 筆者はATOKのスタディプロを
 キーボードにカスタマイズして 入力可能にしたが
 現在の新しいATOKでは そのカスタマイズ不可
 よって 
 和が国の貴重な『天地之詞』は
 絶滅の危機の中にある
 
 こころある人 これを受け
 「天地之詞」の普及に動かれたし

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/16(Mon) 09:48 No.142
遠の解析
 
 
 
 
 
 
 
遠=十一之イロハ
 =東夷の色は
  
  あめつち
  ほしそら
  やまかわ
  みねたに

天地之詞を持たぬ民族の方々は
どうしても 持たぬゆゑに
宇宙は『数』で出来てゐる
さう早合点したがるが 
それは『天地之詞』を持たぬ宿命の帰結である

『天地之詞』を持つ民族は 
持たぬ国とは当然 宇宙の起源が異なる
私たちは 宇宙は『数』ではなく
     宇宙は『詞』で出来て居る
かう 西洋と思想の違ひを堂々と語れる人物がゐない

この場合『詞』とは何か…
 詞=言・司
   言=ロ三ヽ
    =井ヽ三
   司=ロシ
    =ワジ
    =和字

 詞=井ヽ三和字
     あ=あ+阿+は
     め=ま+江+は
     つ=た+宇+は
     ち=た+伊+は

今 筆者が言ふ『天地之詞』
昔 高天が原
  これは 以下の解析でわかる
  高天が原=たかまがはら
      =手鎌が原
        手(た)鎌で
        言草刈り取る原っぱ
        そんな意味だらう

 太陽と青空のなほ高い所に存する
 だから『高天が原』
 それは主題の下段の住所覧の絵詞の世界
 
 私たちは 大事な大事な『絵』と『詞』を失ってゐた
 その間に 色々な悲劇が生まれた
 しかし 天地之詞が 現れた今
 そんな世の中は 終はって行くのではないか…
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/16(Mon) 12:13 No.144
あ字観
 
 
 
 
 
 
 
平安時代の『あ』字
『安』の草書体
よくよく見ると
安=あめつち の合成語に見える
といふか そのやうに見えるやうに
当時の人々は書いてゐる
和が国は 空海の『阿字』ではなく
安心 あめつちの『あ』字
つまり『天地之詞』に帰れ!
さういふ意味を込めて
あ=あめつち と読める字を書いてゐたのだらう 

この『あ』字を つまり
この『安心』を
井字の中の土真ん中に納める

どういふ意味か…
『天地之詞』の中に潜む『安心』は
井土のどまんなかにある
さう言ふ意味だと考へたい

詞の『安心』

  ○ │ ○  │ ○  
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  ○ │ あ  │ ○  
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  ○ │ ○  │ ○  
    │ ○  │  

ところが『スマホ』の『あ』 

  ○ │ ○  │ ○    
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  ○ │ ○  │ ○  
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  あ │ ○  │ ○  
    │ ○  │  

どういふことか…

本来の位置に『安心』ありとすると…
スマホの『あ』は『不安』となる

大人は 耐性がある
子供は 耐性が弱い 
だから 『不安』の煽りを受けやすい

子音の配置だけでも
『天地之詞』に したがってもらひたい

  は │ さ宇 │ ら  
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  な於│ あ阿 │ や  
 ーーー│ーーーー│ーーー 
  た江│ か伊 │ ま  
    │ わ  │    

どこに配置したって同じだ
さう思ふ人もゐるだらう
しかし
慣れ親しんだ
 アイウエオが
 アエイウオとか
 アオエウイに 突然変はったら
 建物が傾くやうに
 文字も傾いてゐる様に感じる筈だ
 井の『あ』は ど真ん中に納めたい
 子音配置は 五十音図ではなく
 天地之詞に したがってもらひたい
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/16(Mon) 16:29 No.145
天保八年 竹島渡航禁止

天保八年(一八三七)二月 

 幕府 竹島などへの渡航を厳禁すると共に
 海上での異国船交渉・遠洋航海禁止

 右島(竹島)
 往古(おうこ)は
 伯州米子(はくしゅうよなご)の者ども
 渡海・魚類等いたし候へといへども
 元禄の度(とき)
 朝鮮国へお渡し 相なり
 以来渡海禁止仰せ出された場所にこれあり
 全て異国渡海の儀は ご禁制
 右の島々も 同様に相心得
 渡海いたすまじく候
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
  往古=おうこ
    =昔
  伯州=山陰地方の古名
  米子=鳥取
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
元禄年間を追ったら
度々 竹島は日本の領土だから
朝鮮人が ここで釣りをするは違法である
こんな申し立てが三度くらゐ出て来たので
明らかに 元禄初期は 竹島を日本の領土とみてゐた
しかし 最後に
地形的にみると 朝鮮の方が近い
これから推測すると 昔は地続きではなかったかと推測し
朝鮮の地とするが道理である と
説いた文を朝鮮に出してゐた
これ以後 日本は竹島への渡航を禁止してゐる
幕府が 竹島を異国の地とみてゐたからだらう

この後に 赤穂の討ち入りがあった
忠臣蔵の前の話かと思ふと
随分前から 朝鮮と竹島の領土問題があり
それなりに決着をつけてゐたのだな と しみじみ思った

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/15(Sun) 17:32 No.141
イカサマはびこる一因

安永十年  (一七八一)四月一日
天明元年  (一七八一)四月二日

天明九年  (一七八九)一月二十四日
寛政元年  (一七八九)一月二十五日

寛政十三年 (一八〇一)二月四日
享和元年  (一八〇一)二月五日

享和四年  (一八〇四)二月十日
文化元年  (一八〇四)二月十一日

文化十五年 (一八一八)四月二十一日
文政元年  (一八一八)四月二十二日

文政十三年 (一八三〇)十二月九日
天保元年  (一八三〇)十二月十日

天保十五年 (一八四四)十二月一日
弘化元年  (一八四四)十二月二日

弘化五年  (一八四八)二月二十七日
嘉永元年  (一八四八)二月二十八日

嘉永七年  (一八五四)十一月二十六日
安政元年  (一八五四)十一月二十七日

安政七年  (一八六〇)三月十七日
万延元年  (一八六〇)三月十八日

万延二年  (一八六一)二月十八日
文久元年  (一八六一)二月十九日

文久四年  (一八六四)二月十九日
元治元年  (一八六四)二月二十日

元治二年  (一八六五)四月六日
慶応元年  (一八六五)四月七日

慶応四年  (一八六八)九月七日
明治元年  (一八六八)九月八日

明治四十五年(一九一二)七月二十九日
大正元年  (一九一二)七月三十日

大正十五年 (一九二六)十二月二十四日
昭和元年  (一九二六)十二月二十五日

昭和六十四年(一九八九)一月七日
平成元年  (一九八九)一月八日

平成三十一年(二〇一九)四月三十日
令和元年  (二〇一九)五月一日

平成三十一年四月五日生まれは
 確かに令和元年生まれだが
 令和元年は五月一日から始まるから
 令和元年生まれではなく
 平成三十一年四月五日生まれである

平成元年一月八日生まれは
 確かに昭和六十四年生まれだが
 昭和六十四年は一月七日までだから
 昭和六十四年生まれではなく
 平成元年一月八日生まれである

ペリー二度目の来航は 嘉永七年一月十六日
 確かに安政元年だが
 安政元年は十一月二十七日から始まるから
 安政元年ではなく
 嘉永七年一月十六日である
 しかし 教科書は安政元年と書く
 インチキである
 今 インチキ・イカサマが流行るが
 その大きな一因は ここにある
 一日でも早く 和暦を取り戻すべきである
 このイカサマを放置してゐるから
 世にイカサマが流行る

 人の深奥に「史心」あり
 

 
 

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/15(Sun) 08:30 No.139
幕末経済の混乱に学ぶ
嘉永七年 ペリー二度目の来航時
 横浜村で 日米和親条約を結ぶ
 その後 入港時の石炭・飲料水等の代金の取り決めが
 下田で取り決められた
 一ドル=イチブ銀一枚
 一対一 の交換比率であった
 その後 オランダ・ロシアと追加条約を結ぶが
 この時も 一ドル=イチブ銀一枚
 しかし アメリカは これを不当として
 一ドル=イチブ銀三枚を要求
 その使者として送られて来たのがハリスであった
 ハリスの主張に負け
 いや ハリスの意見が合理的に見えた日本は
 ハリスの意見に従った
 この日本側にとって不当な交換を放置したために
 和が国は 幕末物価上昇で大混乱となった
 それは 不当な交換を そのまま放置したためだった
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 この教訓を 今にあてはめてみた
 
 ①…誤った和暦の放置
 ②…ネット通信の横書放置
 ③…ネット時代造語法「天地之詞」の放置
 
 この三つを放置したが故に
 和が国は 荒れに荒れ 
 イカサマ・インチキ常態化
 政権握る政治家諸氏も 平然とインチキ・イカサマ
 恥づることなく むしろ当たり前だと胸を張る
 だから
  ①…正しい和暦を!
  ②…縦書通信を!
  ③…入力は 和が国古来の「天地之詞」で!
 しかし この三つの指摘を ほぼ全員が軽んずる
 そこに世の中大荒れ潜むこと気づかず

 文字は 生きてゐる
 間違ひなく 生きてゐる
 和暦も同じ 和暦も生きてゐる
 人に道がある様に
 文字にも道がある
 真っ直ぐ縦に下りる道である
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/15(Sun) 09:09 No.140
医王 仮説ー実験ー検証

医王の詩
 ののさま
 ほっこり

仮説
 医王の詩で 病が治る
実験
 腰痛・痛風の持病持ちだから
 治るまで歌ひ続けてみる
結果
 腰痛が治ったり
 痛風発作激減すれば
 仮説=真の可能性あり

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/11(Wed) 20:22 No.115
医王の詩
昨年度
 ほっこり
 ほっこり
 とことん
 ほっこり
 
 こんな音色を推定したが
 絵体も 実体も 定めることはできなかった
 しかし リハビリ・サイクリングで使用した
 やがて 秋になると 医王の詩は
 「くぬぎの黄葉」に移行してゐた

今年度の医王の詩
 ののさまほっこり
 
 絵体も 実体も 詞も揃った
 今年度の「医王の詩」は
 もし 医王の詩=有り とせば
 かなり 真相に近づいてゐる そんな気がする
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/12(Thu) 16:25 No.126
医王
医王=王ノ八コエ
  =王の八聲

   ゛      
 への    /  
   も へ  一 
 への    \  
 ーーーーー\   

のの=のの
へへ=さ(詳解『和かな暮』)
もへ=ま(詳解『和かな暮』)
じ =し 二
  =し し
  =二二二二
  =ホ こり
  =ほっこり

医王=王の八聲
   ののさま
   ほっこり

誰を『王』とするか 人それぞれだが
本紙では 和王『へのへのもへじ』と定めて研究した
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/12(Thu) 17:02 No.127
豊差 仮説-実験ー検証

仮説
 豊差=二個庭鶴の葉数
実験
 庭鶴の葉数莫大(筆者)
検証
 来年の収益が
 大幅増になれば
 仮説=真といへるかも…
 収益が
 大幅減になれは
 仮説=偽と認識せざる得ない

来年の結果が楽しみだ 

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/11(Wed) 20:19 No.114
豊差=二個庭鶴の葉数 





これは庭鶴の葉
音色は推定「ののさまほっこり」
「鶴の恩返し」は
「鶴の音返し」ではあるまいか…
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/12(Thu) 16:10 No.124
豊差=二個庭鶴の葉数





これは隣鶴の葉
音色は「和かな暮」と推定
言葉=言ふ葉
   こんな葉っぱが世にあると推定
推定されはた葉っぱ 以下二つ

庭鶴(棈)の葉っぱ
隣鶴(檪)の葉っぱ

その木の樹形は 開心樹形
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/12(Thu) 16:15 No.125

- JoyfulNote -