四ドル即十二ドル 横浜の混乱

元禄元年(一六八八)九月三十日~十七年(一七〇四)三月十三日

 この元禄時代に 萩原重秀なる勘定奉行をり
 この人 金銀の質を落とし
 質を落とした分だけ 幕府が金銀を儲ける
 こんな貨幣の改鋳を行った
 粗悪な銅銭を批判された萩原は かう言った
  たとへ瓦礫の如きの姿になりしも
  官府の捺印を施し
  それが民間に流通すれば これ貨幣なり
  紙も然り
 つまり 瓦礫だらうが 紙だらうが
 官府(政府)の印を押せば通貨になる
 かういふ意味だ
 これを「官府の印理論」と 佐藤雅美は名づけた

明和元年(一七六四)六月二日~八年(一七七一)十一月十五日

 明和時代の勘定奉行川井久敬は
 これは「一両小判」であると称して
 「銀貨二枚」を「小判」とする明南鐐二朱銀を発行した
 金不足の時に考へ出した策であった

天保元年(一八三〇)十二月十日~十五年(一八四四)十二月一日

 天保時代は さらに銀の質を落とし
 「銀貨四枚」を「一両小判」とする
 そんな時代になってゐた
 これが開港当時の「イチブ銀」で
 市中に出回ってゐた通貨は この「イチブ銀」であった
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 つまり当時の銀貨は
 銀貨といふより 銀を紙に少量含んだ「紙幣」に等しく
 「一両小判」の「代用貨幣」と言へるものであった
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弘化元年(一八四四)十二月二日~五年(一八四八)二月二十七日
そして
嘉永元年(一八四八)二月二十八日~七年(一八五四)十一月二十六日

 嘉永時代にも
 イチブ銀四枚=小判一枚の国内通貨は続いた
 ペリーが来航したのは 嘉永六年六月三日だから
 こんな貨幣時代に やって来た
 ペリーと結んだ条約は
 確かに通商条約ではない和親条約であったが
 入港するアメリカ船に 薪・水・食糧を提供することになった
 さうすると アメリカは その代金を支払ふことになる
 そこで 
 アメリカの市中出回り通貨(一ドル)と
 日本の市中出回り通貨(イチブ銀)との
 交換比率を決めることになった
 交渉場所は 下田の了仙寺
 度重なる交渉の末
 嘉永七年(一八五四)五月二十二日
 一ドル=イチブ銀と決められた

 当時の国際為替と国内事情
  一ドル銀貨四枚=一両小判(国際市場)①
  イチブ銀貨四枚=一両小判(国内市場)② だから
  一ドル銀貨一枚=イチブ銀一枚    ③ 幕府主張
  しかし 米国は
  一ドル銀貨に イチブ銀の三倍の銀含有を根拠に
  一ドル銀貨=イチブ銀三枚を主張
 この時 幕府側に 以下の様な主張をできるものがゐなかった
 幕府は かう主張すべきだった
 日本の銀貨は 小判の「代用貨幣」であって
 金=銀の重さを基準にした交換比率には適合しない
 だから銀貨ではなく「紙幣」だと思ってもらひたい
 幕府の「官印を持つ紙幣」は
 幕府が紙幣四枚で小判一枚と定めれば
 それが 紙きれでも四枚集まれば 小判一両となります
 これを「官府の印理論」と言ひます
 この場合の「銀貨」は 確かに銀貨ではありますが
 それは 小判の「代用貨幣」であります
 
 貴国米国では
 金銀の交換比率を保った貨幣が常識なやうですが
 それは「代用貨幣」ではありません
 一ドル銀貨そのものが 「金」の子供であって
 日本の様な「代用貨幣」ではありません
 こんな違ひがあります
 したがって
 貴国の一ドル銀貨と 日本のイチブ銀を
 その貨幣が持つ銀の重さだけで比較しますと
 一ドル銀貨には イチブ銀の三倍の銀があるので
 一ドル銀貨=イチブ銀三枚の交換になります
 
 しかしそれは「銀」の重さの交換であって
 決して「貨幣」の交換ではありません
 だから 日本側は お互ひの貨幣価値を考へ
 一ドル=イチブ銀の交換が 正しい為替と考へます

 こんな主張で 日本の貨幣事情を
 説明できるものがゐなかったため
 ペリーらは 日本では 物価が三倍になると考へ
 日本側が インチキをしてゐると推測してゐた
 そこで アメリカにとって不当と思はれる
 ドル・銀交換比率を 直すために送られて来たのが
 ハリスであった
 だから ハリスは 上陸して直ぐに
 ドル・銀の交換比率を 代用貨幣の価値を全く無視し
 銀の重さだけに 視点をあて
 一ドル=イチブ銀三枚を主張した
 ハリスが下田に上陸したのは
 安政三年(一八五六)七月二十一日
 ペリーが下田の了仙寺で 一ドル=イチブ銀と決めた
 嘉永七年(一八五四)五月二十二日から一年二ヶ月経ってゐた

 結果 どうなったか

 外人・四ドル即十二ドル
  四ドル    =イチブ銀十二枚(横浜)
           ↓ ↓
         =小判三枚   (横浜)
  小判を上海に持って ドル交換
  小判三枚   =ドル十二枚  (上海)
 
 四ドルが十二ドルになった
 当然 外人は横浜で「小判」を漁った
 横浜港の混乱は 当時の「かわら版」に残るし
 外国の「新聞」にも残る
 今 それらは「横浜開港資料館」に残る
 しかし この史実は 未だ余り知られてゐない
 史実を丁寧に拾ひ集める
 そんな作業が 国民に 行はれてゐないからだ
 史心を育む教育が行はれてゐないからだ
 教育無償 
 その前に やるべきことがある
 一体 大人達は 子供達に何を教へるのか
 その教へる立場の人間が 史実無頓着 動画三昧
 こんな状況で教育普及しても 子供は育たない
  
 詳しくは 佐藤雅美『大君の通貨』講談社

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/20(Fri) 16:41 No.153
オール・コック
後日 オールコックは イギリス本国から
日本側の一ドル=イチブ銀の交換が正しいと指摘され
やうやく ハリスと共に主張した
一ドル=イチブ銀三枚は間違ひだと知る

これはどうして起きたか…
日本側に 欧米=文明先進国
     日本=文明後進国 
この根の深い誤認により
自分達の主張より 何事に於いても 欧米が正しい
そんな先入観から生まれたと言っていい

この誤解を 今のネット文化に当てはめてみよう

天地を動かす詞など 存在する筈がないから
岩田の主張する以下の天地之詞は 間違ひだ

 は │ さ宇 │ ら  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 な於│ あ阿 │ や  
ーーー│ーーーー│ーーー 
 た江│ か伊 │ ま  
   │ わ  │    

よって
ローマ字で 入力しようが
スマホ入力しようが
JIS入力しようが どれも同じであって
その文字に 優劣はない

さうだらうか
 へのへのもへじは
 ヘノヘノモヘジでも
 henohenomohejiでもなく
 へのへのもへじである

ローマ字入力
 a =あ
 me =め
 tu =つ
 chi=ち

確かに見た目は かな文字だ
しかし その実体は ローマ字である
知識人と言はれる多くの人は 
ローマ字入力である
したがって ローマ字に違和感はなく
むしろ ローマ字に親しみをもってゐる
だから 背中にPOLICEと書かれても
違和感なく受け入れ むしろ格好良いと思ふ
しかし 
かなカナ真字を自国の文字と認識する者には
その意識が 極めて植民地的根性に見える

私たちには
天地を動かす『詞』がある
そこに気づき
そして その『詞』を大切にする
この視点がないと ローマ字に支配されてしまふ
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/22(Sun) 10:52 No.155
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