韓国との外交交渉は 以下二点を
担当者が 以下の史実を自分の頭で
事前に整理して置くことが肝要
①釜山の草梁倭館の接収といふ名の略奪
幕府と朝鮮は
「草梁倭館」を基点に良好であった
朝鮮政府は 十萬坪もある「草梁倭館」を
対馬藩に無償貸与
幕府は そのお返しとして
将軍の代かはりに 通信使を無料ご招待
その規模 三百から五百人
大名行列に近い賑はひで 大いに文化の交流があった
その後 幕府の経済的圧迫から
朝鮮通信使の交流が衰へたが
幕府時代 朝鮮とは 互ひを思ふ気持ちがあった
新政府になり 新政府が親書を渡すと
朝鮮政府は 頑なにその親書の受け取りを拒否した
その動機は 未だ明らかにされてゐないが
幕末当時国内に流行った 佐藤信淵の『混同秘策』が
誰かによって朝鮮訳され そのあらましが
多少 わかってゐたのではないかと思はれます
その書は 今では
私たちの国でもあまり知られてゐませんが
『国史辞典』に
平田篤胤の国学を受けて
日本は世界万国の根本であり
やがて 世界を支配すべき国
とある様に
日本が世界をどう侵略し どう支配すべきか
さういふことが書かれてをります
つまり
世界支配の方法を具体的に示す本であり
世界侵略の拠点は『東京』にせよと指示され
世界侵略は 取り易き所から取れと指示され
幕末の志士と今でも仰がれる吉田松陰は
鬱陵島を兵站基地にすることも勧めてゐます
こんな書物の内容が 幾分か貴国に流れ
これを根拠に 新政府の侵略意図を読み取り
国書を受け取らなかったのではないか
また取易き所は 満州であると書かれてゐます
その満州への侵攻の足がかりを何処にするか
新政府 ここでは当時の様子から見まして
当時の政府を 暴力革命政府と呼びますが
革命政府は 釜山ー安東ー満州を想定
その足がかりとして釜山の『草梁倭館』を選び
遂に 軍艦を持ち出し
力づくで 草梁倭館を接収した
それが貴国に取っては略奪に見えた
この時の外交官で高野と申す者がをりましたが
高野は 朝鮮政府は 怖がってゐるから
その点を考慮して外交を進むべき
そんな朝鮮思ひの人のゐましたが
政府に押し切られ 草梁倭館を
革命政府は 接収してしまひました
私たち石破新政府は
この史実をしかと受け止めます
だから 韓国政府の親交は釜山に始まると考へます
釜山に日韓親交の拠点を作りませんか?
②安重根氏の怒りについて
先程申し上げましたやうに
革命政府のアジア侵略は規定路線でした
当時 鉄道は
釜山ー鴨緑江河口の安東まで延び
安東から奉天まで延びてゐました
ところが
安東から奉天の区間は 軽便線と言って
線路の幅が 一般より狭いものでした
したがって 列車は 奉天までは行けるが
その先の満州鉄道に 入れません
だから 革命政府は
朝鮮と清国で 長年もめてゐた
鴨緑江北部の間島地方に眼をつけました
当時の清国は 鴨緑江以北が清の領土
朝鮮側は もともと そこは朝鮮人が住む
よって鴨緑江より北の間島地方は朝鮮の領土
このやうな主張で おほよそ二百年位
清と朝鮮で国境問題がありました
日本の朝鮮支配によって
貴国の独立義勇兵は この間島地方に逃れ
そこで 韓国朝鮮の独立を夢見てゐました
そこに安重根氏がゐました
それまで 安の父親と重根氏は親日派でした
しかし 日本が韓国の外交権を奪ひ
韓国の外国権を所有した日本は
清国と日本で話合ひ
安東ー奉天線の線路変更工事の承認を得
清国は
日本から間島地方清国領土の承認を得て
長年の火種であった間島地方が
清国領土となりました
これに怒ったのが安重根氏でありました
しかし 監獄での毅然とした態度に
一人の看守が この人は
立派な方であると安重根氏を敬ひます
ここに人と人との厚い信頼が生まれます
不幸にして史実に疎くなった私たち
いや貴国も さうかもしれません
このやうな不幸の現実を再現させぬためにも
お互ひの史実をお互ひが知る
そんな時機に来てをります
その意味で
釜山に『史実淡々・草梁倭館』を作り
平和大使を育成し そこに配置
両国一人一人の二人がペアを組み
来館者に 互ひの歴史を語り合ふ
そんな交流を始めませんか
私ども石破新政府は
貴国とのそんなお付き合ひが
親交の始まりと考へます
①②のことを自分の頭で
自分の言葉で語れる様に
韓国との外交交渉担当者は
用意しておくべきではないか
十月二十六日午前九時
ハルピン駅にて 伊藤博文に発砲 暗殺
十一月 三日 旅順監獄に収監
この時の監獄の看守が千葉十七である
千葉は 初め「安」を極悪人と決めつけてゐたが
「安」の礼節ある態度
言葉の端々から出る人柄に触れ
「安」を尊敬するやうになってゐた
明治四十三年(一九一〇)
正月元旦 千葉は 犯行の動機を聞いた
「安」は言ふ
大韓国の歴史は 日本より古い
古来東洋の各民族は 自国を大切にし
他国を侵略したといふことはなかった
ところが ここ数百年欧州列強は
武力を以て他を侵略することを常とし
近事 それを東洋に及ぼした
特に ロシアはその最たるものだった
日露戦争では開戦にあたり 日本は
「東洋平和」を維持し 韓国独立を鞏固する
との勅語を発したので
韓国人民は 日本を応援した
日本は予想に反し 勝利を得ることができたが
ロシアに勝ってからは 韓国・清国を裏切り
むしろ侵略する政策を展開した
自分は この自国の危機を座視できず 立ち上がった
自分たちは 韓国の独立のみならず
日本も 清国も含めた東洋の平和を念願してゐる
自分の行為が
あとに続く憂国の同志の決起を促し
韓国永遠の歴史に 一個の捨て石になれば満足である
明治四十三年(一九一〇)
二月二十四日 死刑判決を受ける
その死刑判決を受けた三日後
二月二十七日
平石氏人(ひらいしうじんど)の聴取書が残ってゐる
それを「天地之詞」で打直し 縦書詩文に改めた
日韓清は 兄弟の国
親密に過ごして来たが
今は まるで兄弟仲が悪く
ある人が 他の人を助けない
こんな状態だから 世界に向かって
不和であることを公表してゐるやうなものだ
日本が 今すべき政策は
日本が「旅順」を開放して
そこを日・韓・清の共同軍港とし
三国から平和の有志を募って「旅順」に集め
「平和会」といふやうなものを組織し
それを世界に公表することだ
日本に領土的な野心がないことを 世界に示すのです
だから
日本は いったん「旅順」を清国に還して
その「旅順」を平和の根拠地とするのが
最も賢明な策となると信じます
「旅順」を清国に還すことは
日本にとっては 苦痛かもしれません
しかし 還すことによって
かへって利益を生むことになるのです
世界諸国は
日本の「旅順」返還の英断を讃へ
日本を称賛し 清国と韓国を加へ
日・清・韓は
永久に平和と幸福を得ることになるでせう
ー以下略ー
その「東洋平和論」の聴取が終はって
三月二十六日 死刑執行され「安」は 他界