嘉永六年(一八五三)

○二月
 二日   関東地方大地震 小田原被害多し
○四月
 十九日  ペリー東インド艦隊
      サスケハナ・ミシシッピイ・プリマス・サラトガ軍艦四隻
      琉球那覇に来航
 二十八日 幕府
      井戸弘道     浦賀奉行に
      水野忠篤(忠徳) 長崎奉行に 任命
        
 三十日  ペリー艦隊 随員・護衛・楽員
      総勢二百十名 大砲三門率いて首里城入る
○五月
 三日   ペリー
      サスケハナ・サラトガ二隻で小笠原に向ふ
 八日   ペリー
      小笠原父島の二見港に入り上陸
      先住米国人ナザニエル・サボリより貯炭用地買収
 二十三日 ロシア プチャーチン艦隊の輸送船
      メンシコフ号 小笠原父島・二見港入港
      翌月二十一日 プチャーチン艦隊のボストーク号入港
        二十六日 同艦隊オリブーツァ号入港
 二十六日 ペリー艦隊那覇出港 浦賀に向ふ
 二十九日 薩摩藩 西洋型帆船軍艦起工
      安政二年三月 江戸に廻航
          八月 幕府に献納
○六月
 三日   ペリー艦隊四隻浦賀鴨居沖来航
      浦賀奉行与力中島三郎助ら長崎に廻航するやう勧告
 四日   ペリー
      長崎に行かず国書受領を求める
 六日   幕府
      国書受取りを決定
 九日   ペリー
      久里浜に上陸 大統領フィルモア親書手渡し
      来春回答を求めることを告げる
 十三日  ペリー艦隊 那覇港に向ふ
 二十日  ペリー艦隊那覇港 入港
 二十一日 ペリー 中山府に
      ①那覇・天久寺の貸与
      ②貯炭所の建造
      ③物資の売渡・商品陳列
      ④上陸時の尾行廃止 を要求
      二十三日 ペリー 那覇公館で
           総理・尚弘勲と会談
           要求を拒否すれば王城占拠を告げる
      二十四日 中山府 受諾する
      二十七日 ペリー 上海に向ふ
           これよりペリー上海に滞在
 二十二日 将軍家慶(いえよし)六十一歳 他界
      七月二十二日まで伏せる
○七月
 一日   首席老中 阿部正弘
      諸大名に米国国書の要求に関し意見を求む
 同日   アメリカ運送船一隻 那覇に来航
      「泊海岸」に 石炭陸揚の基地築造開始
 三日   老中阿部政弘
      前水戸藩主徳川斉昭を「海防参与」に
      藤田東湖を「海防掛」に任命
 八日   海防参与の徳川斉昭 幕府に
      「海防十か条」を建言
 十八日  プチャーチン艦隊四隻 長崎来航
      宰相ネッセルローデの国書受領を求む
      八月七日
       国書受領をロシア側に告知
      八月十九日
       長崎奉行 大沢安宅 国書受領
      九月十五日
       ロシア国書が
       オランダ語に訳され 和訳され
       老中阿部正弘に届く
       国書の内容
        ・国境画定
        ・公益開始
      十月二十三日
       再来の時に回答得られぬ時は 直ちに江戸に赴く  
       艦隊四隻を率いて上海に向かふ
○八月
 二日   幕府 江川英龍・川路聖謨らに
      江戸湾 砲台築造を命ず
 六日   江川英龍 幕府に 願ひ申請
      追放中の高島秋帆釈放し 江川の配下とす
 二十八日 江川英龍・高島秋帆の指揮で
      江戸品川台場六基築造開始
      翌年 七月二十二日 完成
 三十日  ロシア船一艘 樺太クシュンコタンに来航
      十六人上陸
      九月一日
       ロシア人・四十人上陸
       ムラビヨフ砦を構築 六十人越冬
      翌年三月十六日
       松前藩士三輪信庸(のぶつね)
       クシュンコタンに赴き ロシア人と交渉開始
      同年四月三日
       ロシア船一艘クシュンコタンに来航「
      同年五月十八日
       ロシア兵 砦を撤去して出港
      ※ロシアのクシュンコタン軍事占領期間
       嘉永六年九月一日から
       嘉永七年五月十八日
○十月
 八日
      幕府 プチャーチンとの交渉に
      川路聖謨(としあきら)
      筒井政憲(まさのり)
      荒尾茂允(しげまさ)
      古賀謹一郎 四人を長崎に派遣
      三十日
       四人が長崎に向ふ
 二十三日 徳川家定 十二代将軍となる
      前家慶将軍の四男
      これより安政五年七月四日まで
      ※安政五年四月二十三日
       幕府彦根藩主井伊直弼を大老とする
      ※同  年九月五日
       信濃の志士近藤茂左衛門
       水戸藩の使者として活躍
       大津で逮捕され 京都六角獄に投獄
       安政の大獄の始まり
      ※同  年九月七日
       梅田雲浜(うんぴん) 京都で逮捕
       この後尊王攘夷派 江戸・京都で逮捕しきり
○十一月
 一日    幕府 徳川斉昭の主張を受け入れ
       「海防」の大号令を発す
○十二月
 五日    プチャーチン艦隊四隻
       上海から長崎に来航
 二十日~  プチャーチンとの交渉開始
 二十八日  合計五回の交渉
       最後は プチャーチンが
       樺太アニワ湾で国境画定会談再開を提案
       ※翌年一月四日
        主催 プチャーチン
        場所 パルラダ号
        内容 送別の宴
        同年一月八日
         プチャーチン艦隊
         琉球王国経由マニラに向かふ

user.png 岩田修良 time.png 2024/12/13(Fri) 19:36 No.134
阿部正弘の英断
嘉永六年 九月一日
 ロシアが
 クシュンコタンに「ムラビヨフ砦」を築造
同  年 十月十五日
 老中阿部正弘が 宰相ネッセルローデに
 国境画定・和親交易の交渉拒絶の返書を出す
嘉永七年 三月十六日
 松前藩士三輪信庸(のぶつね)が
 クシュンコタンに赴き ロシアと交渉
同  年 五月十八日
 ロシア
 クシュンコタンの砦を撤去

大国ロシア相手に
無法の進攻を許さぬ阿部の決断
また その無法を認めて砦を撤去したロシア
ここに 阿部とネッセルローデの
法を守る信頼を土台とした人と人との信厚をみた
外交は人なり

只今 この経緯を調査中
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/14(Sat) 09:46 No.136
ムラビヨフ砦の撤去
ムラビヨフ砦の撤去 
 ①老中 阿部正弘が 前年に日露交渉拒否を返書
 ②プチャーチンと川路の「長崎交渉」で
  川路は 交渉は 軍事砦撤去が先で
  砦の撤去なければ交渉は 始まらないと伝へてゐる
 ③英仏・クリミア戦争参戦で ロシア敵国となり
  ペテロパブロフスク港 
  英四艦・仏三艦の英仏艦隊入港し 戦闘開始
  英 艦長プライス自決
  その後も 海兵隊を上陸させるも 英仏軍大敗

 ここでロシア 考ふ

  これ以上の戦闘は ロシア側も 不可能と考へ
   ・ペテロパブロフスク港を撤退
   ・これに合はせて クシュンコタンの
    ムラビヨフ砦も撤退

 その後 英九艦・仏五艦の 英仏連合艦隊が
 ペテロパブロフスク港に入港
 ロシア兵は 皆無
 英仏艦隊は アラスカへと向かった 
user_com.png 岩田修良 time.png 2024/12/19(Thu) 18:37 No.152
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