令和3年11月22日
第1号 閔妃暗殺
和タグ新聞
和かな暮らし
I羽新聞
発行 私塾鶴羽實
郵番 四三八ー〇〇八六
住所 磐田市見付二七八六
電話 〇五三八ー三三ー〇二七三
FX 〇五三八ー三一ー五〇〇三
電信 logosアmvbドbiglobeレneスjp
編者 岩田修良
カナ ア=@ ドレス=ドット
あとがき
(三六五)
アルバイトの大学生の通訳さん 興奮の態で言った 「以前の僕は 日本人は何故 過去の罪も反省せずに ケロリとしてゐるのか 腹を立てたものです だが次第に 日本人は 両国の関係の歴史をほとんど知らないのだ といふことがわかって来ました 閔妃事件は そのいい例です 僕はときどき 日本の観光団の通訳をしてゐるので ちょっとこの事件を話題にしてみるのですが 誰も知らないし 中には『日本の公使が指揮をとって 他国の王妃を殺すなんて そんなバカな話があるものか つくり話をするな』と 怒った人さへゐます」
あとがき
(三六六)
西独バイツゼッカーの演説
「われわれドイツ人全員が 過去に対する責任を負はされてゐる……後になって過去を変へたり 起らなかったことにするわ
けにはいかない……過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」
だが 日本では 大衆に向かって このやうな主旨の呼び掛けが行はれたことが 一度もなかったやうに思ふ 指導層に「日本にはいつまでも記憶し 反省せねばならないやうな過去はない」といふ認識があるためか または たとへ何があっても水に流すことをよしとする国民性のせいでもあらうか 和が国では 戦争責任者の追及も 戦後の責任の取り方も曖昧で これらは 好まれない話題のやうである 曖昧には ぬるま湯につかってゐる様な気楽さがある しかし私たちは そこから抜けだして 過去の歴史に厳しく目を据ゑ 歴史に問ひかけ その教訓に学ぶといふ謙虚な姿勢を持たなければ 日本の孤立はますます 進むのではないだらうか
プロローグ
(一五・一四)
それまでの私は「王妃を殺したのは日本
人の集団」と聞いてゐただけで 事件を具体的に想像する手掛かりもない状態であった 舞台は 訪れたこともない韓国のソウルであり 時代は 私がこれまで何の知識も持ち合はせてゐない李氏朝鮮王朝の末期である 加害者の日本人は 軍人なのか 民間人なのかも身分も知らず 事件は 濃い霧に包まれてゐるやうにおぼろであった
それが今 王妃殺しの犯人の一人が 突然 墓といふ形で霧の中から姿を現し 姓名を明示して 対決を挑むやうに私の前に立ったのだ
東光岡本柳之助墓
「岡本は 閔妃を殺すために王宮になだれこんだ日本人の一人 といふよりも その指揮をとった人ださうですよ」
プロローグ
(一五・一七)
閔妃に関する私の強い関心は 国立京都国際会館館長(当時)後宮虎郎(うしろくとらを)に始まる
「大勢の日本人が王宮に乱入して 閔妃といふ王妃を殺した事件があったのです 古い話ですよ 明治二十八年(一八九五年)ですから 日本では ほとんどの人が知らないでせうが 韓国人は 日本との間に何か不快なことが起きると この閔妃暗殺事件を思ひ出し 盛んに話題にして その結果 日本人に対する悪感情が煽られる 残念なことですが」
私は問ひ返した「韓国では誰でもその古い事件を知ってをられるのですか」
「ええ 誰でも 中学生でも知ってゐますよ 何しろ小説やテレビ 映画などで 繰り返し扱ってゐますから…忠臣蔵を知らない日本人はゐないでせう 閔妃暗殺事件は 韓国人にとって 忠臣蔵のやうなものですよ」
李氏朝鮮王朝通信使
(二十六)
閔妃は 嘉永四年(一八五一)に生まれた 明治二十八年(一八九五)十月八日に 暗殺された 日清戦争が終はった年ではないか 講和条約が首相伊藤博文と外相陸奥宗光によって結ばれたことは 広く知られてゐる そして陸奥は 戦争前から 朝鮮問題に深く関はった人物である
池上本門寺の岡本柳之助の墓を思ひ浮かべた 岡本は 青年時代から 陸奥に目をかけられ 彼のすすめで 陸軍に仕
官した男である 陸奥と岡本とは 密接な関係にあったのか それとも無関係だったのか この点も 掘り起こして見なければと思ひながら 私は資料を読み進んだ
閔妃が生まれたのは 李氏朝鮮王朝第二十五代の王哲宗(1849-1863)の時代である
李氏朝鮮王朝は元中九年(一三九二) 李成桂(太祖)が高麗を滅ぼして王位についた時に始まる 新王朝は
国号 朝鮮
国都 漢陽 と定めた
国都の名称は 漢陽から日本による京城に変はり 解放後はソウルとなった 本書はまぎらはしさを避けるため 現在の「ソウル」だけを使ふ
李氏朝鮮王朝通信使
(二十七)
初代の王太祖(李成桂)は 新王国の創建と『朝鮮』といふ国号の承認を求めるため 明帝の許(ところ)へ 使臣を派遣した
中国を上位の国として敬ふしきたりは 三国時代から 統一新羅 高麗時代へと伝承されて来たものである
李氏朝鮮王朝は 五百年を通じて 中国を宗主国とし 敬意を重視する「事大
の礼」を取り続けた
毎年 使節をおくって貢物を献じ 親善の維持に努めたが それは 外交上のことで (朝鮮の)内政に関しては 自主性を保ち 国(朝鮮)の発展を阻害されるやうな関係ではなかった
初代の王太祖は 儒教・朱子学を国教としたので
高麗から李氏朝鮮の推移は
仏教から儒教への交替代期ともなった
朝鮮王朝は 儒教の世界であったと言へるが その影響は 今日の韓国人の人々の歴史にも 色濃く残ってゐる
李氏朝鮮王朝通信使
(二十七)
閔妃が生まれるころまでの 李氏朝鮮王朝と日本の関係は どの様な関係であったのか
朝鮮王朝創建から十二年後の応永十一年(一四〇四) 室町時代第三代足利義満の時 長い国交断絶の時代に終止符を打って 交隣関係が結ばれた きっかけは 倭寇の問題を解決することで 両国の利害が一致したためである
このときから 第十五代将軍足利義昭までの百五十年間 日本からの使節派遣は六十回を越え 朝鮮からも使節が来日した
朝鮮に近い対馬藩は 貿易によつて 常に財政を潤してゐた
一時中断してゐた使節団派遣が復活したのは 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉から 朝鮮国王の入朝を勧告する様に命じられた対馬の宋氏が 入朝要求を使節団派遣要求にすりかえて折衝した結果
実現したものである
それから二年後の文禄元年(一五九二)
秀吉は約十六万の大軍を送って 朝鮮の不意をついた
日本軍は 二十日でソウルを陥(おと)し 一時は 朝鮮のほぼ全域を占領した
しかし 占領軍の暴虐に まづ農民が立ち上がり 下級官吏や知識層 また僧侶も武器を取って 激しく抵抗 それらはまもなく組織的な反撃となった やがて明軍の援軍も戦線に参加し 日本軍はソウル以南に後退した
海戦も 日本軍優勢は一時期だけで 潮流利用巧みな李舜臣の水軍は 日本側に壊滅的な打撃を与へ (日本軍の)陸への補給路を断ち切った
文禄二年(一五九三)
和議が開始され 交渉は続いたが 条約締結には至らなかった
慶長二年(一五九七)
秀吉は 再び十数万の大軍を朝鮮に送った 今も「救国の名称」と語り継がれる李舜臣が 戦死したのは この時である
慶長三年(一五九八)
秀吉の死によって戦争が終はる
朝鮮も人名の犠牲は大きく 国土は荒廃し 貴重な文化財が破壊され 学者や技術者を含む多くの人々(朝鮮人)が 日本へ連れ去られるなどの大被害を受けた
李氏朝鮮王朝通信使
(二十九)
朝鮮の侵略が終はった翌年から 対馬の宋氏は 朝鮮との修好回復の折衝を始めた
朝鮮は 冷たくあしらった
対馬は その北端に立てば六十キロ先の朝鮮南部海岸が 肉眼で見えるといふ位置にある 対馬と朝鮮の関係は長く深い
応永二十六年(一四一九)
朝鮮の水軍が 「対馬の倭寇の本拠地」を攻撃した これを機に 朝鮮は宗氏に海賊を取り締まらせ その代償に貿易を許した
極度に田畑の少ないこの島は 米などの生活物資を朝鮮に頼らねばならず ま
た 貿易の利益なしには 藩の財政が苦しい 宗氏は ひたすら朝鮮との修好回復を急ぐ
慶長九年(一六〇四)
朝鮮はようやく使者を対馬に送った 宗氏は 彼らを伴って京都へ行き 徳川家康と その子秀忠と会見させた 慶長十年(一六〇五)春のことである
慶長十一年(一六〇六)
朝鮮の回答は 宗氏の許(ところ)に届けられた 「二つの条件が入れられれば相報の道は開かれる」といふ内容で
一 家康から先に 国書を 朝鮮に送
ること
二 戦争中に 王陵を荒らした犯人を
朝鮮に引き渡すこと
宗氏は 修好回復を熱望するあまり 家康の国書を偽作し 対馬島内の死刑囚を王陵荒しの犯人に仕立てて 朝鮮に送った 朝鮮側は この対馬の工作を知りながらも 隣国との関係を重視し また 戦中日本に拉致された人々の帰国問題をも考慮して 日本への使節団を決した
慶長十二年(一六〇七)
四百六十七人の大使節団が 日本に到着 江戸で二代将軍秀忠に謁見(えつけん)したのち 駿河で家康と会見した 使節団は 日本に拉致された同胞のうち
千四百人を連れて帰国した
慶長十四年(一六〇九)
宗氏は 宿願の修好回復を達成し 己酉(きゆう)条約を結んだ 往来の港は釜山(プサン)一港だけが許され ソウルへの往来は禁止された
釜山に倭館が設置され ここに対馬から役人が出張して 日本からの渡航者は 皆 ここで応接された 倭館は 明治維新まで 唯一の日本人居留地であり 朝鮮との通行交易の基地であった
江戸時代には 家康と会見した慶長十二年(一六〇七)を第一回として 朝鮮の使節団は 通算十二回 日本に来た 毎回三百人から五百人の大使節団で 名称が通信使となったのは 第四回からである 最後は 文化八年(一八一一) 将軍家斉の襲職祝賀を目的とする 通信使であった
このやうに 江戸時代 二百数十年続いた友好関係を背景に 日本と朝鮮は 両国の文化だけでなく 各方面の発展に寄与した 遠く奥州 北陸 西国などから 使節団との交流を求めて来る有識者もあり 一般の人々も 使節の宿舎に殺到して 詩文の贈答や書画を求めたといふ かうした日本人の反応を知った朝鮮側は 使節団に すぐれた文人や画家など一流人物を加へる配慮をした
令和三年一一月二四日
朝鮮通信使
(三十一)
但し 日本の使節団は ソウルへ行くことはできなかった 秀吉軍がかつて室町時代の日本使節が通った道をなぞる様にして ソウルへ攻め込んだため 日本人に 朝鮮国内を見せるのは危険だ といふのが理由であったといふ
朝鮮通信使に対する幕府の歓迎は 十八世紀末近くまで 国家的規模の盛大なものであった 平戸の初代イギリス商館長リチャード・コックスは 旅の途中で目撃した第二回朝鮮使節団について
「朝鮮使節たちが 壮麗な姿で この町(大阪)を通過したが 彼らは皇帝(将軍秀忠)の命(令)で いたる所で 王者のやうに待遇され… 」と書いてゐる
朝鮮通信使
(三十三)
朝鮮は 享保十年(一七二五)に即位した第二十一代の王英祖の時代は 李氏朝鮮の復興期であった 文化は大きく発展し 第二十二代の王正祖へと引き継がれてゆく
この二人の王は 両班支配階級の党争を押さへることに苦心した点でも共通し
てゐる
両班とは…
官僚機構が文班と武班に二分され これは高麗時代からあった 朝鮮王朝では 両班の家に生まれた者だけが 高級官吏試験を受ける資格を持つ 正祖の時代になって 両班階級の党争はようやく下火になったが この王の死後 党争に代はって勢道(せど)政治が現れる
勢道政治とは…
権力を握った一族が 国政を欲しいままにする政治である
十九世紀のほぼ全期を通じて勢道政治は 国運を左右するほどの勢ひであったが やがて その焔が燃え尽きる寸前 いちだんと華やかな光芒に包まれて王妃の座にあったのが閔妃である
朝鮮通信使
(三十四)
二十一代王 英祖
二十二代王 正祖
二十三代王 純祖
享和元年(一八〇一)に即位した純祖は 十一歳であった 在位三十四年の間 彼はロボット的存在で 二十一代王英祖の后の垂簾(すいれん)政治が行はれた
垂簾政治とは…
女性である権力者が 簾(すだれ)の内側から行ふ政治のことで この時は
后の生家である安東金氏一族が ほとんどすべての要職を占め 勢道宰相といふ世の悪評をよそに 私利私欲を追究した
天保六年(一八三五)
二十四代王 憲宗 八歳の少年が 王憲宗となった この時も 王の祖母の垂簾政治が行はれ 金氏一族の勢力はますます増大した
嘉永二年(一八四九)
二十四代王 憲宗は没
金氏一門は 江華島に住む徳元君を捜し出し 都に迎へ
二十五代王 哲宗 とした
権力を握って以来 金氏一族は 常に王族を虐待して来た 王族は 高位の官職につく道を断たれ その多くが 都を離れて貧困にさいなまれる日々を送ってゐた
哲宗は 漁夫の子らと交はりながら 教育も受けずに育ち 王位につくまで まともな衣服をつけたこともなかった
金氏一族は 彼を見いだしたことに満足であったらう 学識のある聡明で剛毅な人物が王位については 金氏が望むロボットに甘んじるはずがない 金氏はぬかりなく一族の娘を哲宗の后にした
金氏一門の勢力はますます増大した