令和4年11月2日
革命政府と闘ふ
革命政府と闘ふ
秩父事件
和タグ新聞
発行 私塾鶴羽實
郵番 四三八ー〇〇八六
住所 磐田市見付二七八六
電話 〇五三八ー三三ー〇二七三
FX 〇五三八ー三一ー五〇〇三
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編者 岩田修良
カナ ア=@ ドレス=ドット
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大隈重信
大隈重信は 自分が調べてゐる史実で 顔を出して来たのは 岩倉使節団で 当初 大隈を中心に 四人から五人程度の派遣でしたが 大久保が 大隈に外交で いいところを見せられたらタイヘンといふことで その大隈派遣案を潰して 代案を模索してゐる中で 百余名までふくれてしまひました
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立憲改進党
秩父事件の翌月に 解党してゐますネ その副総裁に河野敏鎌(とがま)がゐました この男は 岩倉使節団が アメリカで大歓迎 これに刺激された当地の小弁務官の森有礼(ありのり)が これなら条約改正できると 伊藤博文と大久保利通をたきつけ 条約改正の場を設けます
しかし 全権委任状を使節団が持ってゐないことをアメリカに指摘され 急遽大久
保と伊藤が 三ヶ月かけてアメリカから日本に帰国
全権委任状を貰ひに来るが 政府高官たちは これを相手にせず 結局 何の権限もない委任状を持ち 再び渡米 この時 司法卿・江藤新平も一緒に渡米する予定でしたが 三条が 国内政治不安だから江藤に残る様に依頼 そこで 江藤が自分の部下の中から選んで 江藤の代理に渡米したのが 立憲改進党の副総裁・河野敏鎌です
この日米往復六ヶ月の船旅で 大久保と伊藤が仲良くなり 伊藤は 大久保の子分と言はれる様になります
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佐賀の乱
途中 略して略して略しまくって 佐賀の乱
司法卿の江藤新平が 捕まります 捕まへたのは 江藤が創設した司法警察 これは 多分 与力ー同心ー岡っ引きー下っ引
きの幕府がこしらへた 強烈な捕縛システムの人員が ほぼ 名前を変へて『司法警察』へと移行したものと思はれます 幕府の構築した捕縛システムは 三日もあれば 犯人を見つけられると言はれてゐたほど強烈でした 身分が下の『下っ引き』 これは もとやくざあがりで その手の情報に長けた『密偵』です
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江藤の悲劇
江藤は
・江藤が創設した『司法警察』に捕縛され
・江藤が禁止にした『晒し首』にさらされ
・江藤の弟子の河野敏鎌に裁かれます
全て大久保が仕組んだものでした 裁判の時 大久保が 河野に多額の金を渡したとも言はれてゐます
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大久保の残忍さ
つい 半年前まで 一緒に革命政府の仲間であった江藤を 既に廃止された『晒し首』を採用し オマケに『弟子』に裁かせ そして 内務卿の応接室に 江藤の『晒し首の写真』飾ってゐたと言はれてゐます
日記にも 江藤が裁判で もたつく場面があり これを『笑止!』と言ってはしゃいだ大久保の文面が残ってゐます
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さて 秩父事件
本日十一月二日に 警察と役場を占拠 そして革命政府を宣言しますが 周辺の仲間が立ち上がらず すぐさま崩壞 指導者の一部は フランス革命を真似してゐた様です
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その秩父事件当時の世情
蝦夷・琉球・朝鮮・満州・中国征服の道をひたすら歩みます
思想の基盤は 佐藤信淵の『宇内混同秘策』 以下原文をわかりやすく意訳しました
皇大御國(すめらおほみくに)は
大地の最初に成れる国にして
世界萬国の根本なり
凡そ他国を占領するの法は
弱くして取易き処より始めるを道とする
当世に於いては 攻めて取り易き土地は
支那の『満州』が 最も取りやすい
その理由は 満州の地は
我が日本の山陰及び北陸・奥羽・松前等 海水を隔て相対する土地である
この地は 古来より世情不安を知るべき
しかし たた満州を得るだけでは駄目だ
中国の『衰微』も 既に始まってゐる
したがって朝鮮も支那も 順に取るべし
※
鹿児島の兵は
『琉球』より占領を始め
『台湾』を取れ 取ったら直ぐに
『淅江』の地方に至り
『台州』『寧波』の諸州を占領すべし
※
よくよく現地の民を哀れみ憐み愛し
厚く恩徳を施し 素直に従はすべし
さうは 申しても
迷心を持ち『天朝』の日本に服従せず
激しく『天兵』を拒み 抗戦する者は
悉く 殺して 許してはならぬ
是は 『天罰』を行ふものである
この本が文政六年(一八二三)に出され
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吉田松蔭に継承され
○安政三年(一八五六)四月二十四日
ロシア・アメリカとは信義を厚くし
その間に国力を養ひ
取りやすき
朝鮮・満州・支那より占領すべし
○安政五年二月十九日
遠い未来の世界征服は
朝鮮・満州より始めるのが一番だ
朝鮮・満州を征するには
鬱陵島(竹島)を 拠点とせよ
これ 満州・朝鮮を征する
絶妙の一手である
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木戸孝允に継承さる
○明治二年一月一日
征韓といっても
猥りに征服するのではない
『宇内混同秘策』に書かれてある様に
※天朝に従へば 厚く恩徳を施すが
※それに従はずに 反抗する者たちは
※ことごとく殺して
※『天罰』を実行する
※=木戸の宇内の条理を私訳したも
異心暴力革命の『天誅』といふ名の
惨殺の嵐は ここに有る様です
結論
朝鮮・満州・中国侵略は
革命政府にとって
既定路線でありました
迷ひは どこから占領するか…
その一点でした
○
明治元年十二月十四日
木戸書翰
速やかに 天下の方向を一定し
使節を朝鮮に遣はし
彼の無礼を問ひ
不服の時は 罪を鳴らして攻撃
~州の威を伸長せんことを願ふ
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解説
朝鮮から攻めるか
台湾から攻めるか
速やかに『天朝』支配を進める
まづは 朝鮮に遣ひを出して
様子を見てみるか…
それから決めて行かう!
革命政府の世界征服
朝鮮の釜山に始まります
明治五年(一八七二)九月
軍艦春日に乗って
外交官・花房義質(よしもと)が
草梁倭館
に乗り込み
草梁倭館
を接収
真相表現は 占領・分捕り
外務省管轄とし
名前も『大日本公館』とした
それまで朝鮮は
二百数十年
十一万坪の土地を対馬藩に無償提供
使節設備費用も 朝鮮側が負担
ところが 革命新政府は
対馬への無償貸与は
新政府に移行するといふ道理で
朝鮮から『草梁倭館』を分捕り
ここをアジア侵略の拠点とした
釜山・元山・仁川三港開港させ
そこに領事館を置き 日本人町を作り
鉄道を敷き 日本人を移民させ
朝鮮半島全域を
満州侵略の平坦基地とした
山縣有朋は 秩父事件から十年後の
明治二十七年(一八九四)十月に
かう言った
最も急務なりとする所は以下の二策なり
・釜山より漢城(ソウル)を経て
義州に鉄道を敷設すること
・義州に至るまで枢要の地に
邦人を移植すること
日清戦争・日露戦争とは 何だったのか
異心革命より既定路線であった
取りやすき満州を分捕るためには
上の地図の鉄道敷設は 必要不可欠
佐藤の天朝世界制覇に
取り憑かれた様に
刃向かふ者に 容赦なく天罰を加へ
その道を歩いた
私は この道を歩いた
いや 歩かせたのは
古事記に語られた禍の~
禍津日~ 今の日の丸だと推測
そこで
こんな純真無垢な
日の丸を開発しました